スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

2019年10月

 またその話か……と言われそうだが、2019年ラグビーワールドカップ日本大会を見ていると、ついつい茶々をいれずにはいられない。

 日本球界、なかんずくその日本代表=侍ジャパンが、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)やWBSCプレミア12(2019年11月2日開幕)での勝利獲得に力を入れることを、野球の超大国である米国(メジャーリーグベースボール=MLB)の冷淡な姿勢と対比して《愚鈍》視する風潮がある。



 それならば、米国野球界の「世界戦略」や「欧州(海外)進出」もまた《拙劣》だと批判しなければ、バランスを欠いた議論になる。

 野球のWBCは、サッカーのW杯ではなく、ラグビーのW杯を参考にするべきだった。野球も、ラグビーも、国際的普及度と実力差では、地域的な偏りがあるという共通点がある。

 国際ラグビー界(統括団体「ワールドラグビー」=WR)は、サッカーのFIFAのような「悪平等」主義をとらない。ティア1>ティア2>ティア3といった国ごとの格付けや、公式国際試合の認定のしかた、国際交流の在り方など、MLBにも参考になることがいっぱいある。

 とかく差別的・独善的と言われるWR=国際ラグビー界であるが、MLB=米国野球界の「一国主義」から来る差別性・独善性に比べれば、ずっと各国に配慮している。

 しかし、MLBは、ラグビーの国際試合・国際交流のあり方からは学習はしなかったように見える。こと「世界戦略」や「欧州(海外)進出」に関する限り、どうしてここまでMLBは《拙劣》なのだろう。

 こんなMLBのやり方では、うまくはいかない。本国にほとんど野球の地盤のない「野球イスラエル代表」などを捏造して、目論見通り(?)ユダヤ系からのお金は入ってきたのだろうか。もっと他にやることはあったのではないか。


 ニュージーランドのラグビーや、インドのクリケットなどと比べると、こんな賢明さを欠いた「宗主国」を頂いた日本の野球が不憫でならない。

(了)




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まるで底なし沼…アディダスジャパンのデザイン感覚の酷さ
 サッカー日本代表(JFA)のサプライヤーであり、スポンサーであるアディダスジャパン株式会社(adidas Japan K.K.)が提供する、サッカー日本代表デザイン感覚の酷さについては、当ブログで論じつくしたつもりでいた。

 ところが、下には下があって、アディダスジャパンは、よりによって東京オリンピックが行われる2020年以降のサッカー日本代表のデザインとして、「迷彩柄」なる、さらにさらに酷い代物を繰り出してきたのである。この底なし沼のようなセンスの悪さには、唖然、呆然、口あんぐり……。
サッカー日本代表、東京五輪ユニは迷彩柄を初採用
迷彩柄(サッカー日本代表ユニフォーム2020)
【日本代表新ユニホームのイメージ】

 サッカー日本代表が2020年東京五輪で使用するユニホームに、初めて迷彩風のデザインが採用されることが10月21日、分かった。A代表、世代別代表ともに着用することになる。〔中略〕

 来年の東京五輪は、56年ぶりの自国開催。大一番に向け、用意されたユニホームはまさに〈勝負服〉となった。濃淡ある青を基調に、黒と白を配色。斬新なデザインに仕上がった。元来は戦闘時などにカムフラージュを目的として使われる迷彩風の柄に。広く浸透し、現在はファッション性も高いデザインとして、幅広く親しまれている。五輪の規定で、左胸の協会エンブレムはなくなり、日の丸だけとなる見込みだ。

 ラグビー日本代表がW杯で8強入りし列島を席巻。赤と白のジャージーのデザインは戦国時代のかぶとがモチーフとなっており「武士道の精神」が表現された。ユニホームにはチームの信念が宿る。迷彩風の柄のコンセプトは「空」だという。壮大な思いが込められたユニホームで日本代表が世界と戦うことになる。

 ……控え目に言っても、この「迷彩柄」モデルを提案したアディダスジャパンの日本代表デザイン担当者、このモデルにOKを出したJFA(日本サッカー協会)の日本代表デザイン担当者は、頭がおかしい、狂っている。*

 この酷さを、できるだけ穏当な比喩を用いて表現すると、プロレスラーの長州力選手ならば、東京・六本木の「アークヒルズ仙石山森タワー」にあるアディダスジャパンのオフィスに糞ぶっかけているレベルである。それほど、このデザインは酷い。

 想像してみてください。南野拓実選手が、中島翔哉選手が、堂安律選手が、久保建英選手が……。この「迷彩柄」モデルの日本代表ユニフォームを着て、国際試合とか、W杯アジア予選とか、東京オリンピックとかで、プレーするのですよッ!

