スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

2018年07月

「最近の若い者は…」という愚痴とサッカー
 どこまで本当だか分からないが、5千年前だか、3千年前だかの古代文字、メソポタミアの楔形文字だか、古代エジプトのヒエログリフだかを解読したら「最近の若者はなっとらん!」という年長者の嘆きが書かれてあって、それって現代のオジサンたちの愚痴といっしょじゃないか……という、笑い話がある。

 これと似た話が実はサッカーにもある。

「勝利至上主義」でサッカーはダメになった?
 サッカーは、いわゆる勝利至上主義で、年を経ることに守備的になって点が入らなくなった、つまらなくなった、スポーツとして駄目になった……みたいなことがよく言われる。この種の言説の代表的人物として、文化人類学者の(散文ポエマー)今福龍太氏がいる。

 1990年代半ばのサッカーについて述べた、いささか古いものではあるが……。
 サッカーを見ながら……いやな経験をしたのが、一九九四年のワールドカップ・アメリカ大会だった。私〔今福龍太〕の不満は、……「負けないサッカー」が、この大会に横行したことであった。

 「負けないサッカー」ではなく「美しいサッカー」を標榜する伝統を持ったコロンビアやメキシコといった魅力的なラテン・サッカーのチームが早々と姿を消し、防御的な布陣を敷いてカウンター攻撃で勝利して勝ち上がったヨーロッパ系のチームが粗野で凡庸な試合を繰り返す。決勝に出たブラジルですら、イタリアの前に徹底して守備的に試合を運び、ついには双方引き分けでPK戦で何とか決着をつける……。こんなサッカーを私たちは本当に見たかったのだろうか?〔中略〕

 こうした三年前のアメリカ大会の印象は、昨年(一九九六年)の欧州選手権でも少しも変わることがなかった。伝統的にもっともフォーメーションを重視した「負けないサッカー」を信奉したドイツと、これまた守備的布陣を敷き、カウンター攻撃一本にかけたチェコが決勝で戦ったことを見てもわかるように、こうした戦術の徹底の背後には、勝利至上主義……の原理がはたらいていた。

今福龍太『フットボールの新世紀』100~102頁

 1990年代は守備的サッカーの時代で、W杯やユーロなど主要な国際大会ではスコアレスドローやPK戦が頻出した。だから、今福氏の言い分ももっともらしく聞こえた。

 そして、ここで「負けないサッカー」の権化として槍玉に挙げられているのは、やっぱりドイツ代表である。

「科学」でサッカーはダメになった?
 そうした状態は2000年代以降は解消される。すると今度は、徹底したデータの集積、その詳細な分析に基づいた統率の取れた戦術を徹底的にチームに落とし込んだサッカー=「科学的サッカー」が批判の対象になる。科学的サッカーは、サッカー本来のロマンチシズムを奪っているのだと。

 そして、そうした「科学的サッカー」の権化として槍玉に挙げられるのは、やっぱりドイツ代表である。

 これに関しては、例によって今福龍太氏がいろいろグダグダ述べている。
 当ブログは、先のエントリーで今福氏の言い分への疑いを書いた。
 ここでは、今福龍太氏(や細川周平氏)のような特殊な職業インテリだけが科学的サッカー批判&ドイツ代表批判をしているわけではないことを紹介する。『サンケイスポーツ』のサッカー担当キャップ・浅井武記者の2018年ロシアW杯のコメント。大会の展望……というか、願望である。
「サンケイスポーツ」浅井武記者コメント20180615
【浅井武記者のコメント,『サンケイスポーツ』2018年6月15日電子版より】


★浅井記者 アルゼンチン
 ドイツの連覇は絶対に見たくない。ゲルマン魂とフィジカルの強さで勝負していた一昔前は好きだったが、いまはデータ会社と組むなど戦略的に戦い過ぎ。真面目なドイツ人がサッカーから〈ロマン〉を奪おうとしている。対照的に、個々がドリブルで打開をはかるアルゼンチンの戦い方には気概を感じる。この大会が最後かもしれないメッシの笑顔も見たい。
 この発言は物議を醸した……とまでは言わないが、違和感を表す人もいた。
 勝利至上主義に基づいた「負けないサッカー」と「科学的サッカー」でサッカーがつまらなくなるのは、現代スポーツの病理なのだろうか?

