はじめに…
 当エントリーを全部読むのが面倒だと言う人は、途中の小見出し「▼日本のスポーツ選手の多くは早慶両大学の学生だった!?」の以降から読み始めていただいてかまいません。

 これからしばらく、「日本のスポーツ史において,サッカーは,野球だけでなく,ラグビーにも人気で後塵を拝していたこと」や、「日本のサッカー論壇で重きをなしていた佐山一郎氏が,そのことで繰り返し劣等感を吐露してきたこと」を、しつこく具体例で示していくからであります。

日本サッカー黎明史の悩ましさ
 西暦2021年は、公益財団法人日本サッカー協会(JFA)の創立100周年に当たる。JFAをはじめ、これを記念したサッカー本もいくつか刊行されるだろう(大住良之氏や後藤健生氏は何か執筆しているのだろうか?)。

 当然、日本サッカーの歴史も話題にするのだろうが、ここでひとつ悩ましい問題が出る。日本のスポーツでは、サッカーより野球の人気の方がはるかに先行してしまったことである。それはなぜか? この疑問と解答については、当ブログはさんざん言及してきたので、あらためては採り上げない。

 少なくとも、野球の持つ固有のゲーム性が、サッカーの持つ固有のゲーム性よりも、日本人の固有の歴史・文化・精神・伝統に適っていたなどという俗説は、すべてデタラメである。サッカーファンは、そこは安心していい。

ラグビーより人気がなかったサッカーの悩ましさ
 ところが、さらにもうひとつ悩ましい問題が登場する。日本のスポーツ史では、Jリーグが登場するまでは(~1993年)、サッカーは野球だけでなくラグビーよりも人気が無かったのである。

 長らく日本のサッカー論壇で重きをなしてきた佐山一郎氏は、そのことを事あるごとに嘆いてきた。一例として、日本サッカーのプロリーグ(現在のJリーグ)の構想が明らかになった1991年初め、野球専門誌『ホームラン』(日本スポーツ出版社)で書いている。
佐山一郎「それでも野球は王様だ!」
 あまり言いたくないのだが、〔19〕60年代半ばから10年余り続いた杉山〔隆一〕-釜本〔邦茂〕人気だけが、突然変異で、戦前からサッカーは、相撲、六大学野球、大学ラグビーなどに比べて人気の面ではるかに劣っていた。つかこうへい〔劇作家,演出家,小説家〕さんがいつか書いていたように、ちょっとうつむいているうちに1点だけ入って、それっきりみたいな狩猟民族のための非物見遊山的競技〔=サッカー〕は日本人には合わない。〔以下略〕

『ホームラン』1991年2月号より

『ホームラン』1992年2月号(2)
【Jリーグ以前の日本サッカーの光景@『ホームラン』1991年2月号より】

佐山一郎氏(ホームラン1991年2月号)
【佐山一郎氏@『ホームラン』1991年2月号より】
 日本古来の格闘技・相撲(大相撲)を別として、明治時代になって舶来した日本の球技スポーツには「野球>ラグビー>サッカー」という序列があった。

 佐山氏は、その理由を、サッカーの持つ固有のゲーム性が、日本人の固有の歴史・文化・精神・伝統に適っていなかったから……という自虐的日本サッカー観で説明していたのである。

スポーツ誌『文春ナンバー』から読み取るラグビーとサッカーの格差
 1990年代に入るまで、日本ではサッカーよりもラグビーの方が人気が高かったことを「証明」することは、そんなに難しい話ではない。文藝春秋の総合スポーツ誌『スポーツグラフィックナンバー』(文春ナンバー)の1980年創刊以来のバックナンバーをず~っと辿(だど)っていくと、そのことがよく分かる(下記リンク先を参照)。
 もっとも、『文春ナンバー』は実態以上にラグビーに肩入れし、実態以上にサッカーを軽視・冷遇している雰囲気はあったが。


 それはともかく、1989年から1991年にかけて、国際舞台における日本代表の活躍度でもサッカーはラグビーに差を付けられていた。ラグビー日本代表はアジア太平洋予選を突破して、1991年に英国・アイルランドで開かれたラグビーW杯本大会に出場しており、アジアの下で停滞していた当時のサッカーファンを嫉妬させている(下記リンク先を参照)。
 リアルタイムで「Jリーグ以前」を知らない世代のサッカーファンは、いろいろと信じられない情況かもしれない。

