スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

2020年06月

前回のおさらい~文春ナンバー,噂の真相,武田徹氏
文春ナンバーの「ナルシズム」を『噂の真相』で再現しただけ
 ……一面的な絶賛だけでは、読者は文春ナンバーへのリテラシーが身に付かない。『噂の真相』は文春ナンバーのレビュー筆者の人選を誤ったし、匿名の文春ナンバーのレビュー筆者は、文春ナンバーの「ナルシズム,内輪ウケ」の文化を『別冊 噂の真相 日本の雑誌』〔1990年〕で再現しただけである。

別冊『噂の真相』〈日本の雑誌〉174~175頁(1990年)
【文春ナンバーのレビュー『別冊 噂の真相 日本の雑誌』1990年】

 ところで、この匿名の文春ナンバーのレビュー筆者の正体は誰だろうか?

 当ブログは、当時、文春ナンバーで書評・ブックガイドのコラムを担当していた武田徹(たけだ・とおる)氏(ジャーナリスト,評論家,メディア学)ではないかと邪推している。さしたる根拠はないが、文体でそのように想像している。

 間違っていたらゴメンナサイ……だが、武田徹氏は、その文春ナンバーで日本の野球、日本のスポーツに関しておかしなことを書いていたので、いずれ取り上げたい。

 乞うご期待。

 ……と、いうわけで、1990年代前後に武田徹氏が担当していた文春ナンバーの書評・ブックガイドであるが、これには時々おかしなレビューが載っていた。

『アメリカ野球珍事件珍記録大全』と武田徹氏のレビューの不可解
 今回採り上げるのは、ブルース・ナッシュ,アラン・ズーロ著/岡山徹訳,小林信也解説の『アメリカ野球珍事件珍記録大全』(東京書籍,1991年)である。むろん、この本には何の罪もない。それどころかアメリカ野球の良書である。
アメリカ野球珍事件珍記録大全(シリーズ・ザ・スポーツノンフィクション)-1991/3/1
 これが大リーグだ! インチキバットに野球生命をかけたバッター、登板日に蒸発してビー玉遊びをする投手、あんまり弱いので選手に催眠術をかけて勝たせようとしたチーム(それでも勝てなかった)、どうしても勝てないので監督のかわりに観客の多数決で進めた試合(それでも勝てなかった)、打者の写真にぶつけて練習するピッチャー、マウンドから絶対に降りようとしないピッチャー(だけど勝手に降りてしまうこともある)、頭にきてユニフォームを燃やしてしまった選手。

 あまりにもしみったれで、ヘタで、みじめで、けれど最高に素敵な男たち。ディマジオ、マントル、ルースら大スターの知られざる素顔。観客、球場、グラウンド・キーパー、はては動物たちまで総登場。

 問題なのは、文春ナンバー1991年4月20日号(265号)に掲載された、武田徹氏のレビューである。
大リーグ、不名誉な殿堂オンパレード
文●武田徹

 TVのプロ野球ニュースの定番人気コーナーにいわゆる「珍プレー集」がある。常軌を逸したエラーシーンを編集、集中的に視聴者に見せて嘲笑〔←笑いではなく嘲笑,この単語の選択には武田徹氏の悪意を感じる〕を誘う企画である。

 確かに何度見ても噴き出してしまう内容である。しかし文字業者として悔しいのは、その面白味があくまで画像情報だということ。〔…〕珍プレーの殆どは一瞬の映像として見て面白いものばかりなのだ。

 しかしその点、さすがに大リーグは進んでいた。こんな本まで生んでしまったのだ。『アメリカ野球珍事件珍記録大全』は〔…中略〕。

 エラーに人間臭い事情があり、会話に機転がきいたウィットがある。だから文字にしても楽しめる。その点、日本野球ではエラーはユーモアやウィットはなく単なるミスだけだから動き自体を笑うだけだ。大リーグの珍プレーはコメディの面白さで、日本の珍プレーはサルが木から落ちるおかしさ……。いやいやそこまでは言うまい。ロバート・ホワイティング氏の指摘するごとく、日米の野球の絶対差異を痛感させられる一冊である。

武田徹書評『文春ナンバー』1991年4月20日265号
【文春ナンバー1991年4月20日号(265号)109頁より】
 なぜ、アメリカ野球の本をレビューするのに、いちいち日本の野球を引き合いに出して、コレをクサさないといけなかったのか? なぜ、もとの本とは無関係のロバート・ホワイティング氏の名前が出てきたのか? なぜ、「日米の野球の絶対差異」などという方向に話が飛躍していったのか?

「日米の野球の絶対差異」を煽っていた日本のスポーツ論壇
 気になったので、当ブログは、ある時『アメリカ野球珍事件珍記録大全』の現物に目を通してみた。すると、どうです! 開けてビックリ玉手箱! 岡山徹氏の訳文(本文)にも、小林信也氏の巻末解説にも、ことさらに「日米の野球の絶対差異」をイメージさせたり、強調させたりということは書いていない! そんな意図など無かったのである。

 武田徹氏は、わざわざ『アメリカ野球珍事件珍記録大全』本来の魅力を歪曲して伝えたのである。

 しかし一方、当時、1980年後半から1991年前半にかけて、文化的な面をも含めた「日米の野球の絶対差異」をことさらに強調してみせることが、日本のスポーツ論壇のしゃれた言い回しであり、流行りでもあった。

 アメリカ野球、大リーグ=メジャーリーグベースボール(MLB)はとにかく無条件に素晴らしく、日本野球(NPB,高校野球など)はとにかく無条件に低劣だとされていた。

 武田徹氏は、その流行に乗っかったのである。

 この風潮を煽ったのは、たしかにロバート・ホワイティング氏、そして、その「相棒」ともいえるスポーツライター・玉木正之氏である(その歴史的な主な展開については,次のリンク先を参照)。
ニッポン野球は永久に不滅です (ちくま文庫)
ロバート ホワイティング
筑摩書房
1987-12T


和をもって日本となす
ロバート ホワイティング
角川書店
1990-04-01


 そういえば、前掲の『別冊 噂の真相 日本の雑誌』では、何もかも愚劣な日本のスポーツ界にあって、まるで文春ナンバーにだけは「スポーツの本質を語る良心の泉」である……かのような絶賛を匿名のレビュワーは書いていた。また、その匿名のレビュワーは、その「スポーツの本質」がいかなるものであるかを知るには、たとえば玉木正之の諸論考をぜひとも参照していただきたい……などと書いていた。

 アメリカ野球の良書『アメリカ野球珍事件珍記録大全』を紹介した武田徹氏の書評・ブックガイドで、まるで関係のない、玉木正之氏とロバート・ホワイティング氏が煽った「日米の野球の絶対差異」を蛇足していた。

