はじめに…
 まず、はじめに……。当ブログの趣旨は、ラグビーフットボールというスポーツそのもの、また日本におけるラグビーフットボールそのものを貶めるものではありません。

 かつて、Jリーグ以前、1970年代初めから1990年前後にかけて、国内スポーツシーンにおける人気や日本代表の国際的な活躍の度合いについて、ラグビーがサッカーを上回っていた時期がありました。

日本ラグビー激闘史 2010年 12/8号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2010-11-24


日本ラグビー激闘史 2011年 2/9号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2011-01-26


 サッカーとラグビーは、同じ「フットボール」を祖としています。しかし、片や、サッカーはいち早いプロフェッショナル化やワールドカップ(世界選手権)の創設。こなた、ラグビーは従前のアマチュアリズムの維持や選手権制度の原理的否定(対抗戦思想)……と、大きく思想を異にしていました。

 その当時、一部の心ないラグビー関係者が、ラグビーへの歪んだ愛情のあまり、時勢に乗じて、自身たちとスポーツの在り方に関する考え方が違うサッカーに対し、悪口雑言罵詈讒謗を放つことが間々ありました(逆の例もありましたが)。

 今回のエントリーの目的は、こうした言説の一部をインターネット上に保存し、後学のための覚書とすることです。その意図を斟酌(しんしゃく)の上で、ご笑覧いただけると、幸甚であります。

日本サッカーは未来永劫ワールドカップに出られない!?
前回のエントリーから…
▼絶対に謝らない反サッカー主義者…あるいは日本ラグビー狂会=中尾亘孝の破廉恥(1)[2019年09月10日]

 【1991年】日本サッカーは絶対にW杯本大会に出場できない!→【1997年】ジョホールバルの歓喜→【1998年】俺は間違ったことは書いていない! ……と、卑劣な居直りをした反サッカー主義者&日本ラグビー狂会=中尾亘孝の醜い言動をあげつらう。
 1991年秋、サッカー日本代表(横山謙三監督)が不振にあえいでいた頃、ラグビー日本代表(宿沢ジャパン平尾組)は、アジア・オセアニア予選を突破して第2回ラグビーW杯本大会に進出。国民的な期待を集め、「世界」を相手に善戦・健闘した。

日本ラグビー激闘史 2011年 3/9号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2011-02-23


 ちょうどその頃、ラグビーW杯の話題に当て込んで刊行されたラグビー評論書が、「日本ラグビー狂会」を自称する中尾亘孝(なかお・のぶたか)による『15人のハーフ・バックス~オレたちにも言わせろ!〈ジャパンはこうすれば強くなる〉』だった。

 一方、時を同じくして、20年来の低迷を打破するべく日本サッカー協会(JFA)が国内リーグのプロ化(現在のJリーグ)を発表した。目的は、サッカー人気の再興、そしてサッカー日本代表を強化してワールドカップ本大会に出場させることである。

 中尾亘孝は、悪質な反サッカー主義者でもあり、とにかくサッカーが嫌いで嫌いでしょうがない。特に日本のサッカー(Jリーグと日本代表)には茶々を入れずにはいられない。サッカー日本代表はアジア予選を勝ち進んで、W杯本大会に出場できるのか? 中尾亘孝は『15人のハーフ・バックス』の中で居丈高に答えた。
サッカーはW杯に出られるか
 ……〔日本の〕サッカーがW杯に出られるかどうかという疑問に答えておきましょう。まことにご同情にたえない次第ですが、ノーです。ジャパン〔ラグビー日本代表〕がオールブラックス〔ラグビー・ニュージーランド代表〕に勝つより確率は低いといえそうです。それはどうしてか、現場に限って原因を追究すると、
  1. 日本独自の理論がない。
  2. 人材が揃わない。
  3. 学閥、派閥の足の引っ張り合いが激しい。
 日本サッカー唯一の成功が、メキシコ五輪〔1968年〕銅メダル獲得です。しかし、五輪のサッカーが選手権としてはマイナーである事実は、当のサッカー関係者が一番よくわかっていることです。その上、指導者は西ドイツ(当時)人のクラマー氏でした。ファースト・ステップとしてはこれでいいでしょう。でもその後、日本独自の理論が生まれたという話は聞きません。人材については、決定力のあるプレーヤーが釜本邦茂以来出ていません。現有の数少ない才能〔海外組〕を外国プロ・チームから呼び戻すことすらできません。最後の派閥争いに関しては、ただただお疲れさまというしかありません。

 それでもこうした閉塞状況は、たった一人の天才の出現によって解消してしまうものですから、簡単には見放せないものです。

 当面の大問題をさし置いて、ほとんど無謀ともいえるプロ化に取り組むサッカー協会〔JFA〕は、意外な決断力と実行力を見せてくれました。これほどのリーダー・シップがどうして代表チーム強化の際に発揮できないのか、傍目からはさっぱりわからないのですが、それでも現状改革に心掛けているだけマシです。

