外国人監督が語る「日本人論」を必要以上にありがたがるのは日本サッカー界の悪い癖である(前編) : スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

宇都宮徹壱氏のコラムから「サッカー日本人論」を読む企て
  1. 日本人は(特に欧米出身の)外国人が書いた「日本人論」をありがたがる。
  2. サッカーは「日本人論」あるいは「サッカー日本人論」のネタになりやすい。
  3. サッカー日本代表監督は(欧米出身の)外国人が務めることが多い。
  4. 外国人監督の発言は「日本人論」「サッカー日本人論」としてありがたく受容される。
  5. 外国人監督は「監督」から「評論家」へと変化(へんげ)する。
  6. サッカーメディアは「評論家」になった外国人監督に対して批評精神が働かなくなる。
  7. 結果として日本サッカーに悪い意味でさまざまな影響を与える。

 実際に日本サッカー界が「日本人論」「サッカー日本人論」からどんな影響を受けているのかを具体例で読んでいく。今回、注目したのは宇都宮徹壱氏のコラム「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。だが、私はそこに〈幸運〉を感じた」(2015年6月19日)である。

 タイトルからして外国人監督の言葉をありがたがった「サッカー日本人論」の感がある。
ハリルホジッチを唖然とさせた「日本固有の病」。
【「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。」より】

 むろん、当ブログは宇都宮徹壱氏に何の他意もない。当エントリーの目的は宇都宮氏を貶めることではない。

 リンク先を読めばわかる通り、宇都宮氏はまぎれもなく「サッカー日本人論」のビリーバーであり、かつ発信者である。サッカーファンはその受容者である。もちろん、日本サッカー界の住人のほとんどが「サッカー日本人論」のビリーバーであり、発信者,受容者である。それ以前に、日本人のほとんどが「日本人論」のビリーバーである。大げさに言えば日本人のほとんどすべてが「サッカー日本人論」のビリーバーなのである。

 あくまで、その「サッカー日本人論」のワン・オブ・ゼムとして、今回は宇都宮氏のコラムを取り上げるということである。この点、ご了解いただければと思う。

惨敗した調教師の言い訳を鵜呑みにするお人好しの馬主=日本サッカー界
 まず宇都宮徹壱氏は、元サッカー日本代表監督アルベルト・ザッケローニ(在任2010‐2014)が、同じく元日本代表監督,岡田武史(在任1997‐1998,2008‐2010)に対して「それにしても、日本の選手が〔日本人が?〕ワールドカップのピッチに立ってなお、死に物狂いで戦わないとは思わなかった」と慨嘆していた……というエピソードを紹介して、驚いてみせる。
 さらりと言っているが、〔この発言は〕実に恐るべき内容である。ザッケローニに率いられた日本代表は、〔…2014年のブラジル・ワールドカップ〕本大会は戦えるはず、と多くの人々が(そして指揮官や選手たちも)楽観していた。〔しかし、結果は惨敗した〕

 昨年のブラジル〔W杯〕における敗因について、ここで多くを語るつもりはない。が、ここで注目すべきは「W杯のピッチに立って、死に物狂いで戦わない選手がいる」ことにザック自身が驚いたという事実である。死に物狂いで戦わない(あるいは、戦えない?)選手がいたことはもちろん問題だが、〔日本人とは?〕そういう選手〔「国民」または「民族」、ないしは「人種」?〕であることを気付かずにザックが23名のリストに選んでしまっていたこと、そしてかように〔日本人の?〕致命的ミスが本大会の試合になって初めて露見したということについては、われわれ〔日本人?〕はただただ当惑するよりほかにない。
 ここですでに、サッカー日本代表の「監督」を日本人論の「評論家」にしてしまい、その発言をありがたがり、批評に曇りが生じ、評価の方向が「監督」から「われわれ日本人」へと逆転してしまう「サッカー日本人論」の現象を見て取ることができる。

 ザッケローニは、自分が手掛けたチーム(2014年サッカー日本代表)を何か他人事のように語っている……かのように読める。日本人である宇都宮氏は、「評論家」ザックの日本人論をありがたく頂戴し、「監督」ザックにはさして落ち度はなく、むしろ問題は選手の側にあったかのように論じている……かのように読める。

 これには違和感がぬぐえない。

 例えれば、それまでのレースで良い成績を残し、期待をされながら肝心のダービーでは惨敗してしまった競走馬がいたとしよう。ザッケローニは、いわばその競走馬を担当した「調教師」である。その「調教師」はレース後、「それにしても、この馬がダービーのターフに立ってなお、死に物狂いで走らないとは思わなかった」などと嘯(うそぶ)く。