堀江忠男氏の回想より
 ここであらためて紹介するのが故・堀江忠男(ほりえ・ただお)氏である。

 堀江忠男。1913年生まれ。1936年ベルリン五輪サッカー日本代表。「ベルリンの奇跡」の出場選手のひとり。マルクス主義経済学者として早稲田大学教授。サッカーの指導者として早稲田大学ア式蹴球部(サッカー部)監督。釜本邦茂、森孝慈、岡田武史、西野朗らを育てた。ラジオパーソナリティー・吉田照美氏は大学の教え子である。2003年永眠。

 堀江氏は、本業の経済学者として、1966年1月、英国ケンブリッジ大学に短期留学した。その時、堀江氏が理髪店に散髪に行った時のエピソードである。
 そのころのイギリス〔イングランド〕は、夏におこなわれるサッカーのワールド・カップ〔1966年W杯イングランド大会〕のことが、もういたるところで話題になっていた。ロンドンのあるデパートに展示されていた純金の大カップ〔ジュール・リメ杯〕が白昼〔はくちゅう〕堂々盗まれて消えてしまったという「大事件」が、ワールド・カップの前景気をかえってあおり立てていた。

 ある日、床屋〔とこや〕へ行ったとき、はさみを使っている〔理髪師の〕若者との間で、カップ盗難事件のことをきっかけに、サッカー談義が始まった。

 「このごろの〈科学的〉と称するサッカーは面白くないね。正確だが迫力のないパスで安全に攻め、守りを固くして逃げ切ろう、というやり方だ。昔ふうの、大きなゆさぶりをかけて突っこむのが、ほんとのサッカーの味だ。」

と私〔著者・堀江忠男氏〕がいえば、

 「その〈科学的〉サッカーというのがほんとに〈科学的〉なのか、それが問題ですよ。」

と若者が相づちを打った。私が、三〇年前のオリンピック〔1936年ベルリン五輪〕に出た、と口をすべらしたら、「そういう方の頭をからしていただくのは光栄です。」とかしこまられたのはくすぐったかった。同時に、さすがサッカーの母国イギリスだと思った。

堀江忠男『わが青春のサッカー』岩波ジュニア新書(1980年)123~124頁

 これを読んで大笑い。「昔のサッカーはよかった」「負けない戦術が横行してサッカーは駄目になった」「最近の〈科学的サッカー〉とやらはつまらん」……こういった話は、今から50年以上前、1966年の「昔」から存在したのだ。

 「最近の若い者は……」と繰り言をしていた古代人のオジサンたちと変わりがない。

 1966年や1970年のW杯の試合の映像を見て、現代のそれと比べてみると、昔のサッカーはユルユルスカスカで単純に(ゴールもたくさん決まりそうで)面白そうに思える。そんな時代でも現代のサッカー論壇と同じことが言われていたのは、非常に興味深い。

 今福龍太氏あたりの、おどろおどろしい「近代批判」的サッカー観は、話半分くらいに聞いておくのが無難ではないのか。

(了)



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今福『薄墨色の文法』:思わせぶりな修辞の本。
今福の文はすべてそうだけれど、オリエンタリズム的なエキゾチズムを、青少年を堕落させる気取った修辞に包んだ本。叙情的な書きぶりは、ときにいいなーと思えることもあるんだけれど、それはむしろオカルト的な方向に流れる不健全な叙情性で、読んでるうちにだんだんうでを思いっきりのばして、あまりこの文がすり寄ってこないようにしたくなる感じ。自分でもそうなので、書評なんかして人に勧めたいとはなおさら思わない。



ミネイロンの惨劇と今福龍太氏の再登場
 ジャーナリスト・神保哲生氏と社会学者・宮台真司氏が主宰する、ニュース専門インターネット放送局「ニュース専門ネット局 ビデオニュース・ドットコム」の番組『マル激トーク・オン・ディマンド』の第692回、2014年7月19日、ブラジルW杯の時に放送された「今福龍太氏:ブラジルサッカー惨敗に見る〈世界の危機〉」が再放送されている(下記リンク先参照)。


【YouTube版より】

 ブラジルW杯といえば、印象的なのが準決勝のドイツvsブラジル戦。ブラジルがドイツに1対7という信じられないスコアで大惨敗した試合「ミネイロンの惨劇(または悲劇,衝撃)」である。
ミネイロンの惨劇
【ミネイロンの惨劇:メスト・エジル(左,ドイツ)とダビド・ルイス】