 プロ化構想発表から実行までの移行期間が短すぎる点に、ナニやら公表されていない背景がありそうです。とまれここは、大いに手心を加えて前向きに考えてみましょう。サッカー界がこれほどまでに劇的な改革を必要とする理由は「もっと強くなりたい」という願望からなのはだれの目にも明らかなのですから。

 でも、「日本のサッカーをもっと強くして、W杯に出る」――この目標めざして、具体的な戦術、戦略を示さずに、サッカーをプロ化すればいいのだといささか飛躍した結論にとびついたかのように見えることは否めません。こうすれば、あれよあれよという間に、規格外れの天才がどんどん生まれてくるというわけでしょう。〔以下略〕

中尾亘孝『15人のハーフ・バックス』237~239頁


中尾亘孝(プロフィール付き)
【中尾亘孝】(正しい学歴は早大中退らしい)
 サッカーへの敵意丸出しの上から目線にはウンザリさせられるが、さらにこの後、中尾亘孝は「Jリーグは絶対に失敗する」という話を延々続ける(下記リンク先を参照)。

▼サッカー「Jリーグ」は絶対に失敗すると1991年に放言していたラグビー狂会=中尾亘孝(2019年09月14日)

 時勢に乗じた、反サッカー主義者による、まことに傲岸不遜な「ご託宣」であった。

20世紀末,中尾亘孝はすでに「謝ったら死ぬ病」だった
 ところが、周知にとおり、この「ご託宣」は「未来永劫」どころか、1997年11月の「ジョホールバルの歓喜」で、たった6年で覆(くつがえ)されてしまったのである

岡野雅行_ジョホールバルの歓喜
【ジョホールバルの歓喜】

 とにかく横柄が過ぎるこの人物に求められたのは、ラグビーファン、サッカーファン、スポーツファンの読者に対する潔い謝罪であった。ところが、中尾亘孝の取った対応は、読者の予想の斜め上をいくものだった。

 「ジョホールバルの歓喜」後の、中尾亘孝のサッカーに対する本格的な言及は、1998年12月刊行の『リヴェンジ』である。

 「謝ったら死ぬ病」は21世紀に入ってから流行り始めた奇病だと言われているが、次に紹介する中尾亘孝の強弁的言い訳は、この症例が20世紀末(1998年)には既に存在していたことを明らかにしている。
 今を去る7年前〔1991年〕、フットボール・アナリストを自称するおやぢ〔オヤジ=中尾亘孝〕は、「〔日本の〕サッカーは未来永劫ワールド・カップ〔本大会〕には出られない」と断定したことがあります。軽率のそしりはまぬがれない放言であります。周知のように、J-リーグ→ドーハの悲劇→ジョホール・バルの歓喜という風にステップ・アップして、目出たくワールド・カップ・フランス大会に出場したわけです。活字だけでなく、文章も読める人が読めば分かることですがこれには前提があったのです。それは、
  1. 日本独自の理論がない。
  2. 人材が揃わない。
  3. 学閥、派閥の足の引っ張り合い。
 以上の三点がクリアされない限り、世界の檜舞台〔W杯〕には絶対立てないという結論は、今でも正しかった〔!?〕と思っているし、現時点でも同じことを書けば、「4.運、ツキに恵まれる」と、もう一項目付け加える必要さえあるとさえ考えています。

 〔日本〕サッカーの場合、……ヨレヨレヘロヘロの状態だったとはいえ、ワールド・カップ〔本大会〕出場への道を拓いたのだと思う。

中尾亘孝『リヴェンジ』11~12頁(原文ママ)

 要するに、俺は間違ったことは書いていない。それが分からないのは読解力のないお前ら読者がバカだからだ……と、中尾亘孝は見苦しく居直り、責任を転嫁したのだ(こういう憎まれ口を平然と書くのがこの人物の品性の下劣さなのだが)。

読解力がない愚か者は中尾亘孝の方だ
 それならば、先の引用文2本をもう一度読み比べてみよう。中尾亘孝は、1991年の『15人のハーフ・バックス』では、日本サッカーが未来永劫W杯本大会に出場できない「原因」として、例の3か条を挙げている。だが、1998年の『リヴェンジ』では、この3か条は日本サッカーがW杯本大会に出場すらために「クリア」するべき条件だとしている。

