スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

2019年02月

戦前日本のスポーツ人気は「ラグビー>サッカー」だった!?
 度し難いほど人種主義的な自虐的日本サッカー観の持ち主である佐山一郎氏には、その定番ネタとも呼ぶべき、いくつかのパターンが存在する。

佐山一郎氏(ホームラン1991年2月号)
【佐山一郎氏.@『ホームラン』1991年2月号】

 今回のテーマは、そのひとつ「戦前の日本サッカーは,東京六大学野球や大相撲はもちろん,大学ラグビーにすら人気で劣っていた.それが証拠に当時のモダン雑誌『新青年』には,他のスポーツと比して,サッカーの話題がほとんど載っていない!」というものである。

 その代表例が、サッカー日本代表がW杯本大会に出場した年、朝日新聞社の月刊誌『論座』1998年9月号に掲載され、後に佐山氏の単行本『サッカー細見』に収録された「極私的ワールドカップ報告」からの抜粋である。
 なぜ日本代表は〔1998年フランスW杯その他で〕勝てないのかを考えることはむろん大切だが、決定的に欠けているのは、なぜ日本人の多くがこれまでサッカーを必要としてこなかったかの考察である。それはパックス・アメリカーナの傘という角度や地理的条件〔島国ニッポン?〕だけで語りきれるものでもないような気がする。おそらくは〔日本人の〕深層というところで何かしらの反発が受容の妨げになってきたに違いない〔日本人サッカー不向き論〕。ラグビー、野球、オリンピックでの成功を頻繁にとりあげた戦前のモダン雑誌『新青年』がまったくといっていよいほど、サッカーに興味を示さなかったことも気になる。わずかに裏表紙の明治チョコレートの広告のさし絵として登場するだけというのも不可思議である。

サッカー細見―’98~’99
佐山 一郎
晶文社
1999-10-01


 これだけでも佐山一郎氏の自虐的日本サッカー観が全開、かつツッコミどころ満載だ。それは追い追い展開するとして、まず、ひとつだけ寄り道して採り上げる。

 引用文中に「パックス・アメリカーナ」とある。だが、ウィキペディアには「パクス・アメリカーナ」(ママ)の始まりは、早く見ても第一次世界大戦終結(1918年=大正7)の後とある。日本において、野球がサッカーやラグビーに先んじて人気が出始めた時期は、1877年(明治10)頃から1887年(明治20)頃にかけてである。

 すなわち、日本における野球の隆盛は「パックス・アメリカーナ」の影響ではない。「大日本帝国」自身の「選択」である。しかも、これは平岡熈(ひらおか・ひろし)や、それを継承した正岡子規といった人たちの、野球の普及・啓蒙活動の成果であって、日本人の「深層」とそのスポーツ種目との相性の問題ではない。

『新青年』と『ナンバー』でたどれる戦前・戦後の日本スポーツ事情
 あらためて、佐山氏が度々採り上げる『新青年』という雑誌の性格について、ウィキペディアの記事を参考に確認しておく。
新青年(日本)
 『新青年』(しんせいねん)は、1920年に創刊され、1950年まで続いた日本の雑誌。

 1920年代から1930年代に流行したモダニズムの代表的な雑誌の一つであり、「都会的雑誌」として都市部のインテリ青年層の間で人気を博した。

 現代小説から時代小説まで、さらには映画・演芸・スポーツなどのさまざまな話題を掲載した娯楽総合雑誌であった。

ウィキペディア「新青年(日本)」より抜粋(2019年2月17日閲覧)
 同じくウィキペディアには、現在『新青年』誌の商標権を保有しているのが佐山一郎氏だと記してある。だから、この雑誌への言及が多いのだ。

 ところで、文藝春秋のスポーツ雑誌『ナンバー』の、創刊(1980年)以来の歴代バックナンバーの表紙と目次がインターネットで公開されている。これをたどれば、1980年以降の日本のスポーツ事情を大まかに理解することができる(下記リンク先参照)。
 同様に『新青年』誌の内容をたどっていけば、戦前日本のスポーツ事情が大まかに理解できようというのである。

都会派モダン雑誌『新青年』に見放されたサッカー
 戦前の日本スポーツでは、サッカーよりラグビーの方が人気があったらしいこと。それが証拠に、戦前の雑誌『新青年』では、野球やラグビーを大きく扱ってもサッカーには冷淡だったこと。この2点に、佐山一郎氏は固執してきた。以下、実例を引用していく。

 当ブログが集め確認できた資料のうち、佐山一郎氏がこの問題に触れた最も古いテキストは、野球専門誌『ホームラン』(日本スポーツ出版社)1991年2月号の「それでも野球は王様だ!」である。
『ホームラン』1992年2月号(2)

 あまり言いたくないのだが、〔19〕60年代半ばから10年余り続いた杉山-釜本人気だけが、突然変異で、戦前からサッカーは、相撲、六大学野球、大学ラグビーなどに比べて人気の面ではるかに劣っていた。つかこうへい〔劇作家,演出家,小説家〕さんがいつか書いていたように、ちょっとうつむいているうちに1点だけ入って、それっきりみたいな狩猟民族のための非物見遊山的競技〔=サッカー〕は日本人には合わない。〔以下省略〕

佐山一郎「それでも野球は王様だ!」@『ホームラン』1991年2月号より
 戦前から日本サッカーの人気がなかったことと、日本人の国民性・民族性・文化・歴史・精神・伝統等々と「サッカー」との相性が極めて悪いこと、この2つを結び付ける主張(日本人サッカー不向き論)は、『サッカー細見』と同様、佐山氏において一貫している。

 次いで、1993年刊の『Jリーグよ!』巻末(165~237頁)の「私家版 サッカー全史~日本サッカーvs.世界+世相」という、73頁にも及ぶ長い長い年表である。

 この年表は、著書の中で断っているが(237頁)、佐山氏が尊敬し、自身のサッカーライティングで参考にしたという、村松友視氏の名著『私、プロレスの味方です』。その巻末に掲載された、個人史と世相史とプロレス史を重ね合わせる体裁の年表を参考にしたものだ(引用「私家版 サッカー全史」掲載写真の特に左下を参照されたい)。
佐山一郎『Jリーグよ!』166~167頁

〔19〕20〔年=大正9〕|「新青年」創刊(■他競技〔野球,相撲,ラグビーなど〕と比べてサッカーの扱いは著しく少なかった。Why?)

佐山一郎「私家版 サッカー全史」@『Jリーグよ!』166~167頁より

Jリーグよ!―サッカー めざめの年に
佐山 一郎
オプトコミュニケーションズ
1993-12


 そして、サッカーライティングからの引退を宣言している佐山一郎氏が、その有終と位置付けた著作、2018年刊の『日本サッカー辛航紀~愛と憎しみの100年史』である。
 戦前の大学ラグビーは、半ばプロ化していた東京六大学野球の比ではなかったが、大衆のウケはよかった。ラグビーには、サッカーにはない相撲のぶちかましの要素〔?〕がある。戦前人気を博した都会派モダン雑誌「新青年」のスポーツ関連記事を調べて驚いたのは、サッカーに関するものがまるで見当たらないことだ。編輯〔へんしゅう〕部員の好き嫌いの問題だけでもなさそうだった。

佐山一郎『日本サッカー辛航紀』31~32頁

 余談だが文藝春秋のスポーツ専門誌『ナンバー』は、Jリーグ以前の1980年代、本当に「編輯〔へんしゅう〕部員の好き嫌いの問題」で、当時ブームにあったラグビーに熱烈に肩入れし、サッカーは(たとえ,それがW杯であっても)半ば差別的に扱っていた(後述)。

 その頃、日本の大学ラグビーの強豪校は、早稲田・慶應義塾・明治または関西の同志社といった伝統校。これらの大学出身のマスコミ人たちが、嬉しがってラグビーブームを過剰に囃(はや)し立てているのではないか……と、サッカーファンでもある小説家・村上龍氏が嫌味っぽく邪推していたのを、つい、思い出した。

サッカーより「日本人」の感性にかなっているラグビー?
 佐山一郎氏曰く、戦前のモダン雑誌『新青年』では、他のスポーツに比してサッカーはほとんど採り上げられなかった。それを読む限り、戦前の日本では、サッカーよりラグビーの方が人気があった。

