実は何の目新しさもない河内一馬氏の論考
 河内一馬(かわうち・かずま)氏の「一神教を信仰しないことがサッカーに与える影響@芸術としてのサッカー論」を、悲しい気持ちで読んだ(詳細は以下のリンク先を参照されたい)。何が悲しいかというと……。


 ……河内氏は、斬新で大胆な問題提起を日本サッカーにしたつもりなのだ。しかし、その実は、独自性ある見解を示したのではなく、日本のサッカー論壇の「お作法」に従ってこの論考を書いたにすぎないからである。河内氏は、陳腐で浅薄な「サッカー日本人論」を反復したにすぎないからである。

佐山一郎氏らの自虐的な「サッカー日本人論」を継承した河内一馬氏

 河内一馬氏が長々と書いている「一神教を信仰しないことがサッカーに与える影響」だが、言いたいこと(=本音)は全くシンプルだ。次の2つに要約される。
  • 日本人は「一神教」なかんずくキリスト教(でなければイスラム教)を信仰していない、信仰心が極めて薄い多神教または「無宗教」である(日本人無宗教論)⇒ゆえに日本人は日本人というだけで、サッカーに関して大変なハンディキャップを宿命的に背負っている(もっとハッキリ言えば,日本人はサッカーに向いていない
  • 日本人が使う「日本語」は極めて特殊で難しいニュアンスを含んでおり、サッカー国である大多数の外国人には習得が非常に難しい言語である(日本語特殊言語論)⇒ゆえに日本人は日本人というだけで、サッカーに関して大変なハンディキャップを宿命的に背負っている(もっとハッキリ言えば,日本人はサッカーに向いていない
 こういったことは、何も河内氏が新しく論じたことではない。この河内氏の論考は「サッカー日本人論」と呼ばれる(命名は森田浩之氏)、日本サッカーが長期低迷していた1970~80年代初めから、日本サッカー界・サッカー論壇に蔓延している評論・エッセイ・コラム等々の言説群の、ある種の表出にすぎない。

 日本人は農耕民族だから、日本は島国だから、日本人は肉ではなく米や野菜を食べているから、あるいは日本人は西洋個人主義とは全く真逆で異質な集団主義だから等々。日本人は「世界」の中で極めて特異・特殊な「国民」または「民族」あるいは「人種」である……という「日本人論」という分野の言説(著作・評論・エッセイ・コラム等々)が日本の出版界・読書界では大変な人気を長らく保ってきた。

 同様にイタリア人論、ドイツ人論、フランス人論、ブラジル人論、アルゼンチン人論……等々ありそうなものだが、日本における「日本人論」の隆盛は世界的にも群を抜いている。「日本人とは〈日本人論〉を好んで読み,語りたがる人々の事である」という冗談まであるくらい、日本人は「日本人論」が好きである。

 「日本人無宗教論」や「日本語特殊言語論」はそうした「日本人論」のバリエーションのひとつ、「日本人論」構築のために持ち出される「日本人的なるもの」のひとつである。

 そうしたさまざまな「日本人論」と同期・連動しているのが「サッカー日本人論」である。日本人は「世界」の中で極めて特異・特殊な「国民」または「民族」あるいは「人種」である⇒ゆえに日本人は日本人というだけで、サッカーに関して大変なハンディキャップを宿命的に背負っている(もっとハッキリ言えば,日本人はサッカーに向いていない)。河内氏は違うと言っているが、「サッカー日本人論」は「日本人サッカー不向き論」でもある。

 こうした議論は、自然と日本のサッカーに関して自虐的・冷笑的になる。河内一馬氏は「差別的意図」も「諦め」もないと弁明しているが、嘘である。日本人である「われわれ」に対する差別=自虐である。むしろ、自虐的・冷笑的になることで、その論者は、この場合は河内氏になるが、サッカーに対する理解と批評精神を語ったことになる。

 加えるに、河内氏が引用・援用している橋爪大三郎氏や鴻上尚史氏も「日本人論」臭が強い人たちである。

 以上が、「サッカー日本人論」なる現象の骨子である。長らくこうした言説の担い手にあったのが、例えば佐山一郎氏であった。佐山氏も、実に自虐的な日本サッカー観を「サッカー日本人論」として垂れ流してきたが、今年2018年、『日本サッカー辛航紀』を上梓(じょうし)してサッカー論壇からは引退する旨、宣言している。


 その佐山一郎氏が退場した替わりに、佐山氏らの自虐的な「サッカー日本人論」の衣鉢を継いだ河内一馬氏が台頭してきたのは、なかなか興味深い現象ともいえる。

サッカーと「日本人無宗教論」の系譜
 当ブログが集めて確認できた資料のうち、「日本人無宗教論」に基づいた「サッカー日本人論」のもっとも古いテキストは、1993年、佐山一郎氏(やっぱりw)の「顔役ジーコの〈氷の微笑〉がひび割れるとき」である。所収は佐山氏の著作『Jリーグよ!』の38頁。初出は徳間書店の月刊誌『サンサーラ』1993年4月号。

Jリーグよ!―サッカー めざめの年に
佐山 一郎
オプトコミュニケーションズ
1993-12


 どういう話か? 要するに、元ブラジル代表のエースであったジーコは、カズこと日本人・三浦知良のチャラチャラした(と当時は思われていた)「カズダンス」を不快に思っているという話である。その不快さの理由が「ブラジル人の一神教的価値観」と「日本人の無宗教性」の違いだというのだ。

 むろん、ジーコ本人はそんなことは一言も語っていない。すべて著者・佐山一郎氏の一人合点による解釈である。中途半端に引用すると、かえってニュアンスが把握しにくいと思うので、ここでは引用しない。興味のあるサッカーファンは原本に当たってほしい。めくるめく佐山ワールドが読者を待っている。

 次いで、1998年フランスW杯。本大会初出場の日本代表=岡田ジャパンは1次リーグ3戦全敗。日本の「ストライカー」城彰二は、ゴールを決めることが出来ず、シュートを外しまくった。これに関して島田雅彦氏が週刊誌『女性セブン』に寄せたコメントである。

 島田氏曰く。サッカーのプレーとはそもそも「アクシデント」であり、パスやシュートが成功すること自体が「奇跡」なのだと言う。その上でこう述べる。
 ラテン・アメリカのカソリック〔キリスト教の最大宗派〕は奇跡を信仰します。教会では奇跡を祈るわけです。だからよく〔欧米の〕選手たちが試合を始めるときやゴールを決めたときなど、胸の前で十字を切りますが、あれは、奇跡を祈っているわけです。

 中田〔英寿〕にせよ、他の日本人選手にせよ、世界に出るとそういう連中を相手にしなくてはならない。神に対して威厳のない日本〔日本人無宗教論!〕で、そういう連中を相手にするには、笑うしか手段はありませんね。

島田雅彦『女性セブン』1998年7月16日号
 このくだりは、河内一馬氏のくだんの論考の次の記述に似ている。
■サッカー選手における宗教
 ピッチで〔欧米の〕サッカー選手が「祈る」という姿は珍しい光景ではありません。なぜ彼らは「祈る」のでしょうか? 彼らの気持ちは、私たち日本人が理解することは非常に難しいです。

 メスト・エジル〔元ドイツ代表〕と、モハメド・サラー〔エジプト代表〕はイスラム教徒です。彼らは試合直前や得点後などに「祈る」ことで知られていますが、それらはどんな役割を果たしているのでしょうか? サッカーにおいてどのような影響をしてくるのか? ピッチで「祈る」、もしくは「十字を切る」外国人と、それらをしない日本人〔日本人無宗教論!〕は、何が違うのか。そしてそれはサッカーという競技にどんな影響を与えているのか。

 最近では、2014年、吉崎エイジーニョ氏の『メッシと滅私』という本である。

 この本には「W杯の優勝国は全てキリスト教文化圏の国」という、河内一馬氏の論考とほとんど同じ話が出てくる。また、「文明の衝突」あるいは「キリスト教社会vs東アジア的儒教社会」といったキーワードで論が進められ、逐一紹介はしないが河内氏のモノの味方・考え方とよく似たテイストの内容である。

一神教徒は信仰心が薄い???
 一神教は信仰に厚い(が,多神教は薄い)という俗信は正しいのだろうか? 一神教と多神教を過度に対立的にとらえる通念を批判した人としては、島田裕巳氏や浅見定雄氏などいるのだが、ここは「日本人論」の鋭利な批判者でもある社会学者の逸話を紹介する。

