前回「サッカーの国際試合と国歌(1)~メスト・エジルの場合」をざっくり……
- 差別問題などで揺れている元ドイツ代表メスト・エジル選手は、国際試合のキックオフ前に行われる国歌演奏のセレモニーで「国歌を歌わない」ことを問題視されていた。
- しかし、もともとサッカーの国際試合では「国歌を歌う習慣」はなかった。例えばイタリア代表(アッズーリ)などは、かなり最近までそうであった。
- 今後のサッカー界は余計なトラブルを避けるために、ナショナルチームの選手・スタッフは国歌を敢えて歌わないよう、FIFAが指導した方がいいのではないか。
中田英寿と「君が代」をめぐる美しい誤解
サッカー日本代表で国歌を歌わない選手と言えば、俺たちの中田英寿である。
1997年のフランスW杯アジア最終予選において、中田が「君が代」を歌わなかったことはいろいろと物議をかもした。
かつて、中田英寿が「君が代」〔日本国の国歌〕を歌わないということで街宣右翼に脅迫や嫌がらせを受けたことを思い出す。日の丸〔や君が代〕は得体のしれない引力があるのだ。スポーツとはまったく違う強度を持った力が。彼らは、目の前のスポーツではなくて、日の丸をまとった〔そして君が代を歌う〕日本の代表が戦う姿を見たい。柔道でもフィギュアスケートでもスノーボードでも、日の丸があがる〔そして君が代が流れる〕ところ以外でそのスポーツを楽しんだことがある人はごくごく少数だろう。本当にスポーツが好きなのか、ただ単に日の丸〔や君が代〕が好きなだけではないか。清義明『サッカーと愛国』56~57頁
「中田英寿は『君が代』を歌わなかった」に関しては、こんな「美しい誤解」が世間に流布している。
中田英寿は「君が代」を歌わなかったから…ではない
そもそも、中田英寿は「君が代」を歌わなかったから問題にされたのではない。1997年のフランスW杯アジア最終予選の各試合の録画を保存している人は、再生してじっくり見てほしい。「君が代」を歌っていない選手なら他にもいる。
いくつかの試合の映像を見てみたが、その選手はずっと「君が代」を歌っていなかった。かなり意志的な選択ではないかと憶測する。
前回「サッカーの国際試合と国歌(1)~メスト・エジルの場合」(2018年08月09日)でも書いたが、もともと国際試合の前に流される両国国歌演奏のセレモニーでは、選手たちが国歌を歌う習慣はなかった。それが普通だった。国歌を歌うようになったのは、かなり後になって、ごく最近になって定着したものだ。
国歌を歌う・歌わないは、「愛国心」や「ナショナルチームへの忠誠心」とは何の関係ない。
1997年当時は、国際的にも日本代表でも国歌を歌う選手・歌わない選手とが混在していた。とにかく「君が代」を歌っていないのは中田だけではないのである。
意図的に日本のカメラから顔を背け続けた中田英寿
それでは、なぜ中田英寿だけが「君が代を歌わない」と言われたのか?
国際試合の両国国歌演奏の時には、ハンディカメラが寄って選手の顔をアップする。その時、中田だけが(わざとらしく)意図的に顔をそむける仕草をしていた。それを再三再四くりかえしたからである。
これでは、中田が「君が代」を歌わないことが嫌でも目立ってしまう。
こんなことをしていたのは(世界でも)中田英寿だけである。そもそも中田がこんな不審な行動をとらなければ、「君が代」を歌っていないなどと問題視されることもなかった。つまり、翌1998年1月に起こる『朝日新聞』とのイザコサもなかったのである。
この件に関しては、中田英寿(と彼のマネージメント会社サニーサイドアップ)にも問題がある。
「反日」ではないが「嫌日」の中田英寿
中田英寿が「君が代」を歌わなかったのは、右から見て「反日」、左から見て「ナショナリズムへの抵抗」……といった、すなわち政治的な理由ではない。それとは違う社会的・文化的な理由である。
ゼノフォビア(xenophobia,外国人恐怖症または外国人嫌悪)という概念があるが、中田英寿には、いわば「日本フォビア」「日本(人)嫌悪」とでも言えそうな感覚がある。換言すれば「反日」ならぬ「嫌日」である。
例えば、Jリーグ時代はほとんどサインに応じなかったという中田英寿は(増島みどり氏がそう書いていた)、しかし、欧州では気軽にサインに応じる(これはテレビで大写しにされていた)……といったことである。
その他、逐一引用はしないが、中田の言動・立ち振る舞いの端々からコレを感じとることができる。
例えば、Jリーグ時代はほとんどサインに応じなかったという中田英寿は(増島みどり氏がそう書いていた)、しかし、欧州では気軽にサインに応じる(これはテレビで大写しにされていた)……といったことである。
その他、逐一引用はしないが、中田の言動・立ち振る舞いの端々からコレを感じとることができる。
外国人嫌悪ならともかく(よくないが)、自国(人)嫌悪とはいかにも不思議な感じがする。だが、少なくとも日本においては「自国(人)嫌悪」という気質は一定の存在意義がある。日本という国、日本人という人々は、欧米の主要国のそれに比べて何かとよろしくないという観念が強いからだ。
なかんずく日本のスポーツ界はそうだとされている。
だから「日本的な(スポーツの)在り方」をはみ出したり、批判的な言動・立ち振る舞いをしたりするアスリートが時々出てくる。野球の江川卓とか、ラグビーの平尾誠二とかがそんな感じだった。江川も、平尾も、その分、少し過剰評価されたような感がある。
これを徹底的にこじらせると中田英寿というパーソナリティーが出来上がる。したがって中田は、さらに過剰な評価をされている。
ずいぶんと〈ヒデ〉も「君が代」騒動で嫌な思いをしただろう。しかし、その厄介は一義的には中田自身が招き入れたものだ。
つまり、中田英寿が「君が代を歌わなかった」という問題は、元ドイツ代表メスト・エジルや元フランス代表クリスティアン・カランブーのように、ナショナリズムへの複雑な心情や苦悩を内面に抱え、したがって自国の国歌を歌わなかった選手たちとは同列に論じる性格のものではない。
(了)