スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

2019年06月

男女日本代表敗退で再び火が付いた自虐的日本サッカー観
 1年前の今頃、2018年6月は……。サッカー日本代表はロシアW杯で惨敗するだろう。そして、またぞろネット世論を含めたサッカー論壇は、自虐的な日本サッカー観(日本人論・日本文化論から見たネガティブな日本サッカー観)で溢(あふ)れかえるだろう……などと、すっかり悲観的になり、喚(わめ)きたてていた。


 ところが、西野ジャパンは下馬評を覆(くつがえ)して1次リーグを突破した。本当に恥ずかしい。

 2018年ロシアW杯では、日本代表が一定の成果を収めたために、奇妙キテレツで自虐的な「サッカー日本人論」の類は、あまり流行(はや)らかなったように思われる(もっとも,NHKのドキュメンタリー番組「ロストフの14秒」での,イビチャ・オシム氏の首を傾げたくなるような発言はあったけれども)。


 しかし……。

 2019年6月になって、日本女子代表「なでしこジャパン」がフランス女子W杯のベスト16で敗退、男子日本代表がコパアメリカ(南米選手権)の1次リーグで敗退(さらに20歳以下の男子日本代表が,U20ワールドカップのベスト16で敗退)……という、各カテゴリーの日本代表が「不完全燃焼」で終わる事態が続き、前年は不発だった「火薬」=自虐的な日本サッカー観が、サッカー論壇で「再着火」している気配がある。

「決定力不足」という「日本人」の病!?
 男女の日本代表とも、共通の課題があるとされていて、例えば「決定力不足」である。


 宇都宮徹壱氏は次のように語る。
 もっとも、決定力不足に関しての森保一監督の認識は……決して森保監督のオリジナルではなく、最後の外国人指揮官である〔「現時点で最後」と書くべきでは?〕ヴァイッド・ハリルホジッチ監督も、繰り返し述べてきたことだ。


 さらにさかのぼればジーコ監督時代の15年くらい前にも、日本の「決定力不足」は盛んに指摘されていた。今となっては信じられないだろうが、〔2006年〕W杯ドイツ大会に出場していた時にも、試合前に繰り返しシュート練習が行われていたのである(結局、この大会で日本は2ゴールしか記録していない)。このように「決定力不足」は、日本代表にとって根深い歴史的な課題であり、そこだけをクローズアップしてしまうと問題の本質を見失う危険性をはらんでいる。

 宇都宮徹壱氏が「〈決定力不足〉は,日本代表にとって根深い歴史的な課題」と言っているのは、単純に昔からそうだという意味ではなく、文脈上、一朝一夕に変えようがない日本(人)の国民性や文化といった次元で「根深い歴史的な課題」という意味である。これは「サッカー日本人論」である。どうしても宇都宮徹壱氏は、日本人論・日本文化論の「まなざし」で日本サッカーを見てしまう傾向がある。

 だから、あのジーコの名前とエピソードも登場する。ジーコは、その経歴を見る限り、特別優秀なサッカーの監督・コーチとは言えない。けれども、日本人の自虐的な日本サッカー観を大いにくすぐる人なのである。宇都宮徹壱氏や西部謙司氏は、熱烈なジーコ信奉者のそぶりは見せないが、しかし、どうしてもジーコを見限れないという人でもある。



 そんな折も折、ジーコが来日して、昨今の日本サッカーの決定力不足を嘆き、「これを改善しない限り,日本のサッカーは2020年の東京オリンピックでもよい結果を残せないだろう」とか何とか、また宣(のたま)ったのだという。*


 アンタにだけは言われたくはないわ……というサッカーファンもいると同時に、ジーコの発言に過剰反応する幼気(いたいけ)なサッカーファンもいる。


 ジーコ発言にこうした反応を見せることで、自身のサッカー観の賢しらを誇示する。その発言が日本人論がかっている。これこそ「自虐的サッカー観」である。こういう人たちに対しては、やはり、藤島大氏の「ジーコのせいだ」をあらためて援用せざるを得ない。


 2006年のドイツW杯の期間中、にジーコ監督が日本人の選手たちにシュート練習をさせていたことは、むしろ、ジーコの監督能力を疑わせるエピソードである。本来、いわゆる「日本サッカーの決定力不足」とは別問題なのに、いっしょくたにしてしまっている宇都宮徹壱氏などを見ていると、やはりジーコ・ジャパンとは日本のサッカー評論、サッカー観のリトマス試験紙なのだと感じてしまう。

「脳科学」的に「日本人」監督の采配能力は著しく劣っている!?
 もうひとつの共通の課題は監督の采配、より具体的には「監督の消極的な交代策」である。男女のサッカー日本代表(森保一氏,高倉麻子氏)とも、例えば、選手の交代が遅い、1試合の交代枠(3人)を余らせてしまう、選手を交代させても試合の流れを積極的に変えるものではない……等々の理由で、勝てる試合を失い、日本代表は早々と敗退したというものである。

 この件について、何か面白いネタがネット上にあるかもしれないと思って検索をしていたら、とても興味深いツイートが釣れた。「日本人」の監督は脳科学的(!)に、そして統計的(!)に能力が劣っていることが明らか(!)なのだという。


 しかし、ここでいう「脳科学」とは、誰の、どういう研究・学説なのだろうか? どうせ中野信子みたいな俗流なんじゃないのか……とか、「日本人」と他の人類を分ける(自然科学的な?)定義ってあるのだろうか……とか、その「日本人の脳」をどうやって分析したのか……とか、いろいろツッコミたくなるところではある。

