後藤健生さんの新説
 なぜ日本では、世界中で人気があるサッカーの人気が出なかったのか? なぜ野球の人気が先行してしまったのか? ……という難問は、日本サッカー史における最大の「謎」である。……と同時に、昔から珍説・奇説の宝庫であった。

 最近、この分野に「参戦」してきた人に、サッカージャーナリストの後藤健生さんがいる。その内容は、以下のようなものである。
 サッカーやラグビーよりも早く日本中に普及し、強化も進んだのは米国生まれのスポーツ、ベースボール(つまり野球)だった。その理由の1つは、米国人教師が数多く日本にやって来たからだ。1869年〔明治2〕にスエズ運河が開通したとはいえ、ヨーロッパから極東の島国に至るには距離的にも経費的にも負担は大きかった。一方、米国ではスエズ運河と同じ69年に大陸横断鉄道が開通しており、列車でカリフォルニア州まで来てサンフランシスコから乗船すれば、比較的容易に日本に来ることができた。そのため、全国の中学校〔大学ではなく中等学校でよいのか?〕には多くの米国人教師が赴任し、彼らはちょうど近代的なルールが確立したばかりの野球を日本に伝えたのだ。

後藤健生「さきがけは〈学校〉から」@『東京人』2019年8月号


  • 参照:
 引用部分だけでなく、全体の文脈を見ても、後藤さんの書き方が少し曖昧なこともあって、いくつか「?」と思う箇所がいくつかある*が、それはひとまず措(お)く。疑問を感じるのは、明治時代の「お雇い外国人」、特に教師の国籍の数は米国人が(圧倒的に?)他国を、なかんずく英国人より本当に多かったのか? ……ということである。

「お雇い外国人」教師の国籍
 後藤健生さんの考えは、あたかも明治時代前半の「お雇い外国人」教師の数は、欧州よりも日本と地理的に近い、野球を国技とする米国人が(圧倒的に?)多い。一方、欧州人のお雇い外国人、特にサッカーやラグビー(またはクリケット)を国技とする英国人の教師は少なかった……かのようにも読める。

 実際はどうだったのか。この件に関しては、歴史学者・故梅渓昇(うめたに・のぼる)氏の『お雇い外国人~明治日本の脇役たち』(講談社学術文庫)という優れた著作がある。この本に掲載された「お雇い外国人」に関するの統計に目を通してみた。

 詳しくは本に当たってほしいが、官費雇用の「お雇い外国人」の国籍で米国人の数が抜きんでて多かったことはない。むしろ、英国人の方が全体で圧倒的な多数を占めている。ただし、その内訳で多いのは工部省の雇いの技術者ではある。

 それでは教師の数はどうか? 梅渓氏の著作を参考にから文部省雇いの「お雇い外国人」を国籍別で表してみた(以下の表を参照)。文部省雇いの「お雇い外国人」の職務は、ほぼ「大学」の「教師」であると推定できるからである。

文部省「お雇い外国人」の国籍(単位:人)
  アメリカ イギリス フランス ドイツ その他
1872年(明治5) 6 5 4 8 1 24
1874年(明治7) 14 25 10 24 17 90
1879年(明治12) 14 7 5 12 12 50
1885年(明治18) 2 11 2 9 2 26
計(延べ人数) 36 48 21 53 32 190
梅渓昇『お雇い外国人』(講談社学術文庫)第4章より作成

 この表を見ても、米国人の数が英国人の数より多いとは言えない。参考までに出してみた「延べ人数」の合計では、米国人の数は、英国人の数よりも少なく、同じ欧州のフランスやドイツなどを加えた全体の比率では2割に満たない。**

 梅渓氏の著作にも書いているのだが、「お雇い外国人」が日本と母国を往来する際の交通費は、当然、日本側が負担している。明治政府が金をケチったために、「お雇い外国人」の国籍が、英国・ヨーロッパよりも米国が多かったという話は無い。

 いずれにせよ、「お雇い外国人」教師の数が、米国人の方が、英国人よりも多かったので、日本ではサッカーよりもラグビーの人気が出たという後藤健生氏の仮説は、成り立たないのではないか。

ベーツ先生とその弟子たち
 明治初期、米国人の「お雇い外国人」教師が日本人の学生に野球を教えても、全く定着しなかった実例がある。明治6年頃(1873)頃、北海道大学の前身に当たる開拓使仮学校で、米国人教師アルバート・G・ベーツが、日本人の学生たちに野球を教えた例である。

 この辺の事情は、後藤健生さんが大学・大学院時代に学恩のある、野球評論家でも有名な政治学者・池井優さん(いけい・まさる:慶應義塾大学教授,外交史ほか)の『白球太平洋を渡る』が紹介している。


