東京五輪でなかったら野球は採用されなかったし…
 もし、2020年の夏のオリンピックが日本の東京でなかったら、野球がオリンピックの正式種目に採用されることはなかったはずである。

 すなわち、雑誌『東京人』2019年8月号の特集「近代スポーツことはじめ」に、ロバート・ホワイティング氏(日本在住の米国人ジャーナリスト)が「アメリカ人は犠牲バントを好まない」などという奇妙な一文を寄稿することはなかった。

 内容は今さら紹介の必要もありますまい……。

菊とバット〔完全版〕
ロバート ホワイティング
早川書房
2005-01-01


和をもって日本となす
ロバート ホワイティング
角川書店
1990-04-01


 ……いつもの、ホワイティング氏の、日本と日本人に対するステレオタイプと偏見に満ちた日本野球論・日本文化論である。

サッカーの視座ならば「菊とバット」を解体できる…できるはず…
 「野球」の枠の中にいると、「ホワイティング氏の日本野球観」の何が歪(いびつ)なのか今ひとつ分かりにくい。むしろ「サッカー」の視座からこそ「それ」は見えてくる。すべからくサッカー側の人間はホワイティング氏の日本野球観を批判するべきである。なぜなら、この人の日本野球観は、当ブログがしつこく問題にしてきた「自虐的サッカーな日本サッカー観」と深いところでつながっているからだ。

 してみると、逆説的ではあるが、サッカー側の人間からもなかなか「ホワイティング氏の日本野球観」への批判がなかなか登場しないのも分からないことはない。なぜなら、サッカー側の人間には「自虐的サッカーな日本サッカー観」に染まっている人が多いからだ。

 具体的には、塩野七生氏や山崎浩一氏のような人たちのことであるが、野球とサッカー、お互いのために、いずれこの問題には触れなければならない。

明治以来150年の「日本野球の到達点」が… えッ,イチロー!?
 さて、くだんの「アメリカ人は犠牲バントを好まない」なる一文は、最初から最後までツッコミどころばかりなので逐一付き合っていたら、それこそ、いつまで経っても終わらない。そこで、2つの部分に絞って話を進める。

 はじめに、文章冒頭の2段落である。
 〔二〇一九年〕三月二十一日、東京ドームでイチロー(本名・鈴木一朗)の引退セレモニーが開催された。その野球人生の締めくくりにふさわしい、感動的なイベントだった。ニューヨーク・ヤンキースのゼネラルマネージャー、ブライアン・キャッシュマンが「世界の野球史上で最高の選手」と称賛したイチローは、日本人選手として初めて、アメリカのメジャーリーグで殿堂入りするに違いない。

 こうしたイチローの輝かしい成功は、むろん彼個人の才能と努力の賜物である。と同時に、それは約百五十年前に日本政府がアメリカ〔合衆国〕から招聘した〔お雇い外国人〕教師たちによって、日本に野球が紹介されて以来の、長い歴史の到達点でもあった。

ロバート・ホワイティング「アメリカ人は犠牲バントを好まない」@『東京人』2019年8月号


ホワイティング「アメリカ人は犠牲バントを好まない」見出し
【ホワイティング「アメリカ人は犠牲バントを好まない」の見出し部分】
 いや、これ、おかしいでしょう?

ホワイティング氏の「まなざし」=アメリカ野球界一国主義の「まなざし」
 明治このかた約150年の歴史を持つ「日本に野球が紹介されて以来の,長い歴史の到達点」が、日本野球を代表するナショナルチーム(代表チーム)の実績、その世界大会で優勝したことだとか、日本代表が発祥国であるアメリカ合衆国代表を国際試合で打倒したとか、そういうことではないからである。なんと、それがひとりの選手で「代表」されてしまうことである。それは、よいとしても……。

 ……イチロー選手が日本野球史上随一の選手のひとりなのは間違いないにしても、その評価と言及は、形式論的にはたかだか1か国のプロリーグにすぎないアメリカ大リーグ(MLB,メジャーリーグ)での実績に限られてしまっているからである。イチローが日本代表として活躍したこと。具体的にはワールドベースボールクラシック(WBC)で連覇したことに、ホワイティング氏は一言も触れられてのであるからである。

