スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

2018年06月

 日本人と同じく、横断歩道で赤信号を守るポーランド人から世界レベルのストライカー、レバンドフスキが出た。

そもそも「赤信号文化論」とは何か?
 日本人農耕民族説と並んで、サッカーにおける「日本人ダメダメ論」&「自虐的日本サッカー観」サッカー日本人論,あるいはサッカー文化論)の定番ネタに「赤信号文化論」がある。それは……。
 ……日本人は、赤信号だと車が来なくても横断歩道を渡らない。

 すなわち、日本人は「規則」や「御上の権威」、「組織」、集団が醸しだす「空気」に従順である⇒つまり、日本人は「個人」で物事を判断することができない……。
横断歩道_信号待ち
 ……要するに、ドリブルか、パスか、シュートか、するべきプレーを瞬時に「個人」の責任で決定しなければならないサッカーというスポーツは日本人に向いていないのだ。

 なかんずく、シュートしてゴールを奪うという「決定力」においては……。
 ……というものである。

トルシエの赤信号文化論
 赤信号文化論を日本人に広く周知させたのは、何といっても元日本代表監督フィリップ・トルシエである。在任中2001年に著(あらわ)した『トルシエ革命』に言及がある。
 〔個人の〕責任と判断に関しても、同じことがいえる。日本人はテーマと目標が与えられれば、それを成し遂げるために素晴らしい集中力を発揮する。組織のために自己を犠牲にする精神は、日本社会の大きな力になっているのは間違いない。

 ただその特性が日本人から自らの責任において判断する力を奪っている。赤信号の例などは、まさにその典型であろう。車が来ないことがわかっていても、多くの日本人は赤信号では決して横断しようとはしない。しかし信号を守るのは身の安全を確保するためであって、規則を守ること自体が目的ではないはずだ。秩序・規範は社会が定めるものであるが、自己の価値判断とのせめぎあいは常に存在する。それが市民として社会を生きるということなのだから。

 サッカーは自己表現のスポーツだ。

 そして自己表現のためには、自ら判断し責任を引き受ける人間の成熟が求められる。サッカーは大人のスポーツなのである。

フィリップ・トルシエ『トルシエ革命』75~77頁

トルシエ革命
フィリップ トルシエ
新潮社
2001-06


 反対に、フランス人は赤信号でも車が来なければ、平気で横断歩道を渡ると言う。フランスは、歴代のW杯優勝国に名を連ねている世界的なサッカー強豪国である。

 だいたい同時期の赤信号文化論として、これまた日本人論が大好きなサッカー評論家・湯浅健二氏のコラムのリンクするので、参照されたい。

木村浩嗣氏の赤信号文化論
 赤信号文化論が、2010年代でもサッカー論壇に食い込んでいるという実例として、元『月刊フットボリスタ』誌編集長でスペイン在住の木村浩嗣(きむら・ひろつぐ)氏が2016年1月に発表したコラムを採り上げる。
スペイン人は赤信号でも道を渡る
 こちら〔スペイン〕では赤信号でも車が来ていなければ、人はどんどん道を渡る。それだけでも日本人とは違うが、もっと驚くのは警官がその場にいても黙認していること。

 スペイン人が赤信号でも渡り、それに警官が何を言わないのは、ひかれても自己責任だからなのか、車が来ていないのに信号を守るのはアホらしいからなのかは分からない。おそらくその両方だろう。日本ではルールはルールだから、早朝の人っ子一人いない道でも信号は守らなくてはならないが、スペインではルールは破るためにあるから赤信号でも人は渡る。

 この赤信号を渡るか渡らないかは、サッカーにも反映している。
木村浩嗣「赤信号を渡る国で自己責任について考える」2016年1月29日
【木村浩嗣氏のコラムから】

国民性や気質はサッカーにもきっちり反映
 “赤信号を渡るから国だからこそ、強引にシュートを打つFWが生まれる”という意見も聞いたことがある。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と言ったコメディアン〔漫才コンビ・ツービートのビートたけし〕がいたが、スペイン人は一人でも渡るのである。

