犬も卒倒するホワイティング氏の日本野球論
 ロバート・ホワイティング氏(日本在住の米国人ジャーナリスト)の、『菊とバット』『和をもって日本となす』のような日本・日本人に対するステレオタイプと偏見に満ちた日本野球論・日本文化論は、どうにも苦手だ。むしろ、ゲンナリさせられる……という人は、スポーツライター・武田薫氏をはじめ意外に多い。

 そんな、犬も卒倒しそうな、ゲンナリさせられるホワイティング氏の日本野球論を、私たちスポーツファンは、またまた読む羽目になった。雑誌『東京人』2019年8月号の特集「近代スポーツことはじめ」である。


 そのタイトルは「アメリカ人は犠牲バントを好まない」である。翻訳を担当したのは、なぜか徳川宗家の徳川家広氏であった。それはともかく、内容は今さら紹介の必要もありますまい。いつもの、ホワイティング氏の、日本・日本人に対するステレオタイプと偏見に満ちた日本野球論・日本文化論である。

アメリカ人は犠牲バントを好まない…だから何なのだ!?
 「犠牲バント」とは、いかにもホワイティング氏が好んで採り上げそうな、きわめて「日本的」で「滅私奉公」的なニュアンスだが、実は英語の「Sacrifice bunt」の翻訳であって、昨今の日本語ではあまり用いられない。要するに「送りバント」のことだ。事実、Googleの検索ヒット数では「犠牲バント」よりも「送りバント」の方が多い。

送りバント(犠牲バント)を試みる打者
【送りバント(犠牲バント)を試みる打者】

 不思議なのは「〈アメリカ人〉は〈犠牲バント〉を好まない」という命題である。なぜなら、これは「華麗で攻撃的なサッカーを好む〈ブラジル人〉はイタリア的な〈カテナチオ〉の守備的サッカーを好まない」、または「勇敢なサッカーを好む〈イングランド人〉はイタリア的な〈カテナチオ〉の守備的サッカーを好まない」と同じくらい、ほとんど意味のない命題だからである。

 あるいは、日本経済新聞電子版には、スポーツライター・丹羽政善氏による「メジャーはなぜバントをしないのか 日米野球比較」という論評が掲載されている。
  • 参照:丹羽政善「メジャーはなぜバントをしないのか 日米野球比較(1)」2010/12/6
 これまた、「サッカーブラジル代表〈セレソン〉は,なぜ〈カテナチオ〉をしないのか?」とか、「サッカーイングランド代表〈スリーライオンズ〉は,なぜ〈カテナチオ〉をしないのか?」とかと同じく、ほとんど意味のない命題である。

 所変われば品かわる。国が違えば物事に関する好みが違うのは当たり前のことだ。ましてや、シングルスやダブルスではなく、9人、11人、15人……とチーム単位で、広いフィールドで行われる球技スポーツでは、国ごとにプレースタイルの好みが違ってくるのは、むしろ当然のことではないか。

 別の譬(たと)え方をすると、イタリアのサッカースタイルをブラジルやイングランドと異なるというだけで、これを上から目線で断罪しているのが、ロバート・ホワイティング氏(や玉木正之氏)の手口なのである。

イタリア・サッカーと日本野球の意外な(?)共通性
 イタリアのサッカーといえば、(超)守備的戦術にカウンターアタックでゴールを仕留めるスタイル「カテナチオ」である。最近はそのイメージもずいぶん様変わりしたというし、それ自体がステレオタイプの偏見に満ちた「まなざし」かもしれない。しかし、それでも、イタリア・サッカーといえば「カテナチオ」。「カテナチオ」といえばイタリア・サッカーなのである。

 サッカージャーナリストの後藤健生さんは、1994年アメリカW杯の取材から帰った後のトークイベントで「今回のアリゴ・サッキ監督のイタリア代表は,攻撃的で魅力的なサッカーをしていたが,それはまったく〈イタリア的〉でなくて,ちっとも魅力的ではない(笑)」などとジョークを嘯(うそぶ)いては笑いを取っていた。むろん、後藤さんはイタリア・サッカーに敬意を表して、そんな冗談を飛ばしたのだ。

 片や、日本野球の送りバントを多用するプレースタイル(仮に「日本型スモールベースボール」と呼ぶ)。こなた、イタリア・サッカーの守備的なプレースタイル「カテナチオ」。ともに「消極的」で「勝利至上主義」の好ましからざるプレースタイルのようにも言われることがある。

 少し脱線するが、細川周平氏や今福龍太氏といったポストモダン思想系(現代思想系,ポモ)のサッカー評論が跋扈(ばっこ)するようになり、ドイツのサッカーを「勝利至上主義」の権化として大袈裟に悪罵する以前は……すなわちベッケンバウアーらがプレーしていた頃は、西ドイツ(当時)のサッカーが「好ましいサッカー」をしていて、反面、イタリアのサッカーこそ「勝利至上主義の好ましからざるサッカー」だと非難さわれていた。