 こうした「脳科学」による日本サッカーの「分析」には、デジャブ(既視感)がある。日本代表が「惨敗」した2014年ブラジルW杯の3か月後、テレビ東京系のサッカー番組「FOOT×BRAIN」が(疑似科学だと批判されている)脳科学者・中野信子を出演させてしまったことがある。
FOOT×BRAIN「目からウロコ!脳科学から見るサッカー上達法!」
2014年9月27日

中野信子_サッカー_フットブレイン1

中野信子_サッカー_フットブレイン2

中野信子_サッカー_フットブレイン3


 くだんのツイートは、中野信子をゲストに迎えた時の「FOOT×BRAIN」を思い出させる。一方、中野信子のような「脳科学者」にはいろいろと疑義が提出されている。

 「日本人がサッカーで弱いのは科学的にも証明されている」という話。要は、日本サッカーが「世界」で負けると頻出する疑似科学的日本人論の一種である。

いよいよ「なでしこジャパン」言説まで日本人論化するのか?
 またまた、話はサッカー日本代表が「惨敗」した2014年のブラジルW杯になる。

 小説家で、サッカー関連の著作もある星野智幸氏が「日本のサッカーのうち,男子日本代表は〈日本的〉であるがゆえに愚劣だが(ただし本田圭佑のような〈日本人離れ〉したキャラクターを除く),女子日本代表〈なでしこジャパン〉は誇るべきものである」といった意味合いの、自虐的日本サッカー観に満ちたエッセイを書いていた(星野智幸「ガーラの祭典」@『エンタクシー』42号掲載,下記リンク先参照)。

 つまり、サッカー女子日本代表「なでしこジャパン」は、自虐的な日本サッカー観やサッカー日本人論の「枠の外」に置かれてきた。しかし、2019年フランス女子W杯の意外に早い敗退を受けて、またその評価を受けて、いよいよ日本女子サッカー&なでしこジャパン言説も、いよいよそうした風潮に呑み込まれてしまったかのような反応が散見される。

 現時点(2019年6月)の時点では、それはハッキリとは見極めがつかない。「要経過観察」といったところか。そのように「発症」してしまったと確信できたら、あらためて論考したい。

 いずれにせよ、こういう思考や精神は、日本サッカーの批評にも創造にもつながらない。

(了)



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英国にも野球文化があった!?
 2019年6月29日・30日に開催予定、野球のMLBアメリカ大リーグ英国ロンドン公式戦の前人気は上々と聞く。結構なことである。そして、これは大リーグ当局による、野球の世界(特にヨーロッパ=欧州)への普及・進出を図る第一歩ということになるという。


 はたして、野球の「ヨーロッパ進出」は成功するのだろうか? 当ブログは、日本人論・日本文化論に基づいた「日本人サッカー不向き論」の類には頑強に抵抗してきた。だから、野球それ自体が英国人・ヨーロッパ人の文化・気質に合わないので、これに失敗するだろうという立場はとらない。

 かつて、イングランドサッカーのダービーカウンティFCの本拠地の名前が意外にも「ベースボールグラウンド」だった。何でまた? 昔、英国にも「野球」のセミプロリーグがあり、それなりに人気があった時代があった名残りである。この英国野球リーグの話は、軍司貞則氏の『もうひとつの野球~ヨーロッパ球界地図』(1980)に登場する。

もうひとつの野球―ヨーロッパ球界地図 (1980年)
軍司 貞則
ベースボール・マガジン社
1980-07


 しかし、1929年の世界大恐慌でダメになったという。歴史的に、野球が北米・中南米カリブ海・東アジア以外にも普及する芽はあったのだ。だから、野球が欧州に普及する原理的な可能性は否定しない。それに関して「道具」や「指導者」については問題ないだろう。が、一番の難題は「マウンド」や「ダイヤモンド」が常設された、常に野球に使える「野球場」の確保だろう。

 しかし、別のある理由から、その蓋然性は楽観視できない……と、考える。

WBCとアメリカ大リーグの一国主義
 MLBのロンドン公式戦は、翌2020年にも開催されるとのことである。それは、エキシビションとしては成功するのだろう。しかし、それキッカケで野球が英国やヨーロッパに本格的に普及するかというと、正直なところ、よく分からない。

 どういうことか。英国(英連邦諸国を含む)やヨーロッパでは、サッカーやラグビー、クリケットなど、クラブチームのみならず、ナショナルチーム(代表チーム)による国際試合や世界選手権(ワールドカップ=W杯)が権威づけられ、これらの国々のスポーツ文化において重要な意味を持ってきた。

 翻って、野球は(サッカーやラグビー,クリケット,アイスホッケーなどのように)複数の国にプロリーグがありながら、ナショナルチーム(代表チーム)による国際試合や世界大会がオーソライズされていない、世界的にも特異な、ほぼ唯一の「チーム単位で行う球技スポーツ」である。

 一応、野球には「ワールド・ベースボール・クラシック」(WBC)なる、ナショナルチーム同士の対戦による世界大会があることにはあるが、権威づけられた大会では全くない。第1回開催が21世紀に入ってから(2006年)と、歴史的に遅く始まったためもある。しかし、それ以上に、WBCの事実上の「主催者」であるところの「アメリカ大リーグ」に、WBCを権威的な大会にしようという姿勢が見られないからである。

 否。そもそも、WBCなどというものは、所詮、エキシビションにすぎない「ワールドカップごっこ」である。日本(笑)とか、キューバ(笑)とか、ドミニカ共和国(笑)とか、あの辺の連中は躍起になってWBCに勝ちに行くが、アメリカ大リーグの目線から、そんな有様を見ていると滑稽でたまらない……。