 そんな「調教師」のふざけた言い訳を鵜呑みにする、お人好しで間抜けな「馬主」が日本サッカー界なのである。

 つたない記憶によれば、イタリア語で(イタリアはザッケローニの母国である)サッカーの「監督」と競馬の「調教師」は同じ単語「アレナトーレ」であったはずだ。

 しかし、調教師=監督の責任は、「サッカー日本人論」の作法のしたがって、不問に付されたのである。

「日本人の決定力不足」いちばんの解決法とは?
 ザックの次は、当代日本代表監督ヴァイッド・ハリルホジッチ(在任2015‐)である。2015年6月現在、日本代表はワールドカップ・ロシア大会アジア予選で苦戦していた。その理由は……点が取れないからである。またしても日本サッカーの、否、「日本人の決定力不足」である。

 ハリルホジッチは「日本人」のあまりの決定力不足を見て愕然としたのだという。ハリルの指摘を受けた宇都宮徹壱氏は、これを日本人の、「日本固有の病」であるとして、くだんのコラムで以下のような「サッカー日本人論」を展開する。
 日本人選手は……結果が求められる試合で……決定的な場面でシュートを外しまくったり……ということを繰り返す。……これはある種、国民的な悪しき伝統といっても過言ではないだろう。そしてそれは、歴代の外国人監督を悩ませてきた宿痾(しゅくあ)でもあった。
 1998年フランスW杯でシュートを外しまくった城彰二選手、2006年ドイツW杯の「QBK」で絶好のシュートチャンスを外してしまった柳沢敦選手などの事例から、いかにも日本のサッカー選手は、否、「日本人は決定力不足」であるとのイメージが人々の間に沁(し)みついている。


QBK直後のジーコ(左)と柳沢敦
【ジーコ(左)と柳沢敦:急に(Q)ボールが(B)来たので(K)】


 宇都宮氏は「日本人は決定力不足」のイメージを、(欧米出身の)外国人監督ハリルホジッチによる「日本人論」または「サッカー日本人論」という権威付けで語っているのだ。もちろん、その分、ハリルの責任は軽減される。

 ところで、「日本人は決定力不足」という通念は、宇都宮徹壱氏が言うように(宇都宮氏だけではないのだが)本当に「日本固有の病」なのだろうか?

 サッカージャーナリストの後藤健生氏がこんなことをコラムで書いている(「ヨーロッパで鍛えられる日本人FW 日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ」2017年5月1日)。

 2017年、、欧州のサッカーリーグの日本人の若手FWがとても元気だ。大迫勇也、久保裕也、原口元気、武藤嘉紀。2000年代、欧州リーグで通用する日本人選手といえば、中田英寿、中村俊輔,小野伸二と、まずMFと思われていたのに……だ。

 フィジカルコンタクトが激しいゴール前のプレー=FWよりも、日本人には中盤でのプレー=MFの方が向いているのかとも思われた。

 集団主義的な社会,文化である日本からはエゴイスティックな(決定力のある?)FWは育たないとも言われ、画一的な日本の学校教育が原因ではないかとも言われた。さらには「農耕民族の日本人には狩猟民族の欧米人がふさわしいポジション=FWは無理だ」などと馬鹿げた話まで言い出す人までいた。
後藤健生コラム「日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ」
【後藤健生「日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ】

 しかし、「日本人」のイメージもすっかり様変わりしてしまった。2022年のカタールW杯の時には「日本には優れたFWはいくらでもいるのに、もう少しMFがいたら……」と言われるようになっているかもしれない……。

 ……では、後藤氏をはじめとするオールドサッカーファンは、1970年代には何と考えていたのか? 「日本人からは他人に使われるFWの好選手,釜本邦茂のような決定力のあるストライカーは出てきても、他人を使うようなポジション=MFの好選手は出てこない」などと語り合っていたのである。

 サッカーにおける「日本人」のイメージは、かくもいい加減で、時代によりこれだけ「ゆらぎ」がある。「日本人だから○○」などと安易に決めつけるべきではないのだ。

 それでも、W杯の大舞台で活躍できない限りは「決定力不足」という「日本固有の病」の克服にはならないと「サッカー日本人論」のビリーバーたちは言うかもしれない。

 宇都宮徹壱氏は、そうした立場に立って、くだんのコラムで「メンタルの弱い日本人」「本番に弱い日本人」「決定力不足の日本人」の対策として、メンタル面でケアの出来るスタッフを日本代表に常駐させるべきだ……という具申をしている。