 それは、開拓使仮学校(後の札幌農学校~北海道大学の)で学んだ伊藤一隆(中川翔子の高祖父としても知られる)の回想として、大島正建著『クラーク先生とその弟子たち』(何度も復刻されている名著,クラーク博士の「少年よ,大志を抱け」という言葉の元ネタ)に登場する逸話である。あえて孫引きなのは意図的なものである。
 明治6年(1873)頃、まだ東京にあった開拓使仮学校に、アルバート・G・ベーツという米国人の英語教師がやってきた。彼は好球家で、1本のバットと3個のボールも持参してきた。生徒たちを2チームに分け、野球の試合をさせたが、選手の〔日本人〕生徒たちは、ルールや技術の要点をなかなか理解できず、ベーツは苦心した。

 幸いにも、開拓使から米国に留学させていた開拓使仮学校の生徒3人、得能通要、大山助市、服部敬次郎が帰国して、彼らの指導によって野球の試合も少しは様になるようになった。そのうち、ボール2個が破損してしまった。代用品のボールは日本の靴工場で、バットは棒屋で作らせたが、出来ばえは不完全だった。だから、実際に野球の試合をするには苦心した。

 やがてベーツが注文した野球道具が届き、生徒たちの士気も上がった。しかし、ベーツは来日2年足らずで急死してしまい。生徒たちの野球熱も消えてしまった。

池井優『白球太平洋を渡る』5~8頁より大意・要約


 道具の調達がうまくいかなかったこと、米国人「お雇い外国人」教師ベーツの急死が、開拓使仮学校での野球普及が挫折した主な理由である。

球技スポーツが日本に定着するセオリーとは?
 とにかく、米国人の「お雇い外国人」教師が英国のそれより多かったから、日本ではサッカーより野球の人気が出た……と、いう理由ではなさそうである。

 開拓使仮学校の逸話からは、ある国(少なくとも日本で)で特定の球技スポーツを「普及」させるための仮説や経験則がいくつか導き出せる。
  •  たとえ野球であっても(むろんサッカーでも)、外国人が持ち込んで現地の人たち(日本人たち)にちょっとプレーさせてみたくらいでは、現地の人たちがその球技スポーツの面白さを理解することはない。したがってその国には「普及」しない。
  •  ボールやバットなど、そもそも道具が揃わないと、その球技スポーツ自体ができない。本物がない場合は地元で代用品を作ることになるが、出来が悪いと「普及」に支障が出る(付け足すと,その球技をプレーできる広い「土地」も必要になる)。
  •  熱心な指導者がいて継続的に活動しないと、その球技スポーツは「普及」しない。その人に任期が来て帰国したり、客死したりすると「普及」活動が後々まで続かない。
 以上の仮説は、当ブログの独創ではない。神戸市外国語大学の元教授(スポーツ学)で日本クリケット協会会長・山田誠さんの論文「ニューカレドニアンクリケットの研究-2-」に登場する話である。
  • 参照:
 山田誠さんは、野球やサッカーと同じく明治初期に紹介されながら、一度は廃れてしまった英国の球技「クリケット」(野球と同じ系統のバット・アンド・ボール・ゲーム)を、あらためて日本で普及させようという、近年まれに見る実践を行った人である。

日本国某所で行われた「クリケット」の練習風景(2019年)
【日本国某所で行われた「クリケット」の練習風景(2019年)】

 それだけに、後藤健生氏や、あるいは玉木正之氏やロバート・ホワイティング氏の「仮説」よりも強い説得力がある。

スポーツの普及は日本人自身の働きかけによるもの
 使用に耐えうる「道具」の調達と、充分な広さをもった「土地」の確保と、普及に熱心な「指導者」の存在と、3つの物理的条件が揃えて、サッカーよりもラグビーよりも先行して日本に野球を普及させたのは、米国人ではなく日本人である。すなわち、明治11年(1978)から明治20年(1887)頃にかけて、「新橋アスレチック倶楽部」を創設して野球の伝統に努めた平岡熈(ひらおか・ひろし)である。

 この件についてはいろいろ書いてきたから、ここでは繰り返さない(下記のリンク先を参照いただければ幸甚である.もっとも後藤健生氏によると平岡熈は公費留学ではなく私費留学だそうで,その辺の当ブログの思い違いは寛恕を請い願うものであります)。
  • 参照:
 野球にせよ、サッカーにせよ、ラグビーにせよ、その歴史を検証してみると、日本に定着したのは、単なる「お雇い外国人」による紹介ではなく、日本人による主体的な働きかけによるものなのは、とても興味深い。

 すなわち、サッカーにおいては東京高等師範学校(東京高師,後の筑波大学)の中村覚之助であり(下記リンク先を参照)、ラグビーにおいては慶應義塾のエドワード・B・クラークと田中銀之助。ちなみにE・B・クラークは「お雇い外国人」ではなく「在日英国人」である。
  • 参照:
 「お雇い外国人」の紹介であろうと、日本人の紹介であろうと、物理的な条件な揃わないと、その球技スポーツは普及・定着することはないと……書いた。例えば「土地」の確保についてはどうだろうか? 野球、サッカー、ラグビー、三者三様、けっこう手間暇がかかっているのである。

