日本人に合っているのはサッカーではなく野球である!?
 スポーツライター・玉木正之氏のWEB連載「スポーツって、なんだ?」。その第15回で、玉木氏は「日本で野球が人気なのはなぜ?」という、香ばしいネタをブッ込んできた。
玉木正之の「スポーツって、なんだ?」#15 日本で野球が人気なのはなぜ?
2020年の東京オリンピックに向けて、スポーツを知的に楽しむために──
数多くのTV番組に出演し、多岐に渡って活躍するスポーツ評論家の玉木正之さんが、文化としてのスポーツの魅力を解き明かす。
第15回では、西洋から日本に伝わったスポーツのなかで、なぜ野球が人気を得たのか、その歴史的・文化的背景に迫ります。
(詳細は下記ツイッターのリンク先参照)



 要するに、玉木正之氏は、野球は日本人の「歴史的・文化的背景」に適していた。しかし、サッカーは適していない。サッカー日本代表が弱い(?)のも、Jリーグがプロ野球に人気で勝てない(?)のも、そのせいだ……ということが言いたいのである。

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【玉木正之氏】

 こんなことを言われると、多くのサッカーファンはビビってしまう。しかし、心・配・御・無・用! 玉木説は全部デタラメなので、簡単かつ徹底的に反駁できる。

玉木正之氏の持説「野球=ドラマ論」
 玉木正之氏の「日本で野球が人気なのはなぜ?」という問いには、常に奇妙な「疑似回答」がついて回る。それは次のようなものだ。
 ではなぜ日本では、多くのスポーツ(ボールゲーム)のなかで、野球(ベースボール)だけが突出した人気を博したのか?〔中略〕

 本連載〔玉木正之の「スポーツって、なんだ?」〕をお読みの読者は気づかれたかとも思うが、野球のように試合中の中断〔間=ま〕の多い球技は、その時間を利用して観客がさまざまな「ドラマ」を思い浮かべることができる。

 だから少々野球のルールがわからなくても、苦しんでいると思われる投手に「がんばれ!」と声援を送ったり、チャンスだと思える打者に「それいけ!」と励ましたりすることができる。

 つまりベースボール〔野球〕のような、アメリカ型のドラマ性の高い〔中断の多い=間の多い〕球技は、競技のルールや選手の技術、試合の戦略や戦術などを知らない人々〔日本人?〕にとっても、とっつきやすいスポーツと言えるのだ。〔以下略〕

 野球以外の他のスポーツ、例えば、サッカーやラグビーなどは純粋に「スポーツ」だが、中断(間=ま)の多い野球というスポーツは、その中に「ドラマ」を見出せる。

 玉木正之氏に言わせると、日本人はスポーツの本質を理解できない国民ないし民族らしい。日本人は「スポーツ」ではなく「ドラマ」を好む。だから、日本人の間では、サッカーやラグビーといった「スポーツ」よりも、「ドラマ」として楽しめる野球の人気が出た……という論法を、玉木氏は唱えている。

 これまた「玉木正之スポーツ学」(学?)の根本をなすもので、玉木氏の実にざまざまな著作でお目にかかれる。それにしても、こんな奇々怪々な持説「野球=ドラマ論」は、いったいどこから来たのだろうか?

「野球=ドラマ論」の淵源
 1999年刊、著者・玉木正之氏が「25年間のスポーツライター人生の総決算」「スポーツ後進国・日本への直言!」と銘打った『スポーツとは何か』という本には、アメリカ合衆国とヨーロッパのスポーツ文化を比較した、次のような(これも不思議な)「野球=ドラマ論」が載っている。
 〔野球に〕これほど「間」〔ま〕が多いのは、アメリカが〈演劇の文化的基盤がない国〉だったから、という指摘がある。開拓時代は原住民との闘い等で劇場を造る余裕がなく、演劇が発達しなかった。演劇を楽しまなかった分、その役割を広場でプレイされるボールゲームに求めた。観客は、プレイがとぎれる「間」のうちに、プレイヤーが何を考えているのか、次は何をしようとしているのか、といったことを想像し、頭の中でドラマを楽しんだ。