 玉木正之氏への評価が高いという点も、『別冊 噂の真相 日本の雑誌』の文春ナンバーの匿名レビュワーと武田徹氏の共通点がある。おそらく「2人」は同一人物だろう。

本当は「ジョークの羅列」だった「日米の野球の絶対差異」
 ところが、この「日米の野球の絶対差異」は、嘘やら誇張やら偏向やらであることが分かってきた。日本のテレビ(主にNHKの衛星波)でメジャーリーグの野球が日本にも頻繁に放送されるようになったことや、日本人野球選手がメジャーリーグでも活躍するようになったことで、アメリカのリアルな野球事情が日本人にもより分かるようになったこと。

 また、日本でもサッカー人気が台頭して、アメリカ・メジャーリーグ以外の「世界」のスポーツの在り方や文化、習慣が日本人にも知られるようになったこと……などが理由である(その詳しい経緯は次のリンク先を参照)。
 特に、玉木正之氏とロバート・ホワイティング氏が書いた「日米の野球の絶対差異」の集大成である『ベースボールと野球道』(1991年,前掲)の内容については、在米のスポーツライター・梅田香子(うめだ・ようこ)氏が『イチロー・ルール』(2001年)の中で「ジョークの羅列」としか取れないほど事実と反している……と喝破している。

 野球やスポーツ関連の著作も数多く手がけているルポライターの岡邦行氏もまた、『ベースボールと野球道』の内容に問題あることを指して、著者のひとり・玉木正之氏のことを「このウソツキ野郎め!」と辛辣に批判している。

 「日米の野球の絶対差異」を象徴する、あの当時さんざん使われた「日本の野球とアメリカのベースボールは違うスポーツである」という命題がある(次の写真の「帯」を参照)。

「和をもって日本となす」表紙・帯
【『和をもって日本となす』の表紙と帯】

 しかし、当然のことながら、同じBaseballというスポーツだからこそ、「日本の野球」と「アメリカのベースボール」は俗流比較文化論(日本人論,日本文化論)のネタになりうるのであって、そんなものは所詮は言葉遊びでしかない。

にっぽん野球珍事件珍記録抄
 日本のプロ野球界に、珍事件珍記録の類がないかというと、そんなことは全くない。例えば……。

 ……プロ野球生涯記録、出場通算1試合。初打席初本塁打を放つも、以後再び打席に立つことも試合に出ることもなかったため、通算打率10割・通算長打率40割・通算OPS5.000という、稀有の記録を有する塩瀬盛道選手。

 ……あるいは珍名プロ野球選手の代表、一言多十(ひとこと・たじゅう)選手。

 両者とも、プロ野球選手としてはもうひとつだったが、(ウィキペディア日本語版の記述を信じる限り)けっして泡沫の野球人生ではなく、アマチュア野球界もふくめると、ひとかどの野球人であったことは、さらなる驚きである。

 ……プロ野球人生唯一のヒットが「2度のセーフティーバントを失敗した後のボテボテのショートゴロが,前夜来の雨で柔らかくなっていたグラウンドのおかげでヒットになったもの」であるが、それが巨人軍の大投手・別所毅彦の完全試合を阻止するヒットになってしまった神崎安隆選手。

 ……「あと1人アウトでノーヒットノーラン達成というところで,ヒットを打たれて快挙を逃した試合」を2年連続で2度も演じた。あるいは「毎回奪三振で完投しつつ敗戦投手」という珍記録の持ち主、仁科時成選手。

 ……この他、長嶋茂雄や榎本喜八といった珍事件の類の逸話に事欠かない野球人がいる。

 以上の話は、すべて「日米の野球の絶対差異」や「野球とベースボールの違い」をさんざん煽ってきた、あの(面白いスポーツライターだった頃の)玉木正之氏の著作『プロ野球の友』や『プロ野球大事典』から採集した。

プロ野球の友 (新潮文庫)
玉木 正之
新潮社
1988-03T


プロ野球大事典 (新潮文庫)
玉木 正之
新潮社
1990-03T


 要するに、珍事件珍記録を集中的に採集してパッケージにした『アメリカ野球珍事件珍記録大全』のようなコンテンツが日本になかっただけであって、宇佐美徹也氏や玉木正之氏のように野球ジャーナリズムの中には、こうした逸話を紹介した人はいるのである。

 宇佐美徹也氏や玉木正之氏よりもう一代前の、野球ファン・野球評論でも有名だった鈴木武樹氏(すずき・たけじゅ,ドイツ文学者,故人)も、何かやっていたかもしれない。

 こういう本が日本の野球にもあったら楽しいのにねぇ……と書けばいいものを、武田徹氏は無理やり日本野球を貶したのであった。

 一方、アメリカ合衆国(米国)にも『アメリカン・ブルーパーズ』という映画がある。


ビデオメーカー
1990-06-22

 これは要するに野球を含めたアメリカンスポーツの「珍プレー集」であって、真剣勝負の中で、あられもなく生じたBlooper(大失敗,どじ,転じて珍プレー)から笑いを誘うという企画は、日本もアメリカも変わらない。

東京書籍『ニッポン野球珍事件珍記録大全』を刊行する
 『アメリカ野球珍事件珍記録大全』の版元・東京書籍は、12年経って、ノンフィクション作家・スポーツライターの織田淳太郎氏を執筆者に『ニッポン野球珍事件珍記録大全』という本を刊行した。
ニッポン野球珍事件珍記録大全
 自分の名前を忘れていたあの監督、トイレに行きたいばかりに早く試合を終わらせようとした審判、呪われた球団など、知られざる「ホントにこんなことあったの!?」という話題満載の決定版。
  • 超自然編~エスパー・シールをもう一枚
  • 天国と地獄編~二死から何かが起こる
  • 生理現象編~試合を早く終らせようとした審判
  • 野球人語編~僕は長嶋シゲル
  • ファイト!編~「打者にあたるまで投げろ」
  • 野球はゲイジュツだ!編~そこまでしなくても
  • グランドの困った方々編~試合に来るだけめっけもん
  • 大漁編~多けりゃいいってもんじゃないぞ!?
  • ベースボール・イズ・マネー編~長嶋の身代金
  • 番記者編~三日やったらもう充分
ニッポン野球珍事件珍記録大全
織田 淳太郎
アドレナライズ
2013-03-01


 版元は同じだから、この書名はパクリではなくオマージュである。いずれにせよ、東京書籍には「日米の野球の絶対差異」を煽ろうという意図は、実はコレッポッチもなかったのだ。

