ジリ貧が続くNHK大河ドラマ「いだてん」
 2019年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)」(毎週日曜日20:00~20:45,脚本・宮藤官九郎)の視聴率の低迷ぶりが、いよいよトンデモないことになっている。

▼NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)』

 当ブログが「〈いだてん〉視聴率惨敗! このままいくと歴代最低視聴率大河ドラマになるッ!」と煽ったのは、今年の2月初頭。その直前の放送回、1月最終週の第4回の関東・首都圏の視聴率は、それでも2ケタの11.6%はあった(下記リンク先参照.これはこれでNHKの看板番組=大河ドラマとしては,あってはならない酷い数字なのだが)。

▼NHK大河ドラマ「いだてん」に漂う玉木正之的スポーツ観と,その克服(2019年02月03日)

 それが2月に入って、視聴率が1ケタに下がる。こんなに早い時期の1ケタ転落も、NHK大河ドラマとしては壊滅的な出来事で人々を驚かせた。さらにその後もジリジリと下がって、8月11日放送分では、関東・首都圏の視聴率がついに5.9%(関西地区では5.2%)まで下がった。

 しかも、「いだてん」の前枠の動物番組「ダーウィンが来た!」(19:30~20:00)と、「いだてん」終了直後に放送される「NHKニュース」(20:45~21:00)の視聴率が良好なのに対して、「いだてん」だけが目に見えて視聴率が低いのである。

▼「いだてん」最低視聴率でクドカンも大ピンチ 大河で脚本家が降板したのは1回だけ(2019年5月12日)

 これは、もう、明らかに視聴者が「いだてん」を避けていることがハッキリと分かる。

 このまま視聴率が下がり続けると、民放(民間放送)では「打ち切り」が検討されるという。けれども、視聴者からの受信料で成り立つNHK(公共放送)では、そのような事態はなさそうである。

「日本人とオリンピック」のはずが落語家の人生を見せられる
 「いだてん」の視聴率が悪いのは、ひとえに「つまらない=面白くない」ことに尽きる。その理由は、これまでさんざん論じられてきたので、多くはここで繰り返さない。が……。


 ……視聴者は、初め、この大河ドラマは「日本人と近代スポーツの歴史,日本人とオリンピックの歴史」を描くものだと思っていた。そのナレーションを、ビートたけしが演じるところの往年の落語の名人・古今亭志ん生(5代目)が担うのだと思っていた……。

 ……ところが、「いだてん」の物語は、日本の近代スポーツ史と全く接点のない落語家・古今亭志ん生(5代目)の、まるで自堕落な人生の描写に大きく時間を割(さ)き、この2つが並行して描かれていた。

古今亭志ん生(5代目)
【古今亭志ん生(5代目)】

 ほとんどの視聴者は、これには完全に面食らった。そして「いだてん」の視聴から脱落していった。

 このドラマの脚本担当・宮藤官九郎(クドカン)の本当の狙いは、「日本人と近代スポーツの歴史,日本人とオリンピックの歴史」の大河ドラマに事寄せて、志ん生(5代目)の一代記を描くことにあったとまで邪推されるほどである。

 誰も、少なくともこの大河ドラマで志ん生(5代目)の人生を視たいとは思わない。それは別の枠のドラマで描けばいいし、その方がもっと良いテレビドラマができるはずだ。

 それならば。クドカン宮藤官九郎が、視聴者を置いてきぼりにしてまで執拗に拘(こだわ)っている、この「落語」の視点から「いだてん」の「つまらなさ」の理由(わけ)について斬り込んでいけるのではないか……と、ふと思い当たることがあった。

本多勝一の「落語論」から
 今回、参照するのは、落語評論家の評論文ではなく、ジャーナリストで元「朝日新聞」記者・本多勝一氏の著作『日本語の作文技術』である。この本に「自分が笑ってはいけない」という小見出しの箇所がある。

