スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

2019年04月

 日本の野球ファンで、近視眼的なアメリカ大リーグ(MLB)信奉者が日本野球を非難する時の定番ネタのひとつが「ガッツポーズ」の習慣である。最近は、あの広尾晃氏がそれを吐露した。詳しくは下記ツイッターのリンク先を参照してほしいのだが……。


 ……というか、いまだに、こんな形で大リーグをダシにして日本野球を罵る人がいた事実にまず唖然とする。たしか、ロバート・ホワイティング氏や玉木正之氏の昔の著作、日米野球比較文化論『ベースボールと野球道』にも「ガッツポーズ」批判が書かれてあったと思うが、さすがに現在ではこんな恥ずかしいことは書けないだろう。

 なぜなら、欧州・南米ほか「世界」の各地域で絶大な人気を誇るサッカーでは、得点の時や勝利の時の感情表現「ガッツポーズ」はむしろ当然に事と思われているからである。

 昔の英国のサッカー界(さらにラグビー界)では、感情を抑制することを良しとし、「ガッツポーズ」には否定的であった。しかし、イタリアなどラテン系の国々の選手が「ガッツポーズ」をすることに影響されて、英国でも「ガッツポーズ」は受け入れられ、当たり前のことになっている。それが自然なことだからだ……。

 ……と、デズモンド・モリスの『サッカー人間学』には書かれている。この浩瀚なサッカー本は、「ガッツポーズ」の他にも、「応援団」(サポーター)の存在しかり、優勝時の「胴上げ」しかり、『ベースボールと野球道』のような短絡的な日米野球比較文化論の話の腰を折るようなことがさまざま書かれてある……。

サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02


The Soccer Tribe
Desmond Morris
Rizzoli Universe Promotional Books
2019-03-26


 ……だから、玉木正之氏はデスモンド・モリスや『サッカー人間学』を嫌っているのだ。

 なるほど、日本野球にはアメリカ大リーグにはない習慣がさまざま存在する。それをもって広尾氏は、日本野球は、延いては日本人(!)および日本文化(!)にはスポーツマンシップを理解する精神的土壌が欠落している(!)などと極論を吐く人である。

 しかし、それは違う。

 『菊とバット』などの著作で知られるロバート・ホワイティング氏に対する鋭利な批判者に、米国イェール大学教授のウィリアム(ビル)・ケリー氏(文化人類学,日本学)がいる。この人曰く、日本野球の習慣は、むしろ欧州・南米のサッカーに感覚が近いのであって、単純な日米の習慣の違いをもって、日本野球を否定することは正当ではないと論じている(下記の著作参照)。

プロ野球観戦学
時事通信社
1999-07


 広尾晃氏も、ケリー氏の言葉を良く噛みしめるべきだろう。

 それとも、広尾さんには高尚すぎて難しいことなのだろうか。

(了)



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スーパーラグビー日本撤退と日本サッカー史
 あるサッカーライター氏(名前は失念)が「サッカーで言えば,ほぼほぼ日本代表の特別なクラブチームを結成して欧州チャンピオンズリーグに参加させてもらうようなものだ.とってもうらやましい!」と語っていた、日本のラグビーチーム(サンウルブズ)による国際リーグ「スーパーラグビー」への参戦が、主に金銭的な問題と言われているが、2021年以降、撤退させられることになってしまった。残念なことである。

 Jスポーツ(J SPORTS)のウェブサイトに、この件について解説するコラムが掲載されていた。当ブログは、てっきり、博識で知られるラグビー評論界の大御所・小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)さんが執筆しているのかと思ったら、実は、これまた博識で知られるサッカー評論界の重鎮・後藤健生(ごとう・たけお)さんが書いていたのだった(下記ツイッターのリンク先参照)。