 いずれにせよ、わたくしたちサッカーファンは、この「仕打ち」には耐えられない。

JFAがアディダスジャパンと縁を切っても情況は改善しない?
 これを受けて、これまたすっかり恒例行事となったことであるが、アディダスジャパンの日本代表デザインの酷さに、SNS上には憤懣やる方ない声が寄せられている。わたくしたちサッカーファンは、ますますアディダスジャパンにストレスを募らせている。


 そして、JFAはアディダスジャパンとの契約を解消しろとの声も出る。これまた恒例行事となっている。



 それでは、JFAがアディダスジャパンと縁を切る。例えば、JFAがナイキと契約すれば、情況は改善されるのだろうか? それが、そうとも言い切れないのである。

ラグビー日本代表とサッカー日本代表のデザインの共通点とは?
 どういうことか? そのヒントは、ラグビー日本代表のサプライヤーであるカンタベリージャパンのWebサイトに見える。
「兜:KABUTO」をコンセプトに日本の精神性と誇りを表現
「兜」(ラグビー日本代表ジャージ2019)
【「兜」(ラグビー日本代表ジャージ2019)】

 ……2019新ジャージでは、この日本らしさをモチーフとして継承しつつ、「日本ラグビー、日本人のもつスピリット〈武士道の精神〉で世界と戦う」という意味合いを込めて、「兜:KABUTO」を新たなデザインコンセプトに掲げました。

 武士道は、人としての正義、勇気、思いやり、謙虚さ、誠実、名誉、忠義、この7つの道徳からなります。

 兜は、武士にとって戦いの場で威厳や地位を誇示し、敵を威圧するとともに、自らの矜持と信念を表すものです。新たなコンセプト「兜:KABUTO」のもと、伝統的な和の意匠を取り入れながらデザインを一新した2019新ジャージには、こうした精神性と誇りが宿っています。

 世界に挑む選手たちを鼓舞し、代表チームと一緒に戦う日本中の気持ちをさらに盛り上げるジャージです。

 ここに落とし穴があって、「兜」でも、「武士道」でも、「日本らしさ・日本人らしさ」を過剰の意識して、デザインコンセプトを立てて、意匠に落とし込むという奇妙な習慣が、日本のスポーツデザイン界には定着している。

 アズーリ=サッカー・イタリア代表や、オールブラックス=ラグビー・ニュージーランド代表など、世界の一流のナショナルチームのデザインには、こうした傾向を見出すのは難しい。

 特にオールブラックスは、サッカー日本代表と同じアディダスだから、アディダス自体がおかしいということは多分にない。オールブラックスに「結束の一本線」や「千人針」(刺し子)が入った様を想像してみてほしい。おかしいのは、おそらくアディダスジャパンとJFAの日本代表デザイン担当である。

 この「日本的」な習慣を徹底的に悪ノリさせると、サッカー日本代表=アディダスジャパンの悪名高き「結束の一本線」や、今回の「空」をコンセプトにした「迷彩柄」みたいな醜悪なデザインが登場する。サッカー日本代表の「デザイン」ではなく、アディダスジャパンの独りよがりな「コンセプト」を見せられるハメになる。

 これが、わたくしたちサッカーファンを苛立(いらだ)たせる。


 カンタベリージャパンのラグビー日本代表のデザイン担当の方、日本ラグビーフットボール協会の日本代表デザイン担当の方は、サッカー日本代表の悪いところを踏襲しないでほしいのであります。

早稲田大学ラグビー部デザインの迷走
 サッカーやラグビーといったフットボールのデザイン、その作図・彩色には一定のルール(不文律)があり、そこから大きく逸脱したデザイン……すなわちサッカー日本代表のデザインは、醜悪なデザインなのである。

 当ブログは、折を見て、そのことをできるだけ丁寧に説明してきたつもりである(下記ツイッターのリンク先参照)。

【競馬の勝負服から考える~なぜアディダスジャパンの日本代表デザインは酷評されるのか?】(2017年12月11日)

 ところで、アディダスジャパンが嵌(はま)り込んでいる「コンセプト主義」のデザインに傾倒して、さまざま迷走したが、うまい具合に修正が効いて、パフォーマンス自体も良い方向に回復した例がある。日本ラグビー界の超が付く名門・早稲田大学ラグビー蹴球部がある。

 2016年、早稲田大学ラグビー部は、「鎖」または「Be The Chain」をコンセプトとして、ジャージのデザインを大胆に変更した……。
新ジャージに込めた意味
「鎖」早稲田大学ラグビーコンセプト2016
【「鎖」早稲田大学ラグビーコンセプト2016】リンク先

「鎖」ジャージ(早大ラグビー部)2016
【「鎖」ジャージ(早大ラグビー部)2016】リンク先

 早稲田大学ラグビー蹴球部のプライドでもある赤黒のジャージは、ファンの方々に私たちの存在感を示す1つのシンボルでもありますが、今回、世界的に高い評価を得ているデザインオフィス「nendo(ネンド)」〔デザイナー・佐藤オオキ氏=早大OB=が主宰〕のみなさんにデザインをお願いしたことによって、ジャージのデザインは大きく変わりました。
 ……しかし、見て分かるように、この早稲田ラグビーのデザインは酷い。ラグビーファンの評判も良くなかった(カンタベリージャパンのデザイン担当の方,この轍=てつ=を踏まないでください)。

 だいたい、世間一般の一流デザイナーに依頼して、ガンバリましたというデザインに限って失敗作である。かつての福岡ダイエー・ホークス、ロンドン五輪のサッカー英国代表なども同様である。