 文春ナンバーで書評・ブックガイドを担当していた武田徹氏は、比較の対象にならないモノ同士を比較して、無駄に日本の野球を卑しめ、もとの本『アメリカ野球珍事件珍記録大全』まで卑しめたのである。

(了)




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大胆な問題提起の試み
 アフリカのナイジェリア人を父に持つ日本プロ野球(NPB)東北楽天ゴールデンイーグルスのオコエ瑠偉選手が、反差別・反レイシズムの声を上げた。かつて、オコエ瑠偉選手は高校時代、夏の甲子園で活躍した時、日本のスポーツマスコミ『スポーツ報知』に、人種主義的でデリカシーのないことを書かれて問題になったことがある。
 夏の甲子園で連日球児たちが熱戦を繰り広げているなか、マスコミが水を差した。スポーツ報知が今月〔2015年8月〕12日付紙面で、関東第一高校のオコエ瑠偉選手の活躍について、偏見と差別を助長する表現を用いたことが物議を醸しているのだ。

 プロスカウトも注目するオコエ選手は、ナイジェリア出身の父を持つ強肩俊足の好外野手。だが、報知はハーフのオコエ選手をアフリカの野生動物に喩えて、このように書いた。
  • 〈真夏の甲子園が、サバンナと化した。オコエは本能をむき出しにして、黒土を駆け回った〉
  • 〈野性味を全開〉
  • 〈味方まで獲物のように追いかけた〉
  • 〈ヤクルト・小川シニアディレクターは「本能を思い切り出す野獣のようだ」。ロッテ・諸積スカウトは「ストライドが長い。ヒョウみたい」。スカウト陣からは野性的な賛辞が続出した〉
  • 〈飢えたオコエが、浜風をワイルドに切り裂く〉
 この明らかにオコエ選手の活躍とアフリカ系の出自とを結びつける記事に、ネットでは「アフリカ出身の父を持つだけで動物扱いかよ」「レイシズムの見本市」「気が利いたこと言おうとして無自覚な差別意識がダダ漏れ」と批判が続出。〔以下略〕

 これは日本のニュースサイト『リテラ』が配信したものだ。なるほどこれは酷い。同様の「告発」はニュースサイト『ハフィントンポスト日本版』でも行っている。
 日本人は人種主義(レイシズム)や人種差別への「意識が低い」のだろうか? 『リテラ』や『ハフィントンポスト日本版』といった「意識が高い」メディアの記者・編集者は、そう書けばいいと思っているのかもしれない。しかし、日本には日本の固有の事情があり、事はそう単純ではない。

日本人の身体能力…その自己観とは?
 私たち日本人は「日本人の身体能力・身体文化」をどのように認識してきたのか? そこが分からないと、オコエ瑠偉選手の報道問題を理解することはできない。例えば……。
 日本は大陸から孤立した「島国」であり、「黄色人種」の日本人は稲作中心の「農耕民族」である。農耕民族の日本人には、水田耕作作業に由来する、「地面に踵(かかと)をこすりつけて歩くすり足」の「身体文化」が身に染(し)みついている。

 したがって、日本人は、獲物を狩るために動き回らなければならない「狩猟民族」である(欧米系白人や)アフリカ系黒人と比べて「身体能力」が著しく劣っている。特に踵(かかと)を上げて動き回る、身体能力や身体文化を競う「スポーツ」という表現分野には致命的に向いていない。

日本人=農耕民族/欧米人・アフリカ系黒人=狩猟民族
【日本人=農耕民族/欧米系白人・アフリカ系黒人=狩猟民族】

 「すり足」で格闘する相撲や柔道ならともかく、日本人がオリンピックやワールドカップで勝てない、弱い、すなわち身体能力が劣っているのは、農耕民族の身体文化である「すり足」のためである。
 ……といったものだ。いわば「日本人〈すり足〉民族論」。その元祖は、武智鉄二氏(演出家,映画監督ほか,故人)の著作『伝統と断絶』である。

伝統と断絶 (1969年)
武智 鉄二
風濤社
1969T


 1970年代初めから1990年代初めまで、国際舞台では出ると負け、国内シーンでは閑古鳥なく不人気と、長い長い低迷に苦しんだ日本サッカー。そんな日本のサッカー論壇では、「日本人〈すり足〉民族論」が頻繁に援用された。特に佐山一郎氏(作家,編集者)にとっては、お気に入りの定番ネタのひとつであった。
 また、その佐山一郎氏とは、同じ草サッカークラブのチームメイトだった細川周平氏(音楽学者?)が、一部でカリスマ・サッカー本扱いされている、1989年刊の『サッカー狂い』の冒頭で、得意気に、この話を登場させる。

 あるいは、最近になって「再発見」された、大阪・枚方フットボールクラブのサッカー指導者・近江達(おうみ・すすむ)氏(故人)が、1980年代にミニコミ誌『サッカージャーナル』で連載した論考「日本サッカーにルネサンスは起こるか?」でも「日本人〈すり足〉民族論」を展開していた。<1>


 つまり、私たち日本人は、「人種主義」や「日本人論」から来る偏見が絡んだ非科学的な議論を根拠にして、「日本人は(欧米系白人や)アフリカ系黒人と比べて〈身体能力〉が著しく低く,スポーツに弱い」と信じ込んでいる。

生き続ける「人種」概念
 日本においては「人種」概念は今なお有効である。その世界観には、アフリカ系黒人よりも身体能力に著しく劣り、欧米系白人よりもスポーツを遂行するためのある種の知的能力が著しく欠落した「日本人」という、固有で下等な「人種」が存在する。

 そんな日本(日本人)のマスコミが「(アフリカ系)黒人は〈身体能力〉が著しく高く,スポーツに強い」と言う時、なるほどそれは無邪気な人種主義的偏見に満ちた発言かもしれない。しかし、それは「日本人は(欧米系白人や)アフリカ系黒人と比べて〈身体能力〉が著しく低く,スポーツに弱い」という、無邪気な人種主義的偏見に満ちた度し難い劣等感、その裏返しの羨望の表明でもある。

 すなわち、欧米とは違って(?)、「(アフリカ系)黒人は〈身体能力〉が著しく高く,スポーツに強い」と「日本人は(欧米系白人や)アフリカ系黒人と比べて〈身体能力〉が著しく低く,スポーツに弱い」とは、表裏一体の人種的偏見であり、このふたつをセットにして考察し、批判していかないことには、日本のスポーツ界やスポーツマスコミにおける問題を乗り越えることはできない。

 『スポーツ報知』によるオコエ瑠偉選手の報道を一面的に非難するの人たちは、このことに考えが及んでいないのである。

(了)




