戦前日本のスポーツ人気は「ラグビー>サッカー」だった!?
 度し難いほど人種主義的な自虐的日本サッカー観の持ち主である佐山一郎氏には、その定番ネタとも呼ぶべき、いくつかのパターンが存在する。

佐山一郎氏(ホームラン1991年2月号)
【佐山一郎氏.@『ホームラン』1991年2月号】

 今回のテーマは、そのひとつ「戦前の日本サッカーは,東京六大学野球や大相撲はもちろん,大学ラグビーにすら人気で劣っていた.それが証拠に当時のモダン雑誌『新青年』には,他のスポーツと比して,サッカーの話題がほとんど載っていない!」というものである。

 その代表例が、サッカー日本代表がW杯本大会に出場した年、朝日新聞社の月刊誌『論座』1998年9月号に掲載され、後に佐山氏の単行本『サッカー細見』に収録された「極私的ワールドカップ報告」からの抜粋である。
 なぜ日本代表は〔1998年フランスW杯その他で〕勝てないのかを考えることはむろん大切だが、決定的に欠けているのは、なぜ日本人の多くがこれまでサッカーを必要としてこなかったかの考察である。それはパックス・アメリカーナの傘という角度や地理的条件〔島国ニッポン?〕だけで語りきれるものでもないような気がする。おそらくは〔日本人の〕深層というところで何かしらの反発が受容の妨げになってきたに違いない〔日本人サッカー不向き論〕。ラグビー、野球、オリンピックでの成功を頻繁にとりあげた戦前のモダン雑誌『新青年』がまったくといっていよいほど、サッカーに興味を示さなかったことも気になる。わずかに裏表紙の明治チョコレートの広告のさし絵として登場するだけというのも不可思議である。

サッカー細見―’98~’99
佐山 一郎
晶文社
1999-10-01


 これだけでも佐山一郎氏の自虐的日本サッカー観が全開、かつツッコミどころ満載だ。それは追い追い展開するとして、まず、ひとつだけ寄り道して採り上げる。

 引用文中に「パックス・アメリカーナ」とある。だが、ウィキペディアには「パクス・アメリカーナ」(ママ)の始まりは、早く見ても第一次世界大戦終結(1918年=大正7)の後とある。日本において、野球がサッカーやラグビーに先んじて人気が出始めた時期は、1877年(明治10)頃から1887年(明治20)頃にかけてである。

 すなわち、日本における野球の隆盛は「パックス・アメリカーナ」の影響ではない。「大日本帝国」自身の「選択」である。しかも、これは平岡熈(ひらおか・ひろし)や、それを継承した正岡子規といった人たちの、野球の普及・啓蒙活動の成果であって、日本人の「深層」とそのスポーツ種目との相性の問題ではない。

『新青年』と『ナンバー』でたどれる戦前・戦後の日本スポーツ事情
 あらためて、佐山氏が度々採り上げる『新青年』という雑誌の性格について、ウィキペディアの記事を参考に確認しておく。
新青年(日本)
 『新青年』(しんせいねん)は、1920年に創刊され、1950年まで続いた日本の雑誌。

 1920年代から1930年代に流行したモダニズムの代表的な雑誌の一つであり、「都会的雑誌」として都市部のインテリ青年層の間で人気を博した。

 現代小説から時代小説まで、さらには映画・演芸・スポーツなどのさまざまな話題を掲載した娯楽総合雑誌であった。

ウィキペディア「新青年(日本)」より抜粋(2019年2月17日閲覧)
 同じくウィキペディアには、現在『新青年』誌の商標権を保有しているのが佐山一郎氏だと記してある。だから、この雑誌への言及が多いのだ。

 ところで、文藝春秋のスポーツ雑誌『ナンバー』の、創刊(1980年)以来の歴代バックナンバーの表紙と目次がインターネットで公開されている。これをたどれば、1980年以降の日本のスポーツ事情を大まかに理解することができる(下記リンク先参照)。
 同様に『新青年』誌の内容をたどっていけば、戦前日本のスポーツ事情が大まかに理解できようというのである。

