国際的なスポーツイベントと元号との相性
 「令和」改元にちなんで、NHKは2019年4月に「もう一度見たい!平成のスポーツ中継」というシリーズ番組を放送した。夏・冬のオリンピック、ラグビーW杯(男子日本代表)、サッカーW杯(男女日本代表)、野球のアメリカ大リーグ(イチロー)と、なかなか有難い企画であった。


 だが、なでしこジャパン(サッカー女子日本代表)のW杯優勝(2011年)が「平成23年」、サッカー男子日本代表の「ジョホールバルの歓喜」(1997年)が「平成9年」と言われても、今ひとつピンと来ない。五輪もW杯も大リーグも、国際的なスポーツイベントは、みな西暦で動いているからだ。

 元号を先に出して、平成23年とか、平成9年とか言われても、はて? いつの時代だったか? ……とかえって不安になる人が、少なからずいるからだ。

十干十二支とは?
 改元は不規則である。これは一世一元制を採用した明治以降(1968年~)も、それ以前(江戸時代まで)も、変わらない。つまり、元号だけだと自分がいつの時間軸にいるのか不安になる。そこで現代では西暦を併用することになるが、それでは西暦が通用していなかった江戸時代までは、何を使っていたか? 十干十二支(六十干支)である。

 例の、辛酉(シンユウ)革命、甲子(コウシ)改元、辛亥(シンガイ)革命、甲子(コウシ)園球場、庚午(コウゴ)年籍、壬申(ジンシン)の乱、戊辰(ボシン)戦争、壬申(ジンシン)戸籍、丙午(ひのえうま)の女性は気性が荒いという迷信……などといった、十干と十二支の組み合わせで60年で一巡り(還暦)する紀年法である。
 だから、昔の古文書の日付には「文化元年甲子五月二十三日」のような形で書かれているがある。ちなみに、文化元年=甲子=西暦1804年である。

サッカーは契約社会のスポーツ?
 大学やカルチャーセンターなどで「古文書」(くずし字で書かれた古い記録・史料)の授業を受けると、そのテキストとして借金の証文が使われることが多い。借金の証文など、権利関係の文書は特に大事に保管され、現代まで伝わることが多いからである。

 ……と、ここまで書いてきて、佐山一郎氏の著作『Jリーグよ!』に所収された、佐山氏と佐山氏のご夫人との対談での「あるやり取り」を、にわかに思い出してしまった。
  要するに言いたいことは何。

 〔佐山一郎氏〕 つまりサッカーの世界〔欧米〕は、本来的に厳しい契約・対決社会の産物でもあるということなんだ……。

佐山一郎『Jリーグよ!』163頁


佐山一郎氏(ホームラン1991年2月号)
【佐山一郎氏@『ホームラン』誌1991年2月号より】


Jリーグよ!―サッカー めざめの年に
佐山 一郎
オプトコミュニケーションズ
1993-12


 佐山氏が「要するに言いたいことは何」かと言うと、翻って日本は、契約社会である欧米とは対照的な「非契約社会」=「黙約(もくやく)社会」である。すなわち日本は「契約」観念の薄い「非サッカー的」な社会である。とどのつまり「日本人はサッカーに向いていない」と言いたいのである。

 よく知られた著作に久枝浩平著『契約の社会・黙約の社会~日米にみるビジネス風土』というのがあり、日本は「契約」を重んじない「黙約」社会だという通念は、日本人の間に広く浸透している。

 ここでも、日本サッカー論壇の作法である「日本的=非サッカー的/非日本的=サッカー的」という二元論、あるいは二項対立の図式が透けて見える。サッカーと同じくらい、日本人論・日本文化論を愛好する佐山一郎氏も、『契約の社会・黙約の社会』は読んでいるかもしれない。

 しかし、である。借金とはひっきょう「契約」である。日本に古文書に借金の証文がたくさん残っているということは、つまり、歴史的・文化的に日本は「契約」を重んじない社会とは言えないのである。

 一方、「欧米」に当たるオーストラリアでは、功成り名を遂げた実業家が「自分は,いかに正規の契約書に依らずに,友人と口約束と握手=黙約=だけで何百万ドルもの事業を成功させたか」を自慢するようなテレビ番組があったという。

