国ごとの文化の違い=多様性に寛容な「サッカー」と非寛容な「野球」
 サッカーのワールドカップなどで、ナイジェリア、カメルーン、セネガル、コートジボワール……といった、ブラックアフリカまたはサブサハラアフリカの国々のサポーターの応援・観戦のやり方を見聞きしていると、日本はむろん、ヨーロッパとも、ラテンアメリカとも違う、独特の、かなり耳慣れないリズムである。

 しかし、それがこれらの国々の人々のやり方=文化なのであって、自分たちのやり方と違うから、あるいはヨーロッパやラテンアメリカのやり方と違うからおかしい……と非難するのは、非常に失礼なことである。むしろ、世界の国や民族のさまざまな文化の違い=多様性に寛容なのが、サッカーの素晴らしいところであり、グローバルスポーツたる所以(ゆえん)である。

 ところが「野球」(ベースボール)というスポーツは、そうはならない。

 日本の野球ジャーナリズムでは、発祥国たるアメリカ合衆国(米国)の野球、すなわち大リーグ(メジャーリーグ,MLB)の流儀と何か異なっていると、それがスポーツとして、スポーツ文化として、犯罪的に間違っていることとして否定的な評価が下される。

スポーツ文化として犯罪的に間違っている(?)日本野球の「応援団」
 例えば、日本のスポーツの、なかんずく日本野球の「応援団」についてである。よく知られるように、米国の野球に「応援団」は見られないが、日本の野球……大学野球、高校野球、社会人野球、プロ野球には「応援団」の存在が特徴的である。

 この「応援団」、特にプロ野球(NPB)の「応援団」を、アメリカのプロ野球リーグである大リーグの流儀を唯一絶対の判断基準として繰り返し断罪してきたのが、スポーツライターの玉木正之氏である。その玉木氏の「応援団」批判の中から、最も本音に近く、かつ先鋭的と思われる1990年刊の新潮文庫『プロ野球大事典』から引用する。
おうえんだん【応援団】
  1.  野球を見るよりも、グラウンドに背を向けてドンチャン騒ぎをするほうが好きな観客たちが集まってつくった集団。
  2.  自分では何もできないくせに、何かをできる人物たちに声援を贈ることによって、彼らが何かをできるようになった、思い込むことができる幸運な連中が集まってつくった集団。
  3.  その発祥は、明治時代にスポーツをすすんで取り入れた大学と旧制高校であり、早慶戦の野球や隅田〔すみだ〕川レガッタといった試合が人気を集めはじめるとほぼ同時に、応援団の歴史は日本のスポーツの歴史と歩みをともにしている。
  4.  それは、スポーツを「やる人」と「見る人」が完全に分離した後の近代スポーツが分離していないスポーツの歴史、飛び入り自由の時代のスポーツの歴史が欠落しているため、「見る人」が専門化してしまったもだ。しかも応援団には、所詮〔しょせん〕主流(スポーツをやる人)ではなく、傍流(スポーツをやらない人)であるというコンプレックスだけは存在し、そのため、バンカラ、はぐれ者、あるいはヤクザといった、社会の傍流としての存在と似通った体質を持つまでになる傾向が生じた、といえるようにも思われる。*
玉木正之『プロ野球大事典』(新潮文庫)92頁


 悪し様な、まったく悪し様な表現の連発は、読んでいてかえってウンザリさせられる。玉木正之氏は、ただただ「応援団」が嫌いなのである。今、玉木氏が、NPBの「応援団」やJリーグのサポーターに向けて、ネット上で特に「2.」のような明白な嫌悪を著(あらわ)したら炎上必至である。

 引用文中のスポーツを「やる人/見る人」云々のくだりは、『オフサイドはなぜ反則か』で知られるスポーツ社会学者・中村敏雄氏(なかむら・としお,故人)の『メンバーチェンジの思想』を参考にしたとの由(よし)である(遺憾ながら,当ブログは未読)。

 玉木氏が、ここまで断定的にNPBの「応援団」を非難できるのは、何より、アメリカ大リーグの流儀とはハッキリ違うからである。大リーグは常に正しく、大リーグは常に正しいのだから決して間違っていない……という思考である。