 一方、ヨーロッパでは、シェークスピアやモリエール以来の演劇、モーツァルトやロッシーニ以来のオペラが、大衆に楽しまれていた。そこで、ドラマや演劇やオペラにまかせ、スポーツでは、「間」がなく、終始動きつづけるプレイが好まれるようになった。

玉木正之『スポーツとは何か』34頁

 引用文中の部分には後注があり、その出典は《玉木正之・編/虫明亜呂無『時さえ忘れて』(「芝生の上のレモン」ちくま文庫)》(同書195頁)とある。

 どうやら「野球=ドラマ説」の淵源は、虫明亜呂無(むしあけ・あろむ,1923~1991)らしいのである。

そもそも虫明亜呂無とは「誰」なのか?
 それでは、虫明亜呂無は「芝生の上のレモン」で何を語っているのだろうか?
 アメリカ〔合衆国〕ではサッカーも、ラグビーもさかんではない。

 さかんなのは、アメリカン・フットボール、野球、そしてゴルフ。

 いずれもゲームの合間合間に時間を必要とするスポーツである。合間はスポーツをスポーツとしてたのしませるよりも、むしろ、ドラマとしてたのしませる傾向に人を持ってゆく。合間の、間のとりかたに、選手はいろんなことを考える。彼の日常の倫理がすべて投入される。間をいれることで、ゲームはクライマックスにちかづいていく。観客はそれをたのしむ。実際、無造作にポン、ポン、ポンと投手が投げて、打者がバッティング・マシンのように、そのボールを打ちかえしていたのでは、およそ、つまらない野球になってしまうであろう。

 反面、間の取りかたに、不必要な思いいれが入ってくる余地をのこしている。プロのように、見せることが第一条件のスポーツでは、その傾向が特に強調される。スポーツとしての要素よりも、芝居としての要素がどうしても強く要望されるわけである。

 野球やアメリカン・フットボールは芝居の伝統のない国〔アメリカ合衆国〕が作った。土や芝居のうえの、脚本も背景も、ストーリーも必要としない単純な芝居ではないだろうか。演劇の文化的基盤のない国〔アメリカ合衆国〕、それがプロ野球を楽しむ。スポーツとしてではなく、ドラマとしての野球を。それも素人の三流芝居を。

 日本のプロ野球も、この傾向を追っている。〔以下略〕

虫明亜呂無「芝生の上のレモン」@『時さえ忘れて』162~163頁

 「開拓時代は原住民との闘い等で劇場を造る余裕がなく、演劇が発達しなかった」といった細かい事情や、シェークスピアだのモーツァルトだのといった具体名は、玉木正之氏による話の増幅のようである。それでは、虫明亜呂無とは何者なのか?
虫明亜呂無(むしあけ・あろむ)
 1923年(大正12)、東京生まれ。文芸批評、映画、スポーツ評論、エッセイなど幅広く活動。小説『シャガールの馬』で1979(昭和54年)の直木賞候補。情感のある独得の文体で知られる。著書に『スポーツ人間学』『私の競馬教室』『スポーツへの誘惑』『クラナッハの絵』『ロマンチック街道』『時さえ忘れて』など。また記録映画『札幌オリンピック』のシナリオも担当した。1991(平成3年)、死去。

虫明亜呂無(肖像)
【虫明亜呂無】
 さまざまな分野で健筆をふるってきた人であるが、特に、いわゆる「スポーツライター」の走りであるということ、「情感のある独得の文体」だったことを、まずは押さえておきたい。

 1983年に病に倒れた後、ずっと闘病生活にあったので、実際に活動していた時期はずっと短い。虫明亜呂無は、同時代には非常に著名であるが、世代によっては馴染みの薄い人物かもしれない。

 玉木正之氏は虫明亜呂無に深く私淑している。亡くなった1991年に、彼のスポーツライティングを蒐集した『虫明亜呂無の本』全3巻を編集、筑摩書房からで刊行している。


 21世紀の今日、私たちが、虫明亜呂無のスポーツライティングを、まとまった形で比較的簡単に読めるのは、玉木正之氏の功績である。公平を期すために、この点はアピールしておきたい。

