スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

カテゴリ: 野球

ブラック職場としてのサッカー天皇杯「元日決勝」
 サッカー天皇杯恒例の「元日決勝」にまつわる弊害が、いよいよ深刻なものになっている。
  • 藤江直人「オフはたったの6日間? サッカー界に〈働き方改革〉が必要な理由」(2020/02/06)
 あらためて、日本サッカーは「元日決勝」から決別しなければならない。

 [理由その1]まずは「過密日程」の問題。これは、今までさんざん論じられてきたし、もっと詳しい人がいるので、ここでは繰り返さない。

 [理由その2]マスメディアが日本人一般へのサッカーをPRにするに当たって、「元日決勝」ではかえって不利になるという問題。

 サッカー天皇杯は、NHKと共同通信という大手マスメディアが後援についている。しかし、毎年1月1日は、マスメディアは元日の特別編性となっているので、テレビのスポーツニュースなど報道に大きく時間が割かれることはない。

 正月のスポーツイベントとしては、サッカー天皇杯「元日決勝」の話題性は、どうしたって翌日・翌々日(1月2日,3日)開催の箱根駅伝のそれには勝てない。しかも、テレビの視聴率は高くない。貴重なサッカーの地上波中継なのにもったいない。

 すなわち、天皇杯決勝がどんなに素晴らしい、面白い試合だとしても、それがマスメディアによって、人々に拡散されることはない。その分、日本人は(国内)サッカーの素晴らしさ、面白さに気が付く可能性は下がる。

 日本サッカーの国内シーン、なかんずくJリーグの人気がもうひとつ盛り上がらないのは、天皇杯「元日決勝」のせいである。

捏造された歴史としてのサッカー天皇杯「元日決勝」
 [理由その3]そもそも、存続派が日本サッカーの「伝統」だと主張する天皇杯「元日決勝」など「捏造された歴史」に過ぎない。

 日本サッカーのカップ戦(全国選手権)は、大正時代の1921年から始まっている。しかし、それに「天皇杯」の冠がかかるのは、第二次世界大戦後の1951年度(昭和26)になってからに過ぎない。

天皇杯カップ
【サッカー天皇杯の優勝カップ】

 「元日決勝」は、戦後四半世紀も経った1968年度(昭和43)=1969年1月1日から。100年以上ある近代日本サッカーも歴史の中で、「元日決勝」の慣例などたかだが50年程度の時間に過ぎない。*

 もっと決定的なこと。明治神宮への初詣の参拝客を集客に取り込もうとして始まったと言われる、サッカー天皇杯の「元日決勝」。しかし、「元日決勝」で国立競技場を満員にできるようになったのは、1991年度=1992年1月1日からである。

 実質的に、サッカー天皇杯「元日決勝」の伝統などたかだか30年にも足りないのだ。

自国のサッカー史を知らない日本のサッカー選手たち
 ところが、日本のサッカー選手たちは、自国のサッカーの歴史をろくに知らない。サッカー天皇杯「元日決勝」が「捏造された歴史」だとは知らない、いたいけなサッカー選手たちが「元日に天皇杯決勝の試合がしたい」などというタワゴトを宣(のたま)う。


 例えば、日本のサッカー選手たちのほとんどは、自分たちのサッカーの直接のルーツが、東京高等師範学校(筑波大学の前身)の中村覚之助にあることを知らない(はずである)。

中村覚之助(胸像)
【中村覚之助】

 そんな、いたいけなサッカー選手たちが「元日に天皇杯決勝の試合がしたい」などというタワゴトを宣っているのである。

プロ野球から考えるサッカー天皇杯決勝「天覧試合」
 四の五の言わずに、サッカー天皇杯は「元日決勝」から卒業するべきである。

 通常、Jリーグ(J1)は12月第1週に終了するから、「元日決勝」から卒業したサッカー天皇杯決勝は、その次、12月第2週の土曜日夜にキックオフする。それをNHKが総合テレビで放送すればいい。

 12月第2週は、旧トヨタカップが行われた、サッカーに縁のある季節でもある。

 それとも……。そんな踏ん切りがつかないなら、新しい日程によるサッカー天皇杯決勝の最初の試合を「天覧試合」にすればよい。

 日本国天皇は元日は忙しい。逆を言えば「元日決勝」に拘泥する限り、天皇杯決勝の「天覧試合」は実現しない。

 大相撲は別として、スポーツの天覧試合と言えば、よく喧伝されたのが1959年(昭和34)6月25日のプロ野球「巨人vs阪神」戦である。

 この天覧試合の実現までは、いろいろな動きがあったと聞く。結果、この試合はそれまでの大相撲やアマチュアの東京六大学野球の人気を、プロ野球(NPB)の人気が追い抜いた大きな画期であるとされている。

 また、読売ジャイアンツ(巨人軍)の長嶋茂雄は、この試合で活躍したことが画期となって国民的スーパースターとなった。

天覧試合_長嶋茂雄サヨナラホームラン19590625
【天覧試合における長嶋茂雄のサヨナラホームラン】

 すなわち、サッカー天皇杯も「天覧試合」と藉口することで、旧弊たる「元日決勝」から卒業し、日本サッカーの新しい歴史を創る画期となすのである。

(了)




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野球WBCの存在の耐えられない軽さ
 ラグビーワールドカップ2019日本大会が、事前の予想以上に盛り上がっている。事実、面白い。面白すぎる。ここで、ナショナルチーム(代表チーム)による世界大会(世界選手権)の権威の高さを、あえて等号・不等号で表すと、次のようになるだろうか(あくまで当ブログの主観である)。
  • サッカーW杯>ラグビーW杯>>>バスケットボールW杯≧アイスホッケーW杯>>>>>野球WBC
 クリケットW杯についてはよく知らないが、少なくともバスケットボールW杯より下ということはないだろう。それにしても気になるのは、野球のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の存在の軽さである。もっとも、野球のWBCというイベントについては、次のような冷笑的な評価が下されてきたのであるが……。