 オーストラリア(豪州)メルボルン在住の社会学者・杉本良夫教授は、自身の著作『オーストラリア6000日』で次のような逸話を紹介している(ちなみに杉本教授は,NHK「ラジオ深夜便」のかつての海外電話リポーターである)。

オーストラリア6000日 (岩波新書)
杉本 良夫
岩波書店
1991-02-20


 杉本教授は、現地・豪州にある「アジア系コミュニティー情報財源センター」なる団体が主催した会議に出かけた。そこで東南アジア・ラオス出身の主婦からこう言われた。「〔欧州系の〕オーストラリア人は一般に宗教心が薄いですね。だって〔欧州系の〕キリスト教徒は、日曜日だけ〔教会の礼拝に行く〕でしょ。私たち〔アジア系豪州人の仏教徒〕は、週に何回も寺院に出かけます」と……。

 ……杉本教授も、従来の俗信通り、毎週日曜に教会礼拝に行く欧州系豪州人と対照的な「日本人の非宗教性」について思うところがあったが、このラオス出身の主婦との話で、いろいろ考え直させられたというのだ。

ウルグアイ人の信仰心? あるいはサイモン・クーパーの敗北

 サッカーW杯の優勝国は過去8か国しかない。それは全てキリスト教国である。河内一馬氏はこう言う(先述の通り,吉崎エイジーニョ氏も同様の発言をしている)。しかし、日本はキリスト教国ではない。だから日本は「世界」のサッカーで強くなれないと。

 しからば問う。ウルグアイは1950年大会以降、なぜW杯で優勝できないのか? ウルグアイ人だけ信仰が薄らぎ、「神」(啓典一神教ならば「天主」とでも呼ぶべきであった)が示した人々の生きる指針もまた薄らいだとでも言うのか? そんな馬鹿な話はない。

 よく言われるのは、ウルグアイは人口が少ない小国であることが、サッカーの国際競争では不利になるためではないかという仮説である。

 サイモン・クーパーとステファン・シマンスキーは著書『「ジャパン」はなぜ負けるのか』(森田浩之訳)の中で、日本サッカーが国際舞台でなかなか勝てない理由を(河内氏や佐山氏のように)宗教や言語など「日本人の国民性や文化」に求める風潮、すなわち「サッカー日本人論」は間違いだと、統計学を使って主張する意欲的な論考である。

 すなわち、その国のサッカーの実力は「国の人口」「国民所得」「代表チームの経験値」という3つの要素に左右される(宗教をはじめとする国民性や文化ではない)。実は、日本はこの点で非常に有望である。アメリカ合衆国、中国とならんで将来最も有望な国である(この話は,中村慎太郎氏の次のツイートの元ネタである)。


 何だかんだ言っても、日本は人口も所得(カネ=経済力)もある。身体能力に優れているとされるアフリカ諸国は、実はこの点で期待薄だ。

 南米の小国ウルグアイは、人口も少なく、したがって経済の規模も小さく、これだけ世界化したサッカーでは昔のように勝てなくなった。それが長らくW杯で優勝できないでいる理由ということになる。つまり、ウルグアイ人の国民性や文化の問題ではないのだ。

 日本に足りないのは「代表チームの経験値」だけだが、それもまったく問題はない。世界サッカーの最先端地域である西ヨーロッパ(ドイツ,オランダ,イタリア,フランスなど)から優れた指導者(監督・コーチ)を招聘(しょうへい)し、その知識を吸収すればよいのである……。


 ……ところが、日本サッカー協会(JFA)は、フランス国籍の日本代表監督ヴァイド・ハリルホジッチ氏を更迭をしてしまった。そもそも日本人は、宗教や言語や国民性や文化等々の関係で「世界」とコミュニケーションが取れない(!)。だから、西ヨーロッパの監督・コーチなど読んでも無駄である。すなわち日本は「世界」のサッカーでは強くなれない……と、事実上、河内一馬氏はそう論じている。


 要するに「サッカー日本人論」は簡単に根絶できないのである。これは『「ジャパン」はなぜ負けるのか』の著者クーパーとシマンスキー両氏、そして、その邦訳者にして、第3の執筆者ともいうべき森田浩之氏にとって誤算であり「敗北」である。