都会派モダン雑誌『新青年』に見放されたサッカー
 戦前の日本スポーツでは、サッカーよりラグビーの方が人気があったらしいこと。それが証拠に、戦前の雑誌『新青年』では、野球やラグビーを大きく扱ってもサッカーには冷淡だったこと。この2点に、佐山一郎氏は固執してきた。以下、実例を引用していく。

 当ブログが集め確認できた資料のうち、佐山一郎氏がこの問題に触れた最も古いテキストは、野球専門誌『ホームラン』(日本スポーツ出版社)1991年2月号の「それでも野球は王様だ!」である。
『ホームラン』1992年2月号(2)

 あまり言いたくないのだが、〔19〕60年代半ばから10年余り続いた杉山-釜本人気だけが、突然変異で、戦前からサッカーは、相撲、六大学野球、大学ラグビーなどに比べて人気の面ではるかに劣っていた。つかこうへい〔劇作家,演出家,小説家〕さんがいつか書いていたように、ちょっとうつむいているうちに1点だけ入って、それっきりみたいな狩猟民族のための非物見遊山的競技〔=サッカー〕は日本人には合わない。〔以下省略〕

佐山一郎「それでも野球は王様だ!」@『ホームラン』1991年2月号より
 戦前から日本サッカーの人気がなかったことと、日本人の国民性・民族性・文化・歴史・精神・伝統等々と「サッカー」との相性が極めて悪いこと、この2つを結び付ける主張(日本人サッカー不向き論)は、『サッカー細見』と同様、佐山氏において一貫している。

 次いで、1993年刊の『Jリーグよ!』巻末(165~237頁)の「私家版 サッカー全史~日本サッカーvs.世界+世相」という、73頁にも及ぶ長い長い年表である。

 この年表は、著書の中で断っているが(237頁)、佐山氏が尊敬し、自身のサッカーライティングで参考にしたという、村松友視氏の名著『私、プロレスの味方です』。その巻末に掲載された、個人史と世相史とプロレス史を重ね合わせる体裁の年表を参考にしたものだ(引用「私家版 サッカー全史」掲載写真の特に左下を参照されたい)。
佐山一郎『Jリーグよ!』166~167頁

〔19〕20〔年=大正9〕|「新青年」創刊(■他競技〔野球,相撲,ラグビーなど〕と比べてサッカーの扱いは著しく少なかった。Why?)

佐山一郎「私家版 サッカー全史」@『Jリーグよ!』166~167頁より

Jリーグよ!―サッカー めざめの年に
佐山 一郎
オプトコミュニケーションズ
1993-12


 そして、サッカーライティングからの引退を宣言している佐山一郎氏が、その有終と位置付けた著作、2018年刊の『日本サッカー辛航紀~愛と憎しみの100年史』である。
 戦前の大学ラグビーは、半ばプロ化していた東京六大学野球の比ではなかったが、大衆のウケはよかった。ラグビーには、サッカーにはない相撲のぶちかましの要素〔?〕がある。戦前人気を博した都会派モダン雑誌「新青年」のスポーツ関連記事を調べて驚いたのは、サッカーに関するものがまるで見当たらないことだ。編輯〔へんしゅう〕部員の好き嫌いの問題だけでもなさそうだった。

佐山一郎『日本サッカー辛航紀』31~32頁

 余談だが文藝春秋のスポーツ専門誌『ナンバー』は、Jリーグ以前の1980年代、本当に「編輯〔へんしゅう〕部員の好き嫌いの問題」で、当時ブームにあったラグビーに熱烈に肩入れし、サッカーは(たとえ,それがW杯であっても)半ば差別的に扱っていた(後述)。

 その頃、日本の大学ラグビーの強豪校は、早稲田・慶應義塾・明治または関西の同志社といった伝統校。これらの大学出身のマスコミ人たちが、嬉しがってラグビーブームを過剰に囃(はや)し立てているのではないか……と、サッカーファンでもある小説家・村上龍氏が嫌味っぽく邪推していたのを、つい、思い出した。