 事ほど左様、世上のイメージとはいい加減なものである。

 話を戻す。なぜ「カテナチオ」には今では悪いイメージがなく、しかし、なぜ「日本型スモールベースボール」には悪いイメージがついて回るのか。

 イタリアのサッカースタイル「カテナチオ」のルーツは諸説あるが、最も興味深いのは、日本在住のイタリア人文化人類学者ファビオ・ランベッリ氏が紹介しした説である。
 ……戦後イタリアのもっとも偉大なサッカー・ジャーナリストであるジャンニ・ブレーラ……によると、イタリアン・サッカー独特の技能・カテナッチョ(守備固め、文字通りには「ドアの掛け金」)は、劣勢の意識から始まったものだった。〔一九〕五〇~六〇年代には、ブレーラが言うようにイタリア人選手は栄養の少ない食事をとり、背が低く、北欧〔ドイツほか〕や南米〔ブラジルほか〕のチャンピオン・チームの試合では、身体的にも技術的にも劣位であった。この劣勢を乗り越えるために、カテナッチョという方法が工夫されたのである。

ファビオ・ランベッリ『イタリア的』222~223頁


 ジャンニ・ブレーラは、日本で言えば賀川浩氏と牛木素吉郎氏と金子勝彦氏(3人とも日本サッカー殿堂入り)を足したくらいの、本当に偉大なサッカージャーナリストである。
  • 参照:ダニエーレ・マヌシア(翻訳 片野道郎)「サッカージャーナリズムは最新戦術用語をどう扱うべきか?」2018.05.23
  • 参照:白鳥大知「伝統のイタリア・ダービーは激しい肉弾戦に。狙い通りの結果を手にしたのは?」2015年10月19日
 そんな人だけに、その考察は非常に重い。とにかく「カテナチオ」がイタリア人の、サッカーにおけるフィジカル(身体)やテクニック(技術)の劣等意識から始まったという説は面白い。「日本型スモールベースボール」もまた、アメリカ野球に対するフィジカルやパワーの劣勢・劣等意識から始まったのが、その起源のひとつとされているからである(玉木正之「4番打者論」@『プロ野球の友』など)。

 その意味では、イタリア・サッカーと日本野球には意外な(?)共通性がある。

日本野球こそ本来の「ベースボール」正統な継承者である!?
 アメリカ合衆国(米国)においても、もともと野球は「スモールベースボール」(スモールボール)こそが好ましいプレースタイルとされていた。スポーツライター・玉木正之氏『プロ野球の友』(1988年)に所収の「4番打者論」には、以下のような記述がある。
 アメリカのベースボール〔野球〕も、かつては……〈短打主義〉と、バント、ヒットエンドラン、スチールといった細かい作戦〔スモールベースボール〕が正統とされていた。ベーブ・ルースが投手としてデビューした1914年の新聞には、スポーツ欄のバッティング記録に、打率、犠打数、盗塁数の記載はあっても、ホームラン数など記録されていなかったくらいなのだ。さらに、ベースボール〔野球〕の正統派を自認するスポーツライターたちは、ホームランを姑息な手段と断じ、ホームランが増えれば作戦の面白さが失われ、野球が堕落すると警告し続けていた。

玉木正之「4番打者論」@『プロ野球の友』279~280頁
朱太字部分は原文では傍点(次の引用文も同じ)


プロ野球の友 (新潮文庫)
玉木 正之
新潮社
1988-03


 例えば、この「スモールベースボール」時代の、アメリカ大リーグ野球のスター選手が「球聖」ことタイ・カッブであった。玉木氏はさらに続ける。
 ところが、ベーブ・ルースが打者に転向し、1918年に11ホーマーの新記録(それ以前の記録は8ホーマー)、19年にファンの肝を抜く29ホーマーを打って、事態は一変した。白球が空高く舞い上がる美しさに対して、一般大衆が圧倒的な拍手で歓迎の意を表し、保守派の理屈は敗れ去ったのである。そして1920年に〔MLBの2大リーグのうち一方の〕アメリカン・リーグはボールの反発力を高めた〈飛ぶボール〉〔ライブボール〕の使用を決定。ルースが、その年54ホーマーを放ち、大リーグ〔MLB〕は、ホームラン時代、強打者〔スラッガー〕時代、「4番打者」〔クリンナップ・ヒッター〕による〈英雄時代〉の幕を開けたのだった。

 しかし、〔東京〕六大学野球の〈精神主義〉と〈短打主義〉のため、この大リーグの時代の流れは、一部の野球ファンの胸をときめかせただけで、日本の野球界にはまったくといいほど影響を及ぼさなかったのだ。

玉木正之「4番打者論」@『プロ野球の友』280頁
 しかし、この辺の事情は、野球ファンとしても有名な米国人の古生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドの、これまた有名な科学評論「妥当な打者~四割打者の絶滅と野球技術の向上」(『フルハウス~生命の全容』所収)を読むと少し違う。