日本野球の「応援団」は悪なのか?
 アメリカ大リーグ目線による日本野球の「応援団」文化への否定について、米国イェール大学教授(社会人類学,日本研究)で『虎とバット~阪神タイガースの社会人類学』の著者ウィリアム・W・ケリー氏は次のようにまとめている。
 こうした派手で熱狂的な〔NPBの〕ファンの解釈について、〔ロバート・ホワイティング氏のような〕アメリカの記者や訪日客は、……ある種の定型にはめて考えてきた。観光客はただそのスタイルを楽しみ、一方で〔玉木正之氏のような〕専門家は、ノンストップで騒ぎ続ける彼ら〔応援団〕のせいで〔アメリカ大リーグのように〕野球を〈正しく〉楽しめないと愕然とした。そして両者ともに、やはり日本人は集団に溶け込み、狂信的と言えるレベルにまで指示に従わないと安心できないたち〔国民性〕なのだとよく口にした。〔朱太字部分は原文では傍点付き〕

ウィリアム・W・ケリー『虎とバット~阪神タイガースの社会人類学』159頁


虎とバット 阪神タイガースの社会人類学
ウィリアム・W・ケリー
ダイヤモンド社
2019-06-20


 ケリー教授という人は、日本野球の解釈に関して「論敵」に当たるロバート・ホワイティング氏(日本在住の米国人ジャーナリスト,著書に『菊とバット』『和をもって日本となす』ほか)が「日本異質論」のリビジョニストだとすると、いわば「知日派」的なスタンスの人である。



 しかし、……と、ケリー教授は続ける。「ところがスタンドにじっくり腰を下ろして〔応援団が繰り出す〕応援に耳を傾け、〔阪神タイガースの〕ファンの話を聞くと、もっと複雑なタイガースファンの在り方が見えてきた」(同書159頁)。とにかく、「応援団」の観戦様式の実態は違う。
 それは(欧州サッカーのような)バリエーションと調和を兼ね備えた応援で、一本調子の退屈なものではなかった。打者から打者、イニングからイニングへと応援歌がスムーズに切り替わる流れが、試合終了まで続いた。確かに歌詞はありきたりで、選手を英雄視する言葉に凡庸〔ぼんよう〕な激励の文句を組み合わせたものだ。洗練性と独自性はあるが絶賛はしたくない。それでも、〔甲子園球場の〕ライトスタンド応援の意図や効果を無個性で退屈な文化だと断じるのは明らかな間違いだ。

ウィリアム・W・ケリー『虎とバット~阪神タイガースの社会人類学』160頁
 ひょっとしたら、ケリー教授も米国人であるから、日本野球の観戦スタイルに違和感があるのかもしれない。しかし、ここに描かれた世界こそ、英国の動物学者デズモンド・モリスが『サッカー人間学』(原題:The Soccer Tribe)で描き出した「サッカー部族の随行者」(サポーター)の姿に類似したものである。

サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02


 ヨーロッパやラテンアメリカのサッカーのサポーターもまた、「自分では何もできないくせに,何かをできる人物たちに声援を贈ることによって,彼らが何かをできるようになった,思い込むことができる幸運な連中」ではないのか。

 日本野球の、少なくともNPBの「応援団」の生態はサッカーのサポーターに近い。アメリカ大リーグの観客とは違う。

 そう言えば、サッカージャーナリストの後藤健生氏は「サッカーのサポーターや観客と比べたら,野球をはじめとするアメリカのメジャースポーツの観戦は,日本の小学校の運動会の見物みたいなもの」などと『サッカーの世紀』に書いていた。

サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07


 その辺りを認めたくない、あくまで日本野球の独自の文化を悪習として断罪したいから、玉木氏はモリスの『サッカー人間学』が嫌いなのである。

日本の「応援団」文化はアメリカ起源
 ところで、玉木正之氏も、玉木氏と関係の深いロバート・ホワイティング氏も、日本の野球やスポーツ界の「応援団」の出現が、明治時代の大学・旧制高校であることは知っている。しかし、その起源については調べがついていないようだ。

 玉木正之氏、ひょっとしたら、先に引用したように「近代以前のスポーツ史が欠落した,日本のスポーツの観客のコンプレックス(嫉妬と書くこともある)が,〈応援団〉を発生させた」とでも、本気で思っているのだろうか(いかにも,実証やエビデンスを軽んじる玉木氏らしい「仮説」であるが)。