サッカーより「日本人」の感性にかなっているラグビー?
 佐山一郎氏曰く、戦前のモダン雑誌『新青年』では、他のスポーツに比してサッカーはほとんど採り上げられなかった。それを読む限り、戦前の日本では、サッカーよりラグビーの方が人気があった。

 それでも、戦後、1960年代に入って「突然変異」的に勃興し、1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得した日本サッカー。しかし、1970年代に入って急速に失速・低迷していくと、ラグビーの方が、入れ替わるように人気スポーツになっていった。
  • プロフェッショナル化や商業主義を拒んだ、清廉な「アマチュアリズム」。
  • 選手権、なかんずく世界選手権(W杯)の開催を忌避し、誰がいちばん強いか? ……よりも、どちらが強いか? ……という価値観に拘(こだわ)った「対抗戦思想」。
  • 試合が終了すれば、敵・味方、勝った側(side)も負けた側(side)も無くなり、対戦相手の垣根を越えて、互いの健闘を称え会う「ノーサイド(no side)の精神」。
  • 英国伝統のオックスフォード大学vsケンブリッジ大学の定期戦に範をとった、毎年同じ日程で開催される、早慶戦・早明戦といった「伝統の一戦」。
  • 慶應義塾・同志社・早稲田・明治といった、競技の実力においても強豪校であり、新興校の安易な追随を許さない「伝統校」。
  • 接近・展開・連続の理念で知られ、海外の強豪との試合で日本のチームが肉迫してみせた、日本独自のプレースタイル「大西鐡之祐理論」。



 ……これら「紳士のスポーツとしてのラグビー文化」は、佐山氏の言う「相撲のぶちかましの要素」(?)だけでなく、同じフットボールでも、サッカーよりもラグビーの方が「日本人」の感性にかなっていると信じられた要素だった。

 しかも、「紳士のスポーツとしてのラグビー文化」には、戦前からの「連続」がある。佐山氏の言う『新青年』誌に表れた(サッカーに優越した)ラグビー人気と、1970年代に始まり、80年代に頂点に達し、90年代初めまで続いた、かつ文春『ナンバー』が煽った(サッカーに優越した)ラグビー人気との間には「共通項」があるのだ。

サッカーは日本人に受け入れられない!?
 翻(ひるがえ)って、サッカーはいかに?

 佐山一郎氏は、「ビートルズを観ない夜」@『闘技場の人』の中で、1966年頃の話として「サッカーの受容のかたちとしても,今〔1991年当時〕のラグビーフットボールに似た〈紳士のスポーツ〉というふうな初心〔うぶ〕なとらえ方だったと思う」と回顧している。

 その後、サッカーについて啓蒙されていくにしたがって、同じフットボールでも、ラグビーとは対照的な価値観を持ったスポーツであると、しだいに認識されるようになった。
  • オリンピックで称揚されたアマチュアリズムの限界を早々と見切り、プロフェッショナリズムを受け入れ、世界的な人気スポーツとして発展してきた。
  • 国際サッカー連盟も、各国のサッカー協会も、北米生まれのスポーツ(野球など)とも違い、プロ・アマともに統括する。
  • 21世紀では全くの死語であるが、日本ではサッカーW杯のことを「プロもアマも一緒に出場できる大会」だと言われていた。
  • 世界で最も人気のあるスポーツがサッカーであり、かつ世界中のほとんどの国で随一の熱狂的な人気を誇るのがサッカーである。
  • 各国の代表チームによる世界選手権=サッカーW杯は、ゆえにオリンピックをも凌ぐ世界最大のスポーツイベントである。
  • サッカーW杯に出場する各国(代表チーム)のプレースタイルは、それぞれの国の国民性や文化などの「お国柄」を反映したものであり、他のスポーツにはないサッカーの、なかんずくW杯の人気や面白さは、そこにある。
  • 世界各国の文化的な価値観を反映するのがサッカーだから、そこにはスポーツマンシップのみならず、ゲームズマンシップも顔を見せる。しかし、そんな清濁をも併せ呑む懐の深さがサッカーの特徴である。
  • サッカーでは、ファンが熱狂するあまり死人が出る。

The Soccer Tribe
Desmond Morris
Rizzoli Universe Promotional Books
2019-03-26


サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02


 しかし、ラグビーとは違い、これら「世界大衆のスポーツとしてのサッカー文化」は、日本ではなかなか受け入れられなかった。

 1970年代から80年代にかけて、日本のサッカーは、世界の潮流とは遠く離れ、国内ではマスメディアや一般のスポーツファンへの訴求力に乏しく、長い低迷に迷い込んでいた。
  • もともと日本においては、サッカーは歴史的に後発のスポーツであり、人気などで野球に先行され、ラグビーにも差を付けられていた。
  • 1968年メキシコ五輪で3位入賞(銅メダル)以降、サッカー日本代表が弱体化してしまった。W杯・五輪のアジア予選で敗退を続け、来日する欧州・南米のクラブチームにも惨敗を繰り返した。
  • 日本のサッカー選手の技術レベルも低く、魅力的なサッカーを展開できなかった。
  • Jリーグ以前の日本サッカーリーグは「地域に根差していない企業チーム」であり、一般のスポーツファンが感情移入しにくいものであり、不人気だった。
  • 日本サッカーは「プロ化」という懸案を抱えていたが、以上のような理由で、日本スポーツ界のアマチュアリズムを克服することが出来ず、これに前進することができなかった。

『ホームラン』1992年2月号(2)
【Jリーグ以前の日本サッカーの光景@『ホームラン』1991年2月号】
 だから、佐山一郎氏や村上龍氏のように「サッカーの面白さは,日本人には理解できない.日本代表は強くならないし,日本サッカーの人気も出ない」という、サッカー関係者が沢山いた。

みにくいアヒルの子「サッカー」?
 ラグビー推しの文春『ナンバー』の表紙を、初めてサッカーが飾ったのは、1984年、元日本代表、メキシコ五輪銅メダリスト、同大会得点王の釜本邦茂の引退特集だった。佐山一郎氏は、この時の内部事情を『日本サッカー辛航紀』に著(あらわ)してある。
 同年〔1984年〕八月二五日土曜夜に不世出のストライカー釜本邦茂の引退試合が、六万二〇〇〇人で満員の国立競技場で行われた。〔中略〕

 この引退試合は「スポーツ・グラフィック・ナンバー」(文藝春秋)が表紙にサッカー選手を登場させた最初の号だった。八四年九月五日発売の当該号は、創刊から丸四年が経つ一〇七号、刷り部数も相当に慎重どころか、最小レベルに抑えたという。

佐山一郎『日本サッカー辛航紀』136~137頁



 実際、この時の釜本引退特集・日本サッカー特集は、当時の日本サッカーの低迷した状況にあって、売れなかったとされる。

 もっとも、当時の読者だった、あるオールドサッカーファンに言わせると……。
 「あの特集は,結局,サッカーファンならみんな知っている,メキシコ五輪の思い出話にすぎなかった.

 『ナンバー』は,あの頃,日本サッカーの長年の懸案になっていた〈プロ化〉問題や、弱体の日本代表をはじめ、低迷する日本サッカーをどうするか……といった問題に果敢に斬り込んでいく感じがしなかった.

 あれでは、普通のあの雑誌の読者はもちろん,当のサッカーファンにも食いつきが悪かっただろう」
 ……とのことであった。

 とにかく文春『ナンバー』編集部は、これでサッカーは売れないと思ったらしく、1986年のメキシコW杯も、半ば黙殺の扱いをする。


 一方、翌1987年の第1回ラグビーW杯では、文春『ナンバー』は別冊を組んで特集した(上記リンク先から「1987年」までたどってください)。ずいぶんと露骨に待遇が違うものである。当時の感覚でいっても、W杯ではラグビーよりサッカーの方が、マスコミの関心度も高かったはずなのだが。

 『ナンバー』は、マイナースポーツだから採り上げないというワケでは、必ずしもない。1980年代当時、暴走族と同一視されていたモータースポーツ(四輪,二輪とも.上記ツイッター参照)を、『ナンバー』は積極的に特集し、後のブームの一翼を担っている。しかし、サッカーに関しては、Jリーグ以前に先行して採り上げたという印象は薄い。

 要は『ナンバー』編集部に、サッカーに思い入れのある「編輯〔へんしゅう〕部員」がいれば、少しは状況が違っていたのではないか? あるいは、当時『ナンバー』のサッカーライターの一番手は佐山一郎氏だったが、心情的に屈折に屈折を重ねた佐山氏ではなく、例えば、故富樫洋一氏だったら、少しは状況が違っていたのではないか?