 “みんなが渡れば渡れる”というのはいかにも日本的な発想だ。スペイン人の方が我が強いのは事実だから、強引さが求められるゴール前で、シュート意識がより強いのもスペイン人の方だろう。

 国民性や気質はサッカーにもきっちり反映しているわけだが、優秀な日本人FWを育てたいからといって、信号無視やルール違反を奨励するわけにはいかないだろう。やはり、その国はその国の国民性や気質の範囲内でサッカーをしていくしかないのだ。


PDF版
 ……こんな感じで、どうにも話が絶望的な方に振れていくのであった。

赤信号文化論の元祖は後藤健生氏
 知っている人は知っていることだが、トルシエ以前、赤信号文化論はもともとサッカージャーナリスト・後藤健生氏の持ちネタだった。

 1980年代初めのことである。某所の横断歩道で「車が来なくとも赤信号だと横断しない日本人」を見た後藤氏は「バカではなかろうか、欧州ではドイツ人だってこんなことはしない」と感じた。

赤信号文化論発祥地の横断歩道
【赤信号文化論発祥地の横断歩道】

 これをキッカケに、後藤氏は赤信号文化論を持論としていく。氏の実質的なデビュー作といえる『サッカーの世紀』にも、その言及がある。

サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07


 詳しくは原典を当たってほしいが、これまた、どうにも話が絶望的な方に振れていくのであった。

赤信号文化論の放棄と撤回
 その後、日本のサッカーも相応に強くなっていたこともあって、後藤氏はこの手のサッカー日本人論から半身脱していく。そして、赤信号文化論を放棄・撤回する決定的な出来事があった。2012年にポーランド(とウクライナ)で開催された欧州選手権である。
 ポーランドという国を2週間ほど旅してみて、びっくりしたことがいくつかあった。

 〔それは〕横断歩道の信号が赤だと、車が来なくても人々が道路を横断しないことだった。本当に、交通量などゼロに近いところでも、信号が変わるまで人々は辛抱強く待っている。時々、アイルランドのサポーターあたりがしびれを切らして渡りだしたりすると、周りのポーランド人は咎めるような目でそれを見ているので、普段、日本では赤信号でも勝手に横断している僕〔後藤健生〕も「郷に入っては郷に従い」の教えに習って我慢に我慢を重ねたのだった。

 あの順法精神はただ事ではない。つまり、こういう点を見てみると、ポーランド人というのは、きめ細やかさという点で、案外日本人と似ている人たちなのかもしれない。

 赤信号といえば、フィリップ・トルシエが日本代表の監督だったころに、「赤信号論争」というのがあったのをご記憶だろうか?

 「日本人は、赤信号だと車が来なくても道路を横断しない。だから、ダメなんだ!」とトルシエが言ったのだ。それに対して「それは、後藤健生が先に言ったことだ。ダバディあたりがそれを読んで入れ知恵したに違いない」という書き込みが現われたという、たわいもない論争だった。たしかに、僕は「赤信号」の話を1995年出版の『サッカーの世紀』(文芸春秋)に書いた……だいぶ昔のことだった。ただし、実際にダバディがそれを読んだのかどうかは、僕は知らない。

 トルシエの言っているのは、日本人は「道路を横断するか否か」を自らの判断と責任で決めることなく、他人(信号)に任せてしまう。それは、ドリブルか、パスか、シュートか、プレーを自分の責任で決定しなければならないサッカーというスポーツには向いていないメンタリティーなのではないか。日本人がなかなかシュートを打たないのもそのせいなのではないか……。「赤信号論争」というのは、そういう、「文化論」の一種である。

 「サッカーが強いかどうか」ということと、「信号を守るかどうか」は、まったく別の問題なのだ。いや、待てよ! ポーランドは1970年代から1980年代まで世界のトップクラスのサッカー強国だった。それが、今ではEUROでもグループステージで敗退してしまったし、ワールドカップでもほとんど予選を勝ちぬくことができなくなっている。ポーランドがサッカー大国の地位を失ったのは、赤信号だと人々が道路を横断しないからだったのか?