 実際、この時期の早大ラグビーはパフォーマンスも成績も悪かったのである。あえなく、このデザインを導入した早大ラグビー部の監督は退任することになった。

早稲田大学ラグビー部デザインの修正と復活
 2018年、創部100周年を迎えた早稲田大学ラグビー部は、ジャージのデザインを古典的なスタイルに修正した。
早稲田大学ラグビー蹴球部の新ジャージを作製~創部100周年を記念…
100周年記念ジャージ(早大ラグビー部)2018
【100周年記念ジャージ(早大ラグビー部)2018】リンク先

 アシックスジャパンは、このたび、早稲田大学ラグビー蹴球部が今季の公式試合などで着用するジャージを作製しました。

 今回のジャージは、同部が創部100周年を迎えることから、歴史と伝統に基づいたクラシカルなデザインとしたのが特徴で、エンジと黒のボーダー柄にホワイトの襟を配しています。
 こちらのデザインは概(おおむ)ね好評で、このシーズン、早稲田大学ラグビー部のパフォーマンスや成績も、かなり自尊心を回復するところまで行ったのである。

 「たかがデザイン」と言うなかれ……で、その良し悪しによってチームのパフォーマンスに影響を与えると言っていい。

 実は、早稲田大学ラグビー部に関して、醜い「鎖」デザインも、クールな創部100周年のクラシカルなデザインも、サプライヤーは同じ「アシックス」なのである。

 やれば、出来るというか、クライアント(例えばJFA)が「こうしてください」と言えば、サプライヤーはそれに応えるのである(少なくともアシックスは)。そのことを日本のフットボールファン(サッカー,ラグビー)を覚えておいていい。

サッカー論壇の怠慢,あるいはアディダスジャパンへの忖度? まさか…
 それにしても、どういうプロセスで、あのアディダスジャパンの醜悪なサッカー日本代表デザインが提案され、決定されるのか? わたくしたちサッカーファンには、傍目からはサッパリわからない。

 この辺は、『フットボール批評』みたいなサッカー専門誌でもいいし、あるいは町田ゼルビアを支援する株式会社サイバーエージェントを、敢えて「サッカーの敵」と批判した宇都宮徹壱氏でもいいが、サッカージャーナリズムに明らかにしてほしい。だが、そんな報告は聞かない。

 まさかとは思うが……。
背番号10はアディダスの選手 日本代表「暗黙の了解」
吉田純哉 2018年5月11日[リンク先
背番号10はアディダスの選手
【『朝日新聞』電子版2018年5月11日の該当記事から】
 ……JFAおよびサッカー日本代表に巨額のスポンサーマネーを落とす「アディダスジャパン」に対して、サッカージャーナリズムは遠慮・忖度して批判を封印しているのではあるまいな……。

 ……などと、あらぬ邪推をしてしまうのであった。

(了)




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サッカーかラグビーかという論争に野球が入ってこない
 ラグビーワールドカップ2019日本大会の盛り上がりで、ネット上では「サッカー日本代表の国際試合と,ラグビー日本代表の国際試合,本当に面白いのはどちらか?」などという議論が起こったらしい(当ブログは未見)。

 しかし、なぜか比較対象に「野球の日本代表戦」が入らない。サッカーの日本代表戦と、ラグビーの日本代表戦、どちらが面白いかの優劣をつけることは難しいが、野球の日本代表戦は、この2つよりはかなり落ちる。

 むろん、野球そのものがつまらないはずがない。サッカーであれ、ラグビーであれ、野球であれ、それぞれの球技スポーツは固有の面白さを持つ。各々を比較して、面白い・面白くない、美しい・美しくない……などと優劣をつけることはできない。

 野球の国際試合がつまらないのは、世界の野球界を事実上コントロールしている、アメリカのメジャーリーグベースボール(MLB,大リーグ)に、ナショナルチーム(代表チーム)による国際試合や世界大会を権威あるものにしようという、努力やアイデアに乏しいからだ。日本の野球界は不憫である。

 何にしろ、日本のスポーツ界では野球が顕然たる力を持っている。それを視界に入れず、サッカーかラグビーか……と言い争っている関係は、どこか滑稽である。
 日本におけるサッカーとラグビーの関係は、幕末の政局において、もっと強大な「徳川幕府」(野球,あるいは陸連)という勢力がいるのに、これを乗り越えようとしないで、小さなところで対立・反目している薩摩藩と長州藩の関係を連想してしまう。

地元高校野球の上位進出を好まぬサッカー人の話
構造的欠陥が多い日本のスタジアム~競技場はただの入れ物?
 日本にはバックスタンドの中央に観客席のない不思議なスタジアムがある。たとえば、平塚陸上競技場〔湘南ベルマーレの本拠地〕のその場所にはスコアボードみたいな建造物が、名古屋の瑞穂陸上競技場〔名古屋グランパスの本拠地〕には炬火(聖火)台と一般観客の使えぬ階段があって、一番チケットの高く売れる席を大量にふさいでいる〔モンテディオ山形の本拠地にも,同様の構築物がある〕。

 こういうものを観客席のど真ん中に置きたがる人がいつになったら一掃されるのだろう。

小林深緑郎『世界ラグビー基礎知識』112~113頁
(初出『ラグビーマガジン』1994年6月号)