 スポーツライターとしての玉木正之氏の思想・人格は、虫明亜呂無や蓮實重彦(草野進名義を含む)、あるいは鈴木武樹といった人たちの影響を受けて形成されている。

虫明亜呂無&玉木正之説(野球=ドラマ説)への素朴な疑問
 それにしても、「野球=ドラマ説」とは、ずいぶんと安易な論理の飛躍としか思えない。虫明亜呂無と玉木正之氏の所説には、素朴な疑問がいくらでも出てくる。

[競技の分かりやすさ] 玉木正之氏は「ベースボール〔野球〕のような、アメリカ型のドラマ性の高い〔中断の多い=間の多い〕球技は、競技のルールや選手の技術、試合の戦略や戦術などを知らない人々〔日本人?〕にとっても、とっつきやすいスポーツと言える」などと断定する。が……。

 ……しかし、実際には、野球よりサッカー(フットボール系の球技)の方が、細かいルールや試合の戦術など分からなくても楽しめる競技ではないか。

 お気に入りのチームが、敵陣のゴールに迫れば脈拍が上がり、ゴールすれば歓喜する。自陣のゴール近くまで攻め込まれれば悲鳴を上げ、ゴールされれば落胆する。その簡潔な面白さを、ふだんはJリーグにも欧州サッカーにも関心のない日本国民も、2018年のロシアW杯で存分に味わったはずだ。

 一方、野球は、投手が投げる球を打者が売ったら、「なぜ」打者側から見て右に走らなければならないのか? 打者が球を遠くに飛ばしても、一度は地面につかないと「なぜ」駄目なのか? ……等々、野球はそこから覚えなければならない。

 野球は日本人の「歴史的・文化的背景」に適していた……という前提で逆算して論じるから、どこかで話が破綻する。むろん、日本人の「歴史的・文化的背景」に適していたから、日本で野球の人気がサッカーやラグビーより人気が出たというのは、間違いである。

 当ブログは、野球とサッカーの「面白さ」の優劣を論じているのではない。そんなものは存在しない。野球にせよ、サッカーにせよ、それぞれの競技の面白さは、それぞれ固有のものである。だから、両者を比べることはできない。

[演劇文化とクリケット] 欧州にはシェークスピアを筆頭に演劇の文化が確立しているから、野球(やアメフト)のような中断=「間」(ま)の多いスポーツは人気が出ない。一方、米国は「演劇の文化的基盤がない国」なので、野球(やアメフト)のような中断=「間」の多いスポーツに人気が出る……というのが「野球=ドラマ説」である。

 しかし、その偉大な劇作家シェークスピアの国=英国で(さらに英連邦諸国で)、「クリケット」という、野球と同類である「バット・アンド・ボール・ゲーム」(フットボール系の球技などに対して,このように呼称する)の人気があるのは、なぜだろうか? クリケットはフットボール(サッカー,ラグビー)と並ぶ、英国の「国技」である。

クリケット
【クリケット】

野球
【野球】

 こうした事実の見落としだけでも「野球=ドラマ説」は、たやすく壊れてしまう。この手の事実誤認が多い玉木正之氏はともかく(笑)、虫明亜呂無がこんな簡単なことを忘却するのは、相当な失策ではないだろうか。

 たいていの「日本で野球が人気なのはなぜ?」という問いの疑似回答は、「だから,サッカーではなく野球だったのだ」という理屈が圧倒的に多い。しかし、なぜ「クリケットではなく,野球だったのか」という説明が足りない。明治初期、クリケットも西洋から日本に紹介されているのであり、「野球=ドラマ説」は論理的欠陥を抱えている。

 ついでながら、ブロードウェーの舞台演劇(ミュージカルなど)、ハリウッドの映画やテレビドラマなど、世界的なコンテンツ産業を抱えるアメリカ合衆国が、「演劇の文化的基盤がない国」だとは、素人にはとても思えないのだが。

虫明亜呂無説は学問的検証に堪えられるのか?
 「野球やアメリカン・フットボールは芝居の伝統のない国〔アメリカ合衆国〕が作った。土や芝居のうえの、脚本も背景も、ストーリーも必要としない単純な芝居ではないだろうか」……と、虫明亜呂無は事も無げに述べるが、その根拠はいったい何だろうか?

 だいたい、特定の国に「演劇の伝統,文化的基盤」があるだの、ないだの、どうやって証明(統計? 数値化?)するのか? そんなものがあったとして(あるのか?)、その国のスポーツ文化とどう関係があるのか? そんなことが本当に証明できるのだろうか?