 「いだてん」は、なぜ面白くないのだろうか……。
自分が笑ってはいけない
 ……なぜおもしろくないのだろうか。この説明は落語を例にとるとわかりやすいと思う。

 中学生のころ私〔本多勝一〕はラジオで落語ばかり聞いていて、よく「また落語!」と父に怒鳴られたけれど、いくら叱られてもあれは魅力的な世界だった。ずっとのちに都会へ出て実演を見たとき驚いたのは、落語家たちの実力の差だ。ラジオでもちろんそれは感じたけれど、実演で何人もが次々と競演すると、もうそれはまさに月とスッポン、雲と泥にみえる。私が見た中では、やはり桂文楽〔8代目〕がとびぬけてうまかった。全く同じ出し物を演じながら、何がこのように大きな差をつけるのだろうか。もちろん一言でいえばそれは演技力にちがいないが、具体的にはどういうことなのか。

 落語の場合、それは「おかしい」場面、つまり聴き手が笑う場面であればあるほど、落語家は真剣に、まじめ顔で演ずるということだ。観客が笑いころげるような舞台では、落語家は表情のどんな微細な部分においても、絶対に笑ってはならない。眼〔まな〕じりひとつ、口もとひとつの動きにも「笑い」に通じるものがあってはならない。逆に全表情をクソまじめに、それも「まじめ」を感じさせないほど自然なまじめさで、つまり「まじめに,まじめを」演じなければならない。この一点を比較するだけでも、落語家の実力の差ははっきりわかる。名人は毛ほどの笑いをも見せないのに対し、二流の落語家はどこかに笑いが残っている。チャプリンはおかしな表情をクソまじめにやるからこそおかしい。落語家自身の演技に笑いがはいる度合いと反比例して観客は笑わなくなっていく。

 全く同じことが文章についてもいえるのだ。おもしろいと読者が思うのは、描かれている内容自体がおもしろいときであって、書く人がいかに面白く思っているかを知っておもしろがるのではない。美しい風景を描いて、読者もまた美しいと思うためには、筆者がいくら「美しい」と感嘆しても何もならない。美しい風景自体は決して「美しい」と叫んではいないのだ。その風景を筆者が美しいと感じた素材そのものを、読者もまた追体験できるように再現するものでなければならない。〔以下略〕

本多勝一『日本語の作文技術』第8章「無神経な文章」より


【新版】日本語の作文技術 (朝日文庫)
本多勝一
朝日新聞出版
2015-12-07


 本多氏は、古今亭志ん生(5代目)よりも桂文楽(8代目)がお好みだったようだ。それはともかくとして、「いだてん」のつまらなさは、この引用文を少し改変しただけで、ほとんど説明できてしまうのだ。

二流の落語家=クドカン宮藤官九郎
 脚本のクドカン宮藤官九郎は、「笑い」や「ペーソス」、言い換えれば「おかしさ」をも込めて、大河ドラマ=歴史を「面白く」描きたい。

 その是非は別としても、これが大河ドラマの場合、それは「おかしい」場面、つまり視聴者が「笑い」や「ペーソス」を感じ入る場面であればあるほど、脚本家や演出家は「笑わず」真剣に、まじめに描かなければならない。

 他人(ひと)を「笑わせてやろう」というに時こそ、「笑わせてやろう」という素振りは見せてはいけない。

 優れた作り手は毛ほどの「笑い」をも見せないのに対し、二流の作り手はどこかに「笑い」が残っている。

 「面白い」と視聴者が思うのは、描かれている「ドラマの内容自体が面白い」ときであって、「脚本(宮藤官九郎)や演出がいかに面白く思っているか」を知って面白がるのではない。

 「脚本(宮藤官九郎)や演出がいかに面白く思っているか」の表れが、例えばドラマの演出に見られる小細工の数々だ。けれども、脚本や演出に「笑い」が入っている。「笑わせてやろう」という素振りが見えてしまっているので「面白くない」。とどのつまり「いだてん」は「面白くない」。