後藤健生氏の「解脱」と河内一馬氏の「煩悩」
 サッカーW杯で優勝したことがあるのは8か国だけで全部キリスト教国……という「サッカー日本人論」の発想には、おかしなところが沢山ある。

 しからば問う。フランス人は1998年大会での初優勝まで、スペイン人は2010年大会の初優勝まで、キリスト教の信仰が薄く、「神」が示した人々の生きる指針もまた薄かったとでも言うのか? そんな馬鹿な話はない。

 サッカーライターの大御所・後藤健生氏は、1995年刊『サッカーの世紀』で、今後ともW杯で優勝できるのはブラジルにドイツ、イタリア、アルゼンチンの4か国だけ。小国ウルグアイや地元開催の僥倖(ぎょうこう)に恵まれたイングランドが優勝することはもうないし、フランスやスペインなどは「いいサッカー」をするけれども優勝はできない……と豪語していた。

サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07


 なぜなら、後藤氏も河内一馬氏と同様、サッカーはその国の国民性や文化に拘束されるという思想の持ち主だったからであり、当然「サッカー日本人論」の信奉者であった。ゆえに先述の4か国だけが「W杯で優勝できるメンタリティ」を持っている。だから、それ以外の国が世界一になることはないとしていた。ましてや、日本サッカーの将来的可能性については、ゆえに全く悲観的であった。

 ところが、1998年大会でフランスが初優勝すると、同大会をリポートした『激闘ワールドカップ'98』の中で、後藤氏は徐々に自身の立場を改め始める。次いで、2010年大会ではスペインが初優勝する。後藤氏の当初の想定は大きく外れた。

 その国のサッカーは国民性や文化の影響を受ける。だからW杯で勝てる・勝てないという発想そのものが、かくもいい加減なのである。2018年現在、後藤健生氏は「サッカー日本人論」の発想からはほぼ「解脱」(げだつ)している。一方、年齢が後藤氏の半分以下の河内一馬氏は未だに「サッカー日本人論」という「煩悩」(ぼんのう)にまみれている。

 さらに、同じキリスト教国でも優勝できた国とできない国では何が違うのか? 河内氏の言葉からは何の説明もない。

「正典」の民=インドはなぜサッカーが弱いのか?
 河内一馬氏は、無宗教の日本人に対して「世界」の宗教的な国々には全て「正典」が存在すると説く。「正典」は、はるか昔「神」が人々に示したテキスト=生きる指標であるという。その指標の有無が、サッカーでは決定的な違いをもたらすのだという。つまり、日本人のサッカーは「世界」で強くなれないのである。

 河内氏は、橋爪大三郎氏の『世界は四大文明でできている』を手がかりに、「世界」の4つの文明(宗教)とそれぞれの「正典」を紹介しているのだが……。
  • キリスト教(ヨーロッパ中心)約25億人:「聖書」
  • イスラム教(中東/東南アジア中心)約15億人:「コーラン」(クルアーン)
  • ヒンドゥー文明:ヒンドゥー教(インド)約10億人:「ヴェーダ」
  • 儒教文明:儒教(中国)約13億人:「五経」
 ……って、ヲイヲイちょっと待ったらんかい!?

 しからば問う。正典「ヴェーダ」の民であるはずのインドは、なぜあんなにサッカーが弱いのか? これもちょっとネット検索すれば、インドの国内スポーツ事情が分かる。同国はクリケットでは世界的強豪国でW杯優勝経験もあるが、国全体としてまだまだ貧しかったので、他のスポーツ種目の普及や指導に手が回らなかっとの由である。

 同様に、正典「五経」〔正しくは「四書五経」の間違いではないのか?〕の民であるはずの中国もサッカーの人気があるが、アジアの中でも弱い。すなわち、その国のサッカーの強さは「正典」の有無とはほとんど関係ないのである。

 河内氏は、キリスト教とイスラム教を引き合いに出して、日本のサッカーを否定したかっただけなのだ。だが、現実の世界サッカーの勢力図を無視して、橋爪大三郎氏の大風呂敷な著作『世界は四大文明でできている』の図式を当てはめようとするから、儒教やヒンズー教も絡んできて、どうにも話がおかしくなる。