戦前のモダン雑誌『新青年』から読み取るラグビーとサッカーの格差
 それでは、1980年以前、特に明治・大正から昭和戦前にかけての日本のスポーツ人気事情はどうだったのか? これについては、佐山一郎氏の数々の言及が「傍証」になる。例えば、1998年、サッカー日本代表が初めてW杯本大会フランス大会に出場した直後(日本代表は1次リーグ3戦3敗)の、佐山一郎氏の随感から……。
佐山一郎「極私的ワールドカップ報告」
 なぜ日本代表は〔1998年フランスW杯その他で〕勝てないのかを考えることはむろん大切だが、決定的に欠けているのは、なぜ日本人の多くがこれまでサッカーを必要としてこなかったかの考察である。

 それはパックス・アメリカーナの傘という角度や地理的条件〔島国ニッポン?〕だけで語りきれるものでもないような気がする。おそらくは〔日本人の〕深層というところで何かしらの反発が受容の妨げになってきたに違いない。

 ラグビー、野球、オリンピックでの成功を頻繁にとりあげた戦前のモダン雑誌『新青年』がまったくといっていよいほど、サッカーに興味を示さなかったことも気になる。わずかに裏表紙の明治チョコレートの広告のさし絵として登場するだけというのも不可思議である。

『サッカー細見'98~'99』94頁

サッカー細見―’98~’99
佐山 一郎
晶文社
1999-10-01


 またしても佐山一郎氏が大好きな自虐的日本サッカー観である。ところで、ここで『新青年』という雑誌の名前が出てきた。どんな性格の雑誌だったのか、ウィキペディア日本語版の記事を参考に確認しておく。
新青年(日本)
 『新青年』(しんせいねん)は、1920年に創刊され、1950年まで続いた日本の雑誌。

 1920年代から1930年代に流行したモダニズムの代表的な雑誌の一つであり、「都会的雑誌」として都市部のインテリ青年層の間で人気を博した。

 現代小説から時代小説まで、さらには映画・演芸・スポーツなどのさまざまな話題を掲載した娯楽総合雑誌であった。

ウィキペディア日本語版「新青年(日本)」より抜粋(2020年7月11日閲覧)
 同じくウィキペディア日本語版には、現在『新青年』誌の商標権を保有しているのが佐山一郎氏だと記してある(2020年7月11日閲覧)。だから、この雑誌への言及が多いのだ。

 大正から昭和戦前にかけては『新青年』を見れば、戦後1980年以降はインターネットで公開されている『文春ナンバー』の表紙と目次(前掲)を見れば、日本における人気スポーツ事情は大まかに理解できようというものである。

 佐山一郎氏は、サッカー論壇からの引退作と自ら公言している『日本サッカー辛航紀』(光文社新書)にも、雑誌『新青年』とサッカーについて触れている。
佐山一郎「第1章 戦争から東京オリンピック前夜」
 戦前の大学ラグビーは、半ばプロ化していた東京六大学野球の比ではなかったが、大衆のウケはよかった。ラグビーには、サッカーにはない相撲のぶちかましの要素〔?〕がある。戦前人気を博した都会派モダン雑誌「新青年」のスポーツ関連記事を調べて驚いたのは、サッカーに関するものがまるで見当たらないことだ。編輯〔へんしゅう〕部員の好き嫌いの問題だけでもなさそうだった。

佐山一郎『日本サッカー辛航紀』31~32頁

 戦前は『新青年』に無視され、戦後は『文春ナンバー』に無視され……。日本のスポーツ史においては、醜いアヒルの子だったサッカー。やはり、サッカーが持つ固有のゲーム性は、日本人の日本人の固有の歴史・文化・精神・伝統に適っていない。

▼日本のスポーツ選手の多くは早慶両大学の学生だった!?
 それは今なお、ドーハの悲劇、決定力不足、あるいは「ロストフの14秒」からの逆転負け……。日本サッカーに「本質主義的」な悪い影響を与えている???

 佐山一郎氏が日本サッカーの話をすると、こんな風に否定的で悲観的で自虐的な方向に話が傾きがちだ。しかし、氏は「農耕民族の日本人は米飯と味噌汁を食べているからサッカーが弱くなる」などというトンデモ話を『BRUTUS』誌に書くような人であるから、本気にしてはいけない(次のリンク先を参照)。
 それはともかく、野球はともかく、サッカーよりラグビーの方が人気があった事実については、長い間よく分からなかった。しかし、意外なところからヒントが出てくる。2018年刊行の『スポーツの世界史』(一色出版)である。

 この本は、スポーツを研究テーマにした学者たちによる、650頁を超える浩瀚なアンソロジーだ。編者は、専門家向けの論文集でも、また事典や教科書でもなく、読み物として面白い一般読者向けの「スポーツで読む世界史」を目指したという。

 何より、一定のクオリティを保った上で、英・仏・独・西・東欧・露・米・カリブ・南米・豪・アフリカ・イスラム・印・アジア・中・朝韓・日……といった、世界各国・各地域・各文化圏のスポーツ史・スポーツ文化を大づかみに読めるのは、なかなか有難い。

 日本の担当は、一橋大学大学院・坂上康博(さかうえ・やすひろ)教授である。その中に気になる記述があった。
坂上康博「第21章 日本:スポーツと武術/武道のあゆみ150年」
 明治になってどんなスポーツが輸入され、人気を得たのだろうか? それを知るには、当時の学校をのぞいてみるのが一番だ。学生たちこそ、スポーツと出会うチャンスを最初に掴んだ、日本におけるスポーツのパイオニアだった。

 スポーツは、学校体育(体操科)の教材としても採用されていくが、中等学校や師範学校では、体操と教練(兵式体操)に重点が置かれていた。学生たちがスポーツに多くの時間と情熱を注いだのは、放課後に行なわれた運動部活動である。その中からやがてオリンピックなどの国際的な舞台で活躍する選手も生まれていった。

 戦前、1912年から36年までに日本は計6回夏季オリンピックに参加し派遣された選手は計389人にのぼるが、うち258人(66%)が学生であり(略)、その半分以上が早稲田、慶応、明治の3大学の学生で占められている。これらの学校の中で最も早く体育会を設立した慶応を中心にして、どんなスポーツがいつ行なわれるようになったのかを見てみよう。〔下線部は引用者による〕

『スポーツの世界史』535頁
 つまり、ごくごく大雑把な計算をすると、全体の5分の1から4分の1もの割合で「日本のスポーツ選手」は早稲田大学か慶應義塾大学の学生だったということになる。これに加えて、オリンピックの正式種目ではないが、日本で絶大な人気を誇った「野球」がある。戦前期日本において、日本で最も注目されるスポーツイベントが「野球の早慶戦」だった。

 日本のスポーツ界における早慶両大学の地位の高さが、こうした情報からも分かる。

早慶両大学ではサッカー部よりラグビー部の方が歴史が古かった!?
 これとは別に、ひとつ意外だったのは、慶應義塾・早稲田両大学とも、サッカー部よりもラグビー部の歴史が古かったのである。まずは両大学のサッカー部とラグビー部の正式名称と創立年を示していく。
慶應義塾大学
 慶應義塾では、ラグビー部を「蹴球部」、サッカー部を「ソッカー部」と呼ぶ。soccerのカタカナ表記が定着していなかったこともあって「ソッカー」である。慶應義塾大学はラグビーをいち早く取り入れた、日本ラグビーのルーツである。ラグビー部を「蹴球部」と呼ぶことについても、そうした伝統が表れているようだ。
早稲田大学
 一方、日本のサッカーの直接のルーツは、筑波大学(当時の東京高等師範学校=東京高師,のちに東京文理大学,東京教育大学を経て,筑波大学)である(明治初年の海軍兵学寮や工部大学校のフットボールは「前史」という解釈でよい)。ちなみに、筑波大学ではサッカー部のことを「蹴球部」(創立1896年=明治29)と呼ぶ。

 ちなみに、旧制第三高等学校(戦後,京都大学に再編)では「蹴球部」といえば事実上ラグビーのことであり、同じく第六高等学校(戦後,岡山大学に再編)で「蹴球部」といえばサッカーのことであったという(この知識は,佐山一郎氏の『日本サッカー辛航紀』から得た)。

早慶戦における「ラグビー」が持つ意味の重さ
 早稲田大学のラグビー部の創立のキッカケは「好敵手である慶應義塾さんがやっているスポーツだから,ぜひ早稲田でもやろう」ということだったらしい。これは早稲田大学ラグビー部の長老であり、日本ラグビー界の長老でもある日比野弘氏の証言である(何かのテレビ番組でそう発言していた)。