 脚本や演出に「笑い」が入る度合いと反比例して、視聴者は「笑わなく」なっていく。すなわち、視聴者の多くは「いだてん」の視聴から脱落していく。

「あまちゃん」は大ヒット作ではない!?
 いわば「自分から笑いだしている」二流の落語家が、「いだてん」脚本のクドカン宮藤官九郎である。落語に憧憬(どうけい)しながら、しかし、落語への真の敬意が欠落しているのが、「いだてん」脚本のクドカン宮藤官九郎なのである。

 「いだてん」のテーマは、大河ドラマよりも、むしろ朝ドラ(朝の「連続テレビ小説」毎週月~土8:00~8:15)の方がよかったのではないか……との声もある。だが、クドカンのあの「自分から笑いだしている」作風では、やはりダメである。

 同じクドカン脚本の朝ドラ「あまちゃん」はヒットしたではないか……という人がいる。しかし、すでに繰り返し指摘されていることだが、「あまちゃん」の視聴率は他の朝ドラと比べても相対的に低い。新しい視聴者を開拓したというけれども、既存の視聴者に視聴から逃げた層がかなりいるので、トータルの視聴率は高くないのである。

 それでも、この世界の片隅には、「自分から笑いだしている」二流の落語をさも面白いものであるかのように有難がる、声のデカい、スノッブな「層」が一定程度存在する。「あまちゃん」が、いかにも歴史的に傑出した朝ドラであるかのように煽ったのは、この人たちである。

 例えば、それは「ギョーカイ」といわれる世界の住人に多い。インターネットのポータルサイトを覗(のぞ)くと、これほどの低視聴率にもかかわらず「いだてん」の礼賛記事が未だに多い。そうした記事をこの人たちが書いているからである。

 この人たちには「バカな人にはとうめいで見えない布」が見える。

▼アンデルセン「はだかの王さま」青空文庫

 むろん、実際にはそんな「布」など実在しない。「あまちゃん」の正しい総括ができなかった、そんな「はだかの王さま」たち(クドカンやNHKの制作陣)が勘違いしたまま作ってしまったのが、大爆死の大河ドラマ「いだてん」なのである。

落語界こそ宮藤官九郎と「いだてん」を批判するべき
 「いだてん」が古今亭志ん生(5代目)に異常にフィーチャーすることで、かえってイメージが悪くなったのは、実は落語(落語界)の方である。

 「いだてん」の視聴を避けた視聴者は、落語に悪い印象を抱いてしまったいる。これが、まずひとつ。

 もうひとつは、「いだてん」が、ある意味で壮大な「落語」なのだとしても(クドカンは,さまざまに張り巡らした「伏線」を最後に「回収」して,壮大な「オチ」を付けるつもりなのだとも……)、前述のとおり、あれは「二流の落語」にすぎない。

 宮藤官九郎と「いだてん」は、落語の面汚しなのだ。

 落語界の住人こそ、宮藤官九郎と「いだてん」を批判するべきである。

 それとも、落語界もまた、クドカン的なるものを有難がるスノビズムに頭をやられているのか、はたまた「いだてん」を放送する公共放送=NHKに対する忖度があって、これを批判できないでいるのだろうか。

(了)




【註】
 本多勝一『日本語の作文技術』は、なかなかの著作だと思うが、例えば、以下の例文……。
 あっ、下山総裁の替玉も殺された。

 あなた、殺されないように気を付けてね。

 うん、CIAは恐ろしいからなあ。

 しかしね、本当に敵はだね、そのまた背後にいる米独占資本なんだ。

本多勝一『日本語の作文技術』第4章「句読点のうちかた」より
 ……といったノリの文章についていけない人は、読まない方がいい。

 一方、本多氏は昔からNHKの受信料の支払い拒否を実行している。

NHK受信料拒否の論理 (朝日文庫)
本多 勝一
朝日新聞社
1991-05-01


 そのまた一方で、当ブログは日本人論・日本文化論の類が大嫌いなので、本多氏の持論「日本人=メダカ民族・メダカ社会論」には全く賛同しない。