 ……MLBアメリカ大リーグが、アメリカ合衆国の野球が「世界一」なのは自明のこと。MLBの選手権試合を「ワールドシリーズ」と名乗るのは(だかだか国内リーグにもかかわらず)、むしろ当然ことだ。アメリカ大リーグは全く充足している。これ以上の高い次元を求める必要など感じていない。今さらアメリカ合衆国は、代表チームでWBCの優勝をガムシャラに狙うつもりなどない……。

 ……みたいな話を、日本の野球論壇では「大リーグ通」と目される書き手が、さも訳知り顔に紹介することが、よくある。


 WBCのオーソライズを阻む要素は、まだまだある。この大会は、春季、アメリカ大リーグの公式戦シーズン前に開催される(サッカーW杯のように,本来ならばMLBのシーズン終了後に開催するべきなのだが)。だから、大リーグ各球団としては、有力な選手がWBCにシャカリキになって怪我をしたり、消耗したりしては困る。本音を言えば、WBCみたいな「三流の大会」になど出場してほしくない。
 また、野球には、サッカーのように、クラブチームがナショナルチームに選手を提供する場合のルールが確立されていない(はずである)。同じ日本人でも、サッカーの久保建英選手は日本代表としてFIFAワールドカップに出場できる。しかし、野球の大谷翔平選手や田中将大選手は日本代表としてワールド・ベースボール・クラシックに、事実上、出場できない(はずである)。

 度し難い米国野球界の一国主義であるが、そこにこそ、英国・ヨーロッパで今後とも野球が普及が難しいであろう「遠因」がある。それは何か……。

サッカーW杯における「資源の再配分」機能
 ……サッカーやラグビー、クリケットなど、「チーム単位で行う球技スポーツ」において、ナショナルチーム(代表チーム)による国際試合やワールドカップは、形を変えた一種の「資源の再配分」(?)とでも言うべき機能を持っている。

 スポーツ界における大切な資源は、才能ある選手である。日本サッカーのJリーグならば、柴崎岳選手でも、大迫勇也選手でも、乾貴士選手も、ヨーロッパ各国のサッカーリーグに移籍して、何の見返りもなかったら、日本のサッカー界にとっては、単なる取られ損になってしまう(各々のJクラブが欧州のクラブから移籍金が取れる・取れないという懸案は不勉強だし,ここではしない)。

 ナショナルチーム(代表チーム)による国際試合やワールドカップは、欧州サッカー界がかき集めた「資源」を、提供してくれた国や地域(のサッカー協会)に対して、不完全な形ではあるが、見返りとして、一時的に返還(再配分)する機能がある。

 欧州サッカーが「UEFAチャンピオンズリーグ」を頂点としたクラブシーンのみであったら、サッカーは、NFLやMLB、NBAといった北米のプロスポーツの亜流でしかなかった。やはり、何のかんの言っても、FIFAワールドカップは、サッカーの世界性を支えている。

 反面、野球のアメリカ大リーグは、自分たちだけが肥え太るだけで、選手(資源)を提供してくれた国(日本や中南米カリブ海諸国など)に対する見返りがない。WBCという野球の世界大会は、そうした機能を有していない。「野球はアメリカ合衆国の国民的娯楽」というけれども、現状では米国民のためだけの「国民的娯楽」でしかない。

 英国(英連邦諸国を含む)やヨーロッパでは、サッカーやラグビー、クリケットなど、クラブチームのみならず、ナショナルチーム(代表チーム)による国際試合や世界選手権が権威づけられ、これらの国々のスポーツ文化において重要な意味を持っている。

 したがって、その国際試合や世界大会(WBC)を、軽視し、邪険に扱う、アメリカ合衆国のスポーツ=野球、アメリカ大リーグだけで「世界一」を決定する野球を、これから英国・ヨーロッパに再紹介して、普及するとは考えにくいのである。

間違いだらけの野球の国際試合
 米国在住のスポーツライター・四竈衛(しかま・まもる)氏は、アメリカ大リーグには、世界的な野球の普及に関して、門戸の開放、選手の才能の伸びゆく可能性を消さない姿勢、損得だけでは計れない将来的な海外への投資など、さまざまな「懐の深さ」があると説いている。


 しかし、こと英国・ヨーロッパに野球という球技スポーツを普及させたいなら、あるいは本当に野球という球技スポーツを「世界的」したいなら、以上に述べたような理由で、ナショナルチーム(代表チーム)による国際試合や世界大会をオーソライズしなければならない。そうでなければ、アメリカ大リーグは「門戸を開放」したとも「懐の深さ」を見せたとも言えない。

 そもそも、サッカーW杯のような世界大会ができるのはサッカーだけである。アメリカ大リーグは、サッカー式ではなくて、国際普及度に地域差がある野球という球技スポーツの実情に合った、ナショナルチーム(代表チーム)による国際試合や世界大会の在り方を、英国(英連邦諸国含む)から学び、模索するべきだった。

 例えば、ラグビーである。それを参考に思いつきの愚案を連ねてみるが……。
  •  ラグビーがそうだったように、初めから無理して(WBCのような)世界大会を開催する必要はない。例えば、かつてNPB選抜とMLB選抜による、いわゆる「日米野球」があったのだから、これを発展的に解消して、正規の日本代表vsアメリカ合衆国代表による国際試合(ラグビーやクリケットで言うテストマッチ)に格上げして、まずは経験を蓄積する。
  •  MLBの公式戦シーズン終了後に、国際試合月間みたいな日程を作る。
  •  米国国民はナショナルチーム(代表チーム)による国際試合に関心が薄いというならば、野球の米国代表は、ラグビーの英国&アイルランド合同代表チーム「ライオンズ」のように、海外遠征専門でもよい。定期的に東アジア諸国や中南米カリブ海諸国(さらには欧州のイタリアとオランダ?)に遠征する。
  •  そうした国際試合におけるビジネスモデルは適宜考える。しかし、即効性がなくても、MLBが中南米カリブ海諸国に野球アカデミーを作ったことと同じく、これは「損得だけでは計れない将来的な海外への投資」と心得る(かつ,これは「資源の再配分」である)。
  •  北米・東アジア・中南米カリブ海(プラス欧州への足掛かりとしてのイタリアとオランダ?)による12か国くらいの、強さと人気・伝統を兼ね備えた野球「主要国」と、それ以外の野球「発展途上国」に分けて、国際試合や国際大会を行う。
  •  「発展途上国」の国際試合や国際大会には、「主要国」はフル代表ではなく、格下の(例えば若手や二番手選手の)代表チームを編成・派遣して、「発展途上国」との力量のバランスをとり、国際的な普及を図る。
  •  その上で、機が熟したら、そしてどうしてもやりたいならば、ワールド・ベースボール・クラシックのようなナショナルチーム(代表チーム)による世界大会を開催する。
 ……と、思い返してみるに、アメリカ大リーグ当局は、こうしたプロセスを経ることなくWBCや、MLB公式戦ロンドン開催を始めてしまったわけである。

 傍目で見ていて、優れたアイデアを繰り出してくる大リーグ当局にしては、いかにも拙速であり、賢明さを感じない。MLBの欧州進出は、エキシビションとしての成功以上になるとは、考えにくい。

 アメリカ大リーグは、世界展開に関して、インドのクリケット選手とマイナー契約を結ぶことより、もっと重要な、やるべきことがあったはずだ。

(了)



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 2019年6月29日・30日に開催予定、野球のMLBアメリカ大リーグ英国ロンドン公式戦の前人気は上々と聞く。


 同様のロンドン公式戦は、翌2020年にも開催されるという。そして、これは大リーグ当局による、野球の海外への普及・進出を図る第一歩ということになるとも聞く。


 英国・ヨーロッパの人たちも、初めは、素朴に投げた・打った・走った・捕ったの「ワーワーベースボール」を楽しむだけでもいいだろう。しかし、例えば……。
  1. ダイレクトの打球がそのままファウルゾーンに落ちたら「ファウル」。
  2. グラウンダーの打球が一塁ベースまたは三塁ベースより〈前〉でファウルゾーンに転がっていったら「ファウル」。
  3. グラウンダーの打球が一塁ベースまたは三塁ベースから〈後〉でファウルゾーンに転がっていったら、これは「フェア」でヒット。
 ……平均的日本人男性ならば、野球に関して、以上の事柄の違いを皮膚感覚的に弁(わきま)えている(はずである)。

 だが、平均的ヨーロッパ人は、以上の違いをなかなか呑(の)み込めないようである。特に[2.]と[3.]の何がどう違うのか、いざ教えてくれと言われたら、平均的日本人男性でも意外と説明に窮(きゅう)する。

 野球がマイナーな欧州スペインで、スペイン人の野球選手(男性)が自分のガールフレンドに、くだんのファイルとフェアの違いの説明を試みる。が、そのガールフレンドはなかなか理解できず、イライラして遂には怒り出す……。

 ……という話が、大辻民樹(おおつじ・たみき)氏(放送作家,元高校球児,3年半にわたり欧州スペインの野球リーグでプレー経験あり)の著書『僕は助っ人エース~底抜けスペイン野球に体当たり』(1992年)の中に登場する。


 野球を、本当の意味で国際的に普及をさせるためには、英国・ヨーロッパの人たちが、前掲のファウルとフェアの違いのような、彼(か)の球技の機微(きび)にもっと通じるようにならなければならない。

 英国・ヨーロッパの人たちの野球観が、いつまでも「ワーワーベースボール」のままだったら、MLBのロンドン開催(ヨーロッパ進出)も、エキシビションとしての成功以上ではなかった……という評価になるのではないか。

(この項,了)



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デズモンド・モリス『サッカー人間学』の装丁への不満
 佐山一郎氏の『日本サッカー辛航紀』を読んでいると、1983年に邦訳・刊行された、英国の動物行動学者デスモンド・モリスの著作『サッカー人間学 マンウォッチングII』(原題:THE SOCCER TRIBE,岡野俊一郎監修,白井尚之訳)の話が出てくる。

サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02


 モリスには既に『マンウォッチング』という有名な著作があり、まだ日本サッカーが「冬の時代」だった1983年に、あれだけサッカーの浩瀚な著作が刊行できたのは、その続編という位置付けだったからではないかと考えていた。

 佐山氏の『日本サッカー辛航紀』の解するところでは「新種の学術書として受け入れられたようだ」(138頁)とのことである。

 ところで、佐山一郎氏は『サッカー人間学』の装丁(表紙のデザイン)が、ひどく気に入らないようである。
 問題は(『サッカー人間学』の)装丁です。たとえ裏事情があるにせよ、写真カバーに日本リーグ〔Jリーグ以前の旧JSL〕の、三菱重工‐ヤンマーディーゼル戦を持って来るセンスに目まいがしました。

 今でいう浦和対セレッソ大阪戦なのかもしれないけれど、ヤンマーFW堀井美晴のドリブルを赤いゲームシャツの三菱DF斉藤和夫キャプテンが左から止めにかかる図でよいものかと。カバー写真はもっと選びようがあったはずです。〔以下略〕



 ちなみに、当ブログが所有している英語の原書『THE SOCCER TRIBE』の表紙がある(ペーパーバック,マスマーケット版かもしれないが)。あらためて日本語版と比べてみる。

「The Soccer Tribe」cover
【『THE SOCCER TRIBE』表紙】

デズモンド・モリス『サッカー人間学』表紙
【『サッカー人間学』表紙】

 原書の表紙は、イングランドのリバプールFCが欧州チャンピオンズ杯(当時)で優勝した時の写真である。比べてみると、たしかに日本語版は見劣りするかもしれない。

「知の再発見」双書『サッカーの歴史」装丁への不満
 同じような不満なら、当ブログにもある。

 フランスのガリマール出版社の「ガリマール発見叢書」(Decouvertes Gallimard)を、日本の出版社である創元社が翻訳出版権を獲得して、1990年から『「知の再発見」双書』としてシリーズ刊行した。

知の再発見双書_創元社(1)
【「知の再発見」双書(創元社のウェブサイトより)】

 さすが、この双書は知的好奇心をくすぐるテーマが多い。当ブログとしては、紋章学者ミシェル・パストゥロー著『紋章の歴史 ヨーロッパの色とかたち』(原題:Figures de l'heraldique)が面白かった。

 フットボール(サッカー,ラグビー)のデザインと、紋章学のデザインが深く結びついていることについて、ヒントになるところがいろいろあったからである。
 2002年、ワールドカップの年、同双書から『サッカーの歴史』(原題:La balle au pied:Histoire du football)が出た。原著者はフランスのサッカー史家アルフレッド・ヴァール(Alfred Wahl)、日本語版監修は大住良之氏。書店で、この本の背表紙を見た途端「これは買わねば!」と手を伸ばした。が、しかし……。

 ……表紙を見て脱力した。な、なんでやねん……。

サッカーの歴史 (「知の再発見」双書)
アルフレッド ヴァール
創元社
2002-01


 問題は「知の再発見」双書『サッカーの歴史』の装丁です。たとえ裏事情があるにせよ、写真カバーに中田英寿を持って来るセンスに目まいがしました。

 当時、サッカー日本代表のエース格だったのかもしれないけれど、サッカーの世界史的な深遠さも、サッカーの全世界的な熱狂の広がりもまったく感じない、中田英寿みたいなちょっと前に台頭した程度の、それも日本の若手選手でよいものかと。

 カバー写真は、ペレでも、クライフでも、マラドーナでも、ベッカムでも、昔のワールドカップの名場面でも……、もっと選びようがあったはずです。

 ちなみに、アマゾンに〈La balle au pied:Histoire du football〉の書誌情報があった。

 詳しい事情は調べなかったが、「知の再発見」双書は、フランスのガリマール出版社と日本の創元社では表紙の装丁が違うのかもそれない。そうだとしても……。

 ……創元社のウェブサイトに、「知の再発見」双書の各書の表紙を並べた集合写真がある。チンギス・ハン、オスマン帝国、イースター島、シルクロード、アンコール・ワット等々の装丁(表紙デザイン)と比べると、中田英寿が表紙の『サッカーの歴史』(左下)だけは、明らかに違和感があり、フランス書からの邦訳という有難みがなく、かえって安っぽいのである。

知の再発見双書_創元社(2)
【「知の再発見」双書の表紙(創元社のウェブサイトより)】

 で、結局、その本は買いませんでした。

(了)



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2015年~「ベースボール」のことを「野球」と呼んではいけない
 日本の公共放送「NHK」は、よく知られるように言葉の使い方に大変うるさい。例えば、4月末から5月初めの連休のことを「ゴールデンウィーク」とは決して呼ばない。一貫して「大型連休」と呼ぶ。しかし……。

 ……2015年、東京大学野球部の元エース、NHKの大越健介記者が松井秀喜選手(巨人-ヤンキース)を取材に米国まで飛んだ(下記ツイッターのリンク先参照)。



 そのドキュメンタリー番組「BS1スペシャル:大越健介 メジャーリーグをゆく~知られざるアメリカの素顔」では一貫して、彼(か)の球技のことを「野球」ではなく「ベースボール」と呼んでいた。これは一体、どういうことなのか。

カルチョとフットボール,野球とベースボール…
 例えば、イタリア語のサッカー言説においては、サッカーのことを英単語で「football」とも「soccer」とも呼ばずに、イタリア語の単語で「calcio」(カルチョ)と呼ぶ。イタリア側から見て、自国イタリアだろうが、イングランドだろうが、ドイツだろうが、ブラジルだろうが、フランスだろうが、日本だろうが……、あくまで「calcio」である。

 よほど文脈上の特殊な事情がない限り「カルチョ」を「フットボール」と呼んだりはしない。「野球」のことを、ある状況に関しては「ベースボール」と区別して呼ぶ。これは、本来、それほど違和感があることなのである。

 話の筋論としては、かの球技のことを、日本だろうが、米国だろうが、断固として「野球」と呼ぶべきではないか。「野球」という立派な日本語があるのに、何故わざわざ「ベースボール」と呼ばなければならないのか。

 日本語の野球言説においては、状況に応じて「野球」と「ベースボール」を使い分けなければいけない「作法」が確立されているからなのだ。

 だから、大越記者と松井選手は「野球」ではなく「ベースボール」と呼んだのである。

王貞治は「野球」だが,長嶋茂雄は「ベースボール」である…?
 この使い分けは、一義的には、日本のそれを「野球」と呼び、アメリカ合衆国(米国)のそれを「ベースボール」と呼ぶ。……が、むろん、そんな単純な話ではない。