世界ラグビー基礎知識
小林 深緑郎
ベースボールマガジン社
2003-10


 日本ラグビー論壇の良心、温厚そうな小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)さんが、珍しく憤懣やるかたない心情を吐露している。あるいは……。

 ……数年前、高校野球が弱小である地方の○○県の高校が、夏の甲子園で上位に勝ちあがって、マスコミ的には大いに盛り上がったことがあった。当ブログは、当地に少年サッカーの指導をしている知人がいたので「どうですか? 地元は盛り上がってますか?」と電話したら、「いや,オレはさっぱりだ」とのつれない返事。なぜか……。

 ……その人、曰く。○○県のサッカー関係者は、地元の高校が甲子園で勝ち上がって盛り上がることを、本音では良いことだと思っていない。地元のサッカーには、かえって悪い影響を与えるからだ……。

 ……○○県には、高校野球で使う立派な野球場(収容人員5千人~1万人程度)が沢山あるのに、同規模のJ2規格のサッカー(フットボール)専用のスタジアムを作ろうという構想が出ると、行政や議会やマスコミから厳しく異論が出る……。

 ……なぜ、サッカーのため(だけ)に、そんな便宜を図らなければならないのか? と難色を示される。

 高校野球に使用する球場に関しては、首都圏在住の人には、思い当たる節があるだろう。毎年7月になると、神奈川県、埼玉県、千葉県の独立系ローカルテレビ局(テレビ神奈川,テレビ埼玉,千葉テレビ)は、ほとんど1日中、高校野球の地方大会(予選)の試合を放送している。すると……。

 ……ああ、こんないい野球場があったのか、と嘆息する。これと同程度のサッカー(フットボール)専用のスタジアムがあったら、どんなにいいだろうと思う……。

 ……しかし、いざ、こうしたサッカー(フットボール)専用のスタジアム建設構想が出ると、行政や議会やマスコミから厳しく異論が出る。なぜ、サッカーのため(だけ)に、そんな便宜を図らなければならないのか? と難色を示される。

 かくして、日本の地方のサッカー(やラグビー)は、交通の便が悪く、狭いピッチの外側を陸上競技用のトラックが囲み、さらにその外側をダダッ広いスペースが覆い、さらにその外側の観客席には、(先の小林深緑郎さんが指摘の指摘のように)観戦の邪魔をするナンセンスな構築物があるという、不健全な環境の下で行わなければならないハメとなる。

サッカーとラグビーは犬猿の仲…だというのは本当か?
 これも小林深緑郎さんが、1991年頃の『ラグビーマガジン』で書いていたことだが、本場英国では、日本で思われているほど、サッカーとラグビーの仲は悪くないのだという。*

 島田佳代子さんも同様の趣旨を書いていた。日本と違って、英国では両方を応援するファンは多いし、サッカーでは感情を発散させるように観戦するその同一人物が、ラグビーではその流儀を受け入れ、しおらしく観戦するといった話を紹介している。

i LOVEラグビーワールド
島田 佳代子
東邦出版
2007-08


 簡単に断言はできないが、サッカーとラグビーは仲が悪いというのも、多分に日本的に誇張された「虚構」である。

日本のサッカーとラグビー…恩讐の彼方に
 日本にも、サッカーとラグビー両方見るというフットボールファンがいる。だが、これまでの経緯もあるから、そうでないフットボールファンもいる。後者に、無理矢理もう一方も見ろとか、両者仲良くしろとは強要できない。

 けれども、日本のサッカーとラグビーは、幕末の政局において、小さなところで対立・反目していた薩摩藩と長州藩みたいな関係に見える。しかし、その外にはもっと強大な「徳川幕府」(野球,あるいは陸連)という勢力がいる。

 だから、統括団体(JFA=日本サッカー協会,JRFU=日本ラグビーフットボール協会)は、提携して事に当たった方がいいのではないかと思うことがある。フットボール専用スタジアムの建設や芝生のピッチの普及など、プレーヤーや観戦者のための環境の整備に関しては、両者はかなりの程度まで利益を共有するからである。

 要するに、フットボール系球技の業界団体(ロビー団体)みたいなものを作って、いろいろ活動するのである。過去の恩讐を超えて「薩長同盟」を結ぶわけだ。


 ……このツイートが、長らく「ラグビー不毛の地」であった、山形県を本拠地とするJリーグのクラブから発信されたものだというのも興味深い。

 サッカー側のメリット=行政サイドなどから「なぜ,サッカーのため(だけ)に,そんな便宜を図らなければならないのか?」と言われにくくする。ラグビー側のメリット=競技人口の多いサッカーに便乗できる。

 文春ナンバーの、昔のどの号だったかは忘れたが、サッカーの川淵三郎氏と、ラグビーの宿沢広朗氏で、友好的な対談が出来たのだから(両氏については,早稲田大学の同窓という接点もあったが)、できない相談ではないと思う。

ここはいったん「ノーサイド」にして…
 できれば、アメリカンフットボールや、13人制のラグビーリーグ、オーストラリアンフットボール、あとはクリケットの日本協会も抱き込んだら面白いかもしれない。なぜ、クリケットかというと、英国筋からの「外圧」を期待するのである。妄想が膨らむ。