 いや、これは冗談です。だいたい、サッカーが弱いとか、シュートを打たないことを、いちいち文化だろか、教育たとかを持ち出して説明するのを、どうして日本人は好きなんだろう? まあ、そんなことを言った張本人として思うのは、当時、日本のサッカーが弱くて、欧米先進国はもちろん、韓国にもぜんぜん勝てないという事態を、なんとか「サッカー以外のせいにしたかった」という心理だったんだろう。

 サッカーが弱かったのは、「育成や普及のための努力をしていないから」だったわけだし、シュートを打たないのは「キックの技術が下手で自信がないから」でしかなかったわけだ。だが、そんな当たり前のことを認めたくなくて、日本サッカーが弱いのは「体格が小さいから」であり、「集団主義教育のせい」であり、「赤信号で道路を渡らないから」であり、「日本人が農耕民族だから」であると説明したかったのであろう。


PDF版
 後藤氏が言うように、けして「たわいもない論争」でないのは、この4年後に木村浩嗣氏が、あらためて赤信号文化論を展開してしまうからだ。この日本人論は、いまだ日本サッカーを呪縛している。

レバンドフスキは赤信号でも横断歩道を渡るのだろうか?
 今度のサッカーW杯ロシア大会、日本代表はグループリーグ第3戦でポーランド代表と戦う。このチームには世界クラスのストライカーで、大会得点王も狙うロベルト・レバンドフスキがいる。

ロベルト・レバンドフスキ(ポーランド代表)
【ロベルト・レバンドフスキ(ポーランド代表)】

 日本人と同じく、赤信号だと横断歩道を渡らないポーランド人から、こうした選手が出てきたこと。これは日本人論とサッカーのつながりを疑い、考えさせる興味深い実例であろう。

 どうせロシアW杯の前後、日本では自虐的なサッカー日本人論で溢(あふ)れかえるだろう。が、レバンドフスキの存在はちょっとした「精神的ワクチン」になる……かも……しれない。

(了)



このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

日本代表は1995年ラグビーW杯並みの大惨敗を喫するかもしれない?
 秘かに恐れているサッカーW杯ロシア大会最悪の予想は、1995年ラグビーW杯の日本vsニュージーランド戦、ジャパンがオールブラックスに145失点(!)した時のような形で、サッカー日本代表が大惨敗すること。この試合「ブルームフォンテーンの悪夢」の悲惨さは、2014年ブラジルW杯「ミネイロンの惨劇」よりもさら上回る。
ブルームフォンティーンの惨劇
【ブルームフォンテーンの悪夢】

 こんな結末に至った裏事情は、日本ラグビー狂会編『ラグビー黒書』に詳しい(編者の中尾亘孝=なかお・のぶたか=は反サッカー主義者だし大嫌いだが,これだけの本をサッカージャーナリズムで出せるだろうか?)。
ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12

 サッカーだと普通はそこまでならないし、風紀が紊乱して二日酔いになって練習場で嘔吐していた増保輝則のような選手もさすがにいない。しかし、腐ったミカンは存在する。

 ここから日本のラグビーが立ち直る……2015年W杯でジャパンが世界クラスの強豪・南アフリカを破った番狂わせ「ブライトンの奇跡」を起こすまで、実に20年かかった。

 杞憂で終わってほしいです。

日本は無理して勝たなくていいよ.そのためにハリルを更迭したんだから…
 いずれにせよ、日本代表が惨敗するだろうことを前提として話をするが、W杯本大会ではどんな弱小国でも1次リーグで3試合できる(少なくとも2022年カタール大会までは)。