 陰湿で抑圧的でチマチマとしていて勝利至上主義に凝り固まっていて余りにも日本的で何事においてもネガティブな意味を帯びるのが「野球」である。一方、明朗で解放的でダイナミックでスポーツ本来の楽しさに満ちており非日本的かつ脱日本的で何事においてもポジティブな意味を帯びるのが「ベースボール」である。

 その価値観は徹底して「野球<ベースボール」である。日本語の文脈においては、このような「作法」に従って、かの球技を語らなければならない。

 したがって、日本の野球人・野球関係者でも「ベースボール」の側にいる人と「認定」される場合もある。例えば……。
  • 王貞治は「野球」だが、長嶋茂雄は「ベースボール」である。
  • 川上哲治は「野球」だが、大下弘は「ベースボール」である。
  • 沢村栄治は「野球」だが、景浦将は「ベースボール」である。
  • 飛田穂洲(とびた・すいしゅう)は「野球」だが、正岡子規は「ベースボール」である。
  • 大和球士は「野球」だが、虫明亜呂無は「ベースボール」である。
  • 東京ドームは「野球」だが、マツダスタジアムは「ベースボール」である。
  • 西本聖はまったく「野球」だが、江川卓のある部分は「ベースボール」の部類に入る。
  • 清原和博はいかんせん「野球」だが、野茂英雄はやっぱり「ベースボール」である。
 ……そして、イチローや松井秀喜や大谷翔平は「ベースボール」である。

 このニュアンスの違いが分からない者は、野球ファンではない。もとい、ベースボールファンと呼ばなければならないのか? この際どっちでもいいのだが。

1965年~虫明亜呂無の場合
 かような「野球」と「ベースボール」を区別すること。その背景にある価値観は、それほど昔からのものではない。かなり最近になって「創られた」ものである。

 その昔、虫明亜呂無(むしあけ・あろむ:故人)という、エエカッコしいのスポーツライターの走りみたいな人がいた。彼が1965年に上梓した『スポーツへの誘惑』に所収された「芝生の上のレモン」という、小説とも、ノンフィクションとも、エッセイ(随想)とも分類できない「テクスト」があるが(後に『時さえ忘れて』に所収)、その中に米国のスポーツ事情に言及した箇所がある。
 アメリカ〔合衆国=米国〕ではサッカーも、ラグビーもさかんではない。

 さかんなのは、アメリカン・フットボール、野球、そしてゴルフ。

 いずれもゲームの合間合間に時間を必要とするスポーツである。合間はスポーツをスポーツとしてたのしませるよりも、むしろ、ドラマとしてたのしませる傾向に人を持ってゆく。〔中略〕

 野球やアメリカン・フットボールは芝居の伝統のない国〔米国〕*が作った。土や芝居のうえの、脚本も背景も、ストーリーも必要としない単純な芝居ではないだろうか。演劇の文化的基盤のない国〔米国〕、それがプロ野球を楽しむ。スポーツとしてではなく、ドラマとしての野球を。それも素人の三流芝居を。〔以下略〕

虫明亜呂無「芝生の上のレモン」@『時さえ忘れて』162~163頁


 この「テクスト」こそ、玉木正之氏が持説として何度となく援用している例の「野球=ドラマ論」の元ネタなのはともかく、21世紀の現在の感覚では「野球」を「ベースボール」に置換しないと、ニュアンス上、むしろ不自然に感じる。

1976年~池井優氏の場合
 次いで、10年ほど時代を下った1976年刊、池井優氏(いけい・まさる:慶應義塾大学教授,政治学者)の『白球太平洋を渡る』である。池井氏は野球評論家としても有名であり、知られた話だが、サッカーライター・後藤健生氏が大学・大学院時代に学恩のある方でもある。
 〔明治初期、〕野球がたんに少数のお雇い外国人教師の紹介に終わっていたら、ここまで発展したかどうか。〔日本人の〕平岡〔熈〕による再紹介と、将来日本のリーダーの地位を約束されている開成学校〔東京大学〕生徒と旧大名〔徳川達孝〕などの理解と関心、さらには体操伝習所〔筑波大学の前身のひとつ〕で学んだ教師の卵たちが全国各地の小、中学校に赴任したことも初期の野球の国内伝播に有力な役割を演じたのである。

池井優『白球太平洋を渡る』26頁


 池井氏は、明治5年(1872)頃から明治20年(1887)前後の日本の野球事情について書いている。もっとも「ベースボール」に日本語の「野球」という訳語が付けられるのは、ずっと後の明治27年(1894)のこと。米国人のお雇い外国人教師が日本人に紹介したのは、あくまで「ベースボール」である……。

 ……と、いう感じで、21世紀の現在の流儀から言えば、池井氏も「野球」ではなく「ベースボール」と表記しないと、なんとなく坐(すわ)りが悪い文章になってしまう。

 こうした感覚が変化し始めるのは、時代がさらに10年ほど下った1980年代半ば以降になってからのことだ。

1987年~日本人論としての野球本『菊とバット』の続編
 当ブログが確認したうち、「野球」と「ベースボール」の使い分けの最も古い例は、1987年初版、在日米国人ジャーナリスト ロバート・ホワイティング氏の著書『ニッポン野球は永久に不滅です』(筑摩書房)のリード文である。
 近くて遠い〈野球〉と〈ベースボール〉~かつてニッポン野球を賑わしたすごいガイジン〔ママ〕がいた。変なガイジン〔ママ〕もいた。彼らの活躍を語りながら、滞日20年のジャーナリストの眼を通して見る〈日米野球摩擦〉の現場。そして、愛と皮肉をこめておくる刺激的なニッポン人論**