 一応、日本のスポーツ界には「日本トップリーグ連携機構」という団体があるが、室内競技もあるし、野球に近いソフトボールの団体もあるし……で、以上のような意味でサッカーやラグビーのためになっているか、傍目からは、よく分からない。

 日本には、オリンピック(五輪)を模した国民体育大会(国体)という総合スポーツ大会が行われ、その開会式・閉会式には、陸上競技場が使われる。先に述べたように、この時に作られた、不便なスタジアムをサッカーは(ラグビーも)押し付けられて、大変迷惑している。

 しかし、オリンピックの開会式・閉会式にトラック付きの陸上競技場を使う必要がないことは、当のフットボール(サッカー)大国であるブラジルのリオデジャネイロ五輪(2016年)が証明してくれた。この大会の開会式・閉会式は、サッカー専用スタジアムのマラカナン・スタジアムが使われた。聖火台も常設のものは必要ないわけだ。**

 いずれにせよ、サッカー(JFA)とラグビー(JRFU)が手を結ぶのは悪いことではないと思う。関係筋への殺し文句は「野球や国体では,もはや国民的な一体感を作ることはできない.その役割りは,サッカーやラグビーといった〈フットボール〉の日本代表が担う」。

 ラグビーワールドカップ2019日本大会は、「国民的な期待を背負った日本代表」がサッカーとラグビーで並び立った、記念すべき出来事だったと言える。

 だから、まず、ここはいったん「ノーサイド」にしてですね……。***

(了)




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日本代表戦はどちらが面白い?
 2019年ラグビーワールドカップ日本大会。そしてジャパン(日本代表)の快進撃。日本の多くの人々が、ラグビーフットボールのプリミティブな面白さを知った。

 ネット上では「ひょっとしたら,サッカー日本代表戦よりもラグビー日本代表戦の方が面白いのではないか? 今回のラグビーW杯で,日本人はそのことに気が付いてしまったのではないか?」などという議論が起こったらしい(当ブログは未見)。

 サッカーの日本代表戦と、ラグビーの日本代表戦、どちらが面白いとは、一概には決められない。ともに、問題はワールドカップ本大会以外の国際試合である。

 現在、サッカー日本代表にとって最も大切な試合は、ワールドカップ本大会の試合ではなく、W杯アジア予選の特に最終予選である。……と、後藤健生さんが新国立競技場問題のシンポジウムでの発言していたらしい。

 勝つか、負けるか。W杯本大会に行けるか、行けないか。ハラハラ、ドキドキ。サッカーの日本代表戦は、とても、分かりやすい。

テストマッチ≒国際親善試合の価値を見出すという共通の問題
 その点、ラグビーは、少しわかりにくいところがあるかもしれない。

 W杯本大会出場権そのものを獲得するために、オーディエンス(ファン,サポーター,テレビ視聴者)が、日本代表を応援してスリリングな体験をすることは、あまりない。

 ラグビーW杯は本大会でプールステージ(1次リーグ)で5か国中3位に入れば、次回本大会の出場権をシードされるからである。

 仮に予選に回ったとしても、それほど予選不通過を恐れる必要はない(はずだ)。

 つまり、今後のラグビーの日本代表戦の多くは、ワールドカップが絡まない国際試合(テストマッチ)である。

 詳細は省くが、必要なのは、日本の対戦相手がティア1の国であっても、ティア2の国であっても、それぞれのテストマッチの持つ大切な意味合いを、オーディエンスに理解していただくことである。

 そして、メディアはそのことをしっかり啓蒙する必要がある。

 サッカーの問題は、ワールドカップやアジアカップが絡まない、ノンタイトル戦である国際親善試合の「再価値化」である。

 これにはマンネリ感、停滞感が漂っている。

 当ブログは、現状を打破するために、欧州ネーションズリーグに倣(なら)った、日本が参加する、独自のネーションズリーグの構想妄想を、ブレスト(ブレーンストーミング)的に試みたことがある。

 日本サッカー協会(JFA)は、これからも顔見世興行的な、「キリンチャレンジカップ」と称した、微温的な国際親善試合を続けていくのだろうか?

(了)




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野球そのものより偉大な野球選手はいない
 野球のアメリカ大リーグには、次のような言葉がある。
どんなにベーブ・ルースが偉大であろうと野球より偉大ではない。
スパーキー・アンダーソン
 シンシナティ・レッズやデトロイト・タイガースで、MLBワールドシリーズを制した名監督による、けだし名言である。

 この発言は、スパーキー・アンダーソンの自伝『スパーキー!~敗者からの教訓』に出てきたとは思うのだが、正確には思い出せない。*

スパーキー!―敗者からの教訓
スパーキー アンダーソン
NTT出版
1991-11


 ちなみに、この本の「監修」は玉木正之氏で、あとがきでは例によって日本野球への当てこすりを書いていたような気がする。

サッカーそのものより偉大なサッカー選手などいない…はず…であるが…
 サッカーでも同様。ペレやヨハン・クライフがどんなに偉大であろうとサッカー(フットボール)そのものより偉大ではない。