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 玉木正之氏が、2020年2月28日に上梓した『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』の内容に疑問を感じ、アマゾンに次のようなカスタマーレビューを書いた。
 鷹揚な玉木正之氏だが、当ブログが酷評したことは気にしているらしい。


 玉木正之氏に当方の説への異論・反論があるならば、是非とも、それを知りたい。しかし、単に当てこすりを書いているだけのようだ。残念である。

 また、このレビューにはコメントが付けられていた。
井上信太郎(大学教員|東京都)2か月前
 「豊かなスポーツ文化は非暴力を旨とする民主主義社会でなければ生まれない」。最初にこのような説を主張したのは、ドイツの社会学者ノルベルト・エリアスですよ。玉木氏もそのことを繰り返し指摘しています。だから、玉木氏のスポーツ史観もエリアスの延長上にあると言ってもよいでしょう。玉木氏のスポーツ史観が御都合主義と批判されるのなら、あなた〔当ブログ〕はエリアスの説も根本的に批判しないといけませんよ。

Rugoya 2か月前
 gazinsai氏は自身のブログで以下記載しています。このレビューでは割愛したのだと思います。

 「したがって、一例に過ぎないけれども、ここでは玉木正之氏が熱烈に支持する「豊かなスポーツ文化は非暴力を旨とする民主主義社会でなければ生まれない」という、ノルベルト・エリアス(社会学者,哲学者,詩人.英国籍のユダヤ系ドイツ人)の持論を疑う。

 玉木氏がエリアス説に執心するのは、日本スポーツ界(体育界?)における「体罰」の悪弊を批判する裏付けにしたいという「都合」があるからだ。だが、エリアス説もあくまで諸説のひとつにすぎないし、私たちが簡単に入手できる知識からは、エリアス説とは違ったスポーツの史実がいくつも出てくる。すなわちエリアス説は疑わしい。
 これらコメントの中には「あなたはエリアスの説も根本的に批判しないといけませんよ」と忠告している人もいる。だが、根本的なのかどうかは当事者には分りかねるが、玉木正之氏に書いた「素朴な疑問」(アマゾンレビュー)だけでも、それなりにノルベルト・エリアス説の批判になっているのではないかと思っている。

 また、このノルベルト・エリアス説が学界でどれだけ支持されているのかも、よく分からない。そのことは、玉木正之氏公式サイトの日記「ナンヤラカンヤラ」にも、困惑した様子として登場する。
4月6日(月)
 勉強inベッド『スポーツの世界史』は近代以前の欧州の遊び。なるほど王や国家は軍事訓練(弓術や柔術)を奨励したけど貴族は遊び(狩猟や釣漁)に…庶民はや動物の格闘(闘鶏闘犬など)や球技に…やがてスポーツに収斂していきサッカーやラグビーがイギリスのパブリックスクールと大学を中心に生まれる歴史は知っていたけどエリアスの民主主義社会スポーツ生誕論が出てこないのはちょっと不満。

 玉木正之氏が参照した『スポーツの世界史』(一色出版)で、「第1章 イギリス|近代スポーツの母国」を担当したのは石井昌幸(いしい・まさゆき)早稲田大学スポーツ科学学術院教授(スポーツ史)である。

 しかし、その石井教授の論考には「ノルベルト・エリアス」の名前も所説も出てこない。少なくとも、学界でも積極的に支持していない人はいるらしい。

 繰り返すと「私たちが簡単に入手できる知識からは,エリアス説とは違ったスポーツの史実がいくつも出てくる.すなわちエリアス説は疑わしい」のである。

 そもそも、玉木正之氏が信奉する「ノルベルト・エリアス説」はどこまで真っ当な「学説」なのだろうか? ひょっとして「エリアス説」は学説というより、一種の「イデオロギー」なのではないかと、疑ったりもしている。

(了)




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山本敦久准教授のお粗末なコメント
 2018年FIFAワールドカップ・ロシア大会、1次リーグH組最終節 日本vsポーランド戦。いわゆる「談合試合」である。事のあらましは(以下のリンク先を参照するか)各々インターネットを検索するなど、質の高い情報を読んで確認されたい。
 この試合、「日本」代表は試合途中からの無気力プレーと他会場の結果任せ(セネガルvsコロンビア戦)の末に1次リーグ突破という、体裁の悪い勝ち上がり方をした。そのせいで、卑怯だ茶番だなどと「世界」から酷評されたということになっている。
 日本のスポーツ紙『サンケイスポーツ』(サンスポ)の電子版も、「世界」各国が「日本」を非難している様子を伝えている。
韓国・中央日報
「16強を逃しても拍手を受けた韓国,16強に進んでもブーイングを浴びた日本」

Jリーグでも活躍した元韓国代表FW安貞桓氏
「1分間攻撃をしなければ反則とするルールを作らなければならない」

韓国やイランが最後まで「血戦」を繰り広げたのに対し,中国国営通信、新華社
「(日本は)サッカー界の尊敬は得られなかった」

テレビ出演したポーランド協会のボニエク会長
「リードされている日本代表が自ら負けを選んだ.こんな試合は初めてだ」

ロシアの大衆紙モスコフスキー・コムソモーレツ電子版
「日本は試合をひどい形で締めくくった.粘り強く戦ってきた日本チームがこんなことをしたのはとても残念だ」

スポーツ社会学が専門の成城大・山本敦久准教授
「W杯史上まれに見る後味の悪さ.サッカーへの冒涜と言われても仕方がない」

 ハッキリ言って「ロシアの大衆紙モスコフスキー・コムソモーレツ電子版」の寸評以外は、ろくな意見がない。特に最後、山本敦久准教授(当時,現在は教授)のコメントはお粗末だ。山本敦久氏は、まるで「世界」の中で「日本」だけが「W杯史上まれに見る後味の悪」い「サッカーへの冒涜」をしたかのように発言している。

 自虐的な評価が好きな日本のサッカー関係者や、純情なスポーツファンには、それでもゴマカシが効くかもそれない。しかし、それではサッカーというスポーツの実態には合わない。世界のサッカー史とは「〈サッカーへの冒涜〉の歴史」そのものだったからだ。

 成城大学でスポーツ社会学を教える教授が、そのことを知らないとは言わせない。

2002年サッカー韓国代表という「踏み絵」
 「サンスポ電子版」の各コメントをいろいろ検証してみるが、まずもって韓国のサッカー関係者に日本の「談合試合」を非難する筋合いなどない。韓国代表こそ、2002年日韓ワールドカップで「W杯史上まれに見る後味の悪」い、「サッカーへの冒涜」をするかのような、実に疑わしい形でベスト4に勝ち上がったからである(次の引用文参照)。
 〔2002年のサッカー〕日韓W杯はブラジルが優勝を収めたが、最もインパクトを残したのはアジア史上初のベスト4進出を成し遂げた韓国だった。一方で、その勝ち上がりの過程のなかでは審判団による不可解な判定が物議を醸した。