 以上は、オーストラリア在住の社会学者・杉本良夫氏とロス・マオア氏が『「日本人論」の方程式』(初版『日本人は「日本的」か』)で報告するところである。

 とまれ、欧米は契約社会、日本は非契約=黙約社会。サッカーは契約社会のスポーツ、だから、日本人はサッカーに向いていないなどと言った(要するに,これは「サッカーは〈狩猟民族〉のスポーツ」説の〈変数〉を変えただけの論理なのだ)、通俗的なサッカー文化論を真に受けることには、もう少し慎重になりましょう。

 それが、これからのサッカーファンのリテラシーですよ……という話である。

「横綱免許状」から読む「元号」と「十干十二支」の関係
 話を戻して、例えば、享和四年一月二十日に成立した借金の「契約書」。この日付を「享和四年甲子一月二十日」としておけば、同年、二月十一日に御上の命令で「文化」と改元されても、同じ借金の「契約」はあくまで「甲子」の年だと、その内容を曖昧ウヤムヤにされずに済む。……というメリットはある。

 しかし、残念な話だが、十干十二支は、昨今、占いや特殊な暦などを除いて重んじられなくなっている。その歴史的変遷が分かる一連のテキストはないだろうか……と考えていたら、そうだ、大相撲の横綱免許状があったとハタと思い当たった。

不知火光右衛門(錦絵)
【第11代横綱・不知火光右衛門】

 かつて、大相撲の最高位「横綱」とは「免許」されるものだった。熊本に「吉田司家」(よしだ・つかさけ)という大相撲の家元がいた。当主は代々「吉田追風」(よしだ・おいかぜ)の名を世襲し、日本相撲協会が推挙した力士を審査し、ふさわしいと判断したとき、横綱を「免許」する。こんな慣例が、第二次大戦後、しばらくの間まで続いた。

 現在では、その吉田司家が没落してしまったので、「横綱」は日本相撲協会が独自に「推挙」することになっているが。

 まずは、江戸時代の大横綱「谷風」の免許状である。
第4代「谷風」横綱免許
  免  許
 一、横綱之事
右者谷風梶之助依相撲之位授與畢以來片屋入之節迄相用可申候仍如件
  寛政元己酉年十一月十九日
        本朝相撲之司御行司十九代
               吉田追風 判 朱印

(「相撲隠雲解」より.ほかに写本あり,字句が異なる)

坪田敦緒「横綱(三十三)免許状から@相撲評論家之頁」より(以下同じ)
http://tsubotaa.la.coocan.jp/yokoki/yokoki33.html
 「谷風は相撲の品格・力量を極めたので,横綱を授与し,これを締めて土俵入りすることを免許した」くらいの文意か。年号にある寛政元年は西暦1789年、十干十二支では「己酉」(つちのととり,キユウ)ある。

 この年、ジョージ・ワシントンがアメリカ合衆国大統領に就任、フランス革命勃発など、有名な出来事が起こっている。

 次は谷風と同時に横綱を免許された「小野川」である。
第5代「小野川」証状
  證  状
        當時久留米御抱
         小野川喜三郎
右小野川喜三郎今度相撲力士故實門弟召加候仍證状如件
  寛政元十一月十九日
        本朝相撲之司御行司十九代
               吉田追風 判 朱印

(「相撲隠雲解」より.ほかに写本あり,字句が異なる)
 もっとも、その書状の題名や文言は「證状」(証状)であり、谷風とは異なっていて、この辺は好角家の間でいろいろ議論の的になっている。「このたび,小野川を(吉田司家の)大相撲の故実の門弟として召し加えることを証明する」といったところか。またこちらの日付は、十二支の「酉」(とり)年だけの表記になっている。

 次に、吉田司家と大相撲の家元の本家争いをしていた、京都の五條家という公家(最終的に吉田司家に屈服する)が、第7代横綱「稲妻」に発給した横綱免許状である。
第7代「稲妻」五條家横綱免許
   證
一、紫化粧廻し
一、注連縄
 右此度願に依り被下之仍而證状如件
   文政十一戊子年七月
          五條家役所印
 稲妻雷五郎殿