 それでも、戦後、1960年代に入って「突然変異」的に勃興し、1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得した日本サッカー。しかし、1970年代に入って急速に失速・低迷していくと、ラグビーの方が、入れ替わるように人気スポーツになっていった。
  • プロフェッショナル化や商業主義を拒んだ、清廉な「アマチュアリズム」。
  • 選手権、なかんずく世界選手権(W杯)の開催を忌避し、誰がいちばん強いか? ……よりも、どちらが強いか? ……という価値観に拘(こだわ)った「対抗戦思想」。
  • 試合が終了すれば、敵・味方、勝った側(side)も負けた側(side)も無くなり、対戦相手の垣根を越えて、互いの健闘を称え会う「ノーサイド(no side)の精神」。
  • 英国伝統のオックスフォード大学vsケンブリッジ大学の定期戦に範をとった、毎年同じ日程で開催される、早慶戦・早明戦といった「伝統の一戦」。
  • 慶應義塾・同志社・早稲田・明治といった、競技の実力においても強豪校であり、新興校の安易な追随を許さない「伝統校」。
  • 接近・展開・連続の理念で知られ、海外の強豪との試合で日本のチームが肉迫してみせた、日本独自のプレースタイル「大西鐡之祐理論」。



 ……これら「紳士のスポーツとしてのラグビー文化」は、佐山氏の言う「相撲のぶちかましの要素」(?)だけでなく、同じフットボールでも、サッカーよりもラグビーの方が「日本人」の感性にかなっていると信じられた要素だった。

 しかも、「紳士のスポーツとしてのラグビー文化」には、戦前からの「連続」がある。佐山氏の言う『新青年』誌に表れた(サッカーに優越した)ラグビー人気と、1970年代に始まり、80年代に頂点に達し、90年代初めまで続いた、かつ文春『ナンバー』が煽った(サッカーに優越した)ラグビー人気との間には「共通項」があるのだ。

サッカーは日本人に受け入れられない!?
 翻(ひるがえ)って、サッカーはいかに?

 佐山一郎氏は、「ビートルズを観ない夜」@『闘技場の人』の中で、1966年頃の話として「サッカーの受容のかたちとしても,今〔1991年当時〕のラグビーフットボールに似た〈紳士のスポーツ〉というふうな初心〔うぶ〕なとらえ方だったと思う」と回顧している。

 その後、サッカーについて啓蒙されていくにしたがって、同じフットボールでも、ラグビーとは対照的な価値観を持ったスポーツであると、しだいに認識されるようになった。
  • オリンピックで称揚されたアマチュアリズムの限界を早々と見切り、プロフェッショナリズムを受け入れ、世界的な人気スポーツとして発展してきた。
  • 国際サッカー連盟も、各国のサッカー協会も、北米生まれのスポーツ(野球など)とも違い、プロ・アマともに統括する。
  • 21世紀では全くの死語であるが、日本ではサッカーW杯のことを「プロもアマも一緒に出場できる大会」だと言われていた。
  • 世界で最も人気のあるスポーツがサッカーであり、かつ世界中のほとんどの国で随一の熱狂的な人気を誇るのがサッカーである。
  • 各国の代表チームによる世界選手権=サッカーW杯は、ゆえにオリンピックをも凌ぐ世界最大のスポーツイベントである。
  • サッカーW杯に出場する各国(代表チーム)のプレースタイルは、それぞれの国の国民性や文化などの「お国柄」を反映したものであり、他のスポーツにはないサッカーの、なかんずくW杯の人気や面白さは、そこにある。
  • 世界各国の文化的な価値観を反映するのがサッカーだから、そこにはスポーツマンシップのみならず、ゲームズマンシップも顔を見せる。しかし、そんな清濁をも併せ呑む懐の深さがサッカーの特徴である。
  • サッカーでは、ファンが熱狂するあまり死人が出る。

The Soccer Tribe
Desmond Morris
Rizzoli Universe Promotional Books
2019-03-26


サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02


 しかし、ラグビーとは違い、これら「世界大衆のスポーツとしてのサッカー文化」は、日本ではなかなか受け入れられなかった。

 1970年代から80年代にかけて、日本のサッカーは、世界の潮流とは遠く離れ、国内ではマスメディアや一般のスポーツファンへの訴求力に乏しく、長い低迷に迷い込んでいた。
  • もともと日本においては、サッカーは歴史的に後発のスポーツであり、人気などで野球に先行され、ラグビーにも差を付けられていた。
  • 1968年メキシコ五輪で3位入賞(銅メダル)以降、サッカー日本代表が弱体化してしまった。W杯・五輪のアジア予選で敗退を続け、来日する欧州・南米のクラブチームにも惨敗を繰り返した。
  • 日本のサッカー選手の技術レベルも低く、魅力的なサッカーを展開できなかった。
  • Jリーグ以前の日本サッカーリーグは「地域に根差していない企業チーム」であり、一般のスポーツファンが感情移入しにくいものであり、不人気だった。
  • 日本サッカーは「プロ化」という懸案を抱えていたが、以上のような理由で、日本スポーツ界のアマチュアリズムを克服することが出来ず、これに前進することができなかった。

『ホームラン』1992年2月号(2)
【Jリーグ以前の日本サッカーの光景@『ホームラン』1991年2月号】
 だから、佐山一郎氏や村上龍氏のように「サッカーの面白さは,日本人には理解できない.日本代表は強くならないし,日本サッカーの人気も出ない」という、サッカー関係者が沢山いた。

みにくいアヒルの子「サッカー」?
 ラグビー推しの文春『ナンバー』の表紙を、初めてサッカーが飾ったのは、1984年、元日本代表、メキシコ五輪銅メダリスト、同大会得点王の釜本邦茂の引退特集だった。佐山一郎氏は、この時の内部事情を『日本サッカー辛航紀』に著(あらわ)してある。
 同年〔1984年〕八月二五日土曜夜に不世出のストライカー釜本邦茂の引退試合が、六万二〇〇〇人で満員の国立競技場で行われた。〔中略〕

 この引退試合は「スポーツ・グラフィック・ナンバー」(文藝春秋)が表紙にサッカー選手を登場させた最初の号だった。八四年九月五日発売の当該号は、創刊から丸四年が経つ一〇七号、刷り部数も相当に慎重どころか、最小レベルに抑えたという。

佐山一郎『日本サッカー辛航紀』136~137頁



 実際、この時の釜本引退特集・日本サッカー特集は、当時の日本サッカーの低迷した状況にあって、売れなかったとされる。

 もっとも、当時の読者だった、あるオールドサッカーファンに言わせると……。
 「あの特集は,結局,サッカーファンならみんな知っている,メキシコ五輪の思い出話にすぎなかった.

 『ナンバー』は,あの頃,日本サッカーの長年の懸案になっていた〈プロ化〉問題や、弱体の日本代表をはじめ、低迷する日本サッカーをどうするか……といった問題に果敢に斬り込んでいく感じがしなかった.

 あれでは、普通のあの雑誌の読者はもちろん,当のサッカーファンにも食いつきが悪かっただろう」
 ……とのことであった。

 とにかく文春『ナンバー』編集部は、これでサッカーは売れないと思ったらしく、1986年のメキシコW杯も、半ば黙殺の扱いをする。


 一方、翌1987年の第1回ラグビーW杯では、文春『ナンバー』は別冊を組んで特集した(上記リンク先から「1987年」までたどってください)。ずいぶんと露骨に待遇が違うものである。当時の感覚でいっても、W杯ではラグビーよりサッカーの方が、マスコミの関心度も高かったはずなのだが。

 『ナンバー』は、マイナースポーツだから採り上げないというワケでは、必ずしもない。1980年代当時、暴走族と同一視されていたモータースポーツ(四輪,二輪とも.上記ツイッター参照)を、『ナンバー』は積極的に特集し、後のブームの一翼を担っている。しかし、サッカーに関しては、Jリーグ以前に先行して採り上げたという印象は薄い。

 要は『ナンバー』編集部に、サッカーに思い入れのある「編輯〔へんしゅう〕部員」がいれば、少しは状況が違っていたのではないか? あるいは、当時『ナンバー』のサッカーライターの一番手は佐山一郎氏だったが、心情的に屈折に屈折を重ねた佐山氏ではなく、例えば、故富樫洋一氏だったら、少しは状況が違っていたのではないか?