野球=品川,サッカー=大塚,ラグビー=麻布,それぞれの出発点
 野球に関しては、「新橋アスレチック倶楽部」の平岡熈が、奉職先の工部省鉄道局の八ツ山下(東京・品川)の車庫のそばに「保健場」と名付けられた専用グラウンドを持っていたことが知られている(池井優『白球太平洋を渡る』20頁)。

 おそらく平岡本人の私有地ではなかったであろうし、何がしかの条件で(契約で?)使用させてもらった(工部省鉄道局から?)であろう。従来の日本野球の黎明史には、こうした瑣末ではあるが、しかし重大な事情が伝えられることはない。学界のスポーツ史学やスポーツ社会学が、この辺の分野に未開拓なのだとしたら、非常に残念な話である。

 サッカーの場合、雑木雑草に埋められていた東京・大塚の新運動場の予定地を、中村覚之助と東京高師のサッカー部員たちと整地した(下記リンク先参照)。
  • 参照:
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 白線を引くための石灰が手に入らなかったので、フィールドに棕櫚縄(しゅろなわ)を張り、ゴールを立ててサッカーの練習を開始したとある。そして1904年(明治37)に横浜の外国人クラブと日本初の対外試合を行う。この様子が新聞で全国に紹介されたら、全国の中等学校からサッカーの指導依頼が来て、東京高師の部員が各地に指導のために出張したという話が伝わっている。

 最後にラグビーになるが、ラグビー史研究家・秋山陽一氏のWEBサイト、旧「日本フットボール考古学会」には、「E・B・クラークが慶應義塾の学生(塾生か?)にラグビーやクリケットを教え始めるが,試合ができるような体制になるのは,東京・麻布の〈仙台ヶ原〉という土地にグラウンドを移してからのこと」と紹介されていた(下記リンク先参照)。
 佐山一郎氏は、ラグビーにはサッカーにはない「相撲のぶちかましの要素」があるから、同じフットボールでもサッカーよりもラグビーの方が「日本人」の感性にかなっており、だから、長らく日本ではサッカーよりラグビーの人気が高かった……などと語っている(佐山一郎『日本サッカー辛航紀』より)。

 しかし、日本ラグビー伝来の時点で慶應義塾が「仙台ヶ原」に土地を持っていて、ラグビー部(蹴球部)に使わせなかったら、ラグビーはサッカーより普及が遅れていたかもしれない。

「なぜ…を問う」から「いかに…を問う」べきである
 明治時代の日本において、野球の人気がサッカーやラグビーに先行したことは、歴史の偶然であり、必然ではない。

 従来の所説は、明治初期にさまざまなスポーツが、ほぼ同時期に日本に紹介された。その中で、野球だけが突出した人気を得たために、それは「なぜ」なのか? そこに何か日本固有の理由があるに違いない。……という視点が多かった。

 しかし、クリケットを研究・実践する山田誠さんの仮説のように、スポーツの普及には「道具」「場所」「指導者」の3条件の充足が重要であるという仮説から、野球やサッカー、ラグビーが「いかに」日本に定着してきたのか? ……という視点で歴史を振り返ってみると、この3競技の日本への本格的な紹介は必ずしも同時期ではなかった、だいたい「野球」と「サッカー,ラグビー」で四半世紀の時代的なズレがあったことが分かる。

 「なぜ」野球だったのか? 「なぜ」サッカーではなかったのか? ……ではない。

 バットやボール、スパイクシューズを「いかに」調達したか? 野球やサッカーやラグビーを行うフィールドを「いかに」確保したか? 整地したか? 野球もサッカーもラグビーも、その知識がゼロの人たちに、どんな人は「いかに」指導をしていったのか?

 こうした、細かい事実の「いかに」を洗い出す、地道な実証的研究を積み重ねていくことで、日本のスポーツ文化の全体像が本当の意味で理解できるだろう。

 この点では、後藤健生さんの新説(仮説)もまた厳しく審査されなければならない。

(2/2につづく)




【註】
 * 一般の理解では、欧米の近代スポーツは、明治初期、まず「お雇い外国人」教師によって「大学」に相当する官立学校に伝えられ、そこから、明治中後期以降、地方の「中学校」(旧制の中等学校)にも伝わっていった……というものである。

 そして、後藤健生さんの記事にある「米国人教師」とは、いわゆる「お雇い外国人」教師、特に官立学校の教師のことだと思うが(違うのだろうか?)、明治初期、この人たちが教鞭をとったのは「中学校」ではなく「大学」が主だったはずではないのか?

 後藤さんの、何かの思い違いが校正・校閲を通って誌面に出たのではないのであれば、これは全くの「新説」ということになり、あらためて詳しい説明が必要になる(違うような気がするのだが)。

 **  梅渓氏が調査したのは官費雇いの「お雇い外国人」のみであり、個人雇いの私的お雇い外国人や宣教師については調査する時間がなかったという。