ガブリエル・クーン氏の一言で河内一馬説はあっさり轟沈
 2013年11月、かの『アナキストサッカーマニュアル』の著者ガブリエル・クーン氏が来日して、トークイベントを行った。

 当ブログは本を持っていたので、クーン氏にサインをもらいに行った。その時の会話(通訳が同書邦訳者の甘糟智子氏であった)。
当ブログ「日本人は,自分たち(日本人)のことを〈サッカーに向いていない民族〉だと思い込んでいるんですよ……」

ガブリエル・クーン氏「そんなことないだろう。2011年女子W杯で日本代表(なでしこジャパン)が優勝しているじゃないか」

ガブリエル・クーン氏のサイン
【ガブリエル・クーン氏のサイン】
 そうなのである。サッカーW杯の歴代優勝国は全部キリスト教国だというが、女子まで拡大すると、歴代優勝国はアメリカ合衆国、ノルウェー、ドイツ、そして2011年大会で、少なくともキリスト教国ではなさそうな「日本」が優勝している。W杯は一神教を信じる国でないと優勝できないとする河内一馬説、あるいは吉崎エイジーニョ説は、これでたやすく崩壊する。

 前出の社会学者・杉本良夫教授は「〈日本人論〉の立論において観察対象となるのは,もっぱら男性(男性社会)であって,女性は無視される」と批判している。同様に「サッカー日本人論」の世界では、女子サッカーの存在はほとんど無視される。

サッカーと「日本語特殊言語論」の系譜
 「日本語特殊言語論」に基づいた「サッカー日本人論」の歴史も古い。当ブログの資料の中で最も古いのは、大阪・枚方フットボールクラブの指導者として有名だった故・近江達(おうみ・すすむ)氏の論考「日本サッカーにルネサンスは起こるか?」である。

 近江達氏とは誰か? JFAではなく在野の少年サッカー指導者として、かつて日本サッカー界に大きな影響を与えた人である。2013年に逝去されたが、その際、後藤健生氏、牛木素吉郎氏、武藤文雄氏らがインターネットに追悼文を寄せた……という逸話だけでも、その存在の大きさが分かるだろう(詳しくはググってください)。

 1980年代、アマチュア時代の後藤健生氏が編集長をしていたミニコミ専門誌『サッカージャーナル』に連載していたのが近江氏の「日本サッカーにルネサンスは起こるか?」である。後、1991年にまとめられて同名で自費出版されている。

近江達『日本サッカーにルネサンスは起こるか?』
【近江達『日本サッカーにルネサンスは起こるか?』】

 当ブログ的には、少年サッカーの指導という実践面と、日本サッカー評論という思想面で、近江達氏への評価は区別するべきだと思う。後者「日本サッカーにルネサンスは起こるか?」に関しては、まるっきり「サッカー日本人論」の先駆けだからだ。

 それはともかく、近江氏の「日本語特殊言語論」を見てみよう。初出は後藤健生編集長の『サッカージャーナル』1984年4月号である。
 衆知のように、日本語の文章は主語なしでも成り立つが、欧米の言語では主語のない文章なんてない。必ず主語がある。

 そのことに関して専門家が言うには、向う〔英語〕のIとYOUとは、いわば完全な対立関係にあり、日本語ではそういう西欧的な意味でのIに相当するものはなく、そうしたきびしい個と個との対立はないのだそうである。

 言われてみると、たしかにこちら〔日本語〕は、私だ、ボクだ、オレだ、小生だと、種類や使い分けは多彩でも、何しろ主語がなくてもいいくらいだから、英語のIのように文章の途中だろうとどこだろうと、かならず大文字で書くようないかめしい自己主張〔個の確立〕などない。

 それどころか、今はそうでもないが、ひと昔前は己を小さく人を大きく立てるのが奥ゆかしいとされていたくらいで、それだけ〔日本人は〕自我も弱く主体性がない〔個が弱い〕ことは間違いない。

 それほど違う言葉の世界でそれぞれ育っていくのだから、大人になったとき〔サッカーに関して〕日本人と外人〔ママ〕とでは相当な差異ができてくるのは当然かもしれない。

近江達「日本サッカーにルネサンスは起こるか?」連載第8回
 次いで、フランスでサッカーコーチのライセンスを取得した前田和明氏の論考である。本校で紹介した人物のうち、キャリア的に河内一馬氏に最も近いのはこの前田氏だろう。それが展開されるのは、前田氏の『王者交代』という著作である。

