日本人と同じく、横断歩道で赤信号を守るポーランド人から世界レベルのストライカー、レバンドフスキが出た。
【赤信号文化論発祥地の横断歩道】
そもそも「赤信号文化論」とは何か?
日本人農耕民族説と並んで、サッカーにおける「日本人ダメダメ論」&「自虐的日本サッカー観」(サッカー日本人論,あるいはサッカー文化論)の定番ネタに「赤信号文化論」がある。それは……。
……日本人は、赤信号だと車が来なくても横断歩道を渡らない。
すなわち、日本人は「規則」や「御上の権威」、「組織」、集団が醸しだす「空気」に従順である⇒つまり、日本人は「個人」で物事を判断することができない……。
……というものである。
トルシエの赤信号文化論
赤信号文化論を日本人に広く周知させたのは、何といっても元日本代表監督フィリップ・トルシエである。在任中2001年に著(あらわ)した『トルシエ革命』に言及がある。
〔個人の〕責任と判断に関しても、同じことがいえる。日本人はテーマと目標が与えられれば、それを成し遂げるために素晴らしい集中力を発揮する。組織のために自己を犠牲にする精神は、日本社会の大きな力になっているのは間違いない。ただその特性が日本人から自らの責任において判断する力を奪っている。赤信号の例などは、まさにその典型であろう。車が来ないことがわかっていても、多くの日本人は赤信号では決して横断しようとはしない。しかし信号を守るのは身の安全を確保するためであって、規則を守ること自体が目的ではないはずだ。秩序・規範は社会が定めるものであるが、自己の価値判断とのせめぎあいは常に存在する。それが市民として社会を生きるということなのだから。サッカーは自己表現のスポーツだ。そして自己表現のためには、自ら判断し責任を引き受ける人間の成熟が求められる。サッカーは大人のスポーツなのである。フィリップ・トルシエ『トルシエ革命』75~77頁
反対に、フランス人は赤信号でも車が来なければ、平気で横断歩道を渡ると言う。フランスは、歴代のW杯優勝国に名を連ねている世界的なサッカー強豪国である。
だいたい同時期の赤信号文化論として、これまた日本人論が大好きなサッカー評論家・湯浅健二氏のコラムのリンクするので、参照されたい。
木村浩嗣氏の赤信号文化論
赤信号文化論が、2010年代でもサッカー論壇に食い込んでいるという実例として、元『月刊フットボリスタ』誌編集長でスペイン在住の木村浩嗣(きむら・ひろつぐ)氏が2016年1月に発表したコラムを採り上げる。
スペイン人は赤信号でも道を渡る
こちら〔スペイン〕では赤信号でも車が来ていなければ、人はどんどん道を渡る。それだけでも日本人とは違うが、もっと驚くのは警官がその場にいても黙認していること。スペイン人が赤信号でも渡り、それに警官が何を言わないのは、ひかれても自己責任だからなのか、車が来ていないのに信号を守るのはアホらしいからなのかは分からない。おそらくその両方だろう。日本ではルールはルールだから、早朝の人っ子一人いない道でも信号は守らなくてはならないが、スペインではルールは破るためにあるから赤信号でも人は渡る。この赤信号を渡るか渡らないかは、サッカーにも反映している。国民性や気質はサッカーにもきっちり反映
“赤信号を渡るから国だからこそ、強引にシュートを打つFWが生まれる”という意見も聞いたことがある。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と言ったコメディアン〔漫才コンビ・ツービートのビートたけし〕がいたが、スペイン人は一人でも渡るのである。“みんなが渡れば渡れる”というのはいかにも日本的な発想だ。スペイン人の方が我が強いのは事実だから、強引さが求められるゴール前で、シュート意識がより強いのもスペイン人の方だろう。国民性や気質はサッカーにもきっちり反映しているわけだが、優秀な日本人FWを育てたいからといって、信号無視やルール違反を奨励するわけにはいかないだろう。やはり、その国はその国の国民性や気質の範囲内でサッカーをしていくしかないのだ。木村浩嗣「赤信号を渡る国で自己責任について考える スペイン暮らし、日本人指導者の独り言(3)」2016年1月29日[PDF版]
……こんな感じで、どうにも話が絶望的な方に振れていくのであった。
赤信号文化論の元祖は後藤健生氏
知っている人は知っていることだが、トルシエ以前、赤信号文化論はもともとサッカージャーナリスト・後藤健生氏の持ちネタだった。
1980年代初めのことである。某所の横断歩道で「車が来なくとも赤信号だと横断しない日本人」を見た後藤氏は「バカではなかろうか、欧州ではドイツ人だってこんなことはしない」と感じた。
【赤信号文化論発祥地の横断歩道】