 日比野弘氏は、『早稲田ラグビー史の研究~全記録の復元と考察』(早稲田大学出版部)や、『日本ラグビー全史』(ベースボール・マガジン社)といった歴史書(大型本)の編纂にかかわった人であり、この話にはそれなりに信憑性があると思う。

早稲田ラグビー史の研究―全記録の復元と考察
日比野 弘
早稲田大学出版部
1997-12T


日比野弘の日本ラグビー全史
日比野弘
ベースボール・マガジン社
2011-06-17


 それならば「早慶戦」をやろうということになる。ところが、実はこの当時、あらゆるスポーツ競技で「早慶戦」は禁止されていた。1903年(明治36)に始まった野球の早慶戦は、1906年(明治39)に両大学の応援合戦が過熱化、騒擾問題を起こし、試合は中止。そのまま定期戦も中断するはめになる。両大学の仲は険悪になり、体育会の交流は断交状態になっていたからである。

早慶戦の謎―空白の十九年
横田 順弥
ベースボール・マガジン社
1991-07T


 そんな中にあって、1922年(大正11)、最初のラグビー早慶戦は敢行された。この辺の事情は、ラグビー評論家・中尾亘孝(反サッカー主義者としての悪名も高い)が、自著『おいしいラグビーのいただきかた』(徳間書店)で書いている。
中尾亘孝「応援は清く正しく美しく」
 第1回ラグビー早慶戦は大正11年〔1922〕11月23日に開かれました。明治39年〔1906〕以来途絶えていた全競技の早慶戦復活の先鞭をつけました。学校当局の反対を無視して挙行された点でラグビー精神を充分発揮したと言えます。応援に当たって、
  1. 拍手以外の応援厳禁
  2. 学生は制服制帽
  3. 和服のものは袴をはくこと
 というルールが設けられ、これが現在〔この本の刊行は1989年〕の刊行にも多少の影響を与えているようです。<1>

『おいしいラグビーのいただきかた』65頁

中尾亘孝『おいしいラグビーのいただきかた』(1989)表紙
ラグビー・ウォッチング・クラブ
徳間書店
1989-11T


 世界的にも、サッカーと比べてラグビーの観戦・応援文化は抑制的なところがあったが、日本のラグビーの観戦・応援文化はさらに抑制的であった。それはこうした理由からかもしれない。

 とにかく、ラグビーが早慶戦を「学校当局の反対を無視して挙行された」ことが、長らく中断していた野球その他の早慶戦復活の契機のひとつになっていく。それだけに、早慶戦の中でもラグビーの試合の持つ意味は大きい。

 またラグビー早慶戦は、関東におけるラグビーの最初の国内チーム同士による対戦である(関西には,京都の同志社大学や第三高等学校といった対戦相手があった)。

早慶両大学への普及が遅れたサッカー
 その頃、日本のサッカーは何をやっていたのかというと、現在の筑波大学の前身・東京高等師範学校で蹴球部=サッカー部が創立されたのが、創立1896年(明治29)。慶應義塾のラグビー部創立1899年(明治32)よりは少し早い。しかし、既に野球は全国的に普及し始めていたので、サッカーとラグビー、どっちが早いかという争いは、ここではほとんど意味がない。

 サッカーにおける国内チーム同士の最初の試合は、1907年(明治40)11月16日の東京高等師範学校vs青山師範学校(東京学芸大学の前身)が最初。その8日後の11月24日に東京高等師範学校vs慈恵医院(東京慈恵会医科大学の前身)であるとされる。

 筑波大学は数多くの人材を日本サッカーに送り出しているし、東京学芸大学は、元日本代表・岩政大樹選手の出身校である。しかし、悪い言い方になるが、筑波大学vs東京学芸大学では、早慶戦や英国のオックスフォード大学vsケンブリッジ大学、あるいは米国のハーバード大学vsイェール大学のような、大学スポーツとしての華やかな印象には欠ける。