ブームの後遺症に苦しんだ日本ラグビー
 しかしながら、佐山一郎氏は、かつてラグビー人気でサッカーに優越できた「要因」そのものが、後にラグビーを低迷させた「要因」に転じたことを理解しているのだろうか。日本のラグビーは、長年にわたるラグビーブームの「後遺症」に苦しんだのである。

 すべてのキッカケは、1987年に始まったラグビーW杯だった。ラグビーが世界化するにしたがい、ラグビーというスポーツの在り方大きく変容した。「紳士のスポーツとしてのラグビー文化」も、その真実と虚構の違いも分かってきた。

 世界選手権(W杯)の浸透によって「対抗戦思想」は後退した。また、やせ我慢の「アマチュアリズム」も限界に達しており、1995年南アフリカW杯は事実上プロフェッショナルによる大会となっていた。大会直後、国際ラグビー評議会は(現ワールドラグビー)、ラグビーのアマチュア規定を撤廃。プロ化と商業主義に大きく舵を切った。

 日本のチームでプレーした海外の世界クラスの選手によって、「ノーサイド(no side)」という言葉が、英語圏諸国では半ば死語になっていることが明らかになった。むろん、ラグビーには特徴的なスポーツマンシップがある。しかし、他のスポーツと同じく、ゲームズマンシップも存在し、両者のバランスの上で成立していることが分かった。

 オックスフォード大学も、ケンブリッジ大学も、両校が対戦する「伝統の一戦」以外は、ラグビープレミアリーグの2軍クラスとレギュラーシーズンの試合を、それぞれ独自に組んでいる。これは、どこのカンファレンスにも所属していない、アメフトのノートルダム大学に近いもので、つまり、ラグビーの本場・英国には、日本でいうところの〈大学ラグビー〉が、実は存在しない!?

 日本のラグビーは、こうした世界の潮流から孤立し、あるいは引き離されて、没落した。それは、日本代表の1995年W杯の大惨敗、99年W杯の惨敗として現れる。日本のラグビーファンは「それでも,大学ラグビーの早明戦は面白いんだから……」という方向で逃げたというが、それも以前のような集客はできなくなっていった。

 これは、巨視的には、日本ラグビー界が初心(うぶ)に信じていた「紳士のスポーツとしてのラグビー文化」が足枷になっている。より具体的には、日本ラグビー界に特徴的な大学や大手企業のラグビー部が担い手なった「アマチュアリズム」の限界である(下記リンク先の著作を参照)。

ラグビー従軍戦記
永田 洋光
双葉社
2000-06


ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12


 早慶戦・早明戦といった「伝統校」による「伝統の一戦」の固定的な日程は、レギュラーシーズンを長引かせ、日本代表の強化の時間が確保できないと批判された**。選手のフィジカルフィットネスの劇的に向上によって、純粋な「大西鐡之祐理論」だけで、日本のラグビーは海外の強豪と渡り合っていけないことも分かってきた

 こうした条件を乗り越えて、日本ラグビーが活気を取り戻すのは、エディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ=監督)率いる日本代表が、2015年ラグビーW杯で活躍するまで待たなければならない。

東京高師のサッカーと慶應義塾のラグビーの違い
 戦前の日本では、サッカーよりラグビーの方が人気があった。こう言われても、当ブログに反駁するだけの材料はない。この件に関して、個人的に日本のサッカー史・ラグビー史を調べてみても、理由はよく分からなかった。もっとも、佐山一郎氏は「日本人・日本文化とサッカーというスポーツの相性の悪さ」を主張したいのだろうが。

 一方、それなりに理解できたこともある。

 よく言われる、明治初年の海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)や工部大学校(東大工学部の前身)に伝えられたフットボール***というのは、その後の日本で展開されるサッカーとは、直接つながっていない。これらの系譜は、後が続かず途絶えている。

 現在の日本サッカーの直接の起源は、東京高等師範学校(東京高師,筑波大学の前身)で、海軍兵学寮や工部大学校よりも少し遅れて始まったもの。今ある日本のサッカーは、全部その「血脈」(仏教用語で「けちみゃく」と読む)である。


 一方、現在の日本ラグビーの起源は、1899年(明治32)に慶應義塾で始まったことが定説となっている。

 東京高師のサッカー、慶應義塾のラグビー。どちらもエリート校であるが、この違いは全国の普及度、競技人口の差となった。

 師範学校とは、要するに学校の先生(教師)を要請する高等教育機関である。東京高師~筑波大学のOBたちは、教師として赴任した全国の学校(旧制中学など)でサッカー部を創ることを自らの使命とした……。実際、以前の筑波大学蹴球部(サッカー部)の公式ウェブサイトには、こんなことが書かれてあった。

 対して、慶應義塾のOBには、あくまでイメージであるが、草深き田舎に仕(つかまつ)ってまで、ラグビーの普及に勤(いそし)しむというイメージが涌(わ)かない。そのためか、21世紀の現在では、県単位でラグビーの存続も危うい地方もあるほどだ。

 明治・大正・昭和戦前このかた、日本においてサッカーはラグビーに競技人口で差が付けられたことはない。そして、人気で野球に差が付けられたにもかかわらず、サッカーは、ラグビーその他の球技に優越して全国的な普及を果たすことが出来た。

 これは、後代のJリーグの創設に大きな意味を持って来る。

 もっとも、佐山氏は、競技人口うんぬん関係なしに「日本人・日本文化とサッカーというスポーツの相性の悪さ」を主張したいのだろうが。

あらためて,佐山一郎氏は村松友視氏から何を学んだのか?
 「村松友視さんが昔,『私、プロレスの味方です』を中央公論社の編集者時代に書いていましたけど,ああいうスタンスが理想というか出発点だったんです」……と、佐山一郎氏は、とあるインタビューで述べている(下記リンク先参照)。しかし、それは本当だろうか?


 本当に「プロレスの味方」村松友視氏を師匠筋とするならば、「自競技のみならず,日本のスポーツ界を刷新するべく起ち上げたのがJリーグなのだから,過去にサッカー人気がなかったとか,サッカーよりラグビーの方が人気あったなどという些末な〈伝統〉など関係ない」と居直ってみせるのが、真の村松友視流である(下記リンク先参照)。


 村松氏が「サッカー者(もの)」と名乗ったのに倣(なら)い、「サッカー者(もの)」と名乗ってみたり。村松氏の、個人史とプロレス史と世相史を重ねた年表(前掲の引用部分参照)を真似てみたり……。

 ……いろいろ見ていくと、佐山氏は村松氏の表面的な部分は模倣しているが、より本質的な部分を見習っていない。すなわち、プロレス(サッカー)を冷笑視する圧倒的多数の「世間」と対峙して、プロレス(サッカー)の価値を言いつのるという村松氏の意気地が、佐山氏には見られない。

アリと猪木のものがたり
村松 友視
河出書房新社
2017-11-20


 村松氏の言う「殺気」や「凄味」が、佐山氏のサッカー評論にはないのだ。

 あらためて、佐山一郎氏は、村松友視氏からいったい何を学んだというのだろうか。

(了)



続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

 ツイッターで「乾」貴士選手と「セルジオ」越後氏について検索をかけていくと、セルジオ越後氏を一面的に擁護し、乾貴士選手が一面的に非があるかのような、いたいけなサッカーファンによるツイートが多く、なかなか読むのが苦痛である。

 そんな中に、いたいけではありえないサッカーファンであるところの、サッカー講釈師こと武藤文雄氏までいた。


 なるほど、昨年2018年のハリルホジッチ氏の日本代表監督解任の時、さまざまな憶測を呼んだサッカー日本代表の「スタア」本田圭佑氏への擁護でも分かるように、武藤文雄氏は「信者とかじゃなくて,普通に選手に甘いというか,ファンは選手に対してやりすぎなぐらいリスペクトするべきっていう世代な」のかもしれない。