 つまり、読者をはぐらかし、ごまかしているのは、中尾亘孝の方だ。

 こんな感じで過去の「ご託宣」の間違い、その「みそぎ」をチャチャっと済ませた(つもりの)中尾亘孝は、今度は『リヴェンジ』で、1998年サッカー・フランスW杯で3戦3敗1次リーグ敗退に終わったサッカー日本代表=岡田ジャパンや日本人サポーターを愚弄し、嘲笑する「ご高説」を垂れるようになったのである(目次のみPDFのデータにしたので参照されたい)。
 こんな言動は、インターネット全盛の21世紀ならば炎上必至である。……そればかりか、個人情報を特定されて、中尾亘孝一個人が報いを受けても、誰からも同情されないという事態すら起こりうる。

日本ラグビーの「接近・展開・連続」理論とは何か
 それでは、あたらめて、中尾亘孝が掲げた例の3か条がどこまで妥当なのか検証してみる。ただし、全部やると長くなるので、1条ずつとする。今回は「1.日本独自の理論がない」である。

 この、中尾亘孝独特の言い回しである「理論」が、ふつうのサッカーファンには分かりにくい。これについては、中尾亘孝自身が定義づけ、言及した箇所がある。
 ……日本チームが外国チームと対戦した時、必ずと言っていいほど〈体格差〉の壁に泣かされてきました。これは他の競技でも同じです。しかしながら時として小さな日本人が大きな外国人を負かすことがあります。一番有名なのは体操とバレーボールです。これはどうしてでしょうか。

 それは体格差の壁を知恵で補ったからです。むしろ体の小さいことをメリットに変えたといった方が適切です。知恵とは、日本独自の理論・戦法のことです。コンビ・バレー、ウルトラCなどがそれです。

 われらがジャパン・ラグビーにも独自の理論があります。小さな者が大きな者に勝つにはどうすればよいのか。〔略〕〈小よく大を制す〉極意の一端に触れてみたいと思います。

中尾亘孝『15人のハーフ・バックス』7~8頁


 ……体操のウルトラC、バレーボールのコンビ・バレーに比すべき独自の理論(弱さを克服する表現)が日本ラグビーにはあるのです。

 それが通称「大西理論」と呼ばれる〈展開・接近・連続〉理論〔原文ママ〕なのです。

中尾亘孝『15人のハーフ・バックス』48頁
 「大西理論」とは、早稲田大学のラグビー指導者・大西鐡之祐(鉄之祐,おおにし・てつのすけ,故人)が考案した戦術、戦法、プレースタイルである。これについては、2019年9月にNHKが素晴らしいドキュメンタリー番組を制作、放送している。
NHK-BS1スペシャル「50年前 日本ラグビーは世界に迫った~伝説のイングランド戦」

 悲願のベスト8入りが期待されるラグビー日本代表。その原点とも言える伝説の試合が、1971年に行われたイングランド代表とのテストマッチである。屈強な外国チームと渡り合うために大西監督が掲げた戦略が「接近」「展開」「連続」。素早いパス回し、鋭く低いタックルでイングランド代表を翻弄した。当時の映像と関係者の証言、さらにニュージーランド取材も加え、伝説の試合を徹底的に分析。ラグビー日本代表の原点を紐解く。*
 または文春ナンバーが、VHSのソフトとして過去にリリースしている。

 これらを見れば「接近・展開・連続」のラグビーについては、多言を要さない。ラグビーファンはもとより、サッカーファンも視聴する価値がある。

日本サッカー独自の「理論」とは?
 ところで、日本サッカーに、ラグビーの大西理論に相当する「海外との体格差の壁を知恵で補う、むしろ体の小さいことをメリットに変えた日本独自の理論・戦法」が無いかというと、そんなことはない。

 サッカーファンならば、1936年ベルリン五輪サッカー日本代表で、巨漢ぞろいの北欧スウェーデンに逆転勝ちした「ベルリンの奇跡」のメンバーのひとり、松永行(まつなが・あきら)選手が、大会後、専門誌に寄稿したレポートの、例の文言を思い出す。
 扨〔さ〕て日本蹴球は、果たして世界のレベルに達してゐるかといふ疑問は自然起る。……精神的方面に於ては断然世界レベル以上だ。して又スピードを持ったショートパスに於〔おい〕てもレベル以上だ。このショートパスに関して、独逸の或〔ある〕権威者は、これだけは日本より学んだと言ってゐる。

 これだ、ショートパスの速攻法をあくまでも伸ばし、之〔これ〕に加へるに遅攻法をとり、緩急よろしきを得て、始めて日本蹴球の完成の時は来るのであると同時に、この時こそ世界蹴球覇者たり王者たる時なのである。

 個人技を練磨せよ。

 これこそ日本蹴球人に輿〔あた〕へられた唯一の課題なのである。

松永行「オリムピック蹴球の回顧」@『体育と競技』1936年11月号69~72頁


ベルリンの奇跡 日本サッカー煌きの一瞬
竹之内響介
東京新聞出版局
2015-11-23


 このテクストが「再発見」されたのは、Jリーグ以降の日本サッカー史の見直しからだった。それにしても、サッカーもラグビーも日本代表のスタイルには相通じるところがあるものだと感心する。また、日本サッカーの基本的な戦法と課題は、21世紀の現在も、昭和戦前の昔も変わっていないようである。