 想像するに、ビジネス的観点からすると、それだけ試合ができれば、わざわざ日本代表が勝たなくとも、十分儲けられる。

 日本代表のスポンサー企業にとっては、日本が勝つことよりも、本田圭佑や香川真司といったスポンサー企業にとって重要な選手がW杯に出場することが大事。そのためにハリルを更迭したんだから。そして、日本が負け続けても、マスコミやスポンサーのCMではその3試合を徹底的に煽り倒すだろう。
JFA公式キリン杯広告香川真司_アディダスジャパン_日本航空
【本田圭佑とキリン(上),香川真司とアディダス】

 特に、最終戦となる3試合目は「本田圭佑 最後の戦い」みたいな言葉遣いで煽りまくるだろう。

「日本人ダメダメ論」と「自虐的日本サッカー観」は確実に出る
 日本が3戦全敗&惨敗すると、マスコミやサッカー論壇、ネットでは、「日本人はサッカーがダメダメ論」「自虐的日本サッカー観」で溢(あふ)れかえるだろう。今回は、適当なことを書いているが、これに関してはほとんど確実である。

 だって、この2つは日本が勝っても(1次リーグを突破しても)出るんだから。これまた日本人農耕民族説の固い信奉者である湯浅健二氏みたいに(下記リンク先を参照)。
日本代表はなぜ世界で勝てたのか? (アスキー新書 161)
湯浅 健二
アスキー・メディアワークス
2010-08-07

 少し時間が経つと、「〈日本人がサッカーで弱いのは科学的にも証明されている〉という疑似科学がマスコミに出てくるであろう。ちょうど、2014年ブラジルW杯の3か月後に、テレビ東京系「FOOT×BRAIN」が(疑似科学だと批判されている)中野信子を出演させてしまったように。
FOOT×BRAIN「目からウロコ!脳科学から見るサッカー上達法!」
2014年9月27日
中野信子_サッカー_フットブレイン3
中野信子_サッカー_フットブレイン2
中野信子_サッカー_フットブレイン1
 脳科学の第一人者・中野信子氏をスタジオに迎えて、今回は「日本人はサッカーに向いているのか?」を大きなテーマに、新たな視点からサッカーについて考えます。民族的に欧州、南米、アジアでは何か違うのか? 従来は肉体的な面での差が語られることの多かったこの手の比較に、番組は脳科学の分野からアプローチ。日本人の特性を脳科学の分野から考えると、今までとは全く違ったトレーニング方法がわかるかも…今回も必見です!!

 「民族」どころか「人種」という概念ですら科学的妥当性はないと言われる時代に、日本のサッカー論壇では「〈日本人〉とかいうホモサピエンスの亜種が自然科学的に存在する.この〈亜種〉はなかんずくサッカーの能力が決定的に劣っている」という言説が大手を振ってまかり通っている。
 ロシアW杯では、いい頃合いでツイッターから蒐集したもの、日本人農耕民族説とか日本人論を当ブログで公開、いささかの解説(ツッコミ)をつけて紹介する予定です。

本田派ライターの提灯記事と見苦しい引退パフォーマンス
 サッカー日本代表 が出場するW杯の試合のTV中継では、国際映像の間に、日本のTV局が撮影した独自映像をバンバン挟み込む。ロシアW杯でも本田圭佑や香川真司を執拗にフォーカスするだろう。
 そして、ロシアW杯で日本が惨敗し、いかにマスコミやネットで「日本人はサッカーがダメダメ論」と「自虐的日本サッカー観」で溢れかえろうと、特権的な立場にある本田圭佑だけは、前回2014年ブラジルW杯同様、テフロンで加工した鍋のごとく焦げ付くことはないだろう。

 スターシステムに乗った選手ばかり注目するマスコミ、あるいは本田派のライターたちは、何よりダメだった日本の中で「本田だけは孤軍奮闘」「本田だけは通用していた」みたいな与太話をいろいろ書くのではないか。
この試合、戦っていのは本田圭佑だけだった
【植田路生氏による2014年W杯の本田圭佑幇間(ほうかん)記事】