 その一つがベスト16のイタリア戦(2-1)で、優勝候補の一角だったアズーリは不利なジャッジに悩まされ、延長戦では明らかなゴールがオフサイド判定となり、エースFWフランチェスコ・トッティは2枚のイエローカードで退場処分に。バイロン・モレノ主審への買収疑惑も報じられるほどだった。

 この「疑惑のベスト4」に関しては審判買収や八百長までが噂されるが、ここではその真偽を追及しない。ただし、一般論としてサッカー選手は、自分たちのチームが審判に依怙贔屓(えこひいき)されていることが感覚的に察知すると、抑制が効かなくなり、何の躊躇(ためらい)もなく反則やラフプレーを繰り返すようになる。

 2002年日韓W杯の韓国代表は、特に対イタリア戦の韓国代表は、反則やラフプレーを繰り返すことにまったく何の躊躇もなかった(次の写真を参照)。

2002年W杯「韓国vsイタリア」戦
【イタリア選手の後頭部を韓国・李天秀が蹴り込む「反則」】

 それにしても、安貞桓(アン・ジョンファン)や李天秀(イ・チョンス)といった当事者である選手たちを含め、韓国サッカー関係者たちは「疑惑のベスト4」をどう思っているのだろうか? 今でも全く何もやましいことはないと思っているのだろうか?

 日本の場合、どんなに日本代表が掛け値のない会心の勝利を挙げても、電波ライターとか、戦術クラスタとか、何かしらケチをつける人間がいる。この辺は実に対照的である。

 韓国サッカー界は、2002年W杯の自分たちに有利な偏向判定の続出には何のやましさも感じず、しかし、2018年W杯の日本の「談合試合」だけは非難するのだ。それでは話が矛盾している。<1>

 だから、山本敦久氏は韓国に対してもまた、すべからく「W杯史上まれに見る後味の悪さ.サッカーへの冒涜と言われても仕方がない」と非難するべきである。

 とにかく、日本のマスコミが無理に日韓の友好と歴史的和解の雰囲気を盛り上げようとして、かえって「嫌韓」を煽ってしまった2002年W杯のサッカー韓国代表の存在は、排外主義やヘイトクライムに全力で反対してきた山本敦久氏にとって「踏み絵」だよなぁ(笑)

後藤健生氏による「W杯1次リーグ」の読み方
 サッカーの何たるか、ワールドカップの何たるか、スポーツマンシップとゲームスマンシップの境界、フェアプレーとアンフェアプレーの境界について、私たちに啓蒙してくれたのは、後藤健生氏(サッカージャーナリスト)の『サッカーの世紀』『ワールドカップの世紀』といった一連の著作であった(広瀬一郎氏のフェアプレー論ではない)。

ワールドカップの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2012-09-20


 これらの著作は、時代的に乗り越えられてしまった部分もある。しかし、特に『ワールドカップの世紀』にある1次リーグに関する後藤健生氏の考察・見解は、今もなお、日本の「談合試合」について考えるさまざまな示唆に富む。
 ……この「1次リーグ」と呼ばれる試合のカラクリ……。これは試合内容がどうだとか、勝つか負けるかの勝負ではない。ただ、勝点、得失点差の辻褄を合わせるために行われている儀式のようなものだ。とすれば、強豪同士は、負けないことを第一に試合をするはずだ。そして、アウトサイダーは確実に勝つようにする。

 第1戦である開幕戦、しかもグループ1位、2位の候補がぶつかるとあれば、無得点引き分けになるのも当たり前のことだったのだ。それを見て不満を言ってもしかたがないのではないだろうか、と。このことに気がついた時、初めて「リアリズム」の眼が開き、筆者〔後藤健生氏〕の本当の意味でのワールドカップ観戦がようやく始まった。

後藤健生『ワールドカップの世紀』第3章より
 ワールドカップ本大会は、まず、参加国を4チームずつのグループに分けて1次リーグを行う。〔略〕/だが、この複雑な試合方式をとる結果、ワールドカップ本大会では運・不運が、勝負を分けることが多くなる。

 スポーツだけではなく、およそあらゆる勝負事には運・不運が、勝負を分けることが多くなる。そして、〔サッカーの盛んな〕ヨーロッパの人々は、運・不運もゲームの一部と考えている。……そうした不運を乗り越えることができてこそ、真に尊敬すべきチャンピオンと呼ぶことができると考えるわけだ。

後藤健生『ワールドカップの世紀』第4章より
 ……どんなに巧妙に作り上げられたルールでも、どんなに考え抜かれた大会規定でも、それが勝負事である以上、運・不運からは逃れられない。〔略〕

 いや、十分に公平に配慮した上で、それでも運・不運の要素が残っているからこそ、勝負事は面白いのだ。……弱い者が、常勝の王者をなんとか倒してやろうとして知力と体力の限界に挑み、一方、強者は弱者の挑戦を跳ね返し、勝つ可能性を1パーセントでもあげようと努力する。

 その両者の努力の過程にこそ、勝負事としてのスポーツ競技の神髄である。そういう、強者と弱者の努力の積み重ねの上に、最後に運・不運というスパイスのようなものが加味されて、勝負の面白さが味わえるのだ。

後藤健生『ワールドカップの世紀』第4章より
 日本代表の「談合試合」を肯定するか否定するかは、各人の自由である。しかし、後藤健生氏が述べたようなサッカーやW杯1次リーグの「神髄」のことを弁えないで、単に日本のサッカーを非難するのは不当な言いがかりである。

ポーランド協会のボニエク会長は「ヒホンの恥」を知らないのか?
 かつてポーランド代表としてW杯本大会でも活躍した(1982年スペインW杯でハットトリックしたこともある)、ポーランド・サッカー協会のズビグニェク・ボニエク会長は、前掲の「サンスポ電子版」では、日本の「談合試合」について「リードされている日本代表が自ら負けを選んだ.こんな試合は初めてだ」と批判したことになっている。

 たしかにポーランド代表には、1974年西ドイツW杯1次リーグ2戦2勝で迎えた3戦目の逸話がある。2戦1勝1分のイタリア代表は、3戦目で引き分けに持ち込めば1次リーグを勝ち抜けると見当して主力選手を何人かを控えに回し、暗黙の了解のうちに引き分け=談合試合をポーランドに持ちかけた。しかし、ポーランドは「空気」が読めず、フルメンバーで全力で勝ちに来て、実際に勝ってイタリアを1次リーグ敗退に追い込んだことがあった。

