「最近の若い者は…」という愚痴とサッカー
 どこまで本当だか分からないが、5千年前だか、3千年前だかの古代文字、メソポタミアの楔形文字だか、古代エジプトのヒエログリフだかを解読したら「最近の若者はなっとらん!」という年長者の嘆きが書かれてあって、それって現代のオジサンたちの愚痴といっしょじゃないか……という、笑い話がある。

 これと似た話が実はサッカーにもある。

「勝利至上主義」でサッカーはダメになった?
 サッカーは、いわゆる勝利至上主義で、年を経ることに守備的になって点が入らなくなった、つまらなくなった、スポーツとして駄目になった……みたいなことがよく言われる。この種の言説の代表的人物として、文化人類学者の(散文ポエマー)今福龍太氏がいる。

 1990年代半ばのサッカーについて述べた、いささか古いものではあるが……。
 サッカーを見ながら……いやな経験をしたのが、一九九四年のワールドカップ・アメリカ大会だった。私〔今福龍太〕の不満は、……「負けないサッカー」が、この大会に横行したことであった。

 「負けないサッカー」ではなく「美しいサッカー」を標榜する伝統を持ったコロンビアやメキシコといった魅力的なラテン・サッカーのチームが早々と姿を消し、防御的な布陣を敷いてカウンター攻撃で勝利して勝ち上がったヨーロッパ系のチームが粗野で凡庸な試合を繰り返す。決勝に出たブラジルですら、イタリアの前に徹底して守備的に試合を運び、ついには双方引き分けでPK戦で何とか決着をつける……。こんなサッカーを私たちは本当に見たかったのだろうか?〔中略〕

 こうした三年前のアメリカ大会の印象は、昨年(一九九六年)の欧州選手権でも少しも変わることがなかった。伝統的にもっともフォーメーションを重視した「負けないサッカー」を信奉したドイツと、これまた守備的布陣を敷き、カウンター攻撃一本にかけたチェコが決勝で戦ったことを見てもわかるように、こうした戦術の徹底の背後には、勝利至上主義……の原理がはたらいていた。

今福龍太『フットボールの新世紀』100~102頁

 1990年代は守備的サッカーの時代で、W杯やユーロなど主要な国際大会ではスコアレスドローやPK戦が頻出した。だから、今福氏の言い分ももっともらしく聞こえた。

 そして、ここで「負けないサッカー」の権化として槍玉に挙げられているのは、やっぱりドイツ代表である。

「科学」でサッカーはダメになった?
 そうした状態は2000年代以降は解消される。すると今度は、徹底したデータの集積、その詳細な分析に基づいた統率の取れた戦術を徹底的にチームに落とし込んだサッカー=「科学的サッカー」が批判の対象になる。科学的サッカーは、サッカー本来のロマンチシズムを奪っているのだと。

 そして、そうした「科学的サッカー」の権化として槍玉に挙げられるのは、やっぱりドイツ代表である。

 これに関しては、例によって今福龍太氏がいろいろグダグダ述べている。
 当ブログは、先のエントリーで今福氏の言い分への疑いを書いた。
 ここでは、今福龍太氏(や細川周平氏)のような特殊な職業インテリだけが科学的サッカー批判&ドイツ代表批判をしているわけではないことを紹介する。『サンケイスポーツ』のサッカー担当キャップ・浅井武記者の2018年ロシアW杯のコメント。大会の展望……というか、願望である。
「サンケイスポーツ」浅井武記者コメント20180615
【浅井武記者のコメント,『サンケイスポーツ』2018年6月15日電子版より】


★浅井記者 アルゼンチン
 ドイツの連覇は絶対に見たくない。ゲルマン魂とフィジカルの強さで勝負していた一昔前は好きだったが、いまはデータ会社と組むなど戦略的に戦い過ぎ。真面目なドイツ人がサッカーから〈ロマン〉を奪おうとしている。対照的に、個々がドリブルで打開をはかるアルゼンチンの戦い方には気概を感じる。この大会が最後かもしれないメッシの笑顔も見たい。
 この発言は物議を醸した……とまでは言わないが、違和感を表す人もいた。
 勝利至上主義に基づいた「負けないサッカー」と「科学的サッカー」でサッカーがつまらなくなるのは、現代スポーツの病理なのだろうか?

堀江忠男氏の回想より
 ここであらためて紹介するのが故・堀江忠男(ほりえ・ただお)氏である。

 堀江忠男。1913年生まれ。1936年ベルリン五輪サッカー日本代表。「ベルリンの奇跡」の出場選手のひとり。マルクス主義経済学者として早稲田大学教授。サッカーの指導者として早稲田大学ア式蹴球部(サッカー部)監督。釜本邦茂、森孝慈、岡田武史、西野朗らを育てた。ラジオパーソナリティー・吉田照美氏は大学の教え子である。2003年永眠。

 堀江氏は、本業の経済学者として、1966年1月、英国ケンブリッジ大学に短期留学した。その時、堀江氏が理髪店に散髪に行った時のエピソードである。
 そのころのイギリス〔イングランド〕は、夏におこなわれるサッカーのワールド・カップ〔1966年W杯イングランド大会〕のことが、もういたるところで話題になっていた。ロンドンのあるデパートに展示されていた純金の大カップ〔ジュール・リメ杯〕が白昼〔はくちゅう〕堂々盗まれて消えてしまったという「大事件」が、ワールド・カップの前景気をかえってあおり立てていた。

 ある日、床屋〔とこや〕へ行ったとき、はさみを使っている〔理髪師の〕若者との間で、カップ盗難事件のことをきっかけに、サッカー談義が始まった。

 「このごろの〈科学的〉と称するサッカーは面白くないね。正確だが迫力のないパスで安全に攻め、守りを固くして逃げ切ろう、というやり方だ。昔ふうの、大きなゆさぶりをかけて突っこむのが、ほんとのサッカーの味だ。」

と私〔著者・堀江忠男氏〕がいえば、

 「その〈科学的〉サッカーというのがほんとに〈科学的〉なのか、それが問題ですよ。」

と若者が相づちを打った。私が、三〇年前のオリンピック〔1936年ベルリン五輪〕に出た、と口をすべらしたら、「そういう方の頭をからしていただくのは光栄です。」とかしこまられたのはくすぐったかった。同時に、さすがサッカーの母国イギリスだと思った。

堀江忠男『わが青春のサッカー』岩波ジュニア新書(1980年)123~124頁

 これを読んで大笑い。「昔のサッカーはよかった」「負けない戦術が横行してサッカーは駄目になった」「最近の〈科学的サッカー〉とやらはつまらん」……こういった話は、今から50年以上前、1966年の「昔」から存在したのだ。

 「最近の若い者は……」と繰り言をしていた古代人のオジサンたちと変わりがない。

 1966年や1970年のW杯の試合の映像を見て、現代のそれと比べてみると、昔のサッカーはユルユルスカスカで単純に(ゴールもたくさん決まりそうで)面白そうに思える。そんな時代でも現代のサッカー論壇と同じことが言われていたのは、非常に興味深い。

 今福龍太氏あたりの、おどろおどろしい「近代批判」的サッカー観は、話半分くらいに聞いておくのが無難ではないのか。

(了)