 ……そもそも、WBCなどというものは、所詮はエキシビションにすぎない「ワールドカップごっこ」である。日本(笑)とか、キューバ(笑)とか、ドミニカ共和国(笑)とか、あの辺の連中は躍起になってWBCに勝ちに行くが、アメリカ合衆国(米国)のMLB(メジャーリーグベースボール,大リーグ)の目線から、そんな有様を見ていると滑稽でたまらない……。

 ……なぜならMLBが、米国の野球が「世界一」なのは自明のことだからだ。MLBの選手権試合を「ワールドシリーズ」と名乗るのは(形式的には一国の国内リーグにもかかわらず)、むしろ当然ことだ。MLBは全く充足している。これ以上の高い次元を求める必要など感じていない。今さらアメリカ合衆国は、代表チームでWBCの優勝をガムシャラに狙うつもりなどない……。

 ……みたいな話を、日本の野球論壇では「MLB通,メジャーリーグ通」と目される書き手が、訳知り顔に紹介することが、よくある。そればかりか、ダルビッシュ有選手という、MLBの球団に所属する日本人の野球選手が、WBCのことを冷笑するツイートをしていた。


 ダルビッシュ有選手の発言は、MLBあるいは米国野球界の「一国主義」の本音を代弁、または吐露したものである。しかし、それは、やはりMLBの「世界戦略」が間違っていること。やはり野球という球技スポーツは、今後、日本をはじめ、世界的にもジワジワ衰退するしかないだろうことを暗示している。

野球…あまりにも「アメリカ的」にして「非世界的」なるもの
 どういうことか。野球は、(サッカーやラグビー,クリケットなどのように)複数の国にプロリーグがありながら、ナショナルチーム(代表チーム)による国際試合や世界大会がオーソライズされていない、世界的にも特異な、ほぼ唯一の「チーム単位で行う球技スポーツ」である。

 MLBは、一応、「ワールド・ベースボール・クラシック」(WBC)というイベントは作った。しかし、作っただけで、それを権威あるイベントに育てる気が全くないらしく、(先のダルビッシュ有選手のツイートのような)不遜な一国主義を改める気がない。

 そこまでは、まあ、いいとして、しかし、不遜な一国主義を改める気がないMLBは、一方で、ヨーロッパ(英国)やクリケット大国のインドには進出したがるのである。これはおかしいし、多分に失敗する。

 2019年6月の英国ロンドンにおけるMLB公式戦=ヨーロッパ進出。もっとも、観客の多くはロンドンの在英の米国人だった。この試みは、実際にはエキシビション以上の成功はない。*

 インドのクリケット選手を野球選手に矯正してメジャーリーガーに挑戦させるなどという話は、文化侵略であり、倫理的にも問題がある。仮に数名のインド人メジャーリーガーが誕生したとしても、インドでそれ以上に野球人気に浸透する蓋然性は少ない。

 なぜなら、ヨーロッパ諸国や英連邦諸国のアスリートは、契約する所属クラブチームで「世界一」を争う。それとは別に故国のナショナルチーム(代表チーム)に参加して、もうひとつの「世界一」を争うからである。ヨーロッパ系・英連邦系のスポーツは、このふたつが両輪となって、人材の一極集中を一時的にでも緩和し、いわば「資源の再配分」(?)をする形で、国際的なバランスをとっている。

▼MLBのロンドン開催が成功しても,野球の「欧州進出」は失敗する…のではないか?」(2019年06月23日)

 ところが、野球というスポーツは、以上に述べたような理由で、クラブチームとナショナルチームの両輪のバランスが、著しく悪い。米国のMLBだけが肥え太って、ナショナルチームの国際試合・世界大会に参加するやりがいのないスポーツ=野球を、今さらヨーロッパ諸国・英連邦諸国が一生懸命になる意義は少ない。

 インドのクリケットにしても、かつての宗主国である英国(イングランド)と対等の立場で権威ある国際試合(テストマッチ)ができる。そして、たびたび勝つ。これができるから、インドはクリケット大国なのである。

▼一色出版「第16章 インド│植民地経験からクリケット大国へ」(2019.02.20)

 しかし、野球にはこういった歴史や文化がない。インドvsイングランド、あるいはオーストラリアvsイングランドのクリケットのテストマッチの熱い歴史。翻って、NPB選抜とMLB選抜が対戦する、エキシビションゲームの域を出ない、いわゆる「日米野球」の生温い歴史。このふたつは、似て非なるどころか、決定的に違う。

 MLBがナショナルチームやテストマッチを軽視しては、インドで野球人気は上がらない。

 同じ米国のプロスポーツでも、NBAはFIBAバスケットボール・ワールドカップを重視する方向にシフトしつつあるのだという。それが、世界のバスケットボールの繁栄とNBAの繁栄につながるのである。

 これと比べるとMLBは「世界」の潮流から離れている。少なくとも、ヨーロッパやインドに進出して、MLBだけ美味しい思いをしようと言うのは間違っている。

 その結果、やって来るのは、世界的規模での野球の衰退である。

 ESPNの統計では、米国においてもMLB(メジャーリーグベースボール=野球)の人気がMLS(メジャーリーグサッカー)に抜かれつつある。

 日本においても、野球の競技人口が減っている。あまり語られないことだが、これは、野球という球技スポーツの「世界性の乏しさ」も影響している。

 つまり、「一国主義」をとるMLBの「世界戦略」は間違っている。そして、MLBの「一国主義」の本音を代弁するだけのダルビッシュ有選手の発言は面白くない。

MLBの「一国主義」に追随するダルビッシュ有選手
 なぜ面白くないのか。突飛な連想であるが、ドイツ文学者で元新潟大学教授の三浦淳(みうら・あつし)氏の指摘を思い出した。
 その根底にあるのは、三島〔由紀夫〕や中村〔光夫〕のエッセイで指摘されていたような、日本知識階級の卑屈さである。外国では受容者=弟子としてペコペコし、逆に国内では輸入品を振りかざして啓蒙家=教師を気どる――これが明治以来、日本の二流知識人が一貫してとってきた行動様式だった。

 同じ知識階級でも一流ならこういう莫迦〔バカ〕な真似はしない。日本の欠点は欠点として指摘し、しかし対外的にも言うべきは言う。例えば〔森〕鴎外はそうだった。考えてみればそれは当然のことだが、この当り前のことが一番難しいのが日本の二流知識人なのである。

三浦淳「反捕鯨の病理学(1)」
 ダルビッシュ有選手は、一流のアスリート=野球選手である。しかし、彼の対外的な発信は、MLBアメリカ・メジャーリーグという国際野球界における強大な勢力を背景に、日本の野球界を「啓蒙」するというものが目立つ。

 「これが現実」という、ダルビッシュ有選手の嘯(うそぶ)きには、欧米主要国には卑屈になり、逆に日本に対しては権高に「啓蒙」する、明治以来の日本の二流知識人に通じる「臭み」がある。

 同じ啓蒙家でも一流ならこういう莫迦な真似はしない。日本野球の欠点は欠点として指摘し、しかしMLBアメリカ・メジャーリーグにも言うべきは言う。くどくど述べてきたように、MLBの世界戦略・海外進出にはかなり問題があるので、WBCの在り方に関して、MLBも批判できる洞察力があると素晴らしいのだが。

 MLBという巨大なスポーツ社会の内部にいると、そうした事柄がなかなか見えてこないのかもしれない。だが、日本出身のメジャーリーガーという、ダルビッシュ有選手の立ち位置を活かした所感が少ないように思えるのは、とても残念である。

 畢竟、MLBの「一国主義」に追随するダルビッシュ有選手は、啓蒙家としては二流のままで留(とど)まっている。

 やはり野球という球技スポーツは、今後、日本をはじめ、世界的にもジワジワ衰退するしかない。

(了)




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内野席のネットの有無~日・米間の野球の違い
 日本の野球ジャーナリズムでは、発祥国たるアメリカ合衆国(米国)の野球、なかんずく大リーグ(メジャーリーグ,MLB)の流儀と何か異なっていると、それがスポーツとして、スポーツ文化として、犯罪的に間違っていることとして否定的な評価が下される。

 例えば、日本の野球場(球場)に設けられた内野スタンド(席)の観客防護用の「ネット」(網)での有無である。国の如何を問わず、公認野球規則上、本塁(ホームベース)の裏には「バックネット」(バックストップ)を設置が義務付けられている。しかし、一塁ベースまたは三塁ベースに近い内野席にはネットの設置は義務付けられていない。

 よく知られるように、米国の野球場の内野席には総じてネットがない。またファウルゾーンが狭い(下の写真参照)。

オラクルパーク野球場(アメリカ,サンフランシスコ)
【アメリカのオラクルパーク野球場(サンフランシスコ)】

 これは、観客の臨場感をより優先しているためと言われる。

 大リーグは長年、球場の内野席に防護ネットを設置しないことを〈伝統〉としてきた。選手と観客の間に境目(ネット)を設けないことは、ファンサービス精神の表れであるとされていた。

 一方、日本の野球場の内野席にはたいていネットが設けてある。また米国と比べてファウルゾーンが広めに設定されてある(下の写真参照)。

明治神宮野球場(日本,東京)
【日本の明治神宮野球場(東京)】

 これは、内野席に飛んでくるファウルボールの打球や折れたバットの破片などから、観客を守ることを優先しているためと言われている。

内野席のネットが大嫌いな玉木正之氏の言い分
 この、日本の野球場における内野席のネット設置の慣習を、アメリカ野球、大リーグの流儀を唯一絶対の判断基準として繰り返し断罪してきたのが、スポーツライターの玉木正之氏である。その玉木氏の批判の中から、最も本音に近く、かつ先鋭的と思われる1990年刊の新潮文庫『プロ野球大事典』から引用する。
ネット【net】
  1.  かつては、ファウル・ボールから観客を守るためのものだったが、現在では、観客から選手を守るために目的が変わった邪魔者
  2.  アメリカ大リーグのように、これをなくすれば、日本の観客も、もっとプレイに注目し、野球を楽しむようになるに違いない。それは危険だ……などというひとは、遊びにはつねに危険が付き物であるということが理解できないひとか、あるいは保安係の人件費をケチっている経営者である。ケガをしたらどうするんだ……などと心配する人は球場に来なければいい。そんなことでは観客に対して責任が持てない……と経営者がいうなら、ファウル・ボールに対して責任を負いませんと切符に書いておくだけで充分だ。バックネット以外にネットのない球場で、グラヴを持って野球を見に行きたいと切望しているのは筆者〔玉木正之氏〕だけか。
  3.  ネット(金網)は絶対に取り外せないというなら、引き分けなど廃止して金網デスマッチにしてほしい。
  4.  所沢西武球場をつくるとき、西武グループの総帥〔そうすい〕といわれる堤義明は、「バックネットがあるとゲームが見にくいから,なくせないものか」といったという。こういう堤オーナーの考え方は、常識破りのユニークな発想と称賛されているが、じっさいにバックネットを強化ガラスや強化プラスチックにした球場は存在した(サンフランシスコのシールズ・スタジアムやシンシナティのクロスレー・フィールド.しかし,汚れが目立って,いまは採用されていないらしい)。誰の考えることもそう大差はなく、「すごい発想だ!」などと誉めそやすひとの勉強不足(またはゴマスリ)である場合がほとんどなのだ。
玉木正之『プロ野球大事典』(新潮文庫)435~436頁



 野球と違って、世界各国の「お国柄」の違いには寛容なサッカーの在り方が、日本の人々に知れわたる前の1990年ごろのことであるから、玉木正之氏は、アメリカ大リーグを出汁(だし)にして、思う存分、日本の野球を罵倒している。

 例えば、内野席のネットを「観客から選手を守るために目的が変わった邪魔者」とか、「アメリカ大リーグのように,これをなくすれば,日本の観客も,もっとプレイに注目し,野球を楽しむようになるに違いない」とか論じるあたりは、日本野球の風潮で、もうひとつ玉木氏が大嫌いな存在である「応援団」に対する、玉木氏の当てこすりである。