 しかし、日本のサッカー選手にとって、否、日本人にとって一番のメンタルケアは「サッカー日本人論」の通念通説を批判して、その呪縛を解いてあげることではないだろうか。

それでも、やっぱりジーコのせいだ
 宇都宮徹壱氏は「日本人の決定力不足」には大変な屈託があるらしく(むろん宇都宮氏だけではないはずだが)、くだんのコラムを書いた約1年後、2016年9月6日の時点でこんなツイートをしている。

 この「つぶやき」の数日前、2016年9月1日、サッカー日本代表はロシアW杯アジア最終予選の対UAE腺でまさかの敗戦を喫した。苦杯の理由は、追加点がなかなか取れなかったこと。またしても日本サッカーの、否、「日本人の決定力不足」である。

 思い返すに……。ジーコ(在任2002‐2006)は、日本代表の監督としては戦術的指導をほとんど行わず、選手たちにミニゲームやシュートを中心とした練習メニューを課していた。無為無策ではないかと批判されていたジーコは、実は「決定力不足」という日本人の弱点を十分に理解しており、むしろ、正しかったのではないか……。

 宇都宮氏が嘆息したのはそういう含みである。

 こうした思考自体が、宇都宮氏が「サッカー日本人論」に絡めとられていることを意味する。悪いのは監督ジーコではない。決定力不足の日本人の方だ。実際にジーコは「サッカー日本人論」の作法に従い、2006年ドイツW杯で惨敗した責任を不問に付されている。

 それは違う。やはり責任はジーコにあるのだ……と喝破し、サッカージャーナリストよりも筆鋒鋭くジーコを批判したのは、ラグビー系のスポーツライター藤島大氏であった。
「ジーコのせいだ」 藤島大
すべてジーコのせいだ。ジーコが悪い。ジーコがしくじったから負けた。なぜか。チャンピオンシップのスポーツにおいて敗北の責任は、絶対にコーチ〔監督〕にあるからだ。シュートの不得手なFW〔柳沢敦〕を選んで、緻密な戦法抜きの荒野に放り出して、シュートを外したと選んだコーチ〔監督〕が非難したらアンフェアだ。
 藤島大氏は、「〈監督〉が〈評論家〉になってはいけない」と日本スポーツ界を戒めていた、ラグビーの名将,名伯楽,大西鐡之祐(おおにし・てつのすけ:1916‐1995)の直弟子である。サッカー側が尻込みするなか、藤島氏がこの風潮に抗い、鋭くジーコを批判できたのも、けして偶然ではなく、大西とのつながりが関係がある。

自己成就と矛盾の連鎖
 藤島大氏がわざわざ力説しなければならなかったように、サッカーの勝敗において第一に問責されるべきは監督である……という原則が、日本サッカーにおいては、特に日本代表に関してはなかなか働かない。これまで何度も述べているように、日本では、私たちは外国人監督の発言を「サッカー日本人論」としてありがたがってしまうからである。

 日本のサッカー関係者がありがたがる「サッカー日本人論」は、日本人が日本人であるがゆえにサッカーというスポーツへの適性を著しく欠いている……という、きわめて自己否定的,自虐的な日本サッカー観である。こうしたサッカー観が繰り返し語られ、私たちの自己イメージが刷り込まれる。

 そして、その自己イメージを成就させるかのように、私たち日本人を「代表」するサッカー選手たちは、決定機でシュートを外し、肝心なワールドカップの大舞台で負ける。

 そうした「日本人の決定力不足」や「日本人の勝負弱さ」の克服を……と、サッカージャーナリストたちは唱えるが、それらの主張にはたいてい外国人監督への無答責と、外国人監督の言葉による「サッカー日本人論」がセットで付いてくるので、日本サッカー自己否定的なイメージの刷り込みはかえって繰り返される。そして、日本人の決定力不足や勝負弱さもまた繰り返される。

 こうした矛盾の連鎖が「サッカー日本人論」と日本サッカーの関係にはある。

 外国人監督が語る「日本人論」を必要以上にありがたがるのは日本サッカー界の、やはり悪い癖である。サッカージャーナリストたちは矛盾の連鎖に気が付かないのだ。

(了)





下記の特に第11章を参照。


【追記】