 日本語は一人称がいくつもあるので個(自我)が弱い、英語のIとYOUの緊張的な関係とは真逆であるといった話は近江達説と同じ。日本語は英語と比べて文法の規則性に乏しい(!)といった話も、「日本人論」ではよく聞く話だ。前田氏はさらに独創的である。次の話に当ブログは腰を抜かさんばかりに驚いた。
 〔日本語の〕動詞が最後にあるというのは、ヨーロッパ系の言語と決定的に異なっている部分であろう。動き出す前に、いろいろなことを処理しなくてはならない。ヨーロッパ系言語は主語のあとにすぐに動詞がくる。動くまでのスピードが速い。日本語では、逆に遅くなる。また自分を表す主語が英語のIなどのように、常に同一でないために、まず自分が誰であるかを規定しなければならない。先ほどあげた私、俺、あなた、お前などである。これは相手と場に依存する。まず自分を決めるという作業ののちに、修飾語と被修飾語を考え、最後に動詞となる。

 日本語は非常に静的な言葉だ。その干渉により日本人の判断は、多くの場合ヨーロッパ言語人よりもほんの少しだけ遅れてしまう。現代フットボールのスピードを考えると、この遅れが11人の連鎖の中で、相対的に莫大な時間のロスとなる。場が決まらない限り自分がはっきりせず、自我が弱い。自我とは自己規定だと思う。そのことにより個人でリスクを負い選択しアクションを起こし責任をとるといったことが苦手である。規律にしたがった各自の独断と、スピードと正確性を要するゾーンプレスには向かないその思考の流れが、日本語の干渉により存在する。

前田和明『王者交代』214~215頁
 日本語などという劣等言語を使う限り、日本人はサッカーでは強くなれないのだ。「だから、日本人はヨーロッパ言語に対応した神経システムをつくる訓練を何もないところから始めなければならない」(同書218頁)。もはやニッポン人のサッカーは「人種改良」するか、日本語を廃止するところから始めないとどうしようもないようだ。

 ここまでくるとレイシズム(人種主義,人種差別)である。事実、三浦小太郎氏(保守系の評論家)のように「サッカー日本人論」とはレイシズム言説ではないかと、鋭く指摘する人もいる。

 最近の例としては、2005年、中田英寿が日本のマスコミ(テレビ局=テレビ朝日)とトラブルを起こした時、「日本語=日本人の〈主語〉のない文化」の俗信を持ち出して自己正当化をはかったことがある(下記リンク先参照)。
 国際サッカーシーンでは凡庸な選手でしかなかった中田英寿が、日本では変に神格化される。その理由は、とかく「日本人的であること=非サッカー的であること」という「サッカー日本人論」の世界観にあって、中田ヒデは唯一例外的に「日本人離れ」しているとされたからである。

 中田英寿は、日本では、サッカー選手としてのパフォーマンスではなく、その言動・立ち振る舞いによって過剰な高評価をされている。

中村光夫から「日本語特殊言語論」と「サッカー日本人論」を撃つ
 日本語は特殊で理解しにくい言語であるという通念を批判した人としては、日本語文法学者の三上章を初め沢山いるのだが(中田英寿は,三上章の『象は鼻が長い』をよく読むべきである)、ここはお手軽に、小林秀雄と並ぶ文藝評論の大家・中村光夫の孫引きで簡潔に痛罵する。
 中村光夫は、『言葉の芸術』(1965年)で高田博厚とロマン・ロランを批判している。

 高田はロランに日本語の難しさについて語り、「自分」を表現する場合でも私、僕、我輩、手前など十以上もあり、話す相手によって変えねばならずやっかいだと教える。するとロランは「そんなばかなことがあるか、どこへ行ったって自分は一つじゃないか、なぜ相手次第で変わらなければならないのだ?」と怒りだした。高田はその思い出を枕に、現代日本人には封建根性が根強く残っていて、ロランはそこに立腹したのだと「思いあたった」と書く。

 中村はこのエッセイを紹介した後で、高田とロランの両者を痛烈に批判する。

 高田の文章は、外国の名士の片言隻句に意味ありげな解釈をほどこす我国〔日本〕の知識人の習癖を示すもので、ロランとの会話は実にたわいない議論である。

 それなら高田はロランにこう言えばよかったのだ。日本語には一人称代名詞は沢山あるが、フランス語のように機能によって形が変わることはない。「私は」がjeで「私に」がmoiで「私を」がmeであるフランス人は、人に金をやる時と人から金をもらう時とでは自我の形が違うのか、と。たわいない議論はそれで終わったはずだ。

 この伝で言えば、近江達氏には「それなら欧米人は,パスをする時,パスをもらう時,あるいはボールをキープする時で自我(個)の形が違うのか?」とでも批判すればいい。前田和明氏には「ヨーロッパ言語人は,動詞の後に目的語や補語が来るので,誰に・どこにパスを出せばいいのか最後まで決まらない.その分,思考が遅くなるのではないか?」とでも批判すればいい。たわいない議論はそれで終わる。

河合一馬説が間違っていると断言できる決定的な根拠
 とどのつまり、河合一馬氏の言い分は、日本サッカーが長期低迷していた1970~80年代初めから、日本サッカー界・サッカー論壇に蔓延していた自虐的な「サッカー日本人論」でしかなかったのである。それが正しいのなら、日本サッカーはその当時のままずっとずっと低迷していなければならない。

 しかし、この間、Jリーグの創設と定着、日本代表のW杯本大会連続出場など、日本サッカーは曲がりなりにも伸長しているのである。

 つまり、「日本人論」で語られる日本人の国民性や文化・宗教・言語等々と、日本サッカーの実際の在り様との間に因果関係はない。虚構である。換言すれば「サッカー日本人論」は間違っているし、河合一馬説は間違っている。

河合一馬説に共感するサッカーファンたち
 さらに中村〔光夫〕は次のように述べる。「問題は、こういう考えがたんに高田〔博厚〕氏のように特殊な教養と経歴の持主ひとりのものではなく、それに多数の賛成者がいるということです。どうも日本語というのは特別に封建的な言葉らしい、とか、我々の言語生活に表われた封建性は反省しなければならないという人がすぐでてきます。」

 サッカーライターの大御所・大住良之氏は、1994年1月に「〈日本のサッカーはまだまだダメだ〉と言えば、〈そのへんのサッカーファン〉と一線を画せると勘違いしている〈サッカー関係者〉が少なくないことは悲しい」と述べている(『サッカーの話をしよう〈1〉』,初出は『東京新聞』1994年1月4日付)。

サッカーの話をしよう〈1〉
大住 良之
NECクリエイティブ
1996-03


 これは、金子達仁・杉山茂樹・加部究・佐山一郎らといった、当時「電波ライター」と呼ばれたサッカーライターたちの、1993年「ドーハの悲劇」の反応として発せられた自虐的な日本サッカー観に対する批判として書かれたものである。しかし、河内一馬氏のように「日本のサッカーはまだまだダメだ」と言えば「そのへんのサッカーファン」と一線を画せると思っている「サッカー関係者」は、2018年現在、途絶えることはない。

 サッカー日本代表がFIFAランキングで50位前後ならば、日本と同等以下の国々のサッカーも「まだまだダメ」なのである。その多面的・重層的な「まなざし」から、少しでも日本サッカーを高い段階へと上げるべく考えるのが、本来のサッカー評論のはずである。

 ところが、それがあたかも日本のサッカーだけが「ダメ」であるかのように印象付けるカラクリが「日本人論」であり「サッカー日本人論」だ。そうした日本サッカー観に共鳴・共感するサッカーファン・サッカー関係者も、例えば宇都宮徹壱氏のように、また実に多いのである。


 こちらは、さらに問題である。

 河内一馬氏は、自身の論考の連載を「科学」ではない「芸術としてのサッカー論」だとしている。たしかに「科学」ではない。しかし、これを「芸術」などと呼ぶのは芸術に対する冒涜であろう。

 河内氏の日本サッカーの論考は、科学でも芸術でもない「日本人論」または「サッカー日本人論」というオカルトであり、与太話であり、トンデモである。

 こんなお粗末なサッカー評論をありがたがるサッカーファン・サッカー関係者の気が知れない。

(了)




参考文献
 こういった話は、以下の著作が最も詳しい。