 後藤健生さんは、国を跨(また)いだ、海を隔てた、広大な地域を包括するスポーツの国際リーグの運営、特に日本のチームの参加は難しいという話をしている。その本題はひとまず措(お)いて、今回、当ブログが後藤さんのコラムに言及するのは、そこに気になる記述を見つけたからである。
 日本のスポーツ界にとって、スポーツの本場であるヨーロッパ〔欧州〕から遠いという地理的な条件は明治時代以来大きなハンディキャップだった。交通機関が発達した現在でも、これからも大きな課題であることに変わりはない。

 太平洋を隔てた北アメリカ〔アメリカ合衆国=米国〕生まれのベースボール〔野球〕というスポーツが日本に根付いたのも、ヨーロッパに比べて比較的近いため、明治の初めにアメリカ人の語学教師が数多く日本に渡ってきて、日本人学生に彼らが愛するベースボールを教えたからだと言われている。それに引き換え、サッカー、ラグビーなどヨーロッパ生まれのスポーツは本場との交流がとても難しかったのだ。

 日本サッカー史における最大の謎が「なぜ,日本ではサッカーが国民的スポーツになれずに,野球(ベースボールと呼ばなきゃならんのかw)に出し抜かれてしまったのか?」という問題である。後藤健生さんは、その「解答」を「日本と欧州,日本と米国の地理的な隔たりの差」、その差に由来する「米国人お雇い外国人教師の数の多さ」(?)に求めたのである。

「日本における野球人気の謎」をめぐる珍説・奇説
 この「謎」は、昔から珍説・奇説の宝庫であり、特に「野球は日本人の歴史的・文化的背景に適っていた.しかし,サッカーはそうではなかった」といった文化論・日本人論に傾きやすい。最近では、あの玉木正之サンがその系統の「1対1の勝負説」(牛木素吉郎さんの命名による)とでも呼ぶべき持説を、一生懸命になって吹聴している(下記ツイッターのリンク先参照)。


 その上で、玉木サンは、サッカー日本代表が弱い(?)のも、Jリーグがプロ野球に人気で勝てない(?)のも、すべて「日本人」とサッカーとの歴史的・文化的な致命的な相性の悪さためであるという話を展開するのである。

 しかし、この玉木サンは持説は、徹底的に間違っている。間違っているから、徹底的に批判した(下記ツイッターのリンク先参照)。



 後藤さんの持説(?)は、玉木サンの持説よりはマシに読める。だが……。

お雇い外国人教師の国籍は?
 例えば、後藤健生さんの言い分は、あたかも明治初期のお雇い外国人教師は、欧州よりも日本と地理的に近い、野球を国技とする米国人が(圧倒的に?)多い。一方、欧州人のお雇い外国人、特にサッカーやラグビー(またはクリケット)を国技とする英国人の教師が少なかったかのようにも読める。

 実際はどうだったのか。ためしに歴史学者・故梅渓昇(うめたに・のぼる)の『お雇い外国人~明治日本の脇役たち』掲載の統計に目を通してみた。

 お雇い外国人は、当時の日本政府の各省に存在したが、注目したのは「文部省」のお雇い外国人、特に米国人と英国人の数の違いである。この人たちの多くは、現在の大学もしくはそれに準じる学校の教師である。当時の「大学」は西洋からスポーツを受け入れる窓口だった。そのお雇い外国人の国籍を調べれば、後藤さんの持説がどこまで妥当か、ある程度、推し量ることができる。

 それを見る限り、明治初めから明治20年(1887)前後までの「お雇い外国人教師」の国籍別人数は、異動が多かったのか、一定しない(その分,じっくり腰を据えてスポーツの指導ができたかどうかは怪しい)。また、時期によって英国人が多かったり、米国人が多かったりする。米・英のみならず、フランス人、ドイツ人まで含めると、明治時代前半期を通じて、米国人のお雇い外国人教師が特別に多かったとは言えない。

 明治18年(1885)年の統計にいたっては、英国人11名(ちなみにドイツ人は9名)に対し、米国人はたったの2名である。この時期は、テレビドラマ『坂の上の雲』で描かれたたように、正岡子規が野球に熱中していた。考えてみれば不思議な話ではないか。