 この話も『ワールドカップの世紀』の第5章に登場する。しかし、ボニエク会長の「リードされている日本代表が自ら負けを選んだ.こんな試合は初めてだ」というのは史実に反する。ボニエク選手(当時)が活躍した1982年スペインW杯では、1次リーグ第3戦、西ドイツ(当時)とオーストリアが、確実に次のラウンドに進むための、要するに「談合試合」をした「ヒホンの恥」または「ヒホン不可侵条約」と呼ばれる出来事があったからだ。

「ヒホンの恥」Wikipedia日本語版20200607
【「ヒホンの恥」のスコア(Wikipedia 2006年6月7日閲覧)】

 あと、2018年ロシアW杯の1次リーグの第3戦デンマークvsフランス戦も、「ヒホンの恥」とよく似た、両チームともに1次リーグを確実に突破するための「談合試合」だった。

 だから、山本敦久氏はドイツ、オーストリア、デンマーク、フランスに対してもまた、すべからく「W杯史上まれに見る後味の悪さ.サッカーへの冒涜と言われても仕方がない」と非難するべきである。

マラドーナの「神の手」,そしてチリ代表「ロハス事件」
 こんな話は、サッカーやW杯では至るところに存在する。例えばディエゴ・マラドーナ選手(アルゼンチン代表)の「神の手」である。最も有名な事件は、1986年メキシコW杯の準々決勝アルゼンチンvsイングランド戦でやらかしたものだ(詳細は特に説明の必要はないと思われる.次の写真を参照)。

マラドーナ「神の手」1986年メキシコW杯
【マラドーナ「神の手」1986年メキシコW杯】

 だから、山本敦久氏はマラドーナ選手やアルゼンチン・サッカー界に対しても、すべからく「W杯史上まれに見る後味の悪さ.サッカーへの冒涜と言われても仕方がない」と非難するべきである。

 あるいは、1989年、W杯イタリア大会南米予選ブラジルvsチリ戦で起こった「ロハス事件」がある。

 アウェー・チリ代表のGKロベルト・ロハス選手が、発火する発煙筒をブラジルの観客から投げ込まれた(!)ことに乗じて、隠し持っていた刃物で自身の頭部を傷つけ(!)、チリ側は「安全を確保されていない会場では試合を出来ない」と主張し、試合の無効と第3国での再試合を求めてFIFAに提訴した、という事件である。

ロハス事件(1989年)
【ロハス事件(1989年)】

 結局、このアクシデントはチリ代表とロハス選手の謀略だったことがバレて、チリ・サッカー協会とロハス選手には重大な処罰を下された。しかし、この事件の詳細と背景にある南米サッカー文化の奇々怪々ぶりは、とてもここでは紹介しきれない。やはり後藤健生氏の『サッカーの世紀』の第10章を読んでいただく他はない。

サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07T


 いずれにせよ、だから、山本敦久氏はロハス選手やチリ・サッカー界に対しても、すべからく「W杯史上まれに見る後味の悪さ.サッカーへの冒涜と言われても仕方がない」と非難するべきである。

後藤健生氏は「談合試合」の総括を書くべきである
 マラドーナ選手の「神の手」も、チリ代表の「ロハス事件」も、かなり極端な例である。それでも、特に南米サッカーは、知力、体力、技術、駆け引き、さらには際どいゲームスマンシップまで総動員して、勝利を手繰り寄せようとする。

 それに引き換え日本は、と後藤健生氏は『サッカーの世紀』第10章で嘆く。たしかに日本代表は反則(警告や退場)が少なく、国際大会ではよくフェアプレー賞をもらって帰る。しかし、一方、ゲームズマンシップに欠けるところがあり、1993年のアメリカW杯アジア最終予選の最終戦では、1点リードしながらナイーブ(馬鹿正直)にも時間稼ぎをすることができず、最後は「ドーハの悲劇」でW杯本大会出場権を逃してしまった、と。

 しかし、2018年ロシアW杯における日本代表の「談合試合」は、反則が少ないことを逆手に取り、同大会でフェアプレーポイント制度が採用されたことを存分に活用し、1次リーグ最終戦では、あらゆるケースを想定し、ギャンブル的な決断までして、つまりゲームズマンシップを最大限に発揮して、最終的に1次リーグ突破という「成果」を上げた。

 「ドーハの悲劇」から「談合試合」まで、ちょうど四半世紀。日本サッカーは、これだけ変わったのである。

 ……以上のような文脈を弁えなければ、サッカーについて語る人々は、日本の「談合試合」の是非について論じる筋合いなど、本来、ない。少なくとも、サッカーにおけるゲームズマンシップについて、日本人の私たちにさまざま啓蒙してきた後藤健生氏には、この度の一件について、きちんとした解説と総括を書いてほしい(当ブログが知らないだけかも知らないが)。

 後藤健生氏が、「日本」の「談合試合」は「世界」から非難されたみたいなことを、どこかでサラッと書いていたが、そんな他人事みたいなことは書いてほしくない。

日本排除こそ最も理想的な世界サッカーの在り方???
 それでは、山本敦久氏は如何? 成城大学でスポーツ社会学を教える教授が、これらのことを知らないとは言わせない。

 サッカーに限らず、スポーツにおける、スポーツマンシップとゲームスマンシップの境界、フェアプレーとアンフェアプレーの境界は、世界的に自明なことではない。国ごとに、社会ごとに、時代ごとに、文化ごとに、各々人ごとに、それぞれ違う。そして、それぞれの「フェアプレー観」を持っており、こだわりがある。

 しかし、山本敦久氏は、自身の確たる「フェアプレー観」をもって、サッカー日本代表の「談合試合」を批判したのではない。実は、山本敦久氏は、この一件に限らず、日本サッカーなかんずくサッカー日本代表を評価するに際しては「予断」をもってこれに臨むという、学者にあるまじき振る舞いをする人だからである。

 もっとハッキリ言うと、山本敦久氏は、日本サッカーを無暗矢鱈に卑しめては自身のサッカー観の批評精神や賢明さを誇示したがるサッカー論者のひとりである。つまり、金子達仁氏や杉山茂樹氏、村上龍氏のような嫌らしいサッカー評論と通じる、困ったサッカー観の持ち主なのである。

 実際、日本代表=岡田ジャパンが大方の予想を覆(くつがえ)して1次リーグを勝ち抜き、突破した2010年南アフリカW杯の時は、山本敦久氏は岡田ジャパンを貶しまくるツイッターを連発して、サッカーファン・サポーターたちの反発を買い、「炎上」するという事件を起こしている。
 だから、山本敦久氏にとっては、「ヒホンの恥」も「神の手」も2002W杯韓国代表の「疑惑のベスト4」も関係なく、世界サッカーの歴史、世界サッカーの文化の中で、ただただ日本代表の「談合試合」だけが「W杯史上まれに見る後味の悪さ.サッカーへの冒涜と言われても仕方がない」なのである。