▼アメリカ民謡『テキサス・ファイト』に日本の「応援団」文化の原点を感じた(2019年08月04日)

▼日本野球の「応援団」のルーツはアメリカの大学フットボールにあった!?(2019年05月02日)

 アメリカ大リーグが大好きな人たちは、大リーグの観客は、試合も見ずに歌い踊っているだけ(?)の日本野球の「応援団」などとは違って、試合に集中しており、またグラブを持参しているので、「危険」は少ない……と主張していたと言われている。

 また「遊びにはつねに危険が付き物である」というくだりは、ファクトやエビデンスよりもロマンチシズムを重んじる、玉木氏のスポーツライターとしての過剰なまでの思い入れを表している。

「ケガが怖いならメジャーの野球場には来るな」とは言えない時代
 ところが、ここ最近になって、大リーグの試合でもファウルボールの痛烈な打球が観客に当たり、重傷を負った。しかも、被害者の中には小さな子供がいた……という痛ましい事故が頻発している。

▼菊地慶剛「MLB球場にも防護ネットは必要なのか?」(2017/9/21)

 「ケガをしたらどうするんだ……などと心配する人は球場に来なければいい」……、いやいや玉木センセイ。もうそんな悠長なことを言っていられる時代ではないのですよ。

 野球という競技全体でパワーとスピードが向上していて、観客席に飛んでいくファウルの打球とて例外ではない。昔と違って危険度も高くなっている。その分、内野席の観客も自身の感覚だけで身を守ることが難しくなっている。

 それから、米国においても野球人気が下がっていると言われる。大リーグも、もはや〈伝統〉に拘泥している場合ではない。

 過(あやま)ちては改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ……。

〈伝統〉ゆえのためらい~メジャー各球場の内野席ネットの設置
 ……2019年に入って、大リーグの球場の内野席にも観客防御用のネットを設置する例が出てきた。

▼ホワイトソックスの本拠地が内野席全体に防御ネットを設置 メジャーでは初めて[2019年7月23日]

ホワイトソックス本拠内野全席にネット設置 観客安全のため[2019年7月24日]

 報道では、大リーグ各球団は内野席にネットを設置する方向に動きつつあり、「MLB側は面目なし!?」とまである。

▼MLB側は面目なし!? 各球場が次々と防護ネットを張る[2019年7月28日]

 むろん、この件に関して日本が正しかった、米国が間違っていた……という強弁したいわけではない。しかし、アメリカ大リーグは常に正しく、大リーグは常に正しいのだから決して間違っていない……という風潮は、再考するべきではないかという意味である。

 一方、コミッショナーを筆頭とする大リーグ当局は、全球場の内野席にネットを設けることには消極的なようだ。

 この辺りは、理屈では悪いと分かっていても、なかなか変えられない。本の高校野球に似て〈伝統〉の持つ縛る力、悪い側面を感じる。

 大切なのは、観客の安全と健康である。内野席に安全用のネットを付けたくらいで、野球自体がつまらなくなることはないはずだが。

(了)



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国ごとの文化の違い=多様性に寛容な「サッカー」と非寛容な「野球」
 サッカーのワールドカップなどで、ナイジェリア、カメルーン、セネガル、コートジボワール……といった、ブラックアフリカまたはサブサハラアフリカの国々のサポーターの応援・観戦のやり方を見聞きしていると、日本はむろん、ヨーロッパとも、ラテンアメリカとも違う、独特の、かなり耳慣れないリズムである。

 しかし、それがこれらの国々の人々のやり方=文化なのであって、自分たちのやり方と違うから、あるいはヨーロッパやラテンアメリカのやり方と違うからおかしい……と非難するのは、非常に失礼なことである。むしろ、世界の国や民族のさまざまな文化の違い=多様性に寛容なのが、サッカーの素晴らしいところであり、グローバルスポーツたる所以(ゆえん)である。

 ところが「野球」(ベースボール)というスポーツは、そうはならない。

 日本の野球ジャーナリズムでは、発祥国たるアメリカ合衆国(米国)の野球、すなわち大リーグ(メジャーリーグ,MLB)の流儀と何か異なっていると、それがスポーツとして、スポーツ文化として、犯罪的に間違っていることとして否定的な評価が下される。

スポーツ文化として犯罪的に間違っている(?)日本野球の「応援団」
 例えば、日本のスポーツの、なかんずく日本野球の「応援団」についてである。よく知られるように、米国の野球に「応援団」は見られないが、日本の野球……大学野球、高校野球、社会人野球、プロ野球には「応援団」の存在が特徴的である。

 この「応援団」、特にプロ野球(NPB)の「応援団」を、アメリカのプロ野球リーグである大リーグの流儀を唯一絶対の判断基準として繰り返し断罪してきたのが、スポーツライターの玉木正之氏である。その玉木氏の「応援団」批判の中から、最も本音に近く、かつ先鋭的と思われる1990年刊の新潮文庫『プロ野球大事典』から引用する。
おうえんだん【応援団】
  1.  野球を見るよりも、グラウンドに背を向けてドンチャン騒ぎをするほうが好きな観客たちが集まってつくった集団。
  2.  自分では何もできないくせに、何かをできる人物たちに声援を贈ることによって、彼らが何かをできるようになった、思い込むことができる幸運な連中が集まってつくった集団。
  3.  その発祥は、明治時代にスポーツをすすんで取り入れた大学と旧制高校であり、早慶戦の野球や隅田〔すみだ〕川レガッタといった試合が人気を集めはじめるとほぼ同時に、応援団の歴史は日本のスポーツの歴史と歩みをともにしている。
  4.  それは、スポーツを「やる人」と「見る人」が完全に分離した後の近代スポーツが分離していないスポーツの歴史、飛び入り自由の時代のスポーツの歴史が欠落しているため、「見る人」が専門化してしまったもだ。しかも応援団には、所詮〔しょせん〕主流(スポーツをやる人)ではなく、傍流(スポーツをやらない人)であるというコンプレックスだけは存在し、そのため、バンカラ、はぐれ者、あるいはヤクザといった、社会の傍流としての存在と似通った体質を持つまでになる傾向が生じた、といえるようにも思われる。*
玉木正之『プロ野球大事典』(新潮文庫)92頁


 悪し様な、まったく悪し様な表現の連発は、読んでいてかえってウンザリさせられる。玉木正之氏は、ただただ「応援団」が嫌いなのである。今、玉木氏が、NPBの「応援団」やJリーグのサポーターに向けて、ネット上で特に「2.」のような明白な嫌悪を著(あらわ)したら炎上必至である。

 引用文中のスポーツを「やる人/見る人」云々のくだりは、『オフサイドはなぜ反則か』で知られるスポーツ社会学者・中村敏雄氏(なかむら・としお,故人)の『メンバーチェンジの思想』を参考にしたとの由(よし)である(遺憾ながら,当ブログは未読)。

 玉木氏が、ここまで断定的にNPBの「応援団」を非難できるのは、何より、アメリカ大リーグの流儀とはハッキリ違うからである。大リーグは常に正しく、大リーグは常に正しいのだから決して間違っていない……という思考である。

日本野球の「応援団」は悪なのか?
 アメリカ大リーグ目線による日本野球の「応援団」文化への否定について、米国イェール大学教授(社会人類学,日本研究)で『虎とバット~阪神タイガースの社会人類学』の著者ウィリアム・W・ケリー氏は次のようにまとめている。
 こうした派手で熱狂的な〔NPBの〕ファンの解釈について、〔ロバート・ホワイティング氏のような〕アメリカの記者や訪日客は、……ある種の定型にはめて考えてきた。観光客はただそのスタイルを楽しみ、一方で〔玉木正之氏のような〕専門家は、ノンストップで騒ぎ続ける彼ら〔応援団〕のせいで〔アメリカ大リーグのように〕野球を〈正しく〉楽しめないと愕然とした。そして両者ともに、やはり日本人は集団に溶け込み、狂信的と言えるレベルにまで指示に従わないと安心できないたち〔国民性〕なのだとよく口にした。〔朱太字部分は原文では傍点付き〕

ウィリアム・W・ケリー『虎とバット~阪神タイガースの社会人類学』159頁


虎とバット 阪神タイガースの社会人類学
ウィリアム・W・ケリー
ダイヤモンド社
2019-06-20


 ケリー教授という人は、日本野球の解釈に関して「論敵」に当たるロバート・ホワイティング氏(日本在住の米国人ジャーナリスト,著書に『菊とバット』『和をもって日本となす』ほか)が「日本異質論」のリビジョニストだとすると、いわば「知日派」的なスタンスの人である。



 しかし、……と、ケリー教授は続ける。「ところがスタンドにじっくり腰を下ろして〔応援団が繰り出す〕応援に耳を傾け、〔阪神タイガースの〕ファンの話を聞くと、もっと複雑なタイガースファンの在り方が見えてきた」(同書159頁)。とにかく、「応援団」の観戦様式の実態は違う。
 それは(欧州サッカーのような)バリエーションと調和を兼ね備えた応援で、一本調子の退屈なものではなかった。打者から打者、イニングからイニングへと応援歌がスムーズに切り替わる流れが、試合終了まで続いた。確かに歌詞はありきたりで、選手を英雄視する言葉に凡庸〔ぼんよう〕な激励の文句を組み合わせたものだ。洗練性と独自性はあるが絶賛はしたくない。それでも、〔甲子園球場の〕ライトスタンド応援の意図や効果を無個性で退屈な文化だと断じるのは明らかな間違いだ。

ウィリアム・W・ケリー『虎とバット~阪神タイガースの社会人類学』160頁
 ひょっとしたら、ケリー教授も米国人であるから、日本野球の観戦スタイルに違和感があるのかもしれない。しかし、ここに描かれた世界こそ、英国の動物学者デズモンド・モリスが『サッカー人間学』(原題:The Soccer Tribe)で描き出した「サッカー部族の随行者」(サポーター)の姿に類似したものである。

サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02


 ヨーロッパやラテンアメリカのサッカーのサポーターもまた、「自分では何もできないくせに,何かをできる人物たちに声援を贈ることによって,彼らが何かをできるようになった,思い込むことができる幸運な連中」ではないのか。

 日本野球の、少なくともNPBの「応援団」の生態はサッカーのサポーターに近い。アメリカ大リーグの観客とは違う。

 そう言えば、サッカージャーナリストの後藤健生氏は「サッカーのサポーターや観客と比べたら,野球をはじめとするアメリカのメジャースポーツの観戦は,日本の小学校の運動会の見物みたいなもの」などと『サッカーの世紀』に書いていた。

サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07


 その辺りを認めたくない、あくまで日本野球の独自の文化を悪習として断罪したいから、玉木氏はモリスの『サッカー人間学』が嫌いなのである。

日本の「応援団」文化はアメリカ起源
 ところで、玉木正之氏も、玉木氏と関係の深いロバート・ホワイティング氏も、日本の野球やスポーツ界の「応援団」の出現が、明治時代の大学・旧制高校であることは知っている。しかし、その起源については調べがついていないようだ。

 玉木正之氏、ひょっとしたら、先に引用したように「近代以前のスポーツ史が欠落した,日本のスポーツの観客のコンプレックス(嫉妬と書くこともある)が,〈応援団〉を発生させた」とでも、本気で思っているのだろうか(いかにも,実証やエビデンスを軽んじる玉木氏らしい「仮説」であるが)。

 あるいは、玉木氏、ホワイティング氏ともども、日本野球の「応援団」=日本的集団主義の表れだと無邪気に信じているのだろうか。

 それはともかく、先のケリー教授は興味深い説を紹介している。
 ……〔日本の〕野球の応援の原点は……、スポーツそのものと同じく海外に由来する。二〇世紀初頭、早稲田大学と慶應大学の野球部がアメリカに遠征し、そこで現地の大学の(特にアメフトの)応援に感銘を受け、使っているパターンや道具を詳細に書き留め、帰国後に自分たちの応援に採り入れた。やがて応援団は一つの部活動として独立し、激しくも規律正しい応援を通じて愛校心を示す伝統は、日本の高校や大学に広く受け継がれている。