 日頃、息をひそめて生活しているアンチ・ブラジルのサッカーファンも痛快……を通り越して呆気にとられる試合であった。ドイツは決勝でもアルゼンチンに勝って4回目の優勝を遂げる。

 このブラジルの大惨敗とドイツの優勝。同番組のゲストで文化人類学者(東京外国語大学教授)の今福龍太氏が語るところでは、これこそブラジルサッカーの危機……のみならず、サッカーの危機、スポーツの危機、それどころか「世界の危機」の反映なのだという。
今福龍太「ビデオニュースドットコム」(小)
【今福龍太氏(番組より)】

 それは、一体どういうことなのだろうか。

今福龍太氏が言わんとするところ
 動画サイトで見られる今福龍太氏のインタビューはプレビュー(導入部分)だけで、課金しない限り全体を視聴することはできない。

 それでも番組ウェブサイトのイントロダクションの文章だけでも十分な情報量がある。加えて2014年7月に刊行された文芸誌『en-taxi〔エンタクシー〕』第42号に掲載された今福氏のエッセイ「フチボルの女神への帰依を誓おう」とを読み合わせてみれば、今福氏が番組で何を言わんとしていたかは、おおよそ分かる(いずれも下記リンク先参照)。
 詳しくはリンク先の文章をじっくり読んでいただくとして、今福氏の言う「世界の危機」を強引に要約すると、次のような感じになる。
 勝利至上主義に徹した膨大なデータの集積と科学的な分析、高度に統制された戦術、そして近現代的な「合理性」を重んじるドイツサッカー。

 一方、ラテン的な即興性や遊戯性、美しさといった数字に表れない、勝敗を超越した価値を尊(たっと)ぶ、「偶然性」にあふれたブラジルサッカー。

 2014年のブラジルW杯で、ブラジルはドイツに惨敗し、ドイツは優勝した。

 今回、顕在化したのは、この2つの価値観、「合理性」対「偶然性」の対立である。それは実際はサッカーの枠を遙かに超え、今日われわれの社会生活の至るところで衝突している価値対立と共通している。

 効率、スピード、コンビニエンス、収益性といった合理的な(ドイツ的な)価値を無批判に受け入れるあまり、私たちは、社会からも、人生からも、(ブラジル的な)偶然性や非合理性という「別の大切なもの」を消し去ってはいないか。

 それは果たして本当に私たちの生活を豊かにすることにつながっているのか。いや、そもそも豊かさとは何なのか?

 それが「世界の危機」なのだ。
 いかにももっともなことを述べているが、今福龍太氏の言い分をよくよく読んでみるとおかしなところだらけなのである。

世界の危機,嫌ドイツ思想,科学的サッカー批判…
 そもそも今福龍太氏は、遅くとも1990年代からサッカーの危機だ、スポーツの危機だ、時代や社会の(延いては「世界」の)危機だという話を、オオカミ少年よろしく繰り返してきたのである(参照:今福龍太『フットボールの新世紀』94~123頁)。

 1990年代は守備的サッカーの時代で、W杯やユーロなど主要な国際大会ではスコアレスドローやPK戦が頻出した。だから、今福氏の言い分ももっともらしく聞こえた。それが解消された2000年代以降、今度は国際大会でコンスタントに好成績を上げるドイツを、勝利至上主義、近代合理主義、科学主義などの象徴として非難の対象とするようになったのである。

 いわば「嫌ドイツ思想」であるが、その更なる源流は、1989年刊、現代思想系の音楽学者・細川周平氏の『サッカー狂い』まで遡(さかのぼ)ることができる。細川氏と今福氏はオトモダチ同士であり、この2人のサッカー評論のテイストはとても近しい。そして、今福氏がサッカー論壇で重用されているのと同様、『サッカー狂い』は一部でカリスマ・サッカー本扱いされている。

 だが、「日本人は農耕民族だからサッカーでは……」という与太話から始まり、自虐的な日本サッカー観を繰り返し吐露している『サッカー狂い』過剰に賛美することは危うい。

 日本サッカー界の本流は1960年代から「親ドイツ」であった。その成果で日本代表は1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得する。しかし、その後、1970年代初めから1992年ごろまで日本サッカーは長い長い低迷期に入る。細川氏の「嫌ドイツ思想」は、そうした時代背景、サッカー界主流への反動の表出も勘案するべきである。だから『サッカー狂い』を「サッカー冷遇時代のひがみ根性丸出しの一冊」と辛辣に評価する向きもある。

