古代日本の謎の球技と現代日本のスポーツとの関係
 「大化の改新」のきっかけとなった古代日本のクーデター「乙巳=いっし=の変」(645年)。その立役者,中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が面識を持ったのは「蹴鞠(けまり)」の会であったと、これまで信じられてきた。
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【小泉勝爾『中大兄皇子と中臣鎌足』神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより】

 ところが、事の顛末(てんまつ)を記した『日本書紀』皇極天皇紀には「蹴鞠」ではなく「打毱」と表記されている。この球技の正体が分からない。いくつかの理由から、これは蹴鞠ではなく、杖(スティック)を手に持ってボールを打つホッケー風球技ではないかという説もある(国文学者・西宮一民氏,埼玉県立博物館・井上尚明学芸員ほか)。
正倉院宝物より
【打毱(正倉院宝物)小学館版『日本書紀』より】

 中でもスポーツライター玉木正之氏は、ホッケー風球技説の熱烈な支持者であり、蹴鞠説に否定的な立場をとっている。玉木氏は、そのことがその後の日本のスポーツ文化,日本のスポーツの在り方まで既定しているのだという。

 すなわち、日本でサッカーJリーグの人気がプロ野球に敵(かな)わないのも、日本サッカーが世界の一流国と互角に戦うことができないのも(一流国と互角に戦えるのなら一流国のはずなのだが……)、すべて大化の改新の始まりとなった古代日本の球技が蹴鞠ではなく、ホッケー風の球技だったからだと、玉木氏は言うのである。

小説を歴史的真実の根拠とする「スポーツ学者」玉木正之氏の感覚
 しかし、玉木氏がホッケー風球技説を支持する理由というのが今一つ薄弱である。当ブログ(の中の人間)は、玉木氏のウェブサイトを通じて、その根拠を質問したことがある。

 すると玉木氏は、何と! 橋本治氏が書いた小説『双調平家物語』にそう書いてあるからなのだと回答してきた。

 歴史的真実について話をするのに、その根拠として史料や実証ではなく小説=フィクションを挙げるスポーツライター玉木正之氏の感覚は……ハッキリ言って信じがたい。筑波大学や立教大学,国士舘大学など、いくつもの大学・大学院でスポーツ史やスポーツ文化を教えている大学教授でもある玉木氏の資質が、大いに疑わしくなる。

 それでも『双調平家物語』を読むのはなかなか興味深いものがあった。たしかに『双調平家物語』は、該当の球技を蹴鞠ではなく、ホッケー風球技として描いている。しかし、橋本氏はがそういう設定にしたのは、あくまで創作=小説としてのものだ。歴史の真相を述べようとしたものではない。何より、中大兄と鎌足の出会いも本来の『日本書紀』皇極天皇紀の描写とはまったく違うものとなっている。

 ところで、『双調平家物語』の巻末には、参考文献として歴史学者(日本古代史),遠山美都男氏の『大化の改新~六四五年の宮廷革命』(中公新書)が挙げられている。

 こちらの著作では、問題の球技は、2人の出会いは、どのように語られているのか?

遠山美都男氏のスタンスと橋本治氏の着想
 結論を先に言うと、遠山美都男氏の『大化改新~六四五年の宮廷革命』は、問題の古代日本の球技が蹴鞠なのか蹴鞠ではないのか……という問題に関して、橋本治氏の『双調平家物語』にさしたる影響を与えていない。
 鎌足は、中大兄の若さと器量に注目する。弱冠十九歳だが、この皇子ならば現状打開の大事をともにできる。だが、皇子の知遇を得る機会がなかなか訪れない。

 ところが幸運にも、鎌足が飛鳥寺の西の広場を通り過ぎようとした時、そこで蹴鞠に興ずる中大兄に出会う。鎌足は脱げとんだ中大兄の靴をひろい、これを献じた。中大兄は、跪いて靴をささげもつ男の目に尋常ならざる決意を感じ取った。

 これをきっかけに両者はたびたび出会い、いつか、お互いの主張や理想を熱っぽく語り合うようになる。おのずと談論は蘇我本宗家の専横の一事にいきついた。〔以下略〕

⇒遠山美都男『大化改新』(中公新書)7~8頁
藤原(中臣)鎌足五円切手
【藤原(中臣)鎌足五円切手】
 遠山氏は、本の冒頭で、実にアッサリと「蹴鞠」と書いている。橋本氏の『双調平家物語』と、その参考文献とした遠山氏の『大化改新』とでは、問題の球技とその描写は、全く違う。『双調平家物語』の設定と描写はあくまで小説のためのものである。

 そもそも、遠山氏も蹴鞠か蹴鞠でないかということにはこだわっていないのである(後述)。

 遠山氏の『大化改新』は、単に大化の改新という歴史的事件にとどまらず、邪馬台国の卑弥呼それ以前の昔にまでさかのぼって、日本列島の権力(王権)の推移の歴史を論じたものである。橋本氏が遠山氏の著作を参考にしたのは、十数巻に及ぶ大河小説である『双調平家物語』の、あくまで作品全体の構成、その着想を得るためである。

 繰り返すが、例の球技を蹴鞠ではなくホッケー風球技と設定したのは、歴史学的な正しさを求めてのことではない。

なぜか軽視される史料『藤氏家伝』の存在
 中大兄と鎌足の出会いの逸話について記した史料には『日本書紀』の他に『藤氏家伝』がある。略称『家伝』。書名にある通り、藤原氏の祖先(鎌足ほか)の伝記である。奈良時代、760年(天平宝字4)に成立。ちなみに『日本書紀』の成立は720年(養老4)である。『書紀』と並んで当時の状況を知るのに非常に重要な史料である。
 中臣鎌足は、中大兄に接近を試みる。ところが、なかなか面識を得る機会が訪れない。『書紀』では「法興寺の槻の樹の下」で行われていた「打毱」の競技の場で、他方『家伝』では「蹴鞠之庭」において、鎌足は偶然にも中大兄に出会うことになる。これをきっかけに二人は意気投合、以後、隔意のない親交が始まり、やがて蘇我本宗家打倒の決意を固めていったとされている。

⇒遠山美都男『大化改新』161頁
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【霞会館蔵「中大兄皇子蹴鞠の図」(部分)筆:原在寛】
 つまり、この『藤氏家伝』の該当部分にも、アッサリ「蹴鞠之庭」と書かれている。ホッケー風競技説を採用している玉木正之氏は『家伝』の記述を無視するのだろうか?
 『書紀』『家伝』……両史料は同一の原史料のをもとに書かれている。

⇒同書11頁
 『書紀』『家伝』の「乙巳の変」〔大化の改新〕の記述は、内容的にはほとんど同じものであり、同一の原史料をもとにそれぞれ文をなしたことが明らかにされている。この原史料には『原大織冠伝』ないしは『入鹿誅滅の物語』という仮称が与えられている(横田健一氏説)。

⇒同書82頁
 『書紀』も『家伝』も、元々は同じテキストなのだそうである。ならば『書紀』にある「打毱」の正体が『家伝』にある「蹴鞠」であってもおかしくない。現代でも、同じ球技のことを「サッカー」「フットボール」「蹴球」、あるいは「野球」「ベースボール」などと、いろいろ表記が分かれていたりするではないか。

途絶えたフットボールの系統
 一方で、日本に現在伝わっている蹴鞠は、2チーム対峙してゴールを狙うものではないスタイルの蹴鞠である。こうした蹴鞠は、9世紀に近い年代の遣唐使などによって日本に伝えられたのはほぼ確実である。したがって、大化の改新(乙巳の変)7世紀の西暦645年の日本に蹴鞠は存在しない。つまり、問題の球技は蹴鞠ではないという説がある。

