今年2020年9月、文化人類学者・今福龍太氏の『サッカー批評原論~ブラジルのホモ・ルーデンス』が上梓された。2008年11月刊行『ブラジルのホモ・ルーデンス~サッカー批評原論』の改訂版である(しかし需要があるねぇ,今福龍太氏のサッカー談義って)。
今福龍太氏自身が認めていることだが、氏の「サッカー批評」に先行するものとして、蓮實重彦氏(草野進名義も)やセクハラ親父・渡部直己らの「野球批評」やらがあった。
この種の、現代思想やそれに触発された文芸批評に乗じたスポーツ評論というのは、あくまで狭い内輪の「お約束事」の世界に過ぎないのだが、しかし一方、どうしたって褒めちぎらなければならないと思っている人が、悲しいことに一定数いる。例えば、蓮實重彦氏の忠実な精神的下僕であった玉木正之氏はそうであった(一応過去形)。
さらに、その玉木正之氏の稚拙なフォロワーであった広尾晃氏(筆名,濱岡章文名義も)もそうである。氏は、自身のブログに蓮實重彦グループの「野球批評」を称揚する、かしこぶったエントリーを書いた。
- 参照:広尾晃「〈野球を楽しむ〉ということ/野球史」(2015年02月27日)〔http://baseballstats2011.jp/archives/43567762.html〕
面白かったのは、広尾晃氏のかしこぶった様子に追従(ついしょう)するかしこぶったコメントであふれかえる中で、ハッキリと「それは違う」と指摘するコメントが掲載され、広尾晃氏と罵倒しあう場面があったことだ。
10. ブンブンブロッサムⅡ世(仮)
2015年02月28日 12:18野球の楽しみ方は人それぞれでしょう。牛肉ひとつとっても調理法は様々で、普遍的な回答は存在しません。そりゃ素材の味を楽しめる美食家の方々からすれば、濃いソースを塗りたくる連中のことなど理解できないかもしれませんが、すき焼き食べているところに「お前のそれは牛肉ではない」と海原雄山みたいなこと言われれば気分よくないですよね。ということで謝ってください。11. 広尾 晃
2015年02月28日 12:22ブンブンブロッサムⅡ世(仮)さんぼんやりしたクレーマー、ということですかね。誰に謝るの? あなたは誰?12. ブンブンブロッサムⅡ世(仮)
2015年02月28日 12:59違います。私に謝ってください。贔屓チームへの執着やタイトル争い、技術論、戦略論なくして今日のプロ野球はありません。これらは間違いなく「野球の楽しみ方」です。ブンブンブロッサムⅡ世(仮)ですが。13. 広尾 晃
2015年02月28日 13:08ブンブンブロッサムⅡ世(仮)さん何をしている人か知りませんが、いきなり人のサイトに上がりこんで、謝れとは。「痛い人」ですか? 謝りません。せめてサイト名くらい出さないと。
このやり取りには笑ったが、本当にそうである。実に見事で辛辣なコメントであり比喩である。
たしかに、蓮實重彦氏(草野進)とは「すき焼き食べているところに〈お前のそれは牛肉ではない〉」と凄んでいる「海原雄山」である。
さらに突っ込んで「お前のそれは牛肉ではない」とは、どういう意味なのか?
ラグビーライター・藤島大氏が蓮實重彦氏(草野進)と玉木正之氏のスタンスを皮肉っているコラムがあり、それがヒントになる。<2>
よく「勝敗ばかり追うスポーツ・メディアは下等だ」式の批判が、「スポーツライター」を名乗る者〔玉木正之氏〕からも展開される。あれは嘘である。1980年代、他分野の一級批評家〔蓮實重彦氏=草野進〕が余技に遊んだ「ゲームそのものの美こそが絶対」の視点を、ナイーブにも真に受けた。スポーツ・メディアが下等なのは、勝敗ばかりを追うせいでなく、追い方が拙いからだ。「ばかり」の限度はともかく、勝つか負けるかは、どうしたってスポーツの醍醐味なのである。藤島大『スポーツ発熱地図』141~142頁
「お前のそれは牛肉ではない」とは、「勝敗ばかり追うスポーツ・メディアは下等だ」という蓮實重彦氏(草野進)流のスポーツ評論の比喩である。
また「素材の味を楽しめる美食家」と「一級批評家……ゲームそのものの美こそが絶対」が対になる。
また「素材の味を楽しめる美食家」と「一級批評家……ゲームそのものの美こそが絶対」が対になる。
「勝つか負けるかは,どうしたってスポーツの醍醐味」とは「贔屓チームへの執着やタイトル争い,技術論,戦略論」に相当する。
これも藤島大氏が『スタジアムから喝采が聞こえる』の中で書いていたことだが、「狐の書評」の筆名で知られた山村修氏も「〔野球人・三原脩のような〕本物の勝負師の自伝は例外なく面白い。〈スポーツを種に知的な批評を装って自らを輝かせようとする文芸評論家の書きものなど〉とは迫力がちがう」と『狐の書評』(本の雑誌社)で書いていたようだ。
蓮實重彦氏(草野進)や、その亜流のスポーツ評論は、「スポーツを種に知的な批評を装って自らを輝かせようとする文芸評論家の書きものなど」に過ぎない(今福龍太氏は違うと言うかもしれないが,まぁ同じである)。
【ミシェル・フーコー:写真と本文は関係ありません】
「ゲームそのものの美こそが絶対」とは、あくまで文学・思想偏愛者向けの特殊な感性に訴えかける広義の「文学作品」である。この種の著作に肌が合わなかったら読まなくていいし、惑わされなくていい。
そういう人には、他に読むべき本があり、観るべきスポーツがあるからだ。
(了)
【註】
<1> この『世紀末のプロ野球』の書名を見るたびに思うのだが、これは誤用であり、『終末のプロ野球』と呼ぶのが正しいのではないか。
ちなみに、今福龍太氏は1990年代から「世界的なサッカーの終末」(黄昏という表現を多用するが)を、綿々と煽り続けている。
<2> サッカーや野球が現代思想系スポーツ評論に汚染されていった中で、ラグビージャーナリズムは意外に免疫があった。
引用文中にある「どうしたってスポーツの醍醐味」は、蓮實重彦氏(草野進)の著書『どうしたって、プロ野球は面白い』の書名のパロディである。
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