 2006年ドイツW杯1次リーグ最終戦終了後、中田英寿は引退後のビジネスのプロモーションを兼ねて、醜悪なパフォーマンスを行った。
英紙も酷評した中田英寿2006ドイツW杯での猿芝居
【英紙も酷評したドイツW杯における中田英寿のパフォーマンス】

 今回のロシアW杯を「集大成」と位置付けていると言われる本田圭佑も何か同様のことをやらかすかもしれない。

本田圭佑は再び「海外逃亡」する
 前回のブラジルW杯と同様、日本代表が惨敗したとして、大会後の本田圭佑は他のメンバーとは一緒に日本に帰国せず、記者会見・インタビューに応じることもなく、再び海外に「逃亡」するだろうと予想できる。
サンスポ20140626
スポニチ20140626
【ブラジルW杯のスポーツ紙1面から】

 本田圭佑は好き嫌いがハッキリ分かれる人物だが、この事件は、本田に反感を持つ人たちの感情が「嫌悪」から「憎悪」に変わった瞬間だった。この時に本田が何か真面目にメッセージを発していたら、私的な好き嫌いは別にして、それなりに評価され、反感も少なかったであろう。

 一方で「本田の行動を批判している人がいるが,次のシーズンに備えて,いち早く渡欧するのは当然」などと擁護した、いたいたいけな人がいた。

 甘やかすから、本田圭佑はますます増長する。本田の、こんなワガママ身勝手をJFAが抑えていたら、ハリルホジッチ氏日本代表解任事件もまた、なかったかもしれない。

本田圭佑と辻政信,あるいは「日本人」の失敗の本質
 大言壮語⇒しかし結果が伴わず日本は惨敗⇒責任者なのに日本に帰国せず海外逃亡⇒こっそり帰ってきて再び大言壮語……のサイクル。前回のブラジルW杯から今回のロシアW杯にかけて本田圭佑がとったこの行動は、旧日本軍の大本営陸軍参謀・辻政信に、よく似ている。
辻政信
【辻政信】

 ちなみに、サッカーやラグビーのW杯で日本代表が惨敗すると旧日本軍の『失敗の本質』に譬えるのは、1980年代からある日本のスポーツ評論の定番ネタである。

 例えば、村上龍氏のスポーツコラム(?)集『フィジカル・インテンシティ』なんかがそうである。

 これもまた旧日本軍の話⇒日本型組織論⇒日本文化論・日本人へと話が飛躍し、「日本人はサッカーがダメダメ論」と「自虐的日本サッカー観」へと展開する様子は、少々皮肉なことにいかにも日本的である。

(了)


続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 小説家・星野智幸氏のエッセイから、サッカー日本代表がW杯で惨敗するたびに頻出する「日本人ダメダメ論」のパターンを解説します。
星野智幸ポートレート
【星野智幸氏】

文学・思想畑のスポーツ評論
 権威があった頃の昔のスポーツ新聞の記者は、虫明亜呂無(むしあけ・あろむ)の小癪なスポーツ評論など馬鹿にしていたらしい(参照:武田薫「長嶋ジャパンを援護せよ」)。

 しかし、時代が変わり関係は逆転した。文学界・思想界の住人が、時々思い出したかのようにドヤ顔でスポーツの領域に踏み入ってきては、勿体(もったい)づけの激しいスポーツ評論をまき散らす。スポーツ界やスポーツマスコミ、スポーツファンは、それを過剰なまでに有難がる……という風潮が、むしろ当然のようになっている。

 文芸誌『en-taxi〔エンタクシー〕』第42号(扶桑社,坪内祐三ほか責任編集)が2014年に掲載されたサッカー・ブラジルW杯の特集は、そんなドヤ顔企画のひとつだった。タイトルは「[特集]サッカーの詩学~〈ブラジル〉のあとに思うこと」