 日本で長らくサッカーよりもラグビーの方が(特にマスコミの扱いという意味で)人気が高かった理由が、なんとなく分かってきた。サッカーは早慶両大学への普及がラグビーよりも遅れたからである。
  •  慶應義塾大学と早稲田大学は、日本の私立大学の両雄である。
  •  慶應義塾大学と早稲田大学はスポーツも盛んで、戦前の夏季オリンピック日本代表選手全体の5分の1から4分の1もの割合で、慶應義塾大学か早稲田大学の学生であった。
  •  野球をはじめとする早稲田大学vs慶應義塾大学のスポーツの試合「早慶戦」は、戦前期日本におけるスポーツの花形であった。
  •  日本におけるラグビーは1899年(明治32)に慶應義塾大学で始まり、関東では少し遅れて早稲田大学がこれに続いた。
  •  ラグビー早慶戦の始まりは、諸般の事情で断交状態になっていた野球その他のスポーツの「早慶戦」復活の呼び水となった。
  •  したがって、さまざまな「早慶戦」の中で、ラグビー早慶戦は、競漕(ボートレース)と並んで、野球の早慶戦に次ぐ重要な地位にある。
  •  実質的に東京高等師範学校(現在の筑波大学)から始まった日本のサッカーは、早慶両大学への普及がラグビーよりも遅れた。
  •  だから、慶應義塾大学と早稲田大学が注目される戦前期日本のスポーツ報道にあって、サッカーよりラグビーの方が人気が出るのは当たり前である。
  •  当時のスポーツ報道のひとつであるモダン雑誌『新青年』でも、ラグビーよりサッカーの扱いが低くなるのは当然である。
早慶両大学のラグビー部&サッカー部
[左上から時計回りに]慶應義塾大学ラグビー部、早稲田大学ラグビー部、早稲田大学サッカー部、慶應義塾大学サッカー部
 箇条書きでまとめてみると、以上のような形になる。こうやって、たしかな理由を推理していくと、戦前から戦後のある時期まで、日本のスポーツ界でラグビーの方がサッカーよりも人気があったことに、佐山一郎氏のように逐一卑屈になる必要はないのである。

来たる2021年…新しい日本サッカー史観の確立を
 その代わりと言っては何だが、日本のサッカーは、野球に匹敵するほど全国的に普及することができた。東京高等師範学校のサッカー、慶應義塾大学のラグビー。どちらもエリート校であるが、このルーツ校の違いは全国の普及度、競技人口の差となっている。

 要するに師範学校とは、要するに学校の先生(教師)を要請する高等教育機関である。東京高師~筑波大学のOBたちは、教師として赴任した全国の学校(旧制中学など)でサッカー部を創ることを自らの使命とした……。以前の筑波大学蹴球部(サッカー部)の公式ウェブサイトには、実際こんなことが書かれてあった。

 戦前の「全国中等学校蹴球選手権大会」(現在の全国高等学校サッカー選手権大会の前身)の、歴代の上位進出校(ベスト4)を見ても、○○師範学校という名前が多い。この辺は、サッカーが東京高師から始まったことと関係があるのかもしれない(今後の研究成果を期待します)。

 対して、ハイカラな慶應義塾のOBには、あくまでステレオタイプであるが、草深き田舎に仕(つかまつ)ってまで、ラグビーの普及に勤(いそし)しむというイメージが涌(わ)かない。例えば、東北の強豪・秋田県にラグビーを伝えたのは、京都・第三高等学校OBの炭鉱・冶金の技術者だと聞く。慶應義塾のOBではないのである。

 そのためか、21世紀の現在では、県単位でラグビーの存続も危うい地方もあるほどだ。

 この全国的な普及度の違いは、後代のJリーグの創設に大きな意味を持って来る。

 反面、ラグビーは、W杯創設と脱アマチュアリズム=プロ化の波に乗り遅れ、しばらく低迷することになる。これは戦前からのラグビー人気の後遺症である。

 とまれ、繰り返しになるが、2021年はJFAの創立100周年に当たる。これを記念した刊行物もいくつか出るだろう。そこでは、これまでのような自虐的日本サッカー観に陥らない、新しい日本サッカー史観の確立が期待される。

(了)





【註】
 <1> 同書同頁で、著者・中尾亘孝は「水原リンゴ事件」が野球の早慶戦の中止・断交の原因なったと書いている。だが、もちろんこれは、時代が違う全く別の事件で、著者の大いなる勘違いである。

中尾亘孝2
【中尾亘孝】(本当の学歴は早大中退らしい)

 版元の徳間書店の編集や校正・校閲が見逃してしまったまま、間違いが世に出てしまったことになる。昔の「早慶戦」にはそれだけトラブルも多かったという傍証にはなろうか?