これをキッカケに、後藤氏は赤信号文化論を持論としていく。氏の実質的なデビュー作といえる『サッカーの世紀』にも、その言及がある。
赤信号文化論の放棄と撤回
その後、日本のサッカーも相応に強くなっていたこともあって、後藤氏はこの手のサッカー日本人論から半身脱していく。そして、赤信号文化論を放棄・撤回する決定的な出来事があった。2012年にポーランド(とウクライナ)で開催された欧州選手権である。
ポーランドという国を2週間ほど旅してみて、びっくりしたことがいくつかあった。〔それは〕横断歩道の信号が赤だと、車が来なくても人々が道路を横断しないことだった。本当に、交通量などゼロに近いところでも、信号が変わるまで人々は辛抱強く待っている。時々、アイルランドのサポーターあたりがしびれを切らして渡りだしたりすると、周りのポーランド人は咎めるような目でそれを見ているので、普段、日本では赤信号でも勝手に横断している僕〔後藤健生〕も「郷に入っては郷に従い」の教えに習って我慢に我慢を重ねたのだった。あの順法精神はただ事ではない。つまり、こういう点を見てみると、ポーランド人というのは、きめ細やかさという点で、案外日本人と似ている人たちなのかもしれない。赤信号といえば、フィリップ・トルシエが日本代表の監督だったころに、「赤信号論争」というのがあったのをご記憶だろうか?「日本人は、赤信号だと車が来なくても道路を横断しない。だから、ダメなんだ!」とトルシエが言ったのだ。それに対して「それは、後藤健生が先に言ったことだ。ダバディあたりがそれを読んで入れ知恵したに違いない」という書き込みが現われたという、たわいもない論争だった。たしかに、僕は「赤信号」の話を1995年出版の『サッカーの世紀』(文芸春秋)に書いた……だいぶ昔のことだった。ただし、実際にダバディがそれを読んだのかどうかは、僕は知らない。トルシエの言っているのは、日本人は「道路を横断するか否か」を自らの判断と責任で決めることなく、他人(信号)に任せてしまう。それは、ドリブルか、パスか、シュートか、プレーを自分の責任で決定しなければならないサッカーというスポーツには向いていないメンタリティーなのではないか。日本人がなかなかシュートを打たないのもそのせいなのではないか……。「赤信号論争」というのは、そういう、「文化論」の一種である。「サッカーが強いかどうか」ということと、「信号を守るかどうか」は、まったく別の問題なのだ。いや、待てよ! ポーランドは1970年代から1980年代まで世界のトップクラスのサッカー強国だった。それが、今ではEUROでもグループステージで敗退してしまったし、ワールドカップでもほとんど予選を勝ちぬくことができなくなっている。ポーランドがサッカー大国の地位を失ったのは、赤信号だと人々が道路を横断しないからだったのか?いや、これは冗談です。だいたい、サッカーが弱いとか、シュートを打たないことを、いちいち文化だろか、教育たとかを持ち出して説明するのを、どうして日本人は好きなんだろう? まあ、そんなことを言った張本人として思うのは、当時、日本のサッカーが弱くて、欧米先進国はもちろん、韓国にもぜんぜん勝てないという事態を、なんとか「サッカー以外のせいにしたかった」という心理だったんだろう。サッカーが弱かったのは、「育成や普及のための努力をしていないから」だったわけだし、シュートを打たないのは「キックの技術が下手で自信がないから」でしかなかったわけだ。だが、そんな当たり前のことを認めたくなくて、日本サッカーが弱いのは「体格が小さいから」であり、「集団主義教育のせい」であり、「赤信号で道路を渡らないから」であり、「日本人が農耕民族だから」であると説明したかったのであろう。後藤健生「ポーランドサッカー弱体化は、赤信号で道路を横断しないから?」2012年06月27日[PDF版]
後藤氏が言うように、けして「たわいもない論争」でないのは、この4年後に木村浩嗣氏が、あらためて赤信号文化論を展開してしまうからだ。この日本人論は、いまだ日本サッカーを呪縛している。
レバンドフスキは赤信号でも横断歩道を渡るのだろうか?
今度のサッカーW杯ロシア大会、日本代表はグループリーグ第3戦でポーランド代表と戦う。このチームには世界クラスのストライカーで、大会得点王も狙うロベルト・レバンドフスキがいる。
日本人と同じく、赤信号だと横断歩道を渡らないポーランド人から、こうした選手が出てきたこと。これは日本人論とサッカーのつながりを疑い、考えさせる興味深い実例であろう。
どうせロシアW杯の前後、日本では自虐的なサッカー日本人論で溢(あふ)れかえるだろう。が、レバンドフスキの存在はちょっとした「精神的ワクチン」になる……かも……しれない。
(了)