 さらに「最近の〈科学的サッカー〉とやらは、守りを固くして逃げ切るサッカーなので面白くない」という程度の話なら、実は1966年(!)のW杯イングランド大会の頃からある(参照:堀江忠男『わが青春のサッカー』123~124頁)。

 つまり、今福龍太氏の持論は昔から存在する陳腐なネタなのである。

サッカーブラジル代表の現実的側面
 勝利至上主義(ちなみに今福氏が言う「勝利至上主義」とは,競技スポーツにおいて勝敗を争うことそのものを指す)と科学的サッカーに徹したドイツは、美しいサッカーを重んじるブラジルから大量7得点をあげた。また、オランダは前回王者のスペインから5得点をあげて大勝した。ブラジルW杯では、サッカーというゲームの意味を度外視して、手段を選ばず貪欲に得点を狙いに行く醜いサッカーが横行している……。

 ……ブラジルではこんなことありえない、と今福龍太氏は言うのだが、これはいずれも正しい指摘とは言えない。

 だいたい、昨今の高度に科学化・データ化されたサッカーというのはドイツのだけがやっているのではない。当然、ブラジルだって、スペインだって……やっている。「〈ドイツの合理性〉対〈ブラジルの偶然性〉の対立」といった単純な図式は成り立たない。

 「ミネイロンの惨劇」の試合自体も、前半に1~2失点する間にブラジル守備陣が完全なパニックに陥り、負のスパイラルから更なる失点を重ねたものだ。
 主力選手2人(ネイマールとチアゴ・シウバ)の欠場という不運はあったが、この惨劇はブラジルが自壊自滅して招いたもので、ドイツをに八つ当たりする性格のものではない。

 今福氏は、ドイツの勝利至上主義の背景には勝利することによって得られる莫大な経済的利益があるとも言う。しかし、それを言うならば、サッカードイツ代表がビッグビジネスである以上に、サッカーブラジル代表の方こそ、動く金が大きいビッグビジネスである。

 ブラジル代表は貪欲に大量得点を狙いに行くようなサッカーはやらないのかというと、記録を見る限りこれも怪しい。例えば、2016年6月8日、コパアメリカ・センテナリオ(大陸選手権)でブラジルはハイチに7対1で大勝している。また、同年10月6日のロシアW杯南米予選では、ホームのブラジルはボリビアに5対0で大勝している。
 後者については説明が必要であろう。当時、ブラジル代表はW杯予選の成績不振でロシア本大会出場が危うい状況にあった。そこでそれまでのドゥンガ監督を解任し、チッチ監督に交代。巻き返しに必死の状況にあり、ブラジル代表は是が非でも勝たなければならなかった。しかも、W杯予選はリーグ戦だから得失点差で1点でも上乗せが必要だった……。

 ……ブラジルはブラジルで勝利至上主義なのである。そして、よもやブラジル代表がロシアW杯本大会の出場を逃せば、莫大な経済的損失が出る。

 今福氏には、サッカーブラジル代表のそうした現実的側面が見えていないのではないか。

ブラジルW杯反対デモに見る今福龍太氏の問題点
 現実が見えていないといえば、2014年W杯に際してブラジル各地で頻発したW杯反対デモについてもそうである。あれだけのサッカー大国なのになぜ……。この問題でも今福龍太氏はおかしなことを述べている。
 今回ブラジルでは自国でのワールドカップ開催に反対するデモや抗議行動が各地で起きた。サッカー王国ブラジルでのワールドカップ開催に反対運動が起きたことに違和感を覚えた方もいたかもしれない。しかし、今福氏はあのデモはワールドカップがFIFA(国際サッカー連盟)や大手スポンサーにお金で買われてしまったことに抗議するデモだった面が大きいと指摘〔!〕する。自分たちがこよなく愛するサッカーをカネで売り渡してなるものかというブラジル市民の意思表示だった〔!〕と〔今福氏は〕いうのだ。

 これには唖然とした。

 むろん、現実は今福氏の解釈とは違う。W杯反対デモ頻発の理由は、ブラジル社会の極端な格差と貧困、庶民の生活の苦しさである。サッカーW杯に巨額な費用を注ぐくらいなら、教育・医療・福祉などに予算を割いて私たちの生活を少しは良くしてくれ! ……というブラジル庶民の切実な声である。
 この人は、自身の思い入れのある対象を、事実・現実を歪曲して何かとロマンチックに美化して語る傾向があって、ブラジル社会の深刻な貧困問題などについて語るときなどは特にそうである(参照:今福龍太『スポーツの汀〔なぎさ〕』114~130頁)。
スポーツの汀
今福 龍太
紀伊國屋書店
1997-11

 この点は、今福氏の深刻な問題点ではないか。

今福龍太氏の「研究」と「意見」
 2018年のロシアW杯に際して、今福龍太氏の登場回を再放送するにあたり、神保哲生氏は「4年前のW杯時の番組の再放送です。今回ドイツもダメっぽいのはなぜだろう」などと、何とも呑気な(失礼ながら)ことを述べている(先に引用したツイート参照)。

 こんなコメントが出るのも、起用する側が今福龍太氏を買いかぶりすぎているからである。今福氏の言う通り「世界の危機」なら、2014年ブラジルW杯以降もあらゆる国際大会でドイツ代表が勝ち続けるはずである。

 しかし、2018年ロシア大会でドイツは1次リーグで敗退した。世界最大級のイベントとはいえ、FIFAワールドカップは所詮はサッカー、所詮はスポーツにすぎない。サッカーなり、W杯なりは、今福氏が思っているような意味での「世界の縮図」ではないのである。
 日本人の間に、人文学における「研究」と「意見」の区別ができていない……。カントからフッサール、ハイデッガーに至る面々は、哲学者、フィロソファーであって、哲学という学問をやっている。ニーチェやキェルケゴールになると、これは学問というより、自分の考えを述べている人たちである。

 日本人は、どうも「事実」と「意見」の区別が苦手らしく、ために時おり、混乱が起こる。

小谷野敦「評論家入門」27~28頁

 サッカージャーナリズムやサッカー論壇で、文化人類学者の今福龍太氏は何かと重用される。凡百なサッカーライターの上に立って、あたかも「文化人類」という高い次元の「研究」成果や学識から、サッカーにまつわる現象・事象を分析し、その本質を私たちの前に示してくれる……という期待がなされている。

 しかし、これは期待外れの間違いである。

 この場合、今福氏は学者というより、良くも悪くも「思想家」なのであって、自分の考え(意見)、自分の過剰な思い入れ(意見)を述べているにすぎない。「ビデオニュース・ドットコム」の2014年のブラジルW杯の評価に関して言うと、今福氏は実際にあることを「思想」によって捻(ね)じ曲げて解釈し、ブラジル贔屓の引き倒しをしているだけなのだ。

 この時に、今福龍太氏を起用したひとり、神保哲生氏はリアルなジャーナリストであり、名門・桐蔭学園でラグビーにいそしんだリアルなフットボーラーである。その神保氏が、今福氏の「知の欺瞞」(言い過ぎだろうか)に突っ込めないのは、何とも残念である。

 ありていに言えば、今福龍太氏はミスキャストである。
サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07



 それでも「ワールドカップ,サッカー,そして世界」などという大風呂敷な議論をしたいなら、慶応の大学院で政治学を修めたサッカージャーナリスト・後藤健生氏の方が適任だったのではないか。

(了)



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外れた予想,やっぱり当たってしまう予想…
 ロシアW杯開幕前は絶望的な予想ばかりしていました。ほとんど外れてしまったことは(大変喜ばしいことですが)、己の不明を恥じ入るばかりであります。

 しかし、どうしても外れない予想というのもある。「日本人は根っからの農耕民族」だから「狩猟民族である欧米人やアフリカ系黒人のスポーツ=サッカー」では「世界」に勝てない……という、ひたすら自虐的なサッカー文化論・日本人論の頻出である。

セネガルとの激戦見て民族ルーツ論に終止符?
 ロシアW杯第2戦のセネガル戦を終えた2018年6月25日、『日刊スポーツ』首藤正徳(しゅとう・まさのり)記者の「セネガルとの激戦見て民族ルーツ論に終止符」というコラムが、同紙の電子版に掲載された。
 首藤記者は、岡野俊一郎氏の「サッカーは本来狩猟民族のスポーツ。農耕民族の日本人は欧米人と比べて骨格と筋肉量で20%劣る。それが弱い理由」という持論に同感していた。だが、ロシアW杯での日本代表の奮闘ぶりを見て、考えを改めたというものである。