 セルジオ越後氏は旧JSLの日系ブラジル人選手のひとりだった。技術が大きく劣っていた当時の日本人選手のなかにあって、セルジオ越後選手は素晴らしいテクニックを見せたのだ。そんな幻惑の中にまだいるのかもしれない。

 とにかく「世代」なのかはともかく、少なくとも武藤氏はそうである。しかし、武藤文雄氏は、自身のように、誰もが「セルジオ越後氏への免疫」を持っているワケではないことくらいは、頭の片隅にでもいいから入れておいてほしいのである。


 ミスチル世代、「批評」が機能しない社会の怖さ……。だが、そもそも「セルジオ越後氏は批評なのか?」という根本的な問いが、ずっと頭の中をグルグル回っている。


 要するに、上のリンク先のようなことが言いたいのである。

(了)



このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

乾貴士選手は浅野内匠頭なのか?
 日本サッカーに対して、数多(あまた)の放言を繰り返してきたサッカー評論家(?)のセルジオ越後氏に対して、業を煮やした日本代表・乾貴士選手が些(いささ)かな反発を発信してみせた。



 セルジオ越後氏に関して、こうした、選手の側からの反=評論は当然のことだと私たちは思う。……のだけれど、ネットという巷間(特にツイッター)を観察してみると、乾選手の方に非があるかのように受け取る人も、また実に多い。中には、乾選手がセルジオ氏の人格にまで踏み込んだ雑言を浴びせた(!?)かのように語る、いたいけなサッカーファンまで散見される。


 まるで、勅使下向の春弥生、殿中「松之廊下」で小サ刀を抜いて、高家筆頭・吉良上野介(セルジオ越後氏)に斬りつけたのが野暮な田舎大名の浅野内匠頭(乾貴士選手)なのだから、内匠頭の方が咎(とが)を受ける=切腹するのが当たり前と言わんばかりだ。

 否、せいぜいこれは「喧嘩両成敗」であるべきではないか。


 乾選手はどれだけ不穏当な発言をしたのかと思いきや……。それ自体は抑制の利いたものだ。むしろ、放埓な発言を繰り返してきたのはセルジオ越後氏の方なのだが。

 では、なぜ、乾選手の方が一面的に悪いかのように、評されるのか? 倒錯したこの「空気」は何なのか?

評論をするのに対象への「愛情」は必要なのか?
 セルジオ越後氏を免罪するいたいけなサッカーファンたちの方便のひとつに、この人には「日本サッカーへの深い愛情」があるから……という言い分がある。

吠えるセルジオ越後『サッカーダイジェスト』1993年11月24日号より
【吠えるセルジオ越後氏.『サッカーダイジェスト』1993年11月24日号より】

 いつも「辛口」で「厳しい」セルジオ氏の評論も、実は、日本サッカーへの深い愛情の裏返しの表出である。それが証拠に(2006年のアジア杯だったか)日本代表が苦戦の末に勝利した時、セルジオ氏は声を上げて相好を崩してみせたではないか……というのである。

 だが、セルジオ越後氏に、本当に、日本サッカーへの「愛情」があるのだとして、しかし、評論をするのに対象への「愛情」などというものが必要なのだろうか?

 ここで思い出したのが、先ごろ亡くなった梅原猛氏(哲学者)である。小谷野敦氏(評論家?)の『評論家入門』からの孫引きになるが、梅原氏による小林秀雄(文藝評論家)への批判がある。
 たしかに小林〔秀雄〕氏のいうように対象に惚〔ほ〕れなければ対象は分からない。認識には熱情が必要である。しかし、それとともに認識には冷たい理性が必要である。小林氏は対象を距離を持って眺めるというところがない。それは本当の学問でも批評でもない。

梅原猛『学問のすすめ』

 この文章を引用した小谷野氏は、さらに進めて、その「愛情」すら不要だと断じる。
 梅原〔猛〕は「愛情が必要である」ことを認めているが、それすら私〔小谷野敦〕は疑わしいと思う。たとえば、「文学研究においては、対象に対する真の愛情が必要だ」と言う人がいる。……だが、学問〔あるいは評論〕の当否は、その人に愛情があるかないか……とは、別である。いくら愛情を持っていても……間違っていれば、どうしようもない。……学問〔あるいは評論〕にとって必要な美徳とは、勤勉と誠実〔冷たい理性〕であって、愛情……ではない。

小谷野敦『評論家入門』70頁

 セルジオ越後氏に、巷間言われるような「日本サッカーへの愛情」があるのかどうか、本当のところは分からない。

 しかし、「愛情」があったところで、それは「評論」の内実とは全く関係ないのだし、少なくともセルジオ越後氏には、梅原猛氏の言う「冷たい理性」が決定的に欠落している。

セルジオ越後氏の無節操なサッカー評論
 セルジオ越後氏の、この「冷たい理性」の無さは、例えば、サッカー評論の無節操、無定見として現れる。

 1994年、サッカー日本代表・三浦知良(カズ)がイタリア・セリエA「ジェノアCFC」に移籍した。セルジオ越後氏は「まるで,才能の無いレーサーが金でF1チームのドライバーになるようだ」(これをペイ・ドライバーと言う)と侮(あなど)り、酷評した。

 そういう評価自体は、あっていいだろう。実際、カズのジェノア移籍にはそういう側面もあった(これは後代の中田英寿や本田圭佑にも,似たような事情があるだろう)。

 1年後、イタリアで思うような活躍が出来なかったカズは、日本のJリーグに復帰することになった。セルジオ越後氏は、すると今度は「何だ,たった1年で日本に帰ってくるのか!」などと侮り、酷評したのである。

 どちらかの立場に立つならば、どちらかの発言は慎むべきだ。

 セルジオ越後氏のこんな節操の無さに、私たちはウンザリしている。前田日明は「アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか!?」と批判したが、いたいけなサッカーファンたちは「セルジオ越後なら何を言っても許される」と、思っているらしい。

 右とあれば左と言い、上とあらば下と言い、前とあらば後と言いたがるのが、セルジオ越後氏の嫌らしさである。

 ちなみに乾選手によるセルジオ越後氏批判は、セルジオ氏が「香川真司の移籍は遅すぎる! 海外移籍するなら試合に出ろ」と難じたことがキッカケだった。そこで、仮に試合に確実に出るために日本のJリーグに戻ってきたら、今度は「日本にいるな! 海外に移籍しろ!」というのが、セルジオ越後氏の「クオリティ」である。


 乾貴士選手のセルジオ批判に加勢した岡崎慎司選手は、だから、セルジオ越後氏に「責任ある発言して欲しい」と発言したのだ。

日本的な,余りに日本的なセルジオ越後氏
 誤解していただきたくないのだが、私たちは、何も、セルジオ越後氏の人格にまで踏み込んだ言及をしたいわけではない。

 フィリップ・トルシエ(サッカー日本代表監督,任期1998~2002)は、私に「あの〈セルジオ越後〉とかいう奴は何者なんだ?」と、質問してきた……。フットボールアナリスト・田村修一氏が、初代サポティスタ・浜村真也氏が催したトークイベントでこんな裏話を紹介していた

 書いていて思い出し笑いをしてしまったが、このエピソードで分かるように、セルジオ越後氏は、けして「普遍的」ではない。「日本的な,余りに日本的な」現象である。

 日本のサッカー評論とは、徒(いたずら)に日本のサッカーを、自ら蔑(さげす)んでみせることが良いとされている。その代表が、例えば「電波ライター」の旗手・金子達仁氏だ。そして、その金子達仁氏の師匠筋に当たるのが、セルジオ越後氏だったりする。

 金子達仁氏に関しては、これまでさんざん批判されてきた。えてしてエピゴーネンは「師」の悪いところを拡大する。すなわち、金子達仁氏はセルジオ越後氏の悪いところを拡大したからである。

 日本という、かつては「鳥なき里」だった場所に飛来した「蝙蝠(コウモリ)」が、セルジオ越後氏である(経歴詐称疑惑もあり,カナリアとまでは言い難い)。そんなセルジオ氏を過剰に有難がってきたのが、日本のいたいけなサッカーファンたちだった。

 自らのサッカーを徒に蔑んでみせることをもって良しとする、そんな心性を投影した、そんな心性に応える「サッカー評論家」がセルジオ越後氏だった。

 彼を評して「辛口」と言う。しかし、その実は、スパイスを効かせた美味なる料理ではなく、テレビ番組の「激辛王選手権」にでも出てくるような、ゲテモノとしての辛口料理である。

 その代償として、私たちは「日本サッカーへの〈味覚〉」というものを、大きく後退させてしまった。完全に麻痺しているのである。

 私たちサッカーファンは、このポストコロニアルな時代に、セルジオ越後氏に象徴される卑屈なコロニアル根性に、一体いつまで浸(ひた)り続けるのだろうか?