 こうした説と『家伝』の記述との矛盾をどう解釈すればいいのか? 例えばの話……。

 ……明治6年(1873)、日本に最初に伝えられたとされる海軍兵学寮の「フットボール」は、実はサッカーなのか、ラグビーなのか(あるいはそのどちらでもないのか)、分からなくなっている。それでサッカージャーナリストの後藤健生氏と、ラグビー史研究家の秋山陽一氏との間でちょっとした論争にもなっている(下記リンク先参照)。
 この辺は、大化の改新と縁のある古代日本の球技が、蹴鞠なのか、蹴鞠ではないホッケー風球技なのかという論争(?)と、似ていなくもない。余談だが「大化の改新」も「明治維新」も国家の一大変革の時代という共通点もある。
1874年「横浜で行われたフットボール」
【『神奈川新聞』のウェブサイトから】

 また、海軍兵学寮の「フットボール」の系統は途絶えている。現在の日本のサッカーは筑波大学(当時の高等師範学校)から、ラグビーは慶應義塾から始まった始まった系統である。

 他にも、明治時代初期に日本に伝えられた英国生まれの球技「クリケット」も、明治の中頃まで行われた後に一度途絶えている。現在日本で行われているクリケットは1970年代後半になってあらためて紹介されたものである。
レクリエーショナルクリケット協会ウェブサイトから
【「レクリエーショナルクリケット協会」のウェブサイトから】

 中大兄皇子が行っていた蹴鞠の系統は一度途絶え、その後、改めて現代日本に伝わるスタイルの蹴鞠が日本に入ってきた。近現代の日本スポーツにあったことが、古代においても起こりえたのではないか。

 むろん、当ブログは蹴鞠説が一方的に正しいという主張をしたいのではない。この問題は邪馬台国論争と同じで、蹴鞠説でも、ホッケー風競技説でも、どちらも決定打がない。当ブログは、蹴鞠でも蹴鞠でなくでもどっちでもいい。

 玉木正之氏については、自説を主張するならばちゃんと論争が成り立つだけのハッキリとした裏付けをもってやってほしい。それができないならば一面的な主張は慎んでほしい。当ブログの願いは、ただただそれだけだ。

玉木正之説のナンセンスが暴き出された
 『日本書紀』は勅撰正史という政治的テキストであるがゆえに一方で謎が多く、脚色や潤色が多い、その記述をすべて額面通りに信用できないといわれている。だから、これまでにも「郡評論争」「法隆寺再建論争」「聖徳太子非実在論争」「大化の改新虚構論争」といった日本古代史のさまざまな論争を起こしてきた。

 さまざまな理由から「打毱」の会での、中大兄と鎌足の出会いのエピソード自体が虚構ではないかとする説もある。この説を採用、『日本書紀』の「話自体が事実を正確に伝えるものではない」、「そこから一定の史実を引き出せるような性質の史料ではない」という立場をとっているのが、実は遠山美都男氏の『大化改新』なのである(167頁)。

 そうなると、大化の改新における古代球技問題の意義付けも変わってきてしまう。それが蹴鞠なのか、蹴鞠ではないホッケー風球技なのか、無意味なものになってしまうからだ。

 想像であるが、橋本治氏は『双調平家物語』を執筆するにあたり、遠山氏『大化改新』の例の逸話は虚構であるという説をよりどころにして、問題の場面の球技を蹴鞠ではなく、ホッケー風球技として描いたのかもしれない。史実とされているものも実は虚構かもしれないとするならば、自由な創作をするのにもためらいがなくなるわけだ。

 いずれにせよ、玉木氏が「大化の改新のキッカケがは蹴鞠ではない説」を主張するのに、作家・橋本治氏の小説『双調平家物語』だと臆面もなく言い出す。その『双調平家物語』が参考文献とした歴史学者・遠山美都男氏の『大化改新~六四五年の宮廷革命』では、問題の場面は虚構だという考えを採っている……。

 ……こうしたところからも、玉木正之説のナンセンスぶりがよく分かるのである。

(つづく)