 しかし、ここは世界の常識が通用しない日本である。日本には、日本サッカーそのものより偉大な人物が少なくとも2人いる。

 中田英寿(歴史的な偉人)とセルジオ越後(今回も敬称トルツメ)である。

中田英寿の「偉大」さ
 中田英寿については、ここでは深入りしない。……が、まずひとつは、時の日本代表監督にして、指導者としての資質が大いに疑われていたブラジル人=ジーコと癒着して、増長、サッカー日本代表を半ば私物化して、2006年ドイツW杯で、実に独りよがりで醜悪な現役引退パフォーマンスをおこなったこと。

小松成美『中田英寿 誇り』表紙
【英国大衆紙も酷評した中田英寿の引退パフォーマンス】

 もうひとつは、2010年にNHKが放送したドキュメンタリー番組「日本サッカーの50年」第4話で、ジーコと癒着した関係から、上から目線で「ジーコは(レベルが高すぎて)日本のサッカーには早すぎた指導者だった」などと、いけしゃあしゃあと発言したこと。

中田英寿@NHK「NHK日本サッカーの50年」第4話
【NHK「日本サッカーの50年」第4話で発言する中田英寿】

 以上の2点は、議論の余地なしに駄目である。

 前者については、ウルトラスニッポンの植田朝日氏も、国書刊行会刊の『日本サッカー狂会』の座談会で批判していた。至極真っ当な評価である。

日本サッカー狂会
国書刊行会
2007-08-01


 後者の発言が間違っているのは、その後のキャリアを見ても、ジーコが、サッカーの指導者として、とてもレベルの高いとは言えないからである。中田英寿は、番組の視聴者=サッカーファンをミスリードしている。これは中田英寿自身の利益につながるためだ。

 こんなデタラメが許容されるのは、ある種のサッカー関係者にとって、中田英寿が日本のサッカーそのものよりも「偉大」だと認識されているからである。

セルジオ越後による「サッカー評論」の実態はDVまたはハラスメントである
 それでは、セルジオ越後は如何?
DV(ドメスティックバイオレンス)の特徴
 DVには、殴る蹴るといった肉体的暴力だけでなく、モラハラ(モラルハラスメント)と呼ばれる精神的暴力も含まれます。

 被害者・加害者共に、DVの当事者であるという自覚がないことが多いのが、DVの特徴のひとつです。

 双方が、暴力の原因は被害者側にあると思い込んでおり、加害者は自己を正当化し、被害者は、恐怖感や無力感から、問題解決への意欲を喪失してしまいます。

 ……時間が経てばおさまるということはほとんど期待できません。被害者はどんどん追い込まれて、精神障害を引き起こしたり、最悪の場合、暴力によって死亡したり、自殺してしまう危険もあります。

みお綜合法律事務所「DV・ハラスメント特集」
 サッカー評論家(?)のセルジオ越後は、日本のサッカーに対して数多(あまた)の放言を繰り返してきた。巷間、それを「日本サッカーへの愛情を込めた厳しい〈辛口〉評論」などと誉めそやす。大嘘である。

 実態は、単なる無節操な日本叩きである。この関係を個人と個人の家族内の関係として置き換えてみるとよく分かるが、セルジオ越後の言動は、日本サッカーに対する、モラルが崩壊した、言語的・精神的なドメスティックバイオレンス(DV)である。

 すなわち、この特殊なDVの「加害者」はセルジオ越後であり、「被害者」が日本サッカーである。両者ともに、これがDVであるという自覚がない。そして「加害者」のセルジオ越後は全面的に正しく、「被害者」の日本サッカーは全面的に間違っているとされる。

DV「被害者」の告発と「加害者」を正当化する第三者のツイート
 このセルジオ越後によるDVの「加害」に耐えかねた、「被害者」であるところのサッカー日本代表・乾貴士選手、そして岡崎慎司選手が、ささやかな反発を発信した。




 彼らがセルジオ越後を批判したというから、いったいどんな過激で不穏当な発言をしたのかと、私たちは訝(いぶか)った。だが、それ自体は非常に抑制の利いたものだ。むしろ、不穏当な放言を繰り返してきたのはセルジオ越後の方なのだが。

▼ラグビー「静岡の衝撃」にまでセルジオ越後を登場させる日本人の愚かな体質(2019年10月07日)

 ところが、巷間の「サッカーファミリー」には、乾選手や岡崎選手の方が一面的に悪いかのような、倒錯した「空気」が存在する。

 DVの特徴のひとつに、家族の第三者も巻き込んで、この第三者が「被害者」に苦痛を与えるというパターンがある。セルジオ越後と日本サッカーをめぐる「DV」もまた、「サッカーファミリー」の第三者の人間が、「加害者」のセルジオ越後に加担して、「被害者」たる日本サッカーの方を責め立てるのである。**

 例えば、有名なサッカーブロガーでオールドファンのサッカー講釈師さんが、セルジオ越後による日本サッカーに対する数々の不穏当な放言を擁護し、乾貴士選手を非難するかのようなツイートをしている。