(了)



続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

 神武紀元2679年(笑)2月11日「建国記念日」に寄せて……。

大化の改新のきっかけはサッカー? ホッケー?
 日本上代史に名高い「大化の改新」のクーデター「乙巳(いっし)の変」(645年)の主役、中大兄皇子と中臣鎌足の2人は、蹴鞠(けまり)の会で邂逅(かいこう)したと、巷間、信じられている。

kokusikaiga
【神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより『中大兄皇子と中臣鎌足』作:小泉勝彌】

 ところが、その経緯を記した『日本書紀』皇極天皇紀にはハッキリ「蹴鞠」とは書かれていない。そこにあるのは「打毱」という謎の文字列である。この「打毱」をめぐっては、学者によって解釈が分かれてきた。

da_kyu_seiji
【打毱】

 つまり、この古代日本の球技は、足でボールを蹴るサッカーに近い「蹴鞠」であるという説。一方、そうではなくて、スティック状の杖でボールを叩くホッケー風の球技(打毬=だきゅう=とも,毬杖=ぎっちょう=とも表記される)ではなかったかという説。ただし、両説ともに決定打を欠き、真相は現在も確定していない。

 ところが、スポーツライターの玉木正之氏は、具体的な証拠が乏しいにもかかわらず、一面的にホッケー説の方が正しいと、強硬に主張してきた。

tamaki_masayuki1
【玉木正之氏】

 なぜなら、玉木氏は、このことが日本のスポーツの在り方を規定しているのだと唱えているからである。なぜなら、玉木正之氏は「日本人はサッカーが苦手な民族である」という強い思想の持ち主だからである。

 日本では歴史的にサッカーより野球の方が人気があったこと、サッカー日本代表が国際舞台で「弱い」こと……等々、すべて、大化の改新のキッカケが蹴鞠ではなくホッケー風競技であった「史実」に拘束されている(!?)からなのだという。

「大化の改新のキッカケは蹴鞠ではなかった説」の間違い
 玉木正之氏は知名度の高いスポーツライターであり、スポーツ界への影響力も強い。つまり「大化の改新のキッカケは蹴鞠ではなかった説」も、玉木氏の「啓蒙」によって「天下の公論」になってしまうかもしれない。

 すると、それに付随している「日本人は日本人はサッカーが苦手な民族である」というイメージも、人々の間に常識化してしまいかねない。日本のサッカーにとっては、まったく迷惑な話である。

 一方で、玉木氏は、自分にとって都合の良い結論のために事実(史実)を歪曲する癖が強いと、これまでにも批判されてきた(ラグビー史研究家・秋山陽一氏による)。実際、よくよく吟味してみると「大化の改新のキッカケは蹴鞠ではなかった説」も同様、間違いだらけで、玉木史観のためのご都合主義の産物でしかない。

 当ブログ「スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う」本来の目的は、その玉木正之史観のデタラメさを告発し、かつ徹底的に批判することである。その成果は「大化の改新と蹴鞠(40)~玉木正之説の総括,批判,あるいは超克」(2017年10月26日)として、まとめた(下記リンク先参照)。
大化の改新と蹴鞠(40)~玉木正之説の総括,批判,あるいは超克(2017年10月26日)


 玉木正之説が妥当なものならば、私たちはこれを受け入れるしかない。しかし、玉木氏の持説は、徹頭徹尾、間違っているのである。そして、これは日本のサッカーにとって明らかに不利益なものだ。日本のサッカー関係者は、玉木正之氏のデタラメを徹底的に批判して、これを超克しなければならない。

描かれた「中大兄と鎌足の出会い」の謎
 このブログを展開するに際して、大化の改新における中大兄皇子と中臣鎌足の出会いを描いた絵画を探したが、意外に古いものが見つからなかった。当ブログが見つけたもので最も古いものは、天理図書館蔵『南都法興寺蹴鞠図』嘉永6年(1853)。この年の起きた出来事は「黒船来航」、すでに江戸時代末期「幕末」である(下記リンク先参照)。
「大化の改新と蹴鞠」問題(02)~描かれた「蹴鞠の出会い」その1(2016年10月09日)

tennri_kemar2i
【天理図書館蔵『南都法興寺蹴鞠図』嘉永6年(1853)】
 このことから、ひょっとしたら、大化の改新、特に「中大兄と鎌足の出会い」のエピソードは、それまであまり注目を浴びていなかった。それが、幕末の国学や明治の皇国史観の時代に、つまり近代になって、勤皇愛国を称揚・奨励するために強調され、視覚化(絵画化)され、人々に刷り込まれたのではないか……という仮説を思いついた。

 伝統だと思われていたものが、意外にも近代の産物だったというのもよくあることだ。だから、我と思わん人文系・社会学系のスポーツ学専攻、あるいはカルスタ(?)専攻の学生・院生は、このテーマで研究して、論文を書いてみませんか? ……と煽ったこともある(下記リンク先参照)。


 当エントリー前掲の神宮徴古館所蔵『中大兄皇子と中臣鎌足』(筆:小泉勝彌)などは、その視覚化のツールだったのかもしれない……などと考えたりもする。

幕末~明治に「再発見」された大化の改新???
 以上のような仮説を漠然と考えていたところ、それを「裏付ける」……かのような記述をインターネットで見つけた。

 Wikipedia日本語版の「大化の改新」の項目である。
この大化の改新が歴史家によって評価の対象にされたのは、幕末の紀州藩重臣であった伊達千広〔だて・ちひろ,国学者〕(陸奥宗光の実父)が『大勢三転考』を著して、初めて歴史的価値を見出し、それが明治期に広まったとされている。[3]

[3]『歴史とは何か: 世界を俯瞰する力』著者: 山内昌之

Wikipedia日本語版「大化の改新」より(2019年2月11日閲覧)
 もっとも、この記述に飛びついて、仮説が「証明」されたとしてはいけない。

 Wikipediaは間違いの多い「百科事典」であり、出典になっている山内昌之氏(やまうち・まさゆき.歴史学者,中東・イスラーム地域研究,国際関係史)の著作『歴史とは何か~世界を俯瞰する力』に、何が書いてあるか確認しないといけない。

歴史とは何か (PHP文庫)
山内 昌之
PHP研究所
2014-10-03


 それを怠ると、「慶應義塾大学ではサッカー部のことを〈ア式蹴球部〉と呼んでいる」などという、トンデモない間違いを「フォーラム8」というIT企業の機関紙やWEBサイトに書いている玉木正之氏と同じになってしまう(下記リンク先参照)。


 そこで、山内昌之氏の『歴史とは何か~世界を俯瞰する力』を取り寄せて、ざっと目を通すことにした。

Wikipediaの記述の信憑性
 結論を先に言うと、山内昌之氏は前掲のWikipediaのようなことをハッキリと書いているわけではない。

 山内氏が自著で紹介する伊達千広の『大勢三転考』とは、古来(神代の昔以来?)、日本史において、日本という国の在り方(大勢)が3度大転換(三転)したという話である。その2番目が「聖徳太子による冠位十二階の制度や十七条の憲法から大化の改新にかけて」(171頁)だとあるが、今ひとつ印象に弱い。

 それとも……。
古代の氏姓制度,律令による官人(官僚)支配〔大化の改新?〕,次いで武家支配という三区分は,現在の基準では常識すぎるかもしれません.しかし,近代歴史学の成立以前に,千広が大胆に時代を三区分したことは,岡崎久彦氏〔元外交官,評論家〕が語るように,日本史学史上,画期的な意義をもつのです(『陸奥宗光』上)。この評価は筑摩書房版の注解にも共通します。

山内昌之『歴史とは何か~世界を俯瞰する力』170~171頁
 ……この部分のことだろうか?