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 こうした、いくつかの情報から類推するに、後藤さんが仄(ほの)めかしている「明治の初めにアメリカ人の語学教師が数多く日本に渡ってきたために,日本ではサッカーやラグビーよりも野球の人気が出た」……という見解にも、納得しかねるものがある。

途絶えた日本野球の系譜
 それでは、米国の野球と英国のサッカー、日本のおける展開の決定的な差は何だったのか? 視点を変えてみた。

 一般に、日本への「野球伝来」と「サッカー伝来」は、以下のように紹介される。
  1. 明治5年頃(1872)、現在の東京大学に当たる学校で、米国人教師ホーレス・ウィルソンが、日本人の学生たちに野球を教えた。
  2. 明治6年頃(1873)頃、北海道大学の前身に当たる開拓使仮学校で、米国人教師アルバート・G・ベーツが、日本人の学生たちに野球を教えた。
  3. 明治6年頃(1873)、海軍兵学校の前身・海軍兵学寮で、英国海軍のアーチボルド・L・ダグラス少佐(中佐とも)と将兵が、日本人の学生たちにサッカーを伝えた(ラグビー史研究家・秋山陽一氏が唱えるラグビー説もあり)。
  4. 明治6年頃(1873)、東京大学工学部の前身に当たる工部省工学寮という学校で、英国人教師のリチャード・ライマー=ジョーンズ(ヘンリー・ダイアーとも)が、日本人の学生たちにサッカーを教えた。
 1~2年の誤差は措(お)くとしても、日本で、日本人の間で人気が出たのはサッカーではなく野球の方だった。それはなぜか? ……「謎」に答えるべく、実にさまざまな人が、実にさまざまな珍説・奇説を唱えてきた(下記ツイッターのリンク先参照)。


 ところで。1.~4.までのうち、現在の日本に存在する野球またはサッカーと、直接、系譜がつながっているのは、どれとどれでしょう? 答えは「1.」だけである。3.と4.のサッカーが途絶えてしまったことはともかく、2.の野球伝来の系譜が、日本人が心底大好きなはずの野球が途絶えてしまっていたとは、一体どういうことなのか?

ベーツ先生とその「不肖なる」弟子たち
 この辺の事情は、後藤健生さんが大学・大学院時代に学恩のある、野球評論家でも有名な政治学者・池井優さん(いけい・まさる:慶應義塾大学教授,外交史ほか)の『白球太平洋を渡る』が紹介している。


 それは、開拓使仮学校(北海道大学の前身)で学んだ伊藤一隆(中川翔子の高祖父としても知られる)の回想として、大島正建著『クラーク先生とその弟子たち』(何度も復刻されている名著)に登場する逸話である。あえて孫引きなのは意図的なものである。
 明治6年(1873)頃、まだ東京にあった開拓使仮学校に、アルバート・G・ベーツという米国人の英語教師がやってきた。彼は好球家で、1本のバットと3個のボールも持参してきた。生徒たちを2チームに分け、野球の試合をさせたが、選手の〔日本人〕生徒たちは、ルールや技術の要点をなかなか理解できず、ベーツは苦心した。

 幸いにも、米国に留学していた開拓使仮学校の生徒3人が帰国して、彼らの指導によって野球の試合も少しは様になるようになった。そのうち、ボール2個が破損してしまった。代用品のボールは日本の靴工場で、バットは棒屋で作らせたが、出来ばえは不完全だった。だから、実際に野球の試合をするには苦心した。