 首藤記者が楽観的過ぎて、かえって不安になるのである。
 この時点では、日本代表はまだ決勝トーナメント進出を決めていない。第3戦のポーランド戦で勝ち上がりを逃したら(危うくそうなるところだった.いや,面白いものを見せていただきましたが)……。あるいは勝ち上がってもW杯は優勝しない限りはどこかで負ける。その対戦相手は、たいてい「狩猟民族」の国である。

 だから、またもや「やはり日本人は農耕民族だからサッカーが弱いのだ」という言説が蔓延(はびこ)りだすのである。

それでも日本人は農耕民族
 今回、サッカー日本代表はまったく期待していなかった。それだけに、初戦のコロンビア戦に勝って感激。劇的な1次リーグ勝ち抜けでまた感激。決勝トーナメント1回戦で優勝候補のベルギーに善戦して感慨に耽(ふけ)り、試合終了間際の失点で敗退しても殊さらにショックというわけではなかった(個人的には)。

 それでも、彼我の差(日本とベルギー=欧米・アフリカ系黒人の差)を「農耕民族と狩猟民族の差」として解釈したがる人は後を絶たない。
 これだけでも十分に「自虐的」かもしれない。ロシアW杯は日本にとって好ましい結果だからこの程度で済むのだが、2014年ブラジルW杯のように惨敗してしまうと、日本のサッカーファン・関係者から過激な「自傷行為」としてネットや紙媒体に表出してしまう。

ドイツ=ゲルマン魂,アフリカ=身体能力,日本=農耕民族…
 よもやドイツが1次リーグで敗退するとは思わなかったが、それでも第2戦のスウェーデン戦にタイムアップ寸前の得点で逆転勝ちした時、いかにもドイツらしい勝ち方で「ワールドカップだねぇ……」としみじみとした気分に浸ってしまうのであった。

 こうした伝統的で驚異的な勝負強さと精神力を、日本では「ゲルマン魂」と呼びならわしてきた。報道でもそうした表現は多い。しかし、「ゲルマン系」ということではスウェーデンも同じであるし、またドイツにはトルコ系やポーランド系の選手が多数いる……。
 ……すなわち、こうしたスポーツ記事のステレオタイプな見出しに悪気はなくても、記者の人種的偏見が現れているのではないか。

 あるいは。ナイジェリア、セネガル、カメルーン、コートジボワールといったサブサハラの(黒人系)アフリカ諸国のサッカーといえば、選手の驚異的な「身体能力」である。ところが、これもステレオタイプの人種的な偏見であるという。
 しかし、である。「ゲルマン魂」言説(メンタル)にせよ、「身体能力」言説(フィジカル)にせよ、「農耕民族」である日本人の心身両面における「個」の弱さというステレオタイプの言説と対になっているのである(前者は、ドイツでコーチライセンスを取得した湯浅健二氏がよくやりたがる)。だが、何故か、こちらの方は問題視されない。

 これは当ブログの偏見なのだが(ですので,間違いがあったら教えてください)、日本のスポーツ社会学なり、カルチュラルスタディーズ(カルスタ)のスポーツ学というのは、多分に「輸入学問」であり、「知的ファッション」であって、彼の国々の流行りの思潮を日本を持ち込むことには一生懸命でも、足元の問題(サッカーにおける日本人農耕民族説など)を視界に入れて研究対象とすることには、無頓着なのではないか。
山本敦久@a2hisa
【山本敦久氏のツイッター画面より】

 自己への偏見の批判と克服なくして、他者への偏見の批判と克服もまたあり得ないのだが(この問題は機会を改めて取り上げたいと思います)。

サッカークラスターの懲りない面々
 五百蔵容(いほろい・ただし)氏といえば、2018年4月のハリルホジッチ日本代表監督更迭以来、これを批判する鋭い発信を続けてきた人である。

 その五百蔵氏ですら、自身の専門と離れたところで以下のようなオフサイド気味の発言をしてしまう。「レジー」氏のインタビューで、日本と欧州の「サッカーを捉える視点の違い」について述べるくだりである。
---ちなみに、日本〔のサッカー〕で「陣取り合戦」「エリア戦略」といった考え方が浸透していかない現状について、何か理由として考えられるものはありますか?