 山本敦久氏にとっての最も理想的なサッカーとは、「日本」及び「日本人」などという汚らわしい生き物が存在しない世界である。排外主義やヘイトクライムには全力で反対する山本敦久氏であるが、サッカーの世界から「日本」及び「日本人」を排外することには何の躊躇(ためらい)もない。

 ハッキリ言って、「サンスポ電子版」が山本敦久氏にコメントを求めたのはミスキャストであった。同じカルチュラルスタディーズ系のスポーツ社会学者で、サッカーを研究対象にしているのならば、有元健(ありもと・たけし)国際基督教大学(ICU)上級准教授の方が、よっぽどまともな解説・コメントをしたはずである。

(了)




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カルチュラルスタディーズから『日本代表論』と『サッカーと13の視点』
 2020年になって、アカデミズムの分野からサッカーを考察した意欲的な共著が上梓された。せりか書房から『日本代表論』、創文企画から『サッカー13の視点』である。

日本代表論
有元健 山本敦久
せりか書房
2020-04-15


 この両方の著作に編者として関わっているのが、山本敦久氏(やまもと・あつひさ,スポーツ社会学者,成城大学社会イノベーション学部教授)である。社会学といってもいろいろ流派があるが、山本氏が依(よ)っているのは「カルチュラルスタディーズ」という立場だ。
カルチュラルスタディーズ
 従来の学問分野が対象にしてこなかったポピュラー音楽や広告、スポーツ、社会運動などを扱い、それら大衆文化=サブカルチャーに潜む「政治性」に着目し、議論の俎上に乗せてきた学問的な潮流。精緻(せいち)で体系的な学問を目指すよりも、学問という枠すら揺さぶり、さまざまな分野の学問的な手法を取り入れ、その「政治性」を時に告発した。

コトバンク「朝日新聞」2014年03月11日付夕刊より要約
 略称・通称「カルスタ」。もっともこれは蔑称であるとの説があり、当事者は快く思わないかもしれないが、煩雑をさけるために、以下、この呼称を用いることがある。

 さて、このカルスタ・スポーツ学が行う、スポーツという文化現象、特に「日本代表」、なかんずく「サッカー日本代表」という文化現象がはらむ「政治性」の告発に「政治性」はないのか? あるに決まっている。それも当の山本敦久氏の論及に存在するのである。

日本代表だけは「スポーツの喜び」ではない…らしい
 山本敦久氏が『日本代表論』で担当しているのは、「序章〈日本代表〉を論じるということ」である。文字通り本の序章であり、概説ともいえる。すると、そこに私たちの目の前に、ある嫌な光景が目に飛び込んでくるのである。
 スポーツを見て、応援して、そこで身が震えるような喜びや悲しみを感じるような経験は、どこか非日常的な世界へと私たちを連れて行ってくれることがある。それは祝祭やカーニバルのように、私たちの身体を枠づける日常的な囲い――貧富の格差や報われない仕事だったり、マイノリティであることの苦しみであったり、国民性という身体化された既存の同一性(アイデンティティ)など――が破れ、規範に縛られ、何かに支配されている人生に新たな別の可能性を与えることもあるだろう。もっとも本来、スポーツはそのようなものであるべきなのだが。

『日本代表論』7頁
 しかし、日本だけは違うらしい。日本においてはスポーツは「あるべき」ものではないらしいのである。
 しかし「日本代表」に歓喜し盛りあがる儀礼は、スポーツに内在する祝祭性とは異なるようだ。むしろ、それは周到にパッケージ化された現象となっている。渋谷のスクランブル交差点は、警察によって注意深く管理された空間である。そこは何台ものテレビカメラに囲まれたメディア空間でもある。盛りあがる群衆の映像は、有力なメディアコンテンツそのものである。選手の家族や地元の後援者たちの涙も「日本代表」に感動するというメディアの仕掛けに組み込まれている。

『日本代表論』7頁
 海のあなたの空遠く、「世界」にはスポーツの幸い住むと人のいう。そこには「スポーツ……で身が震えるような喜びや悲しみを感じるような経験」がある。

 されど、ジャップランドのこなたには……。嗚呼、何よりダメなニッポン、その紛い物しか存在しない。「しかし〈日本代表〉に歓喜し盛りあがる儀礼は,スポーツに内在する祝祭性とは異なる」いかがわしさがある。

 「世界」のスポーツを理想的に描き、「日本」のスポーツは誇張してまで否定的に、時には自虐的に、あるいは嫌悪的に描く。この嫌らしい手口に私たちは見覚えがある。1991年に出た、玉木正之氏とロバート・ホワイティング氏の『ベースボールと野球道』である。
ベースボールと野球道~日米間の誤解を示す400の事実(講談社現代新書)1991
 似て非なるもの――ベースボールと野球。公園の芝生の上で楽しまれたベースボールが日本では人格練磨の苦行。深い溝に隔てられた日米の野球文化事情を微に入り細を穿って徹底比較。

 とにかく、1990年代前半に流行ったモノの言い様が、21世紀、2020年の今日にまで通用しているということに驚きを禁じ得ない。

 『ベースボールと野球道』に関しては、実際に日本人選手がアメリカのMLBに移籍したり、スポーツメディアが多様化したり、サッカー人気の台頭したりして、沢山の国々のスポーツ文化が知れわたるようになると、話の嘘や誇張や歪曲が多いことが分かってきた。

 特にスポーツライターの梅田香子氏は、『ベースボールと野球道』のことを、事実誤認の多い「ジョークの羅列」だと一刀両断している。

梅田香子『イチロー・ルール』146~147
【参照:梅田香子『イチロー・ルール』146~147頁】

梅田香子『イチロー・ルール』奥付
【参照:梅田香子『イチロー・ルール』奥付】



 どんなに間違いだらけであっても、少なくとも『ベースボールと野球道』は「出羽守」談義ではあった。ところが、山本敦久氏の「序章〈日本代表〉を論じるということ」は「出羽守」ですらないのである。ナショナルチームをめぐる「世界」と「日本」の情況、両者の何が違うのか? 山本氏は具体的な説明をしてくれない。

 山本氏が「序章」で述べる日本代表とナショナリズムやメディア等々の話は、他の国でも、例えば、フランス代表でも、クロアチア代表でも、ベルギー代表でも、ブラジル代表でも、おおむね通じるものである。むろん、自然科学の現象とは違って、文化的な現象は世界中どれひとつ同じものはない。だからこそ、社会学者やカルスタ学者は、普遍性と特殊性、その「腑分け」を読者にキチンとしてみせなければならない。