ウィリアム・W・ケリー『虎とバット~阪神タイガースの社会人類学』162頁
 野球ではないが、日本野球の「応援団」のルーツは米国の大学フットボールにあったという話は、玉木正之氏やロバート・ホワイティング氏にとっては「不都合な真実」かもしれない。

マードックの入場曲『テキサス・ファイト』を聴いて納得する
 ケリー教授の説がおそらく正しいのだろう……と感じたのは、『ザ・プロレスリング完全版~日本プロレス激闘60年史』というCDを聴いた時だった。これは、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、アブドーラ・ザ・ブッチャー、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ……といった、往年の名プロレスラーの入場曲を集めたアルバムである。

ザ・プロレスリング完全版~日本プロレス激闘60年史
インストゥルメンタル
ビクターエンタテインメント
2012-12-19


 その中に、ディック・マードック(Dick Murdoch,故人)の曲も収録されていた。


 その入場曲は、アメリカ民謡で、テキサス大学アメリカンフットボール部「ロングホーンズ」の応援歌という触れ込みの『テキサス・ファイト』という曲だった。

 なるほど、これを聴いたら、日本野球の「応援団」文化は、米国の大学フットボールの影響にあるというのが、非常によく分かるのである。


【theme dick murdoch】


【TEXAS FIGHT University of Texas Fight Song2】


【Texas Longhorns Fight Song (The Eyes of Texas/Texas Fight)】


【University of Texas Longhorns Fight Song】


【ディック・マードック入場テーマ曲「テキサスファイト」MonkeyFlipLIVE2016】

 軽快な曲の間奏部分でエールの掛け声が入るのも、日本の野球の応援で言う「チャンステーマ」や「ヒッティングマーチ」とよく似ている。

 ちなみに日本では、『テキサス・ファイト』は、NPBの西武ライオンズや社会人野球の西濃運輸の応援に使われている。

 また、スタンドが一体となった米国各大学のアメフトの応援は、日本野球の応援によく似ている。特に東京六大学野球リーグの、なかんずく早慶戦の応援・観戦文化は、たしかにアメリカ起源なのだろうと思わせる。


【Top 20 College Football Traditions/Chants】


【Top 10 College Fight Songs】

 米国のアメフトの応援を、日本の野球に移植して、何か悪いのか分からない。**

 それでも日本野球の「応援団」文化は、スポーツとして、スポーツ文化として間違っているとして、玉木正之氏はこれを断罪し続けるのだろうか?

世界に紹介された日本の「応援団」
 日本の「応援団」は野球のみならず、サッカーや駅伝など他のスポーツにも派生している。かなり古くなるが、先述の高校サッカーの「応援団」の姿が、先のデズモンド・モリスの『サッカー人間学』に掲載されている(見開きの「のど」にかかって見難いので,クリック→拡大してご覧ください)。

高校サッカーの学ラン応援団「サッカー人間学」88~89頁
【デズモンド・モリス『サッカー人間学』88~89頁より】

 モリス博士は、日本のスポーツ文化にある種の先入観がないのが面白い。玉木正之氏があれほど忌み嫌った日本の「応援団」を、著書を通じて
世界に紹介したのである。

The Soccer Tribe
Desmond Morris
Rizzoli Universe Promotional Books
2019-03-26


 だから、玉木氏はモリスの『サッカー人間学』が嫌いなのである。

(了)



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犬も卒倒するホワイティング氏の日本野球論
 ロバート・ホワイティング氏(日本在住の米国人ジャーナリスト)の、『菊とバット』『和をもって日本となす』のような日本・日本人に対するステレオタイプと偏見に満ちた日本野球論・日本文化論は、どうにも苦手だ。むしろ、ゲンナリさせられる……という人は、スポーツライター・武田薫氏をはじめ意外に多い。

 そんな、犬も卒倒しそうな、ゲンナリさせられるホワイティング氏の日本野球論を、私たちスポーツファンは、またまた読む羽目になった。雑誌『東京人』2019年8月号の特集「近代スポーツことはじめ」である。


 そのタイトルは「アメリカ人は犠牲バントを好まない」である。翻訳を担当したのは、なぜか徳川宗家の徳川家広氏であった。それはともかく、内容は今さら紹介の必要もありますまい。いつもの、ホワイティング氏の、日本・日本人に対するステレオタイプと偏見に満ちた日本野球論・日本文化論である。

アメリカ人は犠牲バントを好まない…だから何なのだ!?
 「犠牲バント」とは、いかにもホワイティング氏が好んで採り上げそうな、きわめて「日本的」で「滅私奉公」的なニュアンスだが、実は英語の「Sacrifice bunt」の翻訳であって、昨今の日本語ではあまり用いられない。要するに「送りバント」のことだ。事実、Googleの検索ヒット数では「犠牲バント」よりも「送りバント」の方が多い。

送りバント(犠牲バント)を試みる打者
【送りバント(犠牲バント)を試みる打者】

 不思議なのは「〈アメリカ人〉は〈犠牲バント〉を好まない」という命題である。なぜなら、これは「華麗で攻撃的なサッカーを好む〈ブラジル人〉はイタリア的な〈カテナチオ〉の守備的サッカーを好まない」、または「勇敢なサッカーを好む〈イングランド人〉はイタリア的な〈カテナチオ〉の守備的サッカーを好まない」と同じくらい、ほとんど意味のない命題だからである。

 あるいは、日本経済新聞電子版には、スポーツライター・丹羽政善氏による「メジャーはなぜバントをしないのか 日米野球比較」という論評が掲載されている。
  • 参照:丹羽政善「メジャーはなぜバントをしないのか 日米野球比較(1)」2010/12/6
 これまた、「サッカーブラジル代表〈セレソン〉は,なぜ〈カテナチオ〉をしないのか?」とか、「サッカーイングランド代表〈スリーライオンズ〉は,なぜ〈カテナチオ〉をしないのか?」とかと同じく、ほとんど意味のない命題である。