 例えば、ペレの功績をブラジル代表とワールドカップでの活躍に全く触れないで、サントスFCとニューヨーク・コスモスの活躍だけで考察したら、本当におかしな評価になるだろう(当然,これは突飛な連想であるが)。

 むろん、ホワイティング氏のイチロー選手の評価が「クラブチーム」に偏ってしまう理由は、野球の世界地図では、サッカーやラグビー、クリケット(野球と同類のバット・アンド・ボール・ゲームのひとつ)のように、ナショナルチームによる国際試合や世界大会が全くオーソライズされていないためである。複数の国にプロリーグがある、チームで行う対戦型球技で、そのようなスポーツはほとんど野球だけではないかと思う。

 ロバート・ホワイティング氏のイチロー評が、アメリカ大リーグのそれに偏ってしまうこと。それは、実はアメリカ大リーグからみた「その他の世界」への想像力の狭さ、度量の狭さとほとんど重なる。すなわちアメリカ合衆国野球界の体質であり、ホワイティング氏は、その「まなざし」を体現して、日本人なり、日本の野球界なりに向けて、講釈を垂れているのである。

 しかし、そうした体質が改められないのであれば、大リーグは、英国・ヨーロッパや、クリケットの大国インドに進出することなど止めた方がいいだろう。


 英国・ヨーロッパしかり、インドしかり(英連邦諸国もヨーロッパと含めると,インドもヨーロッパである)、ナショナルチームによる国際試合、世界大会が、その国のスポーツ文化の大きな地位を占めているからである。それを認めようとしない野球は、少なくとも大リーグは、その枠内でやっておればよろしい。

 それにしてもホワイティング氏は、あの底が割れたようなイチロー選手の引退試合を「感動的なイベント」などと仰(おっしゃ)るのですね。 

 あれだけ日本野球に辛辣なホワイティング氏にしては、ずいぶんと寛大ではありませんか。

野球を選んでしまった日本近代史150年の不幸
 真面目な話に戻ると、スポーツは、特に代表チーム同士の対戦は、感情的な対立を抱えた2か国、あるいは「宗主国」と「従属国」といった、複雑な両国の政治的な関係を、たとえ一時であっても乗り越えるという「機能」がある。

 すなわち、ラグビーにおける英国(なかんずくイングランド)とニュージーランド、またはイングランドとスコットランド、アイルランド、ウェールズ。あるいはクリケットにおける英国(なかんずくイングランド)とインド、英国(なかんずくイングランド)とオーストラリアといった試合である。


 ところが、前述の理由で野球に限ってはその「機能」がないのであります。こうした問題に米国=大リーグはすこぶる鈍感だが、日本にとっては大いなる不幸である。これは日本の近代史、あるいは戦後史、平成史に少なからず影響を与えているかもしれない。


 ロバート・ホワイティング氏の日本野球観。その言説は、米国野球界の鈍感さと同様に発せられる。

間違いだらけのホワイティング氏の日本野球史考察
 次いで、この1段落である([ ]数字は引用者が付けたもの)。
 [1]日本人が野球を好んだのは、野球がおそらく日本初のチームスポーツだったからだろう。そして日本人はチーム優先の戦術を愛するようになった。たとえば[2]犠牲バント〔送りバント〕。これはパワー志向のアメリカ人選手には嫌われる手法だ。こうした集団戦の側面に加えて、[3]投手と打者の一対一の対決図式は、剣道や相撲などの試合を思わせる。その上、[4]時間制限もないため、試合の展開について議論する時間がたっぷりあった。[5]野球はまるで日本人の国民性に誂〔あつら〕えたかのようなスポーツだったのだ。

ロバート・ホワイティング「アメリカ人は犠牲バントを好まない」@『東京人』2019年8月号


早大vs一高野球戦(1909=明治42年)
【早大vs一高野球戦(1909年=明治42)】
 いや、これ、おかしいでしょう?