 やがてベーツが注文した野球道具が届き、生徒たちの士気も上がった。しかし、ベーツは来日2年足らずで急死してしまい。生徒たちの野球熱も消えてしまった。

池井優『白球太平洋を渡る』5~8頁より大意・要約

 道具の調達がうまくいかなかったこと、米国人お雇い外国人教師ベーツの急死が、開拓使仮学校(北海道大学)からの野球普及が挫折した主な理由である。

球技スポーツが日本に定着するセオリーとは?
 この逸話からは、ある国(少なくとも日本で)で特定の球技スポーツを「普及」させるための仮説や経験則がいくつか導き出せる。
  •  たとえ野球であっても(むろんサッカーでも)、外国人が持ち込んで現地の人たち(日本人たち)にちょっとプレーさせてみたくらいでは、現地の人たちがその球技スポーツの面白さを理解することはない。したがってその国には「普及」しない。
  •  ボールやバットなど、そもそも道具が揃わないと、その球技スポーツ自体ができない。本物がない場合は地元で代用品を作ることになるが、出来が悪いと「普及」に支障が出る(付け足すと,その球技をプレーできる広い場所も必要になる)。
  •  熱心な指導者がいて継続的に活動しないと、その球技スポーツは「普及」しない。その人に任期が来て帰国したり、客死したりすると「普及」活動が後々まで続かない。
 ある球技スポーツが全国的に普及するためには、使用に耐えうる「道具」と、充分な広さに「場所」と、伝道に熱心な「指導者」と、3つの物理的条件が揃ったうえで、現地の人たちが「面白さを理解」させることが必要だという仮説は、当ブログの独創ではない。神戸市外国語大学の元教授(スポーツ学)で日本クリケット協会会長・山田誠さんの論文「ニューカレドニアンクリケットの研究-2-」に登場する話である。
 山田誠さんは、野球やサッカーと同じく明治初期に紹介されながら、一度は廃れてしまった英国の球技「クリケット」(野球と同じ系統のバット・アンド・ボール・ゲーム)を、あらためて日本で普及させようという、近年まれに見る実践を行った人である。

日本国某所で行われた「クリケット」の練習風景(2019年)
【日本国某所で行われた「クリケット」の練習風景(2019年)】

 該当論文は、学術誌の査読を通ったものではなく、紀要論文ではある。が、日本人は全く知らない球技スポーツを、ゼロから普及させようとした活動から抽出された仮説であるから、玉木正之サン(や後藤健生さん)の持説よりはずっと具体的で、説得力がある。

 何より重要なことは……。
  • その国の人たちの「歴史的・文化的な背景」と、その球技スポーツが持つ「本質」との「相性」から、その国の人気スポーツが決定されるわけではない。
 ……と、いうことである。

平岡熈の業績をあらためて評価する
 逆に言うと、1.の事例だけが前述の条件を満たしていた。だから、日本では、サッカーやラグビーに先駆けて野球が普及したのである。米国人教師ホーレス・ウィルソン自身は明治10年(1877)に帰国してしまう。だが、だいたい同時期、入れ替わるように米国留学から帰朝した、鉄道技術者の平岡熈(ひらおか・ひろし)が、新たな「指導者」として日本における野球の普及を引き継いだからである。

 平岡熈。明治4年(1871)に16歳で米国留学。留学中は鉄道技術者として勉学に励む。同時に野球にも傾倒して、プロ化が進んでいた米国の最先端の野球を吸収するとともに、米国人の元プロ野球選手で、スポーツ用品メーカー「スポルディング社」を創設するアルバート・G・スポルディングとも知遇を得た。

 明治10年(1877)、米国留学から日本に戻る。帰国早々、東京の練兵場などで、ホーレス・ウィルソンから野球を教えられた「東京大学」の学生や人士たちと野球に興じる。翌明治11年(1987)、平岡は鉄道技術者として工部省(官営鉄道)に出仕する。平岡はそこで野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成する。

 ルールブックなどの情報や、バットやボールなどの「道具」は、友人である「スポルディング社」のスポルディングが、米国から無償で提供してくれた。プレーする「場所」としては新橋鉄道局構内に「保健場」という専用の野球場も作り、そろいのユニフォームを仕立てた。