 例えば、日本の場合、長らく正規のナショナルチームによる国際試合・世界大会が存在しない野球が人気スポーツだったために「日本代表」の歴史や文化が希薄だった……とか、マスコミ(新聞やテレビ)がスポーツイベントの経営・運営に直接かかわることが多いので、一面的な日本代表の翼賛報道になってしまい、批評性が損なわれてしまう……とか。

 ところが、山本敦久氏は、何も説明をしてくれないのである(いかに紙数が限られた「序章」とは言えども)。まさか、スポーツ社会学やカルスタ・スポーツ学の界隈では「日本は〈世界〉とは異なる」と言えば、そのまま暗黙の了解で通ってしまうのだろうか。

 それは、この界隈の人々がつねづね言及する「ナショナリズムの怖い部分」よりも、さらに恐ろしい話であるが。

日本代表だけが「周到にパッケージ化された現象」なのではない
 だいたい、21世紀にもなって「周到にパッケージ化された現象」でないスポーツイベントなど、日本に限らず、世界のどこにもない。2002年の日韓ワールドカップを控えた2001年、中央公論新社から、サッカージャーナリストの大住良之氏と後藤健生氏がホストとなって、『日本サッカーは世界で勝てるか~2002年ワールドカップの準備』という対談本が刊行された。

 ゲストには、初代サポティスタの浜村真也氏や、サッカー講釈師の武藤文雄氏など、興味深い人物が登場するが、当エントリーで大切なのは「フーリガン対策は万全か」という座談会のゲスト・石田高久氏である。この人は2002年W杯日本組織委員会のセキュリティー担当、すなわち日本国政府から派遣された警察官僚である。

 石田高久氏は、長年にわたってフーリガン(暴徒化したサッカーファン)と対決してきた英国の警察で研修して、サッカーの試合やイベントの警備を学んだという。左様、日本の警察当局にサッカー関連の警備のノウハウなどないに等しいのであって、これすべて「世界」に「日本」が倣(なら)ったものである。

 その英国などは、国内に約420万台もの防犯カメラが設置され、世界的に最も防犯カメラの整備が進んでいる国と言われている。何よりもテロリズムや犯罪対策のためである。英国を旅行すると、観光客は1日に約300回も防犯カメラに写されているという。
 日本人のサッカーファンが、アーセナルでも、トッテナム・ホットスパーでも、マンチェスター・ユナイテッドでも、リバプールでも、ウェンブリーでも、英国にサッカー観戦旅行すれば、1日300回防犯カメラに撮影される。サッカー観戦が「警察によって注意深く管理され」ているのは「日本」に限らない。それどころか「世界」の方が進んでいる。

 サッカーイベントで「盛りあがる群衆の映像は,有力なメディアコンテンツそのもの」であり、あるいは「メディアの仕掛け」の掌中にあるなどという指摘も、何も今さら始まった話ではないし、日本に限った話でもない。

 文春の総合スポーツ誌『ナンバー』1990年8月5日号(通巻248号)、サッカー・イタリアW杯特集「詳報ワールドカップイタリア'90」では、佐藤健生氏(元拓殖大学教授,現代ドイツ史,サッカージャーナリストの後藤健生氏とは別人)が、フーリガンが暴れる様子は、実は有力なメディアコンテンツにもなっているといった類の話を既にしている(コンテンツという表現は当時は使っていなかったが.佐藤健生「大顰蹙のフーリガンってナンダ!!」より)。
 この手の話なら、いくらでもある。山本敦久氏の話を読んだだけでは、「日本」が「世界」とどこが違うのか、よく分からないのである。

電波ライター,あるいは海外厨としての山本敦久氏
 実は、山本敦久氏は、日本サッカーなかんずくサッカー日本代表を評価するに際しては「予断」をもってこれに臨むという、学者にあるまじき振る舞いをする人である。

 もっとハッキリ言うと、山本敦久氏は、日本サッカーを無暗矢鱈に卑しめては自身のサッカー観の批評精神や賢明さを誇示したがる「電波ライター」あるいは「海外厨」と言われ類別されてきたサッカー論者のひとりである。つまり、杉山茂樹氏のような嫌らしいサッカージャーナリストと通じる、困ったサッカー観の持ち主なのである。

 実際、日本代表=岡田ジャパンが大方の予想を覆(くつがえ)して1次リーグを勝ち抜き、突破した2010年南アフリカW杯の時は、山本敦久氏は岡田ジャパンを貶しまくるツイッターを連発して、サッカーファン・サポーターたちの反発を買い、「炎上」するという事件を起こしている。
 だから、山本敦久氏は、世界のナショナルチームをめぐる現象の中で「日本代表」だけが低劣であるかのような、誤ったイメージを『日本代表論』の中で書いたのだ。

 例えば、ベトナムやタイ、マレーシアなどの国がW杯本大会に出場、予想を覆して1次リーグを突破したとしよう。山本氏がこの時に岡田ジャパンに浴びせたような発言を連発したら、これはヘイトクライムやレイシスト、差別主義者のレッテルが貼られる。しかし、カルスタを修めた「意識高い系」の日本人が、同様にサッカー日本代表を貶すならば、それは公に批判されることはない。

 それはなぜなのか? スポーツ社会学やカルスタ・スポーツ学は何も答えてはくれない。

 あるいは。山本敦久氏は「(アフリカ系)黒人=高い身体能力」というイメージは、偏見だステレオタイプだとして厳しく批判する。
 ところが、その山本敦久氏本人が、サッカー日本代表の岡田ジャパン(や西野ジャパン)がW杯本大会一定の成果を上げた時は、前述(のリンク先)のように、日本サッカーに対して、ヘイトクライムやレイシズムまがいの悪口雑言罵詈讒謗をツイッターで連発するのである。

 それはなぜなのか? スポーツ社会学やカルスタ・スポーツ学は何も答えてはくれない。

 カルチュラルスタディーズはナショナリズム批判と親和性が高いという。日本のカルスタ・スポーツ学でも同様である。しかし、今回採り上げた山本敦久氏がその典型であるが、ナショナリズムを腑分けする時の理性としての「学問」と、日本のサッカーを貶しては得意がる時の「情動」が複雑に絡み合っていることは、特徴であり、大きな問題である。

 その辺の線引きが曖昧になっているうちは、カルスタ・スポーツ学が「スポーツが社会の中でいかに価値あるものとして存在しうるのかを」<2>考えるための手がかりとして、多くのスポーツファンの読まれる、支持されるということは難しいだろう。

(了)




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