 虫明亜呂無をして「情感のある独得の文体」と解説した。俗っぽく言えば、虫明亜呂無は他のスポーツライター、スポーツ評論家と比べても非常に「文学的」である。その「文学性」、背後にある思考・思想は「学問的」な吟味とは、相性がよくない。

 井上章一氏(評論家.文化史,建築史,意匠論)は、著書『阪神タイガースの正体』で、虫明亜呂無が少年時代に観戦した、戦前の日本プロ野球(職業野球)の回顧録(?)を引用しつつ、次のような感想を書いている。
 「球場には頽廃〔たいはい〕と淪落〔りんらく〕の風情がたちこめていた。だから、僕〔虫明亜呂無〕は職業野球にひかれた……子供心に、職業野球が好きなようでは、自分はいつか世の中から遠ざけられ、拒まれていくだろうと思った」

〔虫明亜呂無「忘れじの〈巨-神戦〉名場面あれこれ」@『現代』1974年8月号〕


 一種の反俗的な陋巷〔ろうこう〕趣味というべきか。世の中から逸脱したデカダンスな芳香にひきよせられる。それで自分も堕落していくだろうという予想に、ナルシズムを抱いている。〔虫明亜呂無は〕ずいぶんませた少年ではあった。

 もちろん、こういう文章を、社会史的な資料〔史料〕としてあつかうことには、問題があろう。頽廃の美を初期プロ野球に仮託して語りたい。そんな作文上の要請で、プロ〔野球〕の一面が誇張されている。また、早熟な少年〔虫明亜呂無〕の幻想が投影された部分も、ないとは言えないからである。

井上章一『阪神タイガースの正体』206頁

阪神タイガースの正体
井上 章一
太田出版
2001-03


阪神タイガースの正体 (朝日文庫)
井上章一
朝日新聞出版
2017-02-06


 井上氏は、虫明のスタンスに留保をつけているが、そのことを傍証する「実例」がある。

 近年、1936年(昭和11)のプロ野球日本一決定戦「巨人vs阪神」の試合の映像が発見され、幻の大投手・沢村栄治が投げる動画が見つかった! ……と、大変な話題になった。この試合の映像を見ると、小さい野球場(今は亡い洲崎球場)だが、観客はかなり入っているし、試合後(興奮のあまり?)観客が座布団を投げるシーンまである。

【洲崎球場 昭和11年12月11日「東京ジャイアンツvs大阪タイガースの優勝決定戦」繁岡ケンイチ】
 これを見る限り、当時のプロ野球が、一面的に「球場には頽廃〔たいはい〕と淪落〔りんらく〕の風情がたちこめていた」とも言い難い。つまり、虫明亜呂無の回顧談は、一種の「文学」であり、創作であって、「こういう文章を、社会史的な資料〔史料〕としてあつかうことには、問題があ」るのではないだろうか。

玉木正之氏の源流=虫明亜呂無こそ批判するべし
 虫明亜呂無を批判する人は、なかなかいない。粋人(すいじん)なのは確かだから、下手に批判すると、虫明を批判した側が「無粋」呼ばわりされかねないからである。玉木正之氏を揶揄(やゆ)したことがある藤島大氏も、その源流に位置する虫明亜呂無に関しては称揚している。

 しかし、虫明亜呂無と玉木正之氏は「師弟」関係にある。エピゴーネンは「師匠筋」の良いところを鵜呑(うの)みにし、悪いこところを拡大するのが常であるから、玉木正之氏の持説を批判しようと思ったら、虫明亜呂無を分析・批判しなければならない。

 虫明亜呂無は「情感のある独得の文体」がやはり問題であって、「文学的」な、余りにも「文学的」な文体や思想は、これをもってスポーツ社会学・スポーツ人類学などの「学説」とするには、少なからず危険である。

 同様、虫明亜呂無が唱え、玉木正之氏が継承・拡大した「野球=ドラマ説」は、あくまで両者の「文学的」感性から生じた説であり、これまた非常に危うい説である。「野球=ドラマ説」に基づいた「だから日本人はサッカーより野球が好き」という思想も間違っている。

 要するに、玉木正之説は間違っている。