 平岡熈と「新橋アスレチック倶楽部」の活動期間は、明治11年(1978)から明治20年(1887)頃にかけて。その交流の中から、野球の面白さに目覚めた学生たちが増えた。その1人が例の正岡子規である。そして現在の東京大学、慶應義塾、明治学院、青山学院、立教大学、一橋大学に「野球部」が設立された。その後、さらに全国に野球人気が拡散した。
 野球がたんに少数のお雇い外国人教師の紹介に終わっていたら、ここまで発展したかどうか。平岡(熈)による再紹介と、将来日本のリーダーの地位を約束されている開成学校〔東京大学〕生徒と旧大名などの理解と関心、さらには体操伝習所〔筑波大学の前身のひとつ〕で学んだ教師の卵たちが全国各地の小、中学校に赴任したことも初期の野球の国内伝播に有力な役割を演じたのである。

池井優『白球太平洋を渡る』26頁


野球人・正岡子規
【野球のユニフォームを着用した正岡子規】
 少々意外なことに、後藤健生さんと違って、池井優さんは、お雇い外国人による野球の紹介よりも、日本人の平岡熈による再紹介の方を高く評価していたのである。

野球とサッカー,偶然か必然か…
 一方、同時期のサッカー(アソシエーション・フットボール)は、野球のような普及のための条件には恵まれていなかった。先に書いたように海軍兵学寮や工部省工学寮の「フットボール」は後が続かず途絶えたし、サッカーも紹介されていたという体操伝習所には、詳しい指導書や、平岡熈のような本格的な指導者が存在しなかった。

 日本においてサッカーの普及がようやく軌道に乗り始めるのは、明治35年(1902)、東京高等師範学校(東京高師,筑波大学の前身)学生で、にフートボール部(蹴球部)の中村覚之助(なかむら・かくのすけ)が洋書『アッソシェーション・フットボール」を邦訳したあたりからだ。

 中村覚之助こそが明治時代の日本サッカーの画期となった人物で、その果たした役割りは、野球における平岡熈に相当する(下記リンクを参照)。
 平岡熈と中村覚之助、野球とサッカーで、日本における創始はおよそ25年の開きがある。

 平岡熈が米国留学で鉄道技術者を志したのは偶然によるものである。初めから鉄道技術者として留学させるつもりであれば、日本の官営鉄道は英国式を採用していたから、英国に留学していたはずだ。だから、米国の球技「野球」になじむということありえない。

 また、帰朝後の平岡熈が官営鉄道に出仕し、ここで「新橋アスレチック倶楽部」を主宰して野球をプレーできたことも幸いした。不足しがちなバットやボールは鉄道車両の部品の古いものを用い、鉄道工場で改造して代用品を作り出すことができた。彼の奉職先が官営鉄道でなかったら、こうした代用品で「道具」を調達することは難しかった。

 こういった好条件は、日本人の歴史的・文化的背景の宿命ではないし(玉木正之説)、地球上で日本列島が置かれた地理的なハンディキャップ(後藤健生説)でもない。

 明治日本において、野球の人気がサッカーやラグビーに先行したことは、歴史の偶然であり、必然ではない。

「なぜ…を問う」から「いかに…を問う」へ
 従来の所説は、明治初期にさまざまなスポーツが、ほぼ同時期に日本に紹介された。その中で、野球だけが突出した人気を得たために、それは「なぜ」なのか? そこに何か日本固有の理由があるに違いない。……という視点が多かった。

 しかし、クリケットを研究・実践する山田誠さんの仮説のように、スポーツの普及には「道具」「場所」「指導者」の3条件の充足が重要であるという仮説から、野球とサッカーが「いかに」日本に定着してきたのか? ……という視点で歴史を振り返ってみると、両者の日本への本格的な紹介は必ずしも同時期ではなかった、だいたい四半世紀の時代的なズレがあったことが分かる。


 また、野球にせよ、サッカーにせよ、お雇い外国人教師の紹介から一気に普及したということはない。実は「日本人」の意志的な働きかけが一段階絡んでから、初めて普及する。野球の平岡熈、サッカーでは中村覚之助が相当する。