(「江戸時代の大相撲」より引用)
 文政11年は西暦1828年、十干十二支では「戊子」(つちのえね,ボシ)。この年、明治維新の三傑のひとり、西郷隆盛が誕生。

横綱免許状から十干十二支が消えた
 ところが、明治時代も後半となると、横綱免許状の日付に十干十二支が入らなくなる。明治末期~大正期に活躍した「太刀山」の免許状である。
第22代「太刀山」横綱免許
  免許状
        越中國人
         太刀山峰右衞門
右者依相撲之位横綱令授與畢以来方屋入之節迄相用可申候依而免許状如件
        本朝相撲司御行司
 明治四十四年   第二十三世
  十月二十四日   吉田追風 印 花押

(「太刀山」より)
 明治44年は西暦1911年、十干十二支では「辛亥」(かのとい,シンガイ)。この年、中国清朝が打倒された「辛亥革命」で中華民国が成立。また、ノルウェーの探検家アムンセンが、人類史上初めて南極点に到達した。

 こうした十干十二支が記載されていない日付は、昭和戦前・戦中期の大横綱「双葉山」の横綱免許状も同様である。
第35代「双葉山」横綱免許
  免許状
        豊前國
          双葉山定次
右依相撲之位横綱令免許畢以来方屋入之節迄相用可申候依而免許状如件
   昭和十二年十一月吉日
        本朝相撲司御行司
          第二十三世
           吉田追風 印 花押

(大相撲写真画報「双葉山」より)
 昭和12年は西暦1937年、十干十二支では「丁丑」(ひのとうし、テイチュウ)。この年、盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まった。

 参考までに、昭和戦後、日本相撲協会が独自に横綱を「推挙」することになった最初の例、「千代ノ山」(千代の山)の「横綱推挙状」を引用する。
第41代「千代ノ山」横綱推挙状
          千代ノ山雅信
品格力量抜群に付横綱に推擧す
     印
   昭和二十六年五月二十八日
      財團法人大日本相撲協會
       理事長取締 出羽海秀光   印
        常務取締 春日野剛史   印
        常務取締 時津風定次   印
        取  締 立浪彌右エ門  印
        取  締 伊勢ヶ濱勘太夫 印

(千代の山・千代の富士記念館蔵)
 昭和26年は西暦1951年、十干十二支では「辛卯」(かのとう,シンボウ)。この年、サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が結ばれている。

元号のみの表記は「創られた伝統」?
 大雑把な考察になってしまい、読者にはご寛恕を請うばかりであるが、文書を書く時の習わしに、江戸時代までと「御一新」の明治以降とでは断絶があり、日付から「元号」と「十干十二支」を併せて記載する習慣が衰退していったのではないか……と仮説する。

 この辺は、近代日本の来し方、近代天皇制の成立と来し方などと関係があるのかもしれない。どなたか学界で、この件に関して研究している人がいるのだろうか。論文を書かれている例があるのだろうか。ご存知の方がいらっしゃいましたら、紹介いただけると幸甚です。

 日本人の「十干十二支」という時間軸の感覚は、大正13年=西暦1924年ごろまでは残っていたらしい。このことは、同年、兵庫県西宮市に竣工した野球場「阪神甲子園球場」の命名からも推察できる。この年は、十干十二支で最初の「甲子」(きのえね,コウシまたはカッシ)の年であり、江戸時代までは、甲子の年はほぼ必ず改元されていた。

 ところが、この時間感覚は、遅くとも第二次大戦後には完全に潰(つい)えてしまった。

 「元号は,今では日本にのみ伝わる固有の文化・伝統です」と誇って語る人がいる。しかし、日付を「元号」のみで記載するのは、伝統的なやり方ではない。本当に伝統的なのは、「元号」と「十干十二支」を併記する記載である。

 「元号」のみの記載は「創られた伝統」、「元号」と「十干十二支」の併記は本来の伝統、あるいは「消えた伝統」と言えるかもしれない。

 公文書が元号と西暦で併記することをあくまで拒むならば、元号と十干十二支を併記するやりかたこそ、ぜひ復権するべきである。すなわち「令和元年 己亥(つちのとい,キガイ)」である。

 ちなみに、佐山一郎氏が、自身のサッカーライティングの有終と位置付け、西暦2018年に上梓した『日本サッカー辛航紀』の前文「はじめに」では、文末に堂々と「平成三〇年 戊戌〔つちのえいぬ〕 早春」と書かれてある。

 これこそ、あるべき紀年の表記と言える。

(了)