 ほとんど間違いだらけだし、例によって、ホワイティング氏のステレオタイプと偏見に満ちた日本観・日本野球観が全開している。

ホワイティング氏の持説を1本1本折っていく
 [1]について……。明治初年に欧米人によって紹介された、チームで行う対戦型球技スポーツは野球だけではない。これについては、当ブログはしつこく説いてきた。

 サッカーなのかラグビーなのかはよく分からないが、1873~1874年(明治6~7)ごろ海軍兵学寮に「フットボール」が、クリケットなどのスポーツとともに紹介されている。また、1984年(明治7)ごろ、工部省工学寮(工部大学校)にサッカーが、クリケットなどのスポーツとともに紹介されている。

 つまり、ホワイティング氏の説明は正しくない。

 [2]について……。これも当ブログの前のエントリーで書いたが、アメリカ野球も最初から「パワー志向」で、「犠牲バント」(送りバント)を嫌っていたわけではない。タイ・カッブが大活躍していた昔は、大リーグも「スモールベースボール」(スモールボール)志向だった。



 せめてホワイティング氏は「ベーブ・ルース以降のパワー志向のアメリカ人選手」とか、昨今の「セイバーメトリクス≒ビッグボール以降のパワー志向のアメリカ人選手」と言うべきだったのではないか。

 つまり、ホワイティング氏の説明は正しくない。

 [3]について……。これは、ホワイティング氏のオトモダチのスポーツライター・玉木正之氏が、かねがね持説としていた「1対1の勝負説」である。日本人は集団やチームによる戦い(サッカーやラグビー)よりも、投手と打者の1対1の対決(野球)にスポーツの面白さを見出したのだ……という仮説。この仮説に対しても、当ブログはしつこく批判してきた。


 簡単に言えば、明治初年、日本に最初に入ってきた時の野球のルールは、現在と大きく異なっており玉木氏の「1対1の勝負説」は成り立たない。例えば、当時のルールでは、劇画「巨人の星」の物語も成り立たない。

 つまり、ホワイティング氏の説明は正しくない。

 [4]について……。ホワイティング氏が言わんとしているのは、日本人には、独特の「間」(ま)の文化というものがあるために、日本人はサッカーやラグビーのような時間制限の中で絶えず動き続けるスポーツではなく、野球のようなプレーとプレーの「間」があるスポーツが好まれたというものだ。ちょうど比較文学者・剣持武彦の『〈間〉の日本文化』という日本文化論の著作がある。

「間」の日本文化
剣持 武彦
朝文社
1992-06-01


 しかし、「間」のあるスポーツは何も野球だけではない。明治初年、野球とともに同じバット・アンド・ボール・ゲームである「クリケット」も日本に紹介されている。

野球
【野球(ベースボール)】

クリケット
【クリケット】

 ホワイティング氏も、玉木正之氏も、他の誰でも「なぜサッカーではなく野球だったのか」という「答え」は出してはみせる。しかし、「なぜクリケットではなく野球だったのか」という「答え」を、どの考察も出してはくれない。

 つまり、ホワイティング氏の説明は正しくない。

 [5]について……。端的に「国民性」がその国の人気スポーツを決定するという仮説は成り立たない。例えば、米国人のお雇い外国人教師が学生たちに野球を紹介しても、ついにそこには定着せずに消滅した開拓使仮学校(後の札幌農学校~北海道大学)の例が、池井優氏の著作『白球太平洋を渡る』などには紹介されている。

 ホワイティング氏は、自著『和をもって日本となす』(前掲)の参考文献に、野球評論家としても有名な池井優氏の『白球太平洋を渡る』を挙げている。しかし、こういった都合の悪い事実は無視している。

 つまり、ホワイティング氏の説明は正しくない。

精神の奴隷にさせる日本野球論
 それにしても、ホワイティング氏は、引用した短い文章の中だけでも、よくこれだけのデタラメを書けるものである。

 こうした歪んだ日本野球観は、日本人を「精神の奴隷」とさせる。

 これに抗うか、奴隷のままでいるかは、野球ファンにせよ、サッカーファンにせよ、けっこう重要な問題ではないかと考えてしまう。

(了)