 どこかで聞いたことがあると思ったら、カルスタ系学者たちの手による『サッカーの詩学と政治学』という本があった。「○○の詩学」……とは、いかにもな命名である。


今福龍太と佐山一郎の悪ノリ
 ご多分にもれず『en-taxi』のブラジルW杯特集のコンテンツは、どれも酷い。
特集「サッカーの詩学」エンタクシー42号
【エンタクシー第42号「特集 サッカーの詩学」の扉】

 今福龍太氏は、例によって、過剰な思い入れ、閉鎖的な美意識、勿体ぶった修辞で、思わず鼻をつまみたくなる、自己陶酔のきつい、批評の形(なり)をした散文詩である(参照:今福龍太「フチボルの女神への帰依を誓おう」,題名からしてナルシズム臭がただよう)。

 佐山一郎氏は、例によって、サッカーにおける「日本人ダメダメ論」「自虐的日本サッカー観」の放埓な佐山ワールドを炸裂(さくれつ)させる(参照:佐山一郎「SANURAIとカナリア、その苦痛へのまなざし」,この「まなざし」自体が翻訳調のインテリ臭い言い回しである)。

 今回、なかんずく俎上(そじょう)に載せるのは小説家・星野智幸氏の「ガーラの祭典」である。

「ガーラの祭典」と招かざる客ニッポン
 ところで「ガーラ」とは何か? 「garra」、スペイン語である。もともとは「爪」を意味する単語だが、スペイン語圏、南米ウルグアイ発祥の「勇敢さと不屈の精神力」を意味する概念として伝えられる。

 日本のサッカーファンには、「ゲルマン魂」と呼ばれたドイツ代表(かつての西ドイツ代表)の驚異的な勝負強さや精神力になぞらえて、「ウルグアイ版ゲルマン魂」として紹介されたことがある。
 星野智幸氏は言う。ブラジル大会を見れば見るほど、W杯が「ガーラの祭典」であることを感じる。ウルグアイのみならず、ブラジル、アルゼンチン、チリ、コロンビア、コスタリカ、メキシコと、名勝負を見せてくれたチームには、皆この「ガーラ」が輝いていた。

 中南米だけでなく、アメリカ合衆国やアフリカのアルジェリア(余談だが,このチームの監督がハリルホジッチ氏だった)なども、私(星野智幸)は「ガーラ」を見た。

 「ガーラ」こそ、サッカーの神髄である。しかし……。

 ……ひるがえって日本代表を思い返すと、最も欠けていたのが「ガーラ」だった。そもそも「ガーラ」を日本語にするのは難しい。ガッツ、気合い、根性、気迫、闘魂等々。どれも、しっくりこない。以下、原文から引用すると……。
 日本でいう根性、気合いといった言葉の裏には、精神主義が張りついている。それは、上からの指示への絶対服従(己を殺せ)と、失敗したときの自己責任論(おまえの根性が足りなかったせいだ)が、もたれ合いながら作られた、体育会系的な価値観だ。

 ガーラは、まず何よりも個人の意志から始まる。集団の力が発揮されるのはその後だ。ガーラを待った者たちが集まり、意志の交換を通じて信頼を築き上げたとき、有機的なチームとなる。勝とうという集団的な熱狂だけで、自分の主体が覚醒していない状態であるならば、どうして状況の変化に個々人が機敏に対応できるだろうか。

 私〔星野〕は日本の初戦、対コートジボワール戦を、現地のスタジアムで観戦した。選手たちに気合いは入っていただろう。でもガーラは発動していない選手が多かった。ガーラを見せていたのは、本田〔圭佑〕と内田〔篤人〕だった。〔中略〕

 日本のサッカー文化の中には、まだガーラが育っていないのだ。それを選手にだけ求めるのは酷というものだ。

 「ガーラ」はサッカーの神髄である。しかし、日本のサッカー、日本のスポーツ、否、体育会的な価値観=精神主義は「ガーラ」とは似て非なるものである。日本のサッカー文化の中には、まだガーラが育っていない。つまり、日本人は「ガーラ」を、すなわちサッカーを理解することができない……。

 また「ガーラ」とは「何よりも個人の意志から始まるもの」である。ひるがえって日本人は「精神主義」と「集団的な熱狂だけで、自分の主体が覚醒していない状態」でしかない。日本のサッカー文化の中には、まだガーラが育っていない。つまり、日本人は「ガーラ」を、すなわちサッカーを理解することができない……。

日本サッカー論壇における「構造主義」
 ……こういう話の持っていき方に既視感(デジャヴ)を覚えたのだとしたら、その読者の感覚はまったく正しい。星野氏は、独自性ある見解を示したのではなく、日本のサッカー論壇の「お作法」に従ってこのエッセイを書いたにすぎないからだ。

 日本のサッカー論壇には「日本的であること,日本人であること」はサッカーというスポーツにとって非常に不適格なことである、という考えが根深くある。反面、サッカー的であるということは、それ自体「日本的ではない」のである。

 日本サッカー界は「日本的=非サッカー的/非日本的=サッカー的」という本質主義と二元論の思想に拘束されている。これは大変な劣等感であり、日本人の自虐的な日本サッカー観の基になっている。つまるところ、サッカーにおける「日本人ダメダメ論」と「自虐的日本サッカー観」である。

 日本のサッカー論壇は、1970~80年代の日本サッカー低迷時代から、この図式にのっとって日本サッカーを自虐的に、かつ飽くことなく論じてきた。そうすることで論者は、サッカーへの理解と批評精神の表明をしたとされてきたのである。

 「ガーラ」なる概念を持ってきた星野氏の「まなざし」は、一読するとユニークに思える。が、その実「日本的=非サッカー的/非日本的=サッカー的」なるものの表象を「ガーラならざるもの/ガーラ」として論じてみせただけである。

 また、もうひとつ星野氏が使った「日本的=集団(的な熱狂)=非サッカー的/非日本的=個人(の意志)=サッカー的」の対比の図式は、日本のサッカー論壇が長年にわたり頻々と多用してきた表象である。

 要するに、星野氏は、サッカー論壇の常套句を、少しばかり目先を変えて書いてみせただけにすぎない。あまりにもベタな展開に、読んでいる方がウンザリさせられる。

反動形成として本田or中田を称揚
 加えるに「日本的であること,日本人であること」への度し難い劣等感の反動形成(?)として、「日本人離れ」している(とされる)日本人サッカー選手への度し難い称揚がある。星野智幸氏の場合は本田圭佑であった(もう1人いるが省略)。

 同様の前例として、村上龍氏や島田雅彦氏と中田英寿の関係がある。
中田英寿(左)と本田圭佑
【中田英寿(左)と本田圭佑】

 村上氏は『フィジカル・インテンシティ』ほか、島田氏は『中田語録』(ただし単行本のみ)に書いた序文「ゴールの向こうに」ほか(参照:島田雅彦vs玉木正之 ドイツW杯特別対談「選手を自由にさせたら高校生になっちゃった」)で、中田英寿をひたすら称揚していた。

中田語録
文藝春秋
1998-05

 こうした太鼓持ちは、サッカー選手への評価として正しくないばかりか、日本サッカーをさまざまな形で歪ませる。それが2006年ドイツW杯や2014年ブラジルW杯での日本代表の惨敗や、2018年のハリルホジッチ氏日本代表監督解任事件の遠因でもある。

サッカー言説の凡庸さについてお話させていただきました
 文学者や思想家といえば、高尚で個性的な視点で、私たちのサッカー観に新鮮な刺激を与えてくれると思いがちだが、大間違いである。陳腐な二元論の思想のテンプレートをなぞり、目先の表象や過剰な思い入れの対象を変えて読者に提供するだけなのである。

 文学者ほどサッカーを語れない。呆れるばかりの凡庸さである。

(了)


続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