ロバート・ホワイティング『ニッポン野球は永遠に不滅です』リード文より


ニッポン野球は永久に不滅です (ちくま文庫)
ロバート ホワイティング
筑摩書房
1987-12


 ここで初めて「野球」≠「ベースボール」という概念が表出された。おそらくこのリード文自体は著者本人ではなく、版元・筑摩書房の編集サイドが書いたものではあろうが。

 それはともかく、ロバート・ホワイティング氏と言えば、何といっても、米国人の眼から見た日本野球、あるいは日本のプロ野球に在籍した米国人選手の眼から見た日本野球への違和感(日米の隔たり=文化摩擦)、さらには野球を通した日米比較文化論(日本社会・日本文化のユニークさ)を論じた「古典的名著」とされている『菊とバット』の著者として、むしろ有名である。

菊とバット〔完全版〕
ロバート ホワイティング
早川書房
2005-01-01


菊とバット―プロ野球にみるニッポンスタイル
ロバート・ホワイティング
サイマル出版会
1977-11


菊とバット―プロ野球にみるニッポンスタイル (1977年)
ロバート・ホワイティング
サイマル出版会
1977


 もちろん、『菊とバット』の書名は、日本人論・日本文化論の古典的名著とされているルース・ベネディクトの『菊と刀』のもじりである。

菊と刀 (講談社学術文庫)
ルース・ベネディクト
講談社
2005-05-11


菊と刀 (光文社古典新訳文庫)
ベネディクト
光文社
2013-12-20


菊と刀 (平凡社ライブラリー)
ルース ベネディクト
平凡社
2013-08-09


菊と刀―日本文化の型 (現代教養文庫 A 501)
ルース・ベネディクト
社会思想社
1967-03


The Chrysanthemum and the Sword 菊と刀 ラダーシリーズ
ルース・ベネディクト
IBCパブリッシング
2013-09-06


 すなわち、『菊とバット』は単なる野球ジャーナリズムの名著としてではなく、日本人論・日本文化論の佳作として扱われ、読まれている。これは世間一般の基準では、きわめて高い評価であり、だから『菊とバット』は時代を超えて読み継がれている。この本は、『菊と刀』や『タテ社会の人間関係』『「甘え」の構造』『日本人とユダヤ人』などといった、日本人論・日本文化論のロングセラーと同列に扱われているのである。

 ホワイティング氏の『ニッポン野球は永久に不滅です』は、『菊とバット』の続編とという位置付けで刊行されたのであった。

1990年代~「日米経済摩擦」のアナロジーとしての「日米野球摩擦」
 ところで、前掲『ニッポン野球は永久に不滅です』のリード文には「日米野球摩擦」とあった。1980年代後半の日本は、依然として経済成長を続けていたが、米国との間には、日本の一方的な貿易黒字、米国の一方的な貿易赤字という「貿易不均衡」が問題とされていた。いわゆる「日米経済摩擦」(日米貿易摩擦)である。

 その不均衡は日本の経済・産業構造の「異質さ」「アンフェアさ」「狡(ずる)さ」「閉鎖性」等々に由来しているといった説が唱えられた。さらに、それらの特徴は、日本の特異な文化・歴史・伝統等々に根差したものだと信じられた。いわゆる「日本異質論」である。「日米経済摩擦」は「日米文化摩擦」として捉えられた。

 その上で、米国では公然とした「ジャパンバッシング」(日本叩き)が行われた。
 「日本叩き」と呼ばれたこの攻撃では、日本人は、「異質だ」と言われ、「アンフェアだ」と言われ、「狡い」と言われた。アメリカ〔合衆国=米国〕の政治家も、ビジネスマンも、ジャーナリストも、そうした言葉で、こぞって日本を非難した。

 アメリカ〔米国〕では、社交的な集まりで、特定の民族の悪口を言ったりすれば、眉をひそめられるのがオチである。ところが、この時期〔日米経済摩擦の時代〕、「相手が日本ならば、何をどう悪く言ってもかまわない」という風潮になっていた。アメリカのあるジャーナリストの言葉を借りれば、「日本は遠慮なく憎める相手になった」のである。

 ホワイティング氏のリポートは、単なる日本野球論を超えた「日米野球摩擦」の本であり、それは日本人論・日本文化論をさらに進めた「日米文化摩擦」の本とされた。さらには野球というスポーツを通して描いた、スポーツという大衆文化を通して描いた、分かりやすい「日本異質論」の著作として読者に受容されるようになる。

 『ニッポン野球は永久に不滅です』のさらなる続編が、1990年刊行の『和をもって日本となす』(原題:You Gotta Have Wa)***である。

 この本こそ「日米経済摩擦」のアナロジーとしての「日米野球摩擦」が意識されてして書かれた、強い政治性を帯びた日本野球論である。あの当時の風潮に乗じたからこそ、『和をもって日本となす』は日米両国でベストセラーになった。

和をもって日本となす
ロバート ホワイティング
角川書店
1990-04-01


 そして「日米経済摩擦」における、ジャパンバッシング(日本叩き)を、側面から補強・正当化するリポートとなっていく。

 『和をもって日本となす』のなかで、日米間の文化的亀裂を強調する効果的な「記号」と用いられたのが「野球」≠「ベースボール」だった。
野球はベースボールではない
「和をもって日本となす」表紙・帯
【『和をもって日本となす』装丁(帯)の惹句より】
 とにかく日本は、何でもかんでも、米国から見て「異質」で「アンフェア」で「狡」くて「閉鎖的」な国だということが刷り込まれていったのである。

1991年~『ベースボールと野球道』という決定打
 『和をもって日本となす』の日本語訳者(邦訳者)は、スポーツライターの玉木正之氏である。否、玉木氏は単なる邦訳者ではない。ロバート・ホワイティング氏の重要なインフォーマント(情報提供者)であり、特に日米野球の各々の相違点、その「解釈」は、ほとんど玉木正之氏の考えに依っている。