ブームの後遺症に苦しんだ日本ラグビー
 しかしながら、佐山一郎氏は、かつてラグビー人気でサッカーに優越できた「要因」そのものが、後にラグビーを低迷させた「要因」に転じたことを理解しているのだろうか。日本のラグビーは、長年にわたるラグビーブームの「後遺症」に苦しんだのである。

 すべてのキッカケは、1987年に始まったラグビーW杯だった。ラグビーが世界化するにしたがい、ラグビーというスポーツの在り方大きく変容した。「紳士のスポーツとしてのラグビー文化」も、その真実と虚構の違いも分かってきた。

 世界選手権(W杯)の浸透によって「対抗戦思想」は後退した。また、やせ我慢の「アマチュアリズム」も限界に達しており、1995年南アフリカW杯は事実上プロフェッショナルによる大会となっていた。大会直後、国際ラグビー評議会は(現ワールドラグビー)、ラグビーのアマチュア規定を撤廃。プロ化と商業主義に大きく舵を切った。

 日本のチームでプレーした海外の世界クラスの選手によって、「ノーサイド(no side)」という言葉が、英語圏諸国では半ば死語になっていることが明らかになった。むろん、ラグビーには特徴的なスポーツマンシップがある。しかし、他のスポーツと同じく、ゲームズマンシップも存在し、両者のバランスの上で成立していることが分かった。

 オックスフォード大学も、ケンブリッジ大学も、両校が対戦する「伝統の一戦」以外は、ラグビープレミアリーグの2軍クラスとレギュラーシーズンの試合を、それぞれ独自に組んでいる。これは、どこのカンファレンスにも所属していない、アメフトのノートルダム大学に近いもので、つまり、ラグビーの本場・英国には、日本でいうところの〈大学ラグビー〉が、実は存在しない!?

 日本のラグビーは、こうした世界の潮流から孤立し、あるいは引き離されて、没落した。それは、日本代表の1995年W杯の大惨敗、99年W杯の惨敗として現れる。日本のラグビーファンは「それでも,大学ラグビーの早明戦は面白いんだから……」という方向で逃げたというが、それも以前のような集客はできなくなっていった。

 これは、巨視的には、日本ラグビー界が初心(うぶ)に信じていた「紳士のスポーツとしてのラグビー文化」が足枷になっている。より具体的には、日本ラグビー界に特徴的な大学や大手企業のラグビー部が担い手なった「アマチュアリズム」の限界である(下記リンク先の著作を参照)。

ラグビー従軍戦記
永田 洋光
双葉社
2000-06


ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12


 早慶戦・早明戦といった「伝統校」による「伝統の一戦」の固定的な日程は、レギュラーシーズンを長引かせ、日本代表の強化の時間が確保できないと批判された**。選手のフィジカルフィットネスの劇的に向上によって、純粋な「大西鐡之祐理論」だけで、日本のラグビーは海外の強豪と渡り合っていけないことも分かってきた

 こうした条件を乗り越えて、日本ラグビーが活気を取り戻すのは、エディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ=監督)率いる日本代表が、2015年ラグビーW杯で活躍するまで待たなければならない。

東京高師のサッカーと慶應義塾のラグビーの違い
 戦前の日本では、サッカーよりラグビーの方が人気があった。こう言われても、当ブログに反駁するだけの材料はない。この件に関して、個人的に日本のサッカー史・ラグビー史を調べてみても、理由はよく分からなかった。もっとも、佐山一郎氏は「日本人・日本文化とサッカーというスポーツの相性の悪さ」を主張したいのだろうが。