 あるいは、玉木氏、ホワイティング氏ともども、日本野球の「応援団」=日本的集団主義の表れだと無邪気に信じているのだろうか。

 それはともかく、先のケリー教授は興味深い説を紹介している。
 ……〔日本の〕野球の応援の原点は……、スポーツそのものと同じく海外に由来する。二〇世紀初頭、早稲田大学と慶應大学の野球部がアメリカに遠征し、そこで現地の大学の(特にアメフトの)応援に感銘を受け、使っているパターンや道具を詳細に書き留め、帰国後に自分たちの応援に採り入れた。やがて応援団は一つの部活動として独立し、激しくも規律正しい応援を通じて愛校心を示す伝統は、日本の高校や大学に広く受け継がれている。

ウィリアム・W・ケリー『虎とバット~阪神タイガースの社会人類学』162頁
 野球ではないが、日本野球の「応援団」のルーツは米国の大学フットボールにあったという話は、玉木正之氏やロバート・ホワイティング氏にとっては「不都合な真実」かもしれない。

マードックの入場曲『テキサス・ファイト』を聴いて納得する
 ケリー教授の説がおそらく正しいのだろう……と感じたのは、『ザ・プロレスリング完全版~日本プロレス激闘60年史』というCDを聴いた時だった。これは、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、アブドーラ・ザ・ブッチャー、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ……といった、往年の名プロレスラーの入場曲を集めたアルバムである。

ザ・プロレスリング完全版~日本プロレス激闘60年史
インストゥルメンタル
ビクターエンタテインメント
2012-12-19


 その中に、ディック・マードック(Dick Murdoch,故人)の曲も収録されていた。


 その入場曲は、アメリカ民謡で、テキサス大学アメリカンフットボール部「ロングホーンズ」の応援歌という触れ込みの『テキサス・ファイト』という曲だった。

 なるほど、これを聴いたら、日本野球の「応援団」文化は、米国の大学フットボールの影響にあるというのが、非常によく分かるのである。


【theme dick murdoch】


【TEXAS FIGHT University of Texas Fight Song2】


【Texas Longhorns Fight Song (The Eyes of Texas/Texas Fight)】


【University of Texas Longhorns Fight Song】


【ディック・マードック入場テーマ曲「テキサスファイト」MonkeyFlipLIVE2016】

 軽快な曲の間奏部分でエールの掛け声が入るのも、日本の野球の応援で言う「チャンステーマ」や「ヒッティングマーチ」とよく似ている。

 ちなみに日本では、『テキサス・ファイト』は、NPBの西武ライオンズや社会人野球の西濃運輸の応援に使われている。

 また、スタンドが一体となった米国各大学のアメフトの応援は、日本野球の応援によく似ている。特に東京六大学野球リーグの、なかんずく早慶戦の応援・観戦文化は、たしかにアメリカ起源なのだろうと思わせる。


【Top 20 College Football Traditions/Chants】


【Top 10 College Fight Songs】

 米国のアメフトの応援を、日本の野球に移植して、何か悪いのか分からない。**

 それでも日本野球の「応援団」文化は、スポーツとして、スポーツ文化として間違っているとして、玉木正之氏はこれを断罪し続けるのだろうか?

世界に紹介された日本の「応援団」
 日本の「応援団」は野球のみならず、サッカーや駅伝など他のスポーツにも派生している。かなり古くなるが、先述の高校サッカーの「応援団」の姿が、先のデズモンド・モリスの『サッカー人間学』に掲載されている(見開きの「のど」にかかって見難いので,クリック→拡大してご覧ください)。

高校サッカーの学ラン応援団「サッカー人間学」88~89頁
【デズモンド・モリス『サッカー人間学』88~89頁より】

 モリス博士は、日本のスポーツ文化にある種の先入観がないのが面白い。玉木正之氏があれほど忌み嫌った日本の「応援団」を、著書を通じて
世界に紹介したのである。

The Soccer Tribe
Desmond Morris
Rizzoli Universe Promotional Books
2019-03-26


 だから、玉木氏はモリスの『サッカー人間学』が嫌いなのである。

(了)




【註】
* 玉木正之氏は、NPBの「応援団」の一部が反社会勢力と結びついていることを、暗に示唆している。当ブログは日本のスポーツの「応援団」文化を擁護するものであるが、反社会勢力との関係などについては、むろん、これを肯定しない。

** 玉木正之氏はともかく、来日前に米国のカリフォルニア大学出身とプロフィールにあるロバート・ホワイティング氏は、在学中、アメフトの試合を見たことがないのだろうか?