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【玉木正之氏】

 『和をもって日本となす』の邦訳版は、インフォーマントにして翻訳者である玉木氏の文体も含めて、むしろ「日本語版」と呼ぶべきである。そして『和をもって日本となす』日本語版の共同著作者と呼ぶべきなのが、ホワイティング氏と玉木氏のコンビである。

 ホワイティング氏が「日米経済摩擦」当時の政治的意図を含みながら『和をもって日本となす』を書いたのに対し、玉木氏の場合は「日本〈野球〉の好ましからざる(と思しき)ところ」を乗り越えんがために、「アメリカ〈ベースボール〉の好ましい(と思しき)ところ」をもってこれを批判する……ことを趣旨としている。

 その玉木正之氏とロバート・ホワイティング氏がタッグを組んで上梓した日米野球比較文化論が、1991年5月刊、講談社現代新書『ベースボールと野球道~日米間の誤解を示す400の事実』である。書名からして意図するところは明らかだろう。徹頭徹尾、「野球≠ベースボール」「野球<ベースボール」という価値観に基づいて日米両国の野球事情が論じられている。……というか、日本の野球が軽侮されている。

 さらに、書名の「野球」の後に、茶道や弓道などとも通じる「」(どう)という言葉を付け足すことで、日本野球の好ましからざる部分とされる「過度の精神性」を強調している(確認していないが「野球」は,玉木正之氏の造語かもしれない)。
似て非なるもの……ベースボール野球。公園の芝生の上で楽しまれたベースボールが日本では人格練磨の苦行。深い溝に隔てられた日米の野球文化事情を微に入り細を穿〔うが〕って徹底比較。

玉木正之&ロバート・ホワイティング『ベースボールと野球道』のリード文より


 この本も「日米経済摩擦」や「日本異質論」の時流に乗って、増刷を重ねてベストセラーになった。特異なニッポンというイメージがさらに強調された。以降、日本語の野球言説においては、文脈によって、「野球」とは異なるニュアンスを孕(はら)んだ「ベースボール」という概念を使わなければならなくなる。

 前述のNHKの大越健介記者と松井秀喜選手の番組も、こうした歴史的経緯がなかったら、わざわざ「野球」のことを「ベースボール」などと呼ぶことはなかったのである。

レトリックの副作用と後遺症
 「野球」と「ベースボール」は違う。……なるほど、レトリックとしては面白い。しかし、レトリックに、それ以上の「真実」があると日米両国の人々に受容されたのは、大いなる悲劇であった。 

 今ふり返って、思いっきり単純化していうと、「日米経済摩擦」における米国の対日批判は不当な難癖・言い掛かりであった。米国による「日本異質論」は根拠が薄弱な、ステレオタイプの民族的偏見であった。「創られた誤解」によって、米国が強硬なジャパンバッシング(日本叩き)を続けた結果、日本のビジネスや産業・経済が深刻はダメージを負った。その後遺症は、21世紀の今なお続いている。
 あえて辛辣なことを言えば、ロバート・ホワイティング氏の『和をもって日本となす』や『菊とバット』『ニッポン野球は永久に不滅です』などといった一連の著作は、ジャパンバッシング(日本叩き)の片棒を担(かつ)いだと言える。

 玉木正之氏についても同様である。

 日本人論・日本文化論の通説批判の先駆である、杉本良夫氏とロス・マオア氏は次のように述べている。
 ……このような西洋中心的な構図は、日本を欧米社会と比べて「遅れている」と考えて、劣等感を持っていた日本の知識人の思考の型とも、ひびき合う面を持っていた。ただ、こうした見方には、ひとつの大きな落とし穴があった。それは、西洋社会と呼ばれるものが、現実の実態よりは理想像であることが多かった点である。このような欧米社会に関する現実と理想の混乱は、長く日本人論をも混乱におとしいれてきた。

杉本良夫&ロス・マオア『日本人論の方程式』135頁


 玉木氏は、日本の野球界を米国の野球界、否、ベースボール界と比べて「遅れている」と考え、これを批判するため「野球」と「ベースボール」は大きく違うのだという主張を繰り返してきた。しかし、その「ベースボール」とは現実の実態よりは理想像にすぎないことが多かったのである。

 『ベースボールと野球道』に関していえば、米国大リーグを理想化するあまり、さまざまな事実の誤認や視点の偏りなどが、岡邦行氏(リンク切れ)や梅田香子氏(『イチロー・ルール』参照)らによって指摘されている。

 こういった誤りは、当然、最終的に日本のスポーツ界の現場に悪影響を与える。

 実際、玉木正之氏が歪んだ日本スポーツ界のアンチテーゼと恃(たの)んだ、ラグビーの故平尾誠二(ひらお・せいじ)は、そのアンチテーゼ的な性格ゆえに、1995年ラグビーW杯における日本代表の歴史的大惨敗に加担してしまったことがある。しかも、玉木氏はその悪夢に何の痛痒も感じない「スポーツライター」になっていた(詳細は下記リンク先参照)。
 この件で玉木氏は、スポーツライターの同業者から恨みを買っている。「歪んだ日本スポーツ界へのアンチテーゼは,実は(もっと)歪んでいた」(藤島大)という皮肉に結果を生んでしまったのだ。

 「野球」≠「ベースボール」というレトリックには、思わぬ深淵な思想的背景と、思わぬ有害な副作用が潜んでいる。野球ファンのみならず、サッカーファン、ラグビーファン……スポーツファンは、そうした危うさを見抜く洞察力を持ちたいものである。

(了)



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