 一方、それなりに理解できたこともある。

 よく言われる、明治初年の海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)や工部大学校(東大工学部の前身)に伝えられたフットボール***というのは、その後の日本で展開されるサッカーとは、直接つながっていない。これらの系譜は、後が続かず途絶えている。

 現在の日本サッカーの直接の起源は、東京高等師範学校(東京高師,筑波大学の前身)で、海軍兵学寮や工部大学校よりも少し遅れて始まったもの。今ある日本のサッカーは、全部その「血脈」(仏教用語で「けちみゃく」と読む)である。


 一方、現在の日本ラグビーの起源は、1899年(明治32)に慶應義塾で始まったことが定説となっている。

 東京高師のサッカー、慶應義塾のラグビー。どちらもエリート校であるが、この違いは全国の普及度、競技人口の差となった。

 師範学校とは、要するに学校の先生(教師)を要請する高等教育機関である。東京高師~筑波大学のOBたちは、教師として赴任した全国の学校(旧制中学など)でサッカー部を創ることを自らの使命とした……。実際、以前の筑波大学蹴球部(サッカー部)の公式ウェブサイトには、こんなことが書かれてあった。

 対して、慶應義塾のOBには、あくまでイメージであるが、草深き田舎に仕(つかまつ)ってまで、ラグビーの普及に勤(いそし)しむというイメージが涌(わ)かない。そのためか、21世紀の現在では、県単位でラグビーの存続も危うい地方もあるほどだ。

 明治・大正・昭和戦前このかた、日本においてサッカーはラグビーに競技人口で差が付けられたことはない。そして、人気で野球に差が付けられたにもかかわらず、サッカーは、ラグビーその他の球技に優越して全国的な普及を果たすことが出来た。

 これは、後代のJリーグの創設に大きな意味を持って来る。

 もっとも、佐山氏は、競技人口うんぬん関係なしに「日本人・日本文化とサッカーというスポーツの相性の悪さ」を主張したいのだろうが。

あらためて,佐山一郎氏は村松友視氏から何を学んだのか?
 「村松友視さんが昔,『私、プロレスの味方です』を中央公論社の編集者時代に書いていましたけど,ああいうスタンスが理想というか出発点だったんです」……と、佐山一郎氏は、とあるインタビューで述べている(下記リンク先参照)。しかし、それは本当だろうか?


 本当に「プロレスの味方」村松友視氏を師匠筋とするならば、「自競技のみならず,日本のスポーツ界を刷新するべく起ち上げたのがJリーグなのだから,過去にサッカー人気がなかったとか,サッカーよりラグビーの方が人気あったなどという些末な〈伝統〉など関係ない」と居直ってみせるのが、真の村松友視流である(下記リンク先参照)。


 村松氏が「サッカー者(もの)」と名乗ったのに倣(なら)い、「サッカー者(もの)」と名乗ってみたり。村松氏の、個人史とプロレス史と世相史を重ねた年表(前掲の引用部分参照)を真似てみたり……。

 ……いろいろ見ていくと、佐山氏は村松氏の表面的な部分は模倣しているが、より本質的な部分を見習っていない。すなわち、プロレス(サッカー)を冷笑視する圧倒的多数の「世間」と対峙して、プロレス(サッカー)の価値を言いつのるという村松氏の意気地が、佐山氏には見られない。

アリと猪木のものがたり
村松 友視
河出書房新社
2017-11-20


 村松氏の言う「殺気」や「凄味」が、佐山氏のサッカー評論にはないのだ。

 あらためて、佐山一郎氏は、村松友視氏からいったい何を学んだというのだろうか。

(了)





【補註】
  サッカー誌『イレブン』やプロレス誌『ゴング』などで知られる出版社。

 ** 2018年、日本の大学ラグビーが、いわゆる留学生選手の出場枠を拡大(2人⇒3人)したのは、「伝統校」による「伝統の一戦」を存続するためのバーターだったのではないか……と邪推するが、本当のところはよく分からない。

 *** ラグビー史研究家の秋山陽一氏のように、明治初年の海軍兵学寮のフットボールを、サッカーではなくラグビーであると強硬に主張する人がいるので微妙な表現とした。個人的に、秋山氏の説には全面的な同意はできないが。