五百蔵:これは僕のオリジナルの意見ではないんですが…以前Twitterで話を聞いて個人的にこれは言い得て妙だなと思ったのは、ヨーロッパだとサッカーは「ゲーム」で、日本だと「体育」なんじゃないかと。〔玉木正之氏の受け売りか〕

---「ゲーム」と「体育」ですか。その違いは何でしょうか。

五百蔵:先ほどサッカーは戦争のシミュレーションでもあるって話をしましたが、国同士が地続きのヨーロッパでは、何かあったら戦争になって自分の地域が危うくなるというのが現実的な問題として捉えやすいんだと思います。そんな中で、「いざという時に備えて」という意識も含みつつ、ボードゲームや陣取り合戦の性格をもつボールゲームを生み出した人たちにとって、サッカーはリアルな戦略ゲームになります。一方で、海に囲まれた日本ではなかなかそういう意識が生まれづらいうえに、学校で「教育の一環」としてサッカーを習う。そうなると、「教育」である以上はみんながちゃんと参加することが求められる。サッカーはボールを使うゲームなので、「参加する」というのはそのまま「ボールに触る」ということになりますよね。ゲームで勝つためにこのエリアを押さえるという発想じゃなくて、みんながちゃんとその授業に参加するためにボールを持とうと。こういうところに、いわゆるパスサッカー幻想の根っこがあるんじゃないかなと。こじつけっぽい話ではありますが(笑)。

 日本=島国論もまた、日本人農耕民族説とセットで登場することが多い、ポピュラーな文化論・日本人論である。その昔、佐山一郎氏は「マンガの『課長島耕作』の主人公はきっとサッカーが下手糞に違いない」などという、つまらぬダジャレを書いていた。

 また、ユニークなサポーター活動を実践と啓蒙をしている「ロック総統」は、ロシアW杯に際してこんなツイートを発している。
 この中にある「トヨタやソニーにように……」云々は、実は1998年頃に、あの金子達仁がほとんど同じことを書いていた(初出は雑誌のコラムだが、単行本の『惨敗』に入っている)。

 サッカーファンやサポーターに対して大きな影響力を持つ五百蔵氏やロック総統のような人が、この種の発言をしてしまうのはとても残念なことだ。こうした俗信はたやすく「自虐的な日本サッカー観」「日本人ダメダメ論」に転化しやすいからである。

 五百蔵容氏もロック総統も、こんなことばかり書いていたら電波ライターになっちまいますよ。

サムライブルー? 農民ブルー? 百姓ブルー?
 サッカー日本代表は、その「公式」の愛称をチームカラーとかつて存在した武士階級にちなんで「サムライブルー」と呼びならわしている(単数形とか複数形とか文法的な問題はないのだろうか?)。しかし、日本人のすべてが「サムライ」だったわけではない。

 山川出版社の高校日本史の教科書に載っている、江戸時代の(現在の秋田県の)人口構成。武士(サムライ)は10%足らず、城下町などに住む「町人」は7.5%、そして「農民」は約75%。なるほど、いかにも日本は「農耕民族」に見える。

 ところが、この人口構成の原史料の表記には「農民」ではなく「百姓」とある。

 語源的に「百姓」とは農民に限定された意味はなく、単なる一般庶民のことである。むろん「百姓≠農民」であり、日本の「百姓」も稲作農耕に限定されない、山民や漁民など多彩な生業で構成されていたことは、異端の歴史学者・網野善彦氏が繰り返し説いてきたところである。

 また日本列島の社会は、歴史的に海・湖・川の水路を使った交流や物流が大変盛んであり、それは陸路の交通を上回るものであった。そして、その規模は「日本国」の国制をはみ出すものであった。これも網野善彦氏が繰り返し説いてきたところである。

 すなわち、日本人は「農耕民族」ではないし、日本は孤立した「島国」ではないのである。

 もっとも、いちど滲(し)みついた「常識」はなかなか覆らない。網野先生の批判も搦手(からめて)から攻めるという感じだった。必要なのは、日本人農耕民族説を包括的かつ正面から批判する仕事である。

 それは、ちょうど小熊英二氏の『単一民族神話の起源~「日本人」の自画像の系譜』のような労作だ。

 これに匹敵する研究と成果を、若い有志のアカデミシャンに期待したのだが、対象(日本人農耕民族説)があまりにも茫漠(ぼうばく)すぎて、誰も手が出せないのだろうか?

(了)



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