 所変われば品かわる。国が違えば物事に関する好みが違うのは当たり前のことだ。ましてや、シングルスやダブルスではなく、9人、11人、15人……とチーム単位で、広いフィールドで行われる球技スポーツでは、国ごとにプレースタイルの好みが違ってくるのは、むしろ当然のことではないか。

 別の譬(たと)え方をすると、イタリアのサッカースタイルをブラジルやイングランドと異なるというだけで、これを上から目線で断罪しているのが、ロバート・ホワイティング氏(や玉木正之氏)の手口なのである。

イタリア・サッカーと日本野球の意外な(?)共通性
 イタリアのサッカーといえば、(超)守備的戦術にカウンターアタックでゴールを仕留めるスタイル「カテナチオ」である。最近はそのイメージもずいぶん様変わりしたというし、それ自体がステレオタイプの偏見に満ちた「まなざし」かもしれない。しかし、それでも、イタリア・サッカーといえば「カテナチオ」。「カテナチオ」といえばイタリア・サッカーなのである。

 サッカージャーナリストの後藤健生さんは、1994年アメリカW杯の取材から帰った後のトークイベントで「今回のアリゴ・サッキ監督のイタリア代表は,攻撃的で魅力的なサッカーをしていたが,それはまったく〈イタリア的〉でなくて,ちっとも魅力的ではない(笑)」などとジョークを嘯(うそぶ)いては笑いを取っていた。むろん、後藤さんはイタリア・サッカーに敬意を表して、そんな冗談を飛ばしたのだ。

 片や、日本野球の送りバントを多用するプレースタイル(仮に「日本型スモールベースボール」と呼ぶ)。こなた、イタリア・サッカーの守備的なプレースタイル「カテナチオ」。ともに「消極的」で「勝利至上主義」の好ましからざるプレースタイルのようにも言われることがある。

 少し脱線するが、細川周平氏や今福龍太氏といったポストモダン思想系(現代思想系,ポモ)のサッカー評論が跋扈(ばっこ)するようになり、ドイツのサッカーを「勝利至上主義」の権化として大袈裟に悪罵する以前は……すなわちベッケンバウアーらがプレーしていた頃は、西ドイツ(当時)のサッカーが「好ましいサッカー」をしていて、反面、イタリアのサッカーこそ「勝利至上主義の好ましからざるサッカー」だと非難さわれていた。



 事ほど左様、世上のイメージとはいい加減なものである。

 話を戻す。なぜ「カテナチオ」には今では悪いイメージがなく、しかし、なぜ「日本型スモールベースボール」には悪いイメージがついて回るのか。

 イタリアのサッカースタイル「カテナチオ」のルーツは諸説あるが、最も興味深いのは、日本在住のイタリア人文化人類学者ファビオ・ランベッリ氏が紹介しした説である。
 ……戦後イタリアのもっとも偉大なサッカー・ジャーナリストであるジャンニ・ブレーラ……によると、イタリアン・サッカー独特の技能・カテナッチョ(守備固め、文字通りには「ドアの掛け金」)は、劣勢の意識から始まったものだった。〔一九〕五〇~六〇年代には、ブレーラが言うようにイタリア人選手は栄養の少ない食事をとり、背が低く、北欧〔ドイツほか〕や南米〔ブラジルほか〕のチャンピオン・チームの試合では、身体的にも技術的にも劣位であった。この劣勢を乗り越えるために、カテナッチョという方法が工夫されたのである。

ファビオ・ランベッリ『イタリア的』222~223頁


 ジャンニ・ブレーラは、日本で言えば賀川浩氏と牛木素吉郎氏と金子勝彦氏(3人とも日本サッカー殿堂入り)を足したくらいの、本当に偉大なサッカージャーナリストである。
  • 参照:ダニエーレ・マヌシア(翻訳 片野道郎)「サッカージャーナリズムは最新戦術用語をどう扱うべきか?」2018.05.23
  • 参照:白鳥大知「伝統のイタリア・ダービーは激しい肉弾戦に。狙い通りの結果を手にしたのは?」2015年10月19日
 そんな人だけに、その考察は非常に重い。とにかく「カテナチオ」がイタリア人の、サッカーにおけるフィジカル(身体)やテクニック(技術)の劣等意識から始まったという説は面白い。「日本型スモールベースボール」もまた、アメリカ野球に対するフィジカルやパワーの劣勢・劣等意識から始まったのが、その起源のひとつとされているからである(玉木正之「4番打者論」@『プロ野球の友』など)。

 その意味では、イタリア・サッカーと日本野球には意外な(?)共通性がある。

日本野球こそ本来の「ベースボール」正統な継承者である!?
 アメリカ合衆国(米国)においても、もともと野球は「スモールベースボール」(スモールボール)こそが好ましいプレースタイルとされていた。スポーツライター・玉木正之氏『プロ野球の友』(1988年)に所収の「4番打者論」には、以下のような記述がある。
 アメリカのベースボール〔野球〕も、かつては……〈短打主義〉と、バント、ヒットエンドラン、スチールといった細かい作戦〔スモールベースボール〕が正統とされていた。ベーブ・ルースが投手としてデビューした1914年の新聞には、スポーツ欄のバッティング記録に、打率、犠打数、盗塁数の記載はあっても、ホームラン数など記録されていなかったくらいなのだ。さらに、ベースボール〔野球〕の正統派を自認するスポーツライターたちは、ホームランを姑息な手段と断じ、ホームランが増えれば作戦の面白さが失われ、野球が堕落すると警告し続けていた。

玉木正之「4番打者論」@『プロ野球の友』279~280頁
朱太字部分は原文では傍点(次の引用文も同じ)


プロ野球の友 (新潮文庫)
玉木 正之
新潮社
1988-03


 例えば、この「スモールベースボール」時代の、アメリカ大リーグ野球のスター選手が「球聖」ことタイ・カッブであった。玉木氏はさらに続ける。
 ところが、ベーブ・ルースが打者に転向し、1918年に11ホーマーの新記録(それ以前の記録は8ホーマー)、19年にファンの肝を抜く29ホーマーを打って、事態は一変した。白球が空高く舞い上がる美しさに対して、一般大衆が圧倒的な拍手で歓迎の意を表し、保守派の理屈は敗れ去ったのである。そして1920年に〔MLBの2大リーグのうち一方の〕アメリカン・リーグはボールの反発力を高めた〈飛ぶボール〉〔ライブボール〕の使用を決定。ルースが、その年54ホーマーを放ち、大リーグ〔MLB〕は、ホームラン時代、強打者〔スラッガー〕時代、「4番打者」〔クリンナップ・ヒッター〕による〈英雄時代〉の幕を開けたのだった。

 しかし、〔東京〕六大学野球の〈精神主義〉と〈短打主義〉のため、この大リーグの時代の流れは、一部の野球ファンの胸をときめかせただけで、日本の野球界にはまったくといいほど影響を及ぼさなかったのだ。

玉木正之「4番打者論」@『プロ野球の友』280頁
 しかし、この辺の事情は、野球ファンとしても有名な米国人の古生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドの、これまた有名な科学評論「妥当な打者~四割打者の絶滅と野球技術の向上」(『フルハウス~生命の全容』所収)を読むと少し違う。

 それによると……。保守的なアメリカ野球界は、ベーブ・ルース台頭による「ホームラン時代」の到来を苦々しく思っており、本来であれば思慮深いルール改正を行って、これにストップをかけていたであろう。だが、当時は米国球界を揺るがした八百長スキャンダル「ブラックソックス事件」の最中であり、米国球界は人気回復のために大衆迎合路線を取らざるを得ず、これを許容してしまった。

 だから「スモールベースボール」は下火になっていった……というのだ。

 これをもって、グールドは「タイ・カッブもうんざり」と書いている。

ベーブ・ルース(左)とタイ・カッブ(1920年)
【ベーブ・ルース(左)とタイ・カッブ】

 米国と地続きではない日本で、かつサッカーやラグビーのような英国系球技のような活発な国際交流もない野球のようなスポーツ(後述)で、日本野球が単純に「ホームラン時代」へと移行しなかったのは、むしろ当然と言える。

 ちなみに、米国人の日本野球観と言うと、ホワイティング氏のようなステレオタイプと偏見に満ちたものばかりと思われがちだが、そうでもない。この故グールド教授や、『虎とバット』の著者ウィリアム・W・ケリー教授(イェール大学,文化人類学,日本研究)のように、歪みのない「まなざし」で日本野球をとらえる人もいる。

虎とバット 阪神タイガースの社会人類学
ウィリアム・W・ケリー
ダイヤモンド社
2019-06-20



プロ野球観戦学
時事通信社
1999-07


 すなわち「日本型スモールベースボール」の起源のひとつとして、米国にあった「スモールベースボール」が、変容しつつも保存されていたという仮説も成り立つのである。

セイバーメトリクスによる「送りバント」批判は机上の空論(?)である
 あらためて、なぜイタリア・サッカーの「カテナチオ」には悪いイメージがなく、なぜ「日本型スモールベースボール」には悪いイメージがついて回るのか。

 要するに、サッカーにはオーソライズされたナショナルチーム(代表チーム)による国際試合や世界大会(FIFAワールドカップ=W杯)があるけれども、野球にはそのような国際試合や世界大会が存在しないからである。

 イタリア・サッカーは昨今こそ低迷気味とはいえ、何のかんの言ってもW杯で優勝4回。勝負強いサッカーのドイツには不思議と強く、華々しいサッカーのブラジルの攻撃をガッチリ受け止めては、しばしばこれらのサッカー大国に勝ってきた。だから、守備的だろうが勝利至上主義だと言われようが、イタリアのサッカーは世界的な敬意を受ける。

 一方、野球には「ワールド・ベースボール・クラシック」(WBC)なる、ナショナルチーム同士の対戦による世界大会があることにはあるし、日本はこの大会を、第1回(2006年)、第2回(2010年2009年)と連覇はしている。

 しかし、WBCは、権威づけられた大会ではない。第1回開催が21世紀に入ってからと、歴史的に遅く始まったためもある。しかし、それ以上に、WBCの事実上の「主催者」であるところの「アメリカ大リーグ」(MLB)に、WBCを権威的な大会にしようという姿勢がまったく見られないためでもある。だから、日本野球は国際的な評価を受けることは少ない。

 従来の打率や打点、防御率といった従来の野球の指標より、さらに精緻な統計である「セイバーメトリクス」の観点から分析しても「送りバント」は、やはり不合理な戦法だという指摘=批判もある。
  • 参照:菊田康彦「送りバントは〈消えゆく戦術〉なのか!? MLBで激減する理由を探る」2017年9月14日
 敢えて言うが、「実践」もないまま、こうした議論をいくら積み重ねても所詮は「机上の空論」にすぎない。「実践」とはひっきょう「オーソライズされたナショナルチームによる国際試合,世界大会」のことであり、その「場」において有効性なり無効性なりが「実証」されないかぎり、日本野球から送りバントが減ることはない。

各国ごとの「多様性」を認めないアメリカ・メジャーリーグ
 繰り返すが、イタリア・サッカーの「カテナチオ」に悪いイメージがないのは、サッカーというスポーツが、プレースタイルや観戦文化などで「多様」な在り方を併せ呑み、かつW杯などナショナルチームの「実践」の場において有効性が「実証」されていたからである。

 翻って「日本型スモールベースボール」にどこか後ろめたいイメージがついて回るのは、野球というスポーツがアメリカ大リーグ(MLB,メジャーリーグ)の流儀以外を「異端」と見なす風潮があり、かつWBCなどナショナルチームによる国際試合や世界大会がオーソライズされておらず、「実践」の場として機能していないからである。

 日本の野球ジャーナリズムでは、日本がアメリカと違っていると、そのこと自体がスポーツとして犯罪的に間違っていることにされてしまう。しかし、それは世界的で多様な「サッカー」的な視座からすると、ずいぶんとおかしな話である。

 独善的な一国主義で視野狭窄的なアメリカ野球界、そして米国人のロバート・ホワイティング氏には、そうした問題性は理解できないのであろう。

(了)



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