 それによると……。保守的なアメリカ野球界は、ベーブ・ルース台頭による「ホームラン時代」の到来を苦々しく思っており、本来であれば思慮深いルール改正を行って、これにストップをかけていたであろう。だが、当時は米国球界を揺るがした八百長スキャンダル「ブラックソックス事件」の最中であり、米国球界は人気回復のために大衆迎合路線を取らざるを得ず、これを許容してしまった。

 だから「スモールベースボール」は下火になっていった……というのだ。

 これをもって、グールドは「タイ・カッブもうんざり」と書いている。

ベーブ・ルース(左)とタイ・カッブ(1920年)
【ベーブ・ルース(左)とタイ・カッブ】

 米国と地続きではない日本で、かつサッカーやラグビーのような英国系球技のような活発な国際交流もない野球のようなスポーツ(後述)で、日本野球が単純に「ホームラン時代」へと移行しなかったのは、むしろ当然と言える。

 ちなみに、米国人の日本野球観と言うと、ホワイティング氏のようなステレオタイプと偏見に満ちたものばかりと思われがちだが、そうでもない。この故グールド教授や、『虎とバット』の著者ウィリアム・W・ケリー教授(イェール大学,文化人類学,日本研究)のように、歪みのない「まなざし」で日本野球をとらえる人もいる。

虎とバット 阪神タイガースの社会人類学
ウィリアム・W・ケリー
ダイヤモンド社
2019-06-20



プロ野球観戦学
時事通信社
1999-07


 すなわち「日本型スモールベースボール」の起源のひとつとして、米国にあった「スモールベースボール」が、変容しつつも保存されていたという仮説も成り立つのである。

セイバーメトリクスによる「送りバント」批判は机上の空論(?)である
 あらためて、なぜイタリア・サッカーの「カテナチオ」には悪いイメージがなく、なぜ「日本型スモールベースボール」には悪いイメージがついて回るのか。

 要するに、サッカーにはオーソライズされたナショナルチーム(代表チーム)による国際試合や世界大会(FIFAワールドカップ=W杯)があるけれども、野球にはそのような国際試合や世界大会が存在しないからである。

 イタリア・サッカーは昨今こそ低迷気味とはいえ、何のかんの言ってもW杯で優勝4回。勝負強いサッカーのドイツには不思議と強く、華々しいサッカーのブラジルの攻撃をガッチリ受け止めては、しばしばこれらのサッカー大国に勝ってきた。だから、守備的だろうが勝利至上主義だと言われようが、イタリアのサッカーは世界的な敬意を受ける。

 一方、野球には「ワールド・ベースボール・クラシック」(WBC)なる、ナショナルチーム同士の対戦による世界大会があることにはあるし、日本はこの大会を、第1回(2006年)、第2回(2010年2009年)と連覇はしている。

 しかし、WBCは、権威づけられた大会ではない。第1回開催が21世紀に入ってからと、歴史的に遅く始まったためもある。しかし、それ以上に、WBCの事実上の「主催者」であるところの「アメリカ大リーグ」(MLB)に、WBCを権威的な大会にしようという姿勢がまったく見られないためでもある。だから、日本野球は国際的な評価を受けることは少ない。

 従来の打率や打点、防御率といった従来の野球の指標より、さらに精緻な統計である「セイバーメトリクス」の観点から分析しても「送りバント」は、やはり不合理な戦法だという指摘=批判もある。
  • 参照:菊田康彦「送りバントは〈消えゆく戦術〉なのか!? MLBで激減する理由を探る」2017年9月14日
 敢えて言うが、「実践」もないまま、こうした議論をいくら積み重ねても所詮は「机上の空論」にすぎない。「実践」とはひっきょう「オーソライズされたナショナルチームによる国際試合,世界大会」のことであり、その「場」において有効性なり無効性なりが「実証」されないかぎり、日本野球から送りバントが減ることはない。

各国ごとの「多様性」を認めないアメリカ・メジャーリーグ
 繰り返すが、イタリア・サッカーの「カテナチオ」に悪いイメージがないのは、サッカーというスポーツが、プレースタイルや観戦文化などで「多様」な在り方を併せ呑み、かつW杯などナショナルチームの「実践」の場において有効性が「実証」されていたからである。

 翻って「日本型スモールベースボール」にどこか後ろめたいイメージがついて回るのは、野球というスポーツがアメリカ大リーグ(MLB,メジャーリーグ)の流儀以外を「異端」と見なす風潮があり、かつWBCなどナショナルチームによる国際試合や世界大会がオーソライズされておらず、「実践」の場として機能していないからである。

 日本の野球ジャーナリズムでは、日本がアメリカと違っていると、そのこと自体がスポーツとして犯罪的に間違っていることにされてしまう。しかし、それは世界的で多様な「サッカー」的な視座からすると、ずいぶんとおかしな話である。

 独善的な一国主義で視野狭窄的なアメリカ野球界、そして米国人のロバート・ホワイティング氏には、そうした問題性は理解できないのであろう。

(了)




【註】
 むろん、当エントリーが言及しているのは、野球というスポーツそのものについてではない。