 いずれにせよ、Wikipediaの記述とは、やはりニュアンスが違う。

 この辺は、Wikipediaの飛躍した拡大解釈ではないかと思う。とにかく、国学者・伊達千広が大化の改新の価値を「再発見」「再評価」し、明治になってこれを啓蒙したとか、山内昌之氏が自著でそのことを紹介したとかいうのは、違うのではないかと思う。

玉木正之氏のスポーツ史観には疑いがある
 残念なことだが、何事も確認である。

 大化の改新、なかんずく中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場面(蹴鞠?)が有名になったのは、皇国史観の幕末~明治以降……という裏付けは取れなかった。したがって、当ブログの仮説は保留である。

 しかし、歴史観は時代によって変わってくる。「江戸時代以前」「明治・大正・昭和戦前」「戦後」では、歴史上の事件や人物の評価が違っている。

 例えば、織田信長。明治・大正・昭和戦前の「皇国史観」の時代において、信長は、戦国の風雲児、革新的な天下人という「戦後」のイメージとは違い、戦乱で荒廃した京都御所を再建し、天皇の権威を大いに盛り上げた勤皇の人という評価で語られていた。

国史絵画『織田信長の勤皇』作:岩田正巳
【神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより『織田信長の勤皇』作:岩田正巳】

 大化の改新、あるいはその主役、中大兄皇子と中臣鎌足は「皇国史観」を大いに刺激する歴史的な事件・人物である。だから、その話は「皇国史観」によって「再発見」されたのではないかという仮説の真相については、今後の研究の成果を待ちたい。

 どうして、こんな事に拘泥しているのか。

 仮に、かつて「大化の改新」という歴史的事件が、江戸時代以前はそれほど評価されていなかったとすると、その「大化の改新」をもって、後々まで(21世紀の現代まで)の日本のスポーツの在り方を拘束している……という玉木正之氏は、かなり間抜けな議論をしていることになるからである。

 こういう話をしたかったが、ちゃんと山内昌之氏の著作で調べたら、いささか無理筋になってしまった。

 もっとも、玉木正之氏は、先に紹介した「慶応大学のサッカー部の名称の話」のように、そのちょっと調べて確認する……ということすらしない人なのだが。

(了)



続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

国策大河ドラマ「いだてん」の視聴率惨敗
 鳴り物入りで始まった2019年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)」(脚本・宮藤官九郎)の視聴率が壊滅的に低迷している。

 第1回が関東・首都圏で15.5%の低視聴率、地方になると軒並み「爆死」状態。その後も視聴率低落が続き、1月最終週の第4回の関東・首都圏の視聴率は11.6%まで下がった。「花燃ゆ」(2015年)や「平清盛」(2012年)といった視聴率ワースト作品を、さらに下回る歴代最低視聴率大河ドラマになるという観測がなされている。


 つまり「いだてん」は大失敗作である。この作品は、脚本の宮藤官九郎(クドカン)がNHKに企画を持ち込んだということになっているが、事実上、翌2020年の東京オリンピックを盛り上げるための「国策」に、NHKが迎合・忖度した大河ドラマであることは衆目の一致するところである。

 国策大河ドラマに傑作なし。明治維新100年にあやかった1967~68年の「三姉妹」しかり、「竜馬がゆく」しかり。松下村塾のユネスコ世界遺産登録に当て込んだ2015年の「花燃ゆ」しかり。明治維新150年に当たる2018年の「西郷どん」しかり。視聴率でも(コンテンツとしても?)みな失敗している(以上、歴史学者・一坂太郎氏の指摘による.下記リンク先参照)。
 同じく国策大河である「いだてん」も、ご多分にもれず、すでに大コケの烙印を押されている。そればかりか、「いだてん」の視聴率を通じて、2020年の東京オリンピックに関する全国的・国民的関心が、実はまったく無い(薄い)ことが暴露されてしまった。

 とんだヤブヘビであった。

大河ドラマより面白い(?)歴史リアルの「大河ドラマ批評」
 21世紀に入ってからの、なかんずく2010年代の大河ドラマは、軒並みつまらない作品が多い。ああ、今年の大河もつまらない。さりとて民放の裏番組を見る気もしない。なぜツマラナイのか? それを理解して納得したい。あるいは、どうせ面白くないのならば、いろいろツッコミを入れながら見てみたい。

 そんな視聴者のために、大河ドラマのサブテキストの役割りを果たしてきたのが、洋泉社・歴史リアルWEBサイトのブログ、週刊「大河ドラマ批評」の辛口コラムであった(下記リンク先参照)。
 主な書き手は、平安時代末期の源平争乱期や、戦国・安土桃山時代は歴史学者の渡邊大門氏、幕末・明治維新は同じく歴史学者の一坂太郎氏。どちらも学者としては在野に近い。大河ドラマ各週のストーリーにある史実と虚構(創作)の違いをきちんと指摘したうえで、鋭い批評を展開していく。味気ない料理(=出来の悪い大河ドラマ)にスパイスを効かせてくれるのである(下記リンク先参照)。
 むろん、史実と違うからダメだというのではない。傑作ぞろいの往年の大河ドラマは、史実とは違っていたり、史実の空白を埋めたりしていた部分(創作=虚構)が、物語世界をより豊かにしてくれた。しかし、昨今の駄作大河は、史実から逸脱している部分(創作=虚構)が、物語をますますツマラナクしている元凶であることの方が多い。


 その結果、渡邊大門氏(「平清盛」「軍師官兵衛」「真田丸」「おんな城主 直虎」)や一坂太郎氏(「花燃ゆ」「西郷どん」)の大河ドラマ批評の方が、大河ドラマそのものよりも面白くなるという、興味深い逆転現象が生じる。

大河ドラマと時代考証
 ところが、歴史リアルは、今年の大河ドラマ「いだてん」では大河ドラマ批評の連載をやらないようである(2019年2月3日現在)。まったく残念なことだ。

 大河ドラマは、歴史リアル(洋泉社)や歴史街道(PHP研究所)といった歴史系出版社、歴史学者・歴史作家にとって、飯のタネでもあった。例えば、2008年の大河ドラマは「篤姫」だったが、その前後には、番組枠の知名度などに当て込んで、主人公である「天璋院」や物語の舞台となる「江戸城大奥」の関連本がたくさん刊行される……といった具合にである。

 「いだてん」は時代が近現代であり、かつテーマがオリンピックやスポーツである。歴史系出版社の守備範囲とは見なされなかったのか? それでも「いだてん」の登場人物である金栗四三や嘉納治五郎、田畑政治の関連本は、他の版元からいろいろ出ているし、歴史リアルも「いだてん」やオリンピック関連のムックを出しているのだが。

 歴史劇である大河ドラマといえば、時代考証(監修)を担当する歴史学者がいる。小和田哲男氏とか、本郷和人氏とか、原口泉氏とか、磯田道史氏とか……。「いだてん」は、スポーツ人類学で、オリンピックの歴史などを研究する真田久氏と大林太朗氏。ともに筑波大学。筑波は旧制東京高等師範学校(東京高師)だから、ドラマ前編の主人公・金栗四三は両先生の遠い遠い先輩、嘉納治五郎はその当時の校長であった。


 ところで、渡邊大門氏や一坂太郎氏の立ち位置から考えると、NHK大河ドラマの作品批評は、学界・学会の主流にいない人の方がいいのかもしれない。さらに言えば、何も学者である必要もない。ジャーナリストでもいいのだ。

 つらつら考えていくと、「いだてん」の辛口批評コラムの担い手として、スポーツライターの武田薫氏が適任ではないかと思い当たった。

武田薫氏のプロフィールと『朝日ジャーナル』
 武田薫。1950年、宮城県仙台市出身。1974年に報知新聞社に入社し、野球、陸上、テニスを担当、1985年からフリー。著書に『オリンピック全大会』『サーブ&ボレーはなぜ消えたのか』『マラソンと日本人』など。……というのがネット上にあるプロフィールであるが、これでは不十分な説明である。