 この、サッカー講釈師さんの言い分には首を傾げる点が多い。

 ほんの少しばかり「自分たちはDVの〈被害者〉ではないのか?」と気づき、あくまで控え目に声を上げた乾貴士選手や岡崎慎司選手……。

 ……それに対して、本来、第三者であるサッカー講釈師さんは、「これはDVであり,セルジオ越後は〈加害者〉である」という自覚もないまま、DVの加害者=セルジオ越後と同一化、かつ正当化し、真の問題解決から事を遠ざけようとしているのである。

セルジオ越後の「批評」は無節操という「パターン」
 とにかく、このサッカー講釈師さんのツイートは全部おかしい。気になったところを論(あげつ)っていく。

 >>セルジオ爺さんのパタン化〔ママ〕した批評……

 まず、ここで言う「爺さん」という表現は、サッカー講釈師さん独特の表現。尊敬する同年配以上のサッカー人に対して用いる敬称である。例えば「オシム爺さん」とか「マテウス爺さん」などと言う(ベトナム語に似たような用法があったかもしれない)。同年配以下には適用しないので「本田圭佑爺さん」とは言わない。

 セルジオ越後にこういう「敬称」を用いていることで、すでに第三者として評価しようというのではなく、無意識的にセルジオ越後側に立って発言していることを示している。

 カタカナ語の表記が「パターン」ではなく、音引き抜きの「パタン」なのは、サッカー講釈師さんが理工系の人だからである。セルジオ越後が下す評価は、いつも無節操な日本叩きという「パタン」だが、それはおよそ「批評」の名に値しない。

セルジオ越後にならった金子達仁ら電波ライター
 >>誰も参考にはしないし……

 これは端的に間違い。なぜなら、セルジオ越後の影響を受けた(参考にした)人物に、あの金子達仁氏がいるからだ(仮に,誰も参考にしないなら,セルジオ越後の放言が許されるのかという問題もあるが)。

 金子達仁氏は、毀誉褒貶が激しい。サッカーライター(?)、スポーツライターとして「スタア」になった一方で、徒(いたずら)に日本のサッカーを、蔑(さげす)んで自身の賢しらを気取るサッカー評論の風潮に、大きく棹(さお)を差した「電波ライター」であると、さんざん批判されてきた。

 エピゴーネン(弟子)は、オリジナル(師匠)の悪いところを拡大する。金子達仁氏はセルジオ越後氏の悪いところを参考にしたのである。

 つまり、多くのサッカーファン、スポーツファンがセルジオ越後の作った流れの影響下にある。誰もがサッカー講釈師さんのように、セルジオ越後に免疫のある、サッカーの見巧者ではないのだ。

セルジオ越後の放言がサッカーの現場に与えたストレス
 >>「ああ、お元気だな」と予定調和を楽しむべきコンテンツ……

 これも違う。セルジオ越後の放言を「楽しむべきコンテンツ」などと言うサッカー講釈師さんは、よほど感覚が鈍麻している。

 フィリップ・トルシエ(サッカー日本代表監督,任期1998~2002)は、私に「日系ブラジル人だか何だか知らないが,あの〈セルジオ越後〉とかいう奴は何者なんだ?」と、質問してきた……。フットボールアナリスト・田村修一氏が、初代サポティスタ・浜村真也氏が催したトークイベントでこんな裏話を紹介していた。

 その場では、笑い話になった。……が、実際には、笑い話ではなかったかもしれない。セルジオ越後の数々の放言は、歴代の日本代表をはじめとする、サッカーの現場に不必要なストレスを与えていた可能性がある。それがサッカーのパフォーマンスに好ましい影響を与えることはない。つまりセルジオ越後の放言は「批評」とはとても呼べない。

セルジオ越後ほど日本人の自虐的サッカー観に

 その中には、サッカー講釈師さんが尊敬してやまない「オシム爺さん」のチームもあったかもしれない。そのように傍証できるかもしれない材料は、ないわけではない。

サッカー講釈師さんの偏向ジャッジ
 >>にもかかわらず、真摯に反応した乾は大したものだったが、ドリブルと異なり、あまりに切り返しが下手くそだった……

 セルジオ越後がいつも悪質な反則タックル(DV,ハラスメント)を仕掛けてくることを、サッカー講釈師さんは(あるいは「サッカーファミリー」の多くは)見逃し、乾貴士選手の方を「あまりに切り返しが下手くそだった」などと言う。

 このジャッジは、アンフェアだ。

 もとより、前述のように、サッカー講釈師さんは、真っ当な第三者の立場に立った審判の「まなざし」など、持ち合わせていないのであるが。

被害者への「セカンドレイプ」に加担するサッカー講釈師さん
 >>とは言え、乾は文筆や言論が付加価値ではないから、傷は浅い。

 サッカー講釈師さんは、こんな上から目線の発言で、これで乾貴士選手をフォローしてみせたつもりなのである。

 しかし、乾貴士選手の立場上精一杯の「つぶやき」を浅薄であると切って捨てることが、この特殊なDVの「被害者」に対する更なる加害、すなわち「セカンドレイプ」であるとに自覚がない。唖然とするばかりだ。