 この点はラグビーもまた然りで、日本人実業家の田中銀之助とともに、日本の慶應義塾にラグビーを伝えたと言われるエドワード・B・クラークは、実は横浜の外国人居留地の生まれと育ち。生活も永眠も日本の「在日英国人」で、ホーレス・ウィルソンやアルバート・ベーツのようなお雇い外国人教師ではない。

 「なぜ」野球だったのか? 「なぜ」サッカーではなかったのか? ……ではない。

 バットやボール、スパイクシューズを「いかに」調達したか? 野球やサッカーやラグビーを行うフィールドを「いかに」確保したか? 整地したか? 野球もサッカーもラグビーも、その知識がゼロの人たちに、どんな人は「いかに」指導をしていったのか?

 ……こうした、細かい事実の「いかに」を洗い出す、地道な実証的研究を積み重ねていくことで、日本のスポーツ文化の全体像が本当の意味で理解できるだろう。

 いずれにせよ、玉木正之サンが再三力説しているような珍説・奇説の類は駆逐されなければならない。

(了)



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タマキの蔵出しコラム「スポーツ編」
 この原稿は、2015(平成27)年に新潮文庫より出版した『彼らの奇蹟 傑作スポーツアンソロジー』に続き、同じく新潮文庫として翌年の2016年(平成28)年10月に出版した『9回裏2死満塁 素晴らしき日本野球』の解説として書いたものです。…これがどんなアンソロジーなのかを知っていただくために、解説の前半部分を(一部省略して)“蔵出し”させていただきます。御一読下さい。
――玉木正之(2019年4月10日)


 この本、新潮文庫『9回裏2死満塁 素晴らしき日本野球』の品質を著しく下げている、最低最悪の部分が編者・玉木正之氏による巻末の「解説」。日本では、なぜ、サッカーよりもラグビーよりも(つまりフットボール系の球技よりも)、野球(ベースボール)の人気が出て、国民的スポーツになったのか……という難問の、玉木氏による疑似科学的回答である。

 日本人は歴史的・文化的にチーム戦(団体戦)が苦手な民族であり、一方、宮本武蔵vs佐々木小次郎のような1対1の勝負を好んできた。だから、サッカーやラグビーのようなチーム戦のスポーツよりも、投手vs打者の1対1の勝負である野球の方が日本人に人気が出たのだ……と、玉木氏はこの本で唱えている。

 玉木正之氏は、ことあるごとにこの説を吹聴している。持説を世間一般に普及させることで、玉木氏の世界観、日本において野球こそが国民的スポーツになったのは歴史的必然性があったからだ……という歴史観に読者に誘導させようという目論見なのである。

 しかし、この玉木説は完璧に間違っている。野球が日本に入ってきた当時のルールは、現在の野球のルールとは大きく異なっており、それによると野球を投手vs打者の1対1の勝負が基本となったゲームとは、とても認められないからだ。例えば、明治初期、日本野球黎明期の選手である正岡子規の「現役時代」は、現在とは違う当時のルールでプレーされていた。

 玉木正之説の批判は、スポーツライター・牛木素吉郎氏(元『読売新聞』運動部,編集委員)や、当ブログからも、公開に近い形で展開され、そのコンテンツは玉木氏にも伝えられている。


 日本の野球界、延いては日本のスポーツ界が、いかにさまざまな深い問題を抱えていようと、間違ったところから批判しても、かえって間違ったことになるだけである。実際、玉木正之氏と親交のあった平尾誠二氏は、玉木氏に影響されたおかげで日本ラグビーに悪い効果を及ぼしている(1995年ラグビーW杯での日本代表の大惨敗など)。

 今からでも遅くないから、新潮社は『9回裏2死満塁 素晴らしき日本野球』を回収、一度絶版し、編者・玉木正之氏による問題部分を削除したうえで、改めて刊行するべきである。

(了)



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