 フリーランスとしては、週刊誌『朝日ジャーナル』が主催するノンフィクション朝日ジャーナル大賞で、ポルトガルのマラソンランナー カルロス・ロペス(1984年ロサンゼルス五輪金メダル)を題材にした作品で佳作となる。以後、『朝日ジャーナル』の常連となり、1980年代後半から、廃刊する1993年まで、同誌でスポーツ時評やスポーツノンフィクションを担当した。

 ちなみに『朝日ジャーナル』とは、ある意味で最も『朝日新聞』的であるが、しかし、決して『朝日新聞』そのものではないという、朝日新聞社が発行する週刊誌である。同社が発行する週刊誌『AERA(アエラ)』の前身という認識は間違い。

 それ以前の『朝日ジャーナル』のスポーツ時評と言えば、セクハラ文芸評論家の渡部直己あたり出てきては「清原和博はシニフィエ=記号内容=なきシニフィアン=記号表現=である」みたいな、やたらポモ臭え評論を掲載していた(『朝日ジャーナル』1986年10月31日号)。

 そんな文言を嬉々として紹介していたのが、文学・思想方面にコンプレックス丸出しのスポーツライター玉木正之氏だったりする(玉木正之『プロ野球の友』403頁,416頁)。

プロ野球の友 (新潮文庫)
玉木 正之
新潮社
1988-03


 それに比べれば、武田薫氏の起用によって『朝日ジャーナル』のスポーツジャーナリズムは随分とマシになったと言える。

サッカーと武田薫氏の因縁
 日本のサッカーやJリーグの悪口をいろいろ書いてきたので、サッカーファンは武田薫氏にいい印象を持っていない。しかし、かつてはポルトガル語を使える数少ないスポーツライターだったため、サッカー関連の仕事もいくつかしている。

 『朝日ジャーナル』のスポーツノンフィクションの連載では、日本に帰ってきたばかりの、あの水島武蔵選手(マンガ『キャプテン翼』の主人公のモデル)、あるいは同じく風間八宏選手について書いている。このうち水島選手のルポルタージュは、連載をまとめた、朝日新聞社刊行の『ヒーローたちの報酬』に収録されている。

ヒーローたちの報酬
武田 薫
朝日新聞社
1990-10


 1987年、日本で開催されていたトヨタカップにFCポルトが出場した。その時、かつて同クラブの陸上競技部門に所属していた、ポルトガルの往年のマラソン女王ロザ・モタ選手に、武田氏がコメントを取りに行った。するとモタ選手、「ポルトガルでは男性がサッカーに熱中しすぎて家庭に金を落とさない.サッカーは女を不幸にする.ポルトガルでサッカーが強くなっても,いいことはひとつもない」と言い放った。

 トヨタカップのテレビ中継を担当していた日本テレビの依頼だったと思うが、日本のメディアは、モタ選手の「FCポルト,がんばれ!」的なコメントを希望していた。しかし、その意図にかなったものではなく、やむなくボツにしたという。この話は『ロザ・モタ~ソウル五輪マラソンの女王』に登場する。


 ポルトガルの近現代はかなり複雑な歴史を歩んでいるし、かつては男尊女卑の習慣も強かったとも聞いている。21世紀の現在も同じような状況なのかは、分からない。また『ロザ・モタ~ソウル五輪マラソンの女王』には、サッカーが第一であるFCポルトとマラソン選手であるロザ・モタ選手とは、いろいろ諍(いさか)いがあったようにも書いてある。

 とかく日本では理想化され、Jリーグが目標にし、玉木正之氏がひたすら称揚する「地域に根差した総合スポーツクラブ」であるが、「本場」ヨーロッパではさまざまな実相があるようだ。

「いだてん」の辛口批評にふさわしい理由
 今年の大河ドラマ「いだてん」は、すでにあれこれ酷評されている。話が取っ散らかりすぎている。古今亭志ん生(5代目)役のビートたけしの演技や滑舌が悪すぎる。宮藤官九郎の脚本に散りばめられた小細工の類がかえって白ける……。要するにつまらない。それは視聴率に表れている。ツマラナイからこそ「いだてん」の辛辣な批評が読みたい。

 その担い手に、武田薫氏が適任である理由はいくつかある。

[理由その一]武田薫氏は、オリンピックの通史『オリンピック全大会』を書いていて、五輪大会の歴史に通暁している。番組後編の主人公・田畑政治のパートの解説もできる(はず)。

[理由その二]武田薫氏は、マラソン・駅伝が専門分野のひとつであり、マラソンランナーたちの優れたノンフィクションをいくつも書いている。また『マラソンと日本人』という本も上梓している。番組前編の主人公・金栗四三にも詳しい。

マラソンと日本人 (朝日選書)
武田 薫
朝日新聞出版
2014-08-08


 どちらの著作も版元が朝日新聞社なのは、かつての『朝日ジャーナル』のコネだと思われる。ネットを検索していたら、日刊ゲンダイDIGITALのサイトに武田氏の連載があり、金栗四三と「いだてん」について解説していたコラムがあった(下記リンク先参照)。
 こういうことが書けるスポーツライターは少ない。そして当ブログが武田氏を推す、もうひとつの理由がある……。

「いだてん」のとっても「スイーツ大河」な場面
 最近の大河ドラマをつまらなくしている大きな要因が、封建社会で戦乱の時代であるにもかかわらず、きわめて現代的な平和主義・民主主義・自由主義あるいは恋愛至上主義で物語が描かれてしまうことだ。

 例えば、戦国時代の武将が「儂(わし)の願いは,戦(いくさ)のない平和な世の中を作ることじゃ」と宣(のたま)ったり、その奥方が「戦は嫌でござります」とか宣ったりするヤツ。こういう大河ドラマは「スイーツ大河」などと呼ばれて、熱心な大河ドラマ視聴者には非常に軽蔑される。

 果たして「いだてん」第1回にも、そんな「スイーツ」なシーンがあった。

 平和と「スポーツ」の意義を説き、1912年ストックホルム五輪への日本代表選手派遣に向けて奔走する嘉納治五郎(演:役所広司)と、富国強兵のため日本人の体力・体格向上を重視する「体育」の立場から、これに反対する加納久宜(演:辻萬長)や、永井道明(演:杉本哲太)とが対立する場面である。

 「スポーツ」は「遊び」で解放的、「体育」すなわち抑圧的な「教育」とは違うもの。あるいは「スポーツ」と「体育」の概念を過度に対立的なものと見なし、前者を称揚し、後者を否定する考えは、多分に現代的な価値観である。例の玉木正之氏が再三にわたって力説・啓蒙してきた価値観である。

「スポーツ」か「体育」か…は,玉木正之的スポーツ観の影響
 この場面が疑わしいことは、ネットでも議論になっていた。
409日曜8時の名無しさん2019/01/27(日) 18:54:24.99ID:94KkDt2Q>>412>>426
今更だけど嘉納治五郎が「スポーツ」で、文部省が「体育」という描写って完全な間違いだな。
嘉納は「国民体育」という概念を使って水泳と陸上の普及を説いているし、
「個人は心身を練磨し、社会に貢献することを期す」と言ってる。

412日曜8時の名無しさん2019/01/27(日) 19:17:32.57ID:GDczlAXz>>423
>>409
間違いではなく脚色ってやつじゃないの。大河ではよくあるよ

423日曜8時の名無しさん2019/01/27(日) 21:01:26.52ID:94KkDt2Q
>>412
「体育」を国家統制色が強いものとして描き、
嘉納自身は精神論と無縁みたいに言ってる点で違うだろ。

426日曜8時の名無しさん2019/01/27(日) 22:06:33.62ID:+dVZ6OpD>>436
>>409
嘉納治五郎は国民体育を推奨したけど、同時にそれを続けるためには楽しみの要素の必要性も説いている
面白みがなければ、学校教育が終わってしまえば続ける者がいないため意味がないと
ストックホルムオリンピックの翌年には、柔道でも慰心法と言う楽しむことも目的とする概念も唱えている
まあ、体育とスポーツの対立ではなく両方の必要性を説いている

427日曜8時の名無しさん2019/01/27(日) 22:50:56.34ID:twaNzqLW
体育もスポーツも平和のためではなく、
体力ある兵士を育成するためだったはずだけどな。

436日曜8時の名無しさん2019/01/28(月) 16:56:03.59ID:bVtVkuMW
>>426
いずれにせよ嘉納治五郎が「体育」を叩く描写は筋違いだよね。
 あらためて「いだてん」の時代考証(スポーツ史考証)は筑波大学の真田久氏で、同氏は嘉納治五郎の研究者でもある。少し探してみたら「オリンピックと嘉納治五郎」という、真田氏の講演録のPDFファイルが見つかった(下記リンク先参照.於:平成29年度 第14回 東京都高等学校体育連盟研究大会)。
 これを読む限り、嘉納治五郎が「スポーツ」と「体育」をに類別するような人だったとは思えない。また、真田久氏がそのような二項対立的な価値観の持ち主とも思えない。

 大河ドラマで時代考証を担当する学者には、脚本の内容を指図する権限はない。「ドラマを面白くするため,そうしたいというものもある」「違うという証拠もない.可能性がゼロではないものは修正しない」と、真田久氏も話している。歴代の大河ドラマ監修の学者たちもだいたい同じことを述べている。


 「体育」ではなく「スポーツ」だと主張する「いだてん」の嘉納治五郎像は、史実というよりも、多分に脚本家の宮藤官九郎の意向、現代的な価値観を反映した創作(虚構)と憶測する。そのクドカンの意向に大きく影響を与えた価値観とは、玉木正之氏が啓蒙したスポーツ観である。これはまず間違いない。

嘉納治五郎,クーベルタン男爵の思想
 当の玉木正之氏は、問題の「いだてん」の場面をどう見ていたか?
玉木正之「ナンヤラカンヤラ」2019年1月6日
1月6日(日)
 ……NHK大河ドラマ『いだてん』の第1回目。五輪関連のドラマですから見なければ。宮藤官九郎の脚本はチョットバタバタしすぎかなぁ。嘉納治五郎はこんな剽軽だったのかなぁ。志ん生の若い時ってこんなだったのかなぁ。明治時代の嘉納のスポーツ論(体育ではないという認識)がこんなに確固としていたのかなぁ。イロイロ首を傾げながら見ましたがまだマァ1回目ですよねぇ。〔以下略〕

 だから、それは、おそらくは史実ではなく創作で、玉木氏自身が啓蒙したスポーツ観の反映なのはないのか。何とも呑気な反応である。

 嘉納治五郎は、必ずしも「スポーツ」と「体育」を類別する人ではなかった。これは日本だけではない。そもそも、嘉納をIOC(国際オリンピック委員会)委員に引き入れた、近代オリンピックの創設者であるフランスのクーベルタン男爵もそうであった。さらに、そのクーベルタン男爵に影響を与えたのは、英国パブリックスクールのスポーツを採り入れた教育である(下記リンク先参照)。
 クーベルタン男爵は、特に英国のパブリックスクール「ラグビー校」でラグビーフットボールの魅力に取りつかれ、ラグビーのレフェリーの資格を取り、試合で笛を吹いたこともある。これは割とよく知られた話だ。

 日本サッカーはアマチュアリズムを克服するのにかなり大変な思いをしたが、15人制ラグビーユニオンとオリンピックのアマチュアリズムの重視は、クーベルタン男爵でつながっているのではないか、などと邪推したこともある

 いずれにしても「スポーツ」が善で「体育」が悪という人たちではない。

 玉木正之氏は、もともと野球畑のスポーツライターで、野球(ベースボール)はフットボール系の球技(サッカー,ラグビー,アメフト)と違って、歴史的に教育の場から生まれたスポーツではない。だから、何かと「スポーツ」と「体育」区別したがるのだろうか?

玉木正之氏には「同業者」のアンチが多い
 玉木正之氏が「スポーツ」と「体育」を概念操作するのは、日本スポーツ界の旧弊を「体育」という記号に込めて、これを批判し、克服した地平を「スポーツ」として表徴せんがためである。

 しかし、玉木氏の価値観は、そんなに素晴らしい、いいものなのだろうか。

 なぜなら、玉木正之氏が従来の「体育」を乗り越え、日本に「スポーツ」をもたらしてくれると期待した存在は、たいていスポーツとして失敗で、日本のスポーツをかえって混迷させてしまったからである。野球の「長嶋茂雄」しかり、ラグビーの「平尾誠二」および「平尾ジャパン」しかり、サッカーの「ジーコ・ジャパン」しかり。

 もう、この辺は、当ブログがしつこく書いてきたことだから、ここでは繰り返さない。詳しくは下記のリンク先等を参照して、じっくり読んでいただければ幸甚である。
大化の改新と蹴鞠(39)~体育の日,スポーツの日,玉木正之


続・林舞輝さん,河内一馬さんについて~あるいはジーコ・ジャパンの総括


 つまり、玉木正之氏は「〈スポーツ〉そのもの」を唱えながら、しかし「〈スポーツ〉そのもの」を理解していないのではないかと、根本的な疑念が生じるのである。

 実は同様の理由で、玉木正之氏にアンチの念を抱くスポーツライターの「同業者」は多い。たしかに玉木氏の、あの中学二年生のような青臭い議論は、かえって敬遠したくなる。分かっている範囲で名前を挙げると、藤島大氏、岡邦行氏、永田洋光氏、美土路昭一氏、秋山陽一氏、牛木素吉郎氏、梅田香子氏(順不同)。その他、ここでは名前が出せない大物など。

 ……ようやく、伏線を回収できそうだ。

これでは「いだてん」の視聴率,ますます下がる?
 そのアンチ玉木正之陣営のスポーツライターのひとりに、武田薫氏がいるからである。

[理由その三]武田薫氏は、玉木正之氏を批判できる。「いだてん」を批評するためには、玉木氏のスポーツ観を相対視できるリテラシーも必要になる。

 武田氏は、これまでにも玉木氏を揶揄する文章を何度も書いており、実名で批判したこともある。それを面白がって読んできた人もいる。あらためていろいろ探してみたら、「激辛スポーツ歳時記~長嶋ジャパンを援護せよ」という文章が見つかった。
武田薫「長嶋ジャパンを擁護せよ」2003年6月2日

 ある人〔玉木正之氏〕が「日本で最初にスポーツライターを名乗ったのは自分」と自慢げに書いているのを見て笑ってしまった。知らないのは怖いものだ。かつては虫明亜呂無などを相手にしない書き手が、スポーツ紙〔報知新聞など〕にはゴロゴロしていた。目は鋭く物怖じせず物知りで、金も家庭も頭にない無頼の輩の理詰めの主張――近寄り難いほど迫力があった。かと思えば、酒好きなロマンチスト。「スポーツライター」などという肩書きが流布するようになって、スケールが小さくなった。若い人が、新聞記者ではなくスポーツライターを憧れるとは、嘆かわしい時代だ。

 虫明亜呂無は、玉木正之氏のスポーツ観に絶大な影響を与えた評論家である。しかし、玉木氏の批判はするが、その川上に位置する虫明亜呂無の批判をするという人となると、なかなかいない。ところが、権威があったころの昔のスポーツ新聞の記者は、虫明亜呂無の小癪なスポーツ評論を小馬鹿にしていた。これは、ちょっとした驚きである。

 玉木正之氏はクラシック音楽やオペラの評論もやるが、武田薫氏はジャズの話をよく書く。上のリンク先のコラムには、古今亭志ん生(5代目)が、若い頃、ジャズ喫茶に足繁く通っていた話も出てきた。志ん生と言えば「いだてん」のもうひとりの主人公のような人だから、歴史リアルが「いだてん」の批評コラムに武田薫氏を起用したら、なかなか面白くなっただろう。

 繰り返すが、歴史系出版社にとって大河ドラマは飯のタネである。今年の作品「いだてん」の批評記事を連載しないのは、もったいない。その適任者もいる。「いだてん」自体は駄作だが、ツッコミのツールすらないのでは視聴率はますます下がる。来年以降の大河ドラマを鑑みても、それは歴史系出版社にとって、かえってマイナスではないだろうか。

 今カラデモ遅クナイカラ……。

(了)



続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

↑このページのトップヘ