世界の非常識が日本の常識
「どんなにベーブ・ルースが偉大であろうと野球そのものより偉大ではない」。
このように喝破したのは、アメリカ・メジャーリーグベースボールの名監督スパーキー・アンダーソンだった。<1>
サッカーでも同様。ペレやヨハン・クライフがどんなに偉大でも、サッカーそのものより偉大ではない。
しかし、ここは世界の常識が通用しない日本である。日本サッカー界には、日本サッカーそのものより偉大な人物が存在する。
中田英寿である。
中田英寿が偉大な理由
そんな中田英寿神話の創出に加担した著作のひとつが、中田英寿の『中田語録』(1998年5月)である。
日本サッカー界の若きリーダー、中田英寿初の公認発言集。物議を醸した彼の言動の真意がここにある。初めて明かされるエピソードも多数。……と惹句にある。
実際にコンテンツをまとめたのは、金子達仁、馳星周、増島みどり、村上龍、今福龍太らとともに中田英寿の幇間役を担ってきたライターの小松成美。<2>
その『中田語録』、中田英寿が曰(のたまわ)く……。
- 「みんな喜ぶのが早すぎる」~ゴールの時、何で喜ばないの、と不思議がられて。(003)
- 「熱くなっても、得することないから」~試合中、いつも冷静な態度でいることについて尋ねられて。(007)
- 「俺にはお手本はいらない」~サッカーの上達法を問われて。(012)
- 「ジコチューでいきます」~どうして厳しいパスを出すのか、と聞かれて。(013)
- 「俺は勝っても泣きませんね。もちろん、負けても泣きませんけど」~サッカーで泣いたことがあるか、と尋ねられて。(021)
- 「振り返ることは、評論家のすること」~ゲームが終わった後、自分のプレーについてなぜコメントしないのか、と言われて。(025)
……等々、やはり目立つのは、低劣なるニッポンサッカーを易々と乗り越え、唯ひとりサッカーの世界標準を弁えている(とされる)中田英寿との対比である。
- 「サッカーしか知らない人間にはなりたくない」~好奇心旺盛な理由を聞かれて。(004)
- 「メダルより図書券が欲しい」~アトランタ・オリンピック直前「メダルが欲しいか?」と尋ねられて。(006)
- 「年齢や経験を問題にするなんて、ナンセンス」~チームや代表での先輩・後輩関係について尋ねられて。(009)
……等々、また、反知性主義、スポーツ馬鹿、先輩・後輩のタテ社会、根性論・精神論、悲壮感など、日本の運動部や体育会にありがちな悪習も、中田英寿は否定する。
まったく、中田英寿は「日本的」ではない。
長らく低迷を続けてきた日本サッカー界には「日本的であること」は「サッカー的でないこと」であり、反対に「サッカー的であること」は「日本的でないこと」である……という度し難い劣等感が定着してきた。
中田英寿は、サッカー日本代表のワールドカップ本大会初出場にプレーの面で絶大な貢献をした。……のみならず、中田英寿の「日本的」ではない言動・立ち振る舞いは、日本サッカー界の劣等感を絶妙に刺激した。
当時、日本史上空前のサッカー人気にあって、サッカーファンや読者は、中田英寿に狂喜してしまった。中田英寿に肩入れすることで「日本的な旧弊」を打破するかのような痛快さに酔ってしまった。
かくして、日本サッカーそのものより偉大な中田英寿……という神話は成立した。
実は少しも新しくない中田英寿
しかし、抑圧的な「日本的なるもの」に抗い、あるいは乗り越えたと見なされた日本人アスリートをむやみやたらと褒めそやす風潮、中田英寿が初めてではない。
野球界では、1980年代から1990年代にかけての、長嶋茂雄のいわゆる「浪人時代」がそうである。当時、長嶋茂雄は「チマチマした,抑圧的な日本野球」を打破する存在として期待されていた。
1980年代に隆盛を極めたラグビーブーム、話題の中心は、早稲田大学でも、明治大学でもなく、実は「選手たちの自主性,自由奔放なプレー」などを掲げて大学選手権を3連覇した関西の同志社大学だった。
関東にはないラグビーテイストを口にして、マスコミは舞い上がってしまった。中田英寿の時と似て、美意識から倫理観まで、同志社ラグビーをダシにして、その他のラグビーを否定するキャンペーンが張られた。
それらは、同志社大学ラグビー部の指導者・岡仁詩(おか・ひとし)のコメントを引用する形で活字化され、「岡イズム」と呼ばれ、喧伝された。……というあたりは『中田語録』の持てはやされ方とソックリである。
同志社ラグビー黄金時代の中核にいた選手が平尾誠二だった。彼は「ラグビーは遊びだ,ラグビーを楽しむ」と公言する人で、このような発言をする人の常として、平尾誠二は「日本的なるもの」への屈託が強い。
この屈託を何十倍何百倍とこじらせると、中田英寿というパーソナリティが出来上がる。
つまり、中田英寿は少しも新しくないのである。
『中田語録』が歪めた日本サッカー
長嶋茂雄は、1993年から2001年まで読売ジャイアンツの監督を務めた(いわゆるひとつの第2次長嶋政権)。しかし、その野球は「チマチマした,抑圧的な日本野球」を打破するようなプレーぶりだったとはとても評価できない。
岡仁詩や平尾誠二は、外国の目新しい方法を取り入れることには熱心だったが、海外のラグビー強豪国に本気で勝とうという発想には乏しかった。ラグビー日本代表監督としての実績も十分とは言えない。
「日本的なるもの」を超克していると見なされているアスリートだからといって、そのパフォーマンスが必ずしも「世界的」だったというわけではない。
中田英寿も、本当のところはワールドクラスのサッカー選手への階梯からは脱落した人である。
しかし、サッカーに詳しくない人の多くは「中田英寿は世界的なサッカーの名選手なのだろう」と信じ込んでいた。『中田語録』など中田英寿神話の影響である。
そのことが中田英寿を増長させた。
サッカー日本代表を率いて海外の強豪に勝つ、勝ってみせる、勝てないまでも善戦・健闘に持ち込む……といった、サッカーファンが中田英寿に抱いた夢は裏切られた。
むしろ、日本サッカーは低劣だが、中田英寿だけは別格で世界レベルだ……と、いたいけな人々に信じ込ませることが、中田英寿にとっての利益となった。
その挙句の果てが、ジーコ・ジャパン(2002年~2006年)における、他の日本代表選手を見下した一連の言動であった。そのジーコ・ジャパンで臨んだ2006年ドイツ・ワールドカップ(日本代表は惨敗)における身勝手で醜い引退劇であった。
これらすべて、中田英寿を日本サッカーそのものよりも偉大な存在にしてしまったための猿芝居である。
『中田語録』をはじめとする中田英寿神話は、日本サッカーを、そして有望なサッカー選手であった中田英寿を、大いに歪めてしまった。
「ジョホールバルの歓喜」のプレイヤー・オブ・ザ・マッチ……中田英寿への賞賛はこれだけで十分である。
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