セルジオ越後に対しては正式な形で批判するべき
 そもそも、ツイッターを含めたSNSは「付加価値を持った文筆や言論」を展開する場ではない。だからこそ、乾貴士選手たちは、SNSや地上波テレビのバラエティ番組(当ブログ未見)ではなく、セルジオ越後を正式な本格的な形で批判するべきである。

 例えば、理路整然とした文章にして批判を公開する。むろん、自身の思想がきちんと反映されていればゴーストライターに書かせても構わない。サッカー講釈師さんによると「乾は文筆や言論が付加価値ではない」らしいから、なおさら、そうするべきだ。

 あるいは、その上でセルジオ越後に公開の場での対談を申し込む。セルジオ越後は、逆に自分が突っ込まれるとシドロモドロになる(岡田武史氏が軽くツッコミ返したら,そうなっていた)。ちゃんとしたアドバイザーに付けば、セルジオ越後は論破できる。対談を断ってきたり、期限を定めていつまでも応じないようなら、その経緯を喧伝すればよい。

 乾貴士選手や岡崎慎司選手のセルジオ越後に対するささやかな発言(批判)を、筋違いというサッカーファンがいる。しかし、仮にそうだとしても、事の本質は「筋違い」なことをしなければならないほど、日本のサッカー界は限りなく不健全で「異常」な情況になっている。

 セルジオ越後の影響で、日本の「サッカーファミリー」のほぼ総体が「狂気」していると、ごく少数の正常者(乾貴士選手や岡崎慎司選手)が「狂気」として扱われてしまうという古典的命題を、これほど明確に現した事例も少ない。

 それくらいやらないと、情況はあらたまらない。

セルジオ越後「辛口批評」の正当性を疑う
 少しコストがかかるかもしれないが、しかるべき探偵社に依頼して、経歴詐称という重大な疑惑を抱えているセルジオ越後(高い蓋然性でその指摘は正しい)の、ブラジル時代の選手時代の実績(真相)を暴いて本人に突き付けてもいいし、日本時代の成績の(かなり悪いという)を明らかにして本人に突き付けてもいい。

 そうなのである。セルジオ越後のサッカー選手としての実績は、乾貴士選手や岡崎慎司選手より、はるかに下なのである。そもそも、セルジオ越後は「サッカー評論家」(?)としての正当性・信憑性が、きわめて疑わしい人物なのである。

 また「サッカー強豪国,ことに南米のブラジルやアルゼンチンなどのサッカー評論は,選手や監督,チームを徹底的に批判する」という「神話」があるが、これも間違いらしい。実際には、論者によってスタンスは是々非々であり、幅があるという。むしろ、アルゼンチンで尊敬されているサッカー人は、評論対象を過剰に責め立てることはしないし、セルジオ越後のようにつまらない揚げ足をとったりしない。

 セルジオ越後に象徴される「サッカーというスポーツに関する〈神話〉」がある。だが、これは「虚構」であり、打破されるべきだ。

セルジオ越後…その「偉大」さの源泉
 これらのデタラメが許容されるのは、ある種のサッカー関係者にとって、セルジオ越後が日本のサッカーそのものよりも「偉大」だと認識されているからである。

 世界の舞台に立ち、世界の強豪にいかにに立ち向かうか……というテーマで、長年戦ってきた日本のサッカーには、一方で「欧米」列強に対する劣等感が常についてまわる。そうした「日本人の心のスキマ」に入り込んだのが、あるいは中田英寿であり、あるいはセルジオ越後という「商売人」もしくは「詐欺師的人物」だった。

 セルジオ越後を過剰に有難がってきたのは、日本のいたいけなサッカーファンたちであるが、その中には、本来はいたいけではありえない、サッカーの見巧者である、オールドファンのサッカー講釈師さんも含まれる。

 昔の日本サッカーは弱く、選手個人の技術も大きく劣っていた。そんな中、日系ブラジル人のセルジオ越後が旧JSLにやってきた。この人物は、ブラジル本国のみならず、旧JSLでも選手としての成績は惨憺(さんたん)たるものだった(らしい)。

 しかし、記録には残らないことだが、技術が大きく劣っていた当時の日本人選手のなかにあって、セルジオ越後はブラジル仕込みのテクニックを見せた(らしい)のである。サッカー講釈師さんをはじめとしたサッカーのオールドファンもまた、あの時のセルジオ越後の幻惑の中にまだいるである。

セルジオ越後による「暴力」が容認される日本社会の異常
 ドメスティックバイオレンス(DV)やハラスメントが、日本でも社会問題になっている。中でも、サッカー、相撲、野球、ラグビー等々、日本のスポーツ界の暴力やハラスメントの横行と、その克服が問題になっている……。

 ……してみると、セルジオ越後による「日本サッカー」に対する言葉を使った精神的なDVまたはハラスメントが、日本の社会で、日本の「サッカーファミリー」の間で、ここまで放置=容認されている。興味深くもあり、また異常なことである。

吠えるセルジオ越後『サッカーダイジェスト』1993年11月24日号より
【吠えるセルジオ越後】(『サッカーダイジェスト』1993年11月24日号より)

 日本の「サッカーファミリー」の精神や思考が、奴隷化・家畜化していることの悲喜劇である。

(了)




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