 こうした日本サッカーのスタイルには、いわゆる「決定力不足」の根源であるなどとの否定的な評価もあるが、調子の悪い時のブラジル代表も似たようなことを言われるので、そういう意味ではあまり気にしなくていい。**

中尾亘孝の「ご託宣」は何故ハズレたか?
 日本ラグビー「接近・展開・連続」の大西理論は、指導者や選手といった人材に恵まれないとなかなか実現できないことを、中尾亘孝はあちこちで指摘しているが、その辺の事情は、日本サッカーも似たようなものである。

 日本サッカー(日本代表)の低迷期は、1971年(ミュンヘン五輪アジア予選惨敗)から1992年(オフト・ジャパンの広島アジア大会優勝)まで、およそ20年余に及ぶが、その時期は、前半約10年と後半約10年に分かれる。

 1970年代の前半は、メキシコ五輪世代以降の人材が枯渇し、技術レベルが大きく落ち込み、持ち前のスタイルができず「蹴って走って頑張るサッカー」しか出来なくなっていった。しかし、1980年以降、全国的な少年サッカーの指導が実って、技術のある選手が育ち、少しずつではあるが「パスをつなぐサッカー」が出来るようになっていった。

 日本サッカーは、ゆるかやな上昇ではあるが、1985年メキシコW杯アジア最終予選進出、1987年ソウル五輪アジア最終予選進出と、少しずつ「成果」を出していった。……といった話は、後藤健生さんの『日本サッカーの未来世紀』(その1その2.担当編集者のY氏とは柳澤健さんのこと)を読めば、ちゃんと書いてある。

 自称「日本ラグビー狂会」の中尾亘孝の本を読んでいて不思議に思うのは、「狂会」の名前をサッカーからパクっているにもかかわらず、しかし、日本サッカー狂会の後藤健生さんの著作を、まったく(ほとんど)参照していないことだ。

 実は、中尾亘孝は、意外なほど日本サッカーを知らないし、日本サッカーを知ろうとしないし、日本サッカーから学ばない。この辺は、平塚晶人さんとは随分と違う。

 この人物は、後藤健生さんの著作を意図的に参照しないことで、日本サッカーの伸長を認めないという自己欺瞞をしているのだ。

自己批判を忘れ,堕落していった中尾亘孝
 もうひとつの中尾亘孝の誤りは、1988~1992年の横山謙三監督のサッカー日本代表(横山全日本)が、前述の1985年~1987年に積み上げた曲がりなりにも良い「流れ」を停滞させてしまった。横山監督が、山っ気に走らず、しかるべき指導力を発揮していれば、1989年のイタリアW杯アジア最終予選には進出できた。

 この時の最終予選は6か国総当たりで、たとえ全敗でも5試合経験できる。それだけの「経験値」があれば、サッカー日本代表は「ドーハの悲劇」もなく、1994年のアメリカ合衆国W杯本大会に出場できていたかもしれない(サッカー講釈師がこんな話をしていたような気がするが,ソースが見つからない)。

 不思議なことに、日本のサッカージャーナリズム・サッカー論壇は「横山全日本」の時代、柳澤健さん風に言えば「1989年のサッカー日本代表」の再検証をしていない。

 それはともかく、中尾亘孝が「サッカー日本代表は未来永劫ワールドカップに出られない」と大見得を切ったのは、横山全日本の「停滞」の時代である。その直後に、オフト・ジャパンの進撃が始まるのだが、監督がハンス・オフトになって、サッカー日本代表はいきなり強くなったという解釈は正しくない。

 つまり、この人物は「目利き」を自称する割には、日本のサッカーに関して、幾重にも鑑定違いをおかしてしまっていたのだ。

 しかし、中尾亘孝は、自身の間違いを認めず、謝罪も自己批判もしなかった。これ以降、この人のラグビー評論はキレを書くようになっていき、誰が読んでも不快な文章を、ただ垂れ流すだけの御仁に成り下がっていった。

 そして、肝心のラグビーファンの読者からも見放されていく。

つづく






【註】
 * 大失敗作の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)」を、今でも「バカな人にはとうめいで見えない布」のごとく有難がっている、ごく少数の愚かな人々に言ってあげたい。「NHKだからできる,視聴率に関係ない良質なTVコンテンツ」とは、この「BS1スペシャル:50年前 日本ラグビーは世界に迫った~伝説のイングランド戦」のような番組のことを言うのである。

 ** かのヘンリー・キッシンジャーがそのようにブラジル代表のサッカーを皮肉っている。