玉木正之氏は「日本人は〈スポーツ〉の本質に無知である」と、読者=スポーツファンを煽る。しかし、一方、玉木正之氏のことを「自分にとって都合のいい結論のために史実を歪曲するスポーツライター」と辛辣に批判したのは、ラグビー史研究家の秋山陽一氏であった。

 この著作『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』も、また、そうした史実の歪曲の例に枚挙いとまがない。

 したがって、一例に過ぎないけれども、ここでは玉木正之氏が熱烈に支持する「豊かなスポーツ文化は非暴力を旨とする民主主義社会でなければ生まれない」という、ノルベルト・エリアス(社会学者,哲学者,詩人.英国籍のユダヤ系ドイツ人)の持論を疑う。

 玉木氏がエリアス説に執心するのは、日本スポーツ界(体育界?)における「体罰」の悪弊を批判する裏付けにしたいという「都合」があるからだ。だが、エリアス説もあくまで諸説のひとつにすぎないし、私たちが簡単に入手できる知識からは、エリアス説とは違ったスポーツの史実がいくつも出てくる。すなわちエリアス説は疑わしい。

 イングランドのサッカー協会(The F.A.)の創設は1863年(文久3)、同じくイングランドのラグビー協会(R.F.U.)の創設は1871年(明治3)。英国で近代スポーツが形成される19世紀中期~後期は、同国でより民主的な議会政治の確立を目指した、労働者階級による普通選挙権獲得運動「チャーチスト運動」(1830年代~1850年代)が挫折した少し後である。

 あるいは、英国では近代スポーツが確立する少し前まで、人vs人(素手で殴り合うボクシングなど)、動物vs動物(闘犬,闘鶏など)、人vs動物(人が鶏をいたぶる鶏撃ちなど)、流血や殺生を伴う野蛮で暴力的な娯楽を「スポーツ」と呼んでいた(この辺の事情は松井良明著『近代スポーツの誕生』に詳しい)。

 はたして、これで「豊かなスポーツ文化は非暴力を旨とする民主主義社会でなければ生まれない」と断言できるのか。玉木正之氏は、ノルベルト・エリアス説の都合のよい部分を抜き出したに過ぎないのではないか。

 また、玉木正之氏は、明治時代(1868~1912)に「柔術」という武術(格闘技)が「柔道」という武道(格闘技スポーツ)に生まれ変わった理由を、むりやり民主主義と結びつけるために、明治維新スタート時の「五箇条の御誓文」(!)を持ち出す。

 しかし、明治とは基本的に「有司専制」の時代だったのであって、議会政治(帝国議会)も、その後半から始まった限定的な国民の政治参加でしかない。その帝国議会すら政権は天皇大権の下で超然内閣の形をとることが多かった。そうでなければ、なぜ明治~大正期に自由民権運動や大正デモクラシーといった大衆運動が起こるのか理解できない。

 議会政治と民主主義(民主政治)が起源や成り立ちが別であり、議会が必ずしも民意を反映しないことは、少し学べば分かるものだが、玉木正之氏は持論を力説するために、両者を混同してしまっている。

 つまり、この著作『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』もまた、玉木正之氏のご都合主義的なスポーツ史観・スポーツ文化観が縦横に発揮されたものである。いわゆるスポーツ学の初学者や、スポーツ史・スポーツ文化について深く知りたいスポーツファンが「間違いさがし」をして、知識を深めるために読む。こうした逆説的な読み方をする本としては適切である。

 しかし、反面、このコンテンツを100%鵜呑みにするのは、あまりにも危うい。

 日本のスポーツ界が、さまざま問題を抱えているからと言って、間違ったところから批判しても、かえって間違ったことが起こるばかりである。実際、日本のスポーツ界はそうした混乱が何度か起こっている。そして、度々その混乱に掉(さお)さしてきたのは、他ならぬ玉木正之氏であった。

 だから、秋山陽一氏は玉木正之氏のことを「自分にとって都合のいい結論のために史実を歪曲するスポーツライター」と辛辣に批判したのである。

(了)