江川紹子ツイートの既視感
 フィギュアスケート男子日本代表の羽生結弦(はにゅう・ゆづる)選手が、冬季オリンピックで連覇を果たした。2位は同じく日本代表の宇野昌磨(うの・しょうま)選手。いわばワンツーフィニッシュだ。日本中がこの偉業に沸き返ったが、一方でジャーナリスト江川紹子氏の発言が注目された……。
 ……だが、しかし……。
 ……江川氏は、盛り上がりに水を差す(?)かのようなツイートをして、拡散・炎上したのである。

 この種の言い草って、どっかで見覚え(既視感,デジャヴ)があるなぁ……と思っていたら、ハタと気が付いたのが、昨年のモーターレーシング、世界三大レース「インディ500マイル」で優勝した日本人レーサー=佐藤琢磨選手に関するあるツイートだった。
 オリンピックやワールドカップなど、スポーツの世界大会で日本代表(ナショナルチームやその選手たち)が活躍すると、ナショナリスティックな感情が盛り上がる。

 反面、先に掲げた江川紹子氏らのように、その盛り上がりを忌避、敬遠、場合によっては露骨に嫌悪(例えば、2010年サッカー南アフリカW杯におけるカルスタ系スポーツ社会学者・山本敦久氏の言動など)の念を積極的に表現をしたがる人たちがいる。

 「日本(日本人)がスゴイんじゃない! ○○○○(そのアスリート個人)がスゴイのだ!」……という言い回しは、こうしたナショナリズム批判の「作法」のひとつである。

例えば「ブラジルがスゴイんじゃない! セナがスゴイ!」なのか?
 思うのだが、この種の発言をする人は「欧米」にもいるのだろうか? 日本と諸外国の間で「ナショナリズム」のとらえ方に何か違いがあるのだろうか?

 佐藤琢磨選手の名前が出たから、彼がレーシングドライバーを志すきっかけとなったブラジルの「国民的英雄」アイルトン・セナ(1960-1994,F1世界チャンピオン3回,1994年5月1日のF1サンマリノGPで事故死)で「思考実験」してみる。

 例えば、ブラジルにおいて「ブラジル(人)がスゴイんじゃない! アイルトン・セナがスゴイなんだ!」と力説する人(たち)はいるのだろうか? セナは、母国ブラジルで「国葬」に付されたが「これは〈密葬〉にするべき」とでも言うのだろうか?

 いたとして、その人(たち)はブラジル社会で生きていくことができるのだろうか?

セナの死を悼むモルンビースタジアム
1994年5月1日、アイルトン・セナが死去して数時間後、パルメイラスはサンパウロを3対2で下した。さらに感動的だったのは、ブラジル・サンパウロのモルンビースタジアム全体がセナの名前を叫んだことだった。

1994年W杯決勝直後
ブラジルW杯4回目の優勝決定直後
1994年7月17日、サッカーブラジル代表W杯4回目の優勝決定直後、ブラジルの選手たちは横断幕を掲げた。そこには「セナといっしょに加速して4度目のタイトルを獲得した」と書かれてあった。
 とても疑問である。

 「生存」はさすがに大袈裟にしても、周囲から白眼視されるのはおそらく間違いない。

 お星様になってしまった故アイルトン・セナの気持ちは確かめようもない。しかし、本人は「ブラジル(人として)の誇り」や「ブラジル(人)のため」というナショナリズムを脱色すること、「ブラジルがスゴイんじゃなくて、セナがスゴいんだ!」的な「個人主義」を望んでいないだろう。



 そう憶測してしまうのは、セナのシンボルであるヘルメットのカラーリングは、黄色の地に青と緑のラインが入ったブラジルのナショナルカラー。そこに刻まれた彼の個人スポンサーはブラジル「ナシオナル銀行」だったからだ。

「日本人が勝ってよかったね」は悪なのか?
 このまま終わってしまうと「右」から「左」をあてこすっているかのように思われてしまう。そうではないつもりなので「左」からの「日本における反ナショナリズムへの批判」あるいは「ナショナリズム論」を読んで、考えていく。

 参照するのは、哲学者・萱野稔人氏(津田塾大学教授)の『ナショナリズムは悪なのか』である。
 日本の人文思想界……にとってナショナリズム批判というのはひじょうに見慣れた光景だ。どうやったらここまでみんなの意見が一致するのかと思うぐらい、誰もが「ナショナリズムは悪だ」という前提で議論をくみたてている。

 ナショナリズム批判の多くはそうした立場の延長でなされている。……だからそこでは、「日本の国益を守ろう」という意見は言うにおよばず、「日本をよくしよう」という意見ですら……批判されることになるのである。

萱野稔人『ナショナリズムは悪なのか』9~10頁


 「日本(日本人)がスゴイんじゃない! そのアスリート個人がスゴイのだ!」と反発するのも、そうした表現の一形態である。日本におけるナショナリズム批判の立場からは、スポーツの世界大会・国際大会で「日本(人)が勝ってよかったね」と言うことすら批判される。
 そう言わないと「政治的に正しくない」かのような「空気」(同調圧力?)が存在する。

 日本の人文思想界のナショナリズム批判に大きな影響を与えたのがフランス現代思想である。フランスはいかにも「個人主義」の本場であり、「フランスがスゴイんじゃない! 選手個人がスゴイんだ!」という人がたくさんいそうである。

 ところが、フランスに留学した萱野氏によると、当地では日本のような形でのナショナリズム批判はあまり盛んではないのだという。
 ……驚いたのはフランスの哲学思想界ではナショナリズム批判が一つのテーマとしてはほとんどなされていないということだ。ナショナリズムという言葉が哲学・思想の議論ででてくることすらあまりない。

 反ナショナリズムという思想的フレームは非常に日本的なのだ。

 日本の反ナショナリズムの思潮は少々奇妙に映る。反ナショナリズムは一般には体制批判的でリベラルな知識人の旗印〔はたじるし〕になっている。しかしそれを少し近くでみると、反ナショナリズムという立場そのものが、肥大化した自意識による付和雷同の結果であることがよくわかるのだ。あたかも反ナショナリズムの立場でないとまともな知識人として認められないことをみんな恐れているかのように。

 体制批判的でリベラルな立場の象徴〔反ナショナリズム〕は、じつは同調圧力に対する弱さのあらわれなのである。

萱野稔人『ナショナリズムは悪なのか』10~12頁
 「日本がスゴイんじゃない! 選手個人がスゴイんだ!」と力説する人たちにも、同じような「肥大化した自意識」(加えて「同調圧力に対する弱さ」)を見てしまう。

ナショナリズムを全否定するとナショナリズムが暴走する
 1990年代後半から問題になり始めた日本社会の「格差」(の拡大)問題。江川紹子氏にせよ、誰にせよ、ナショナリズムへの忌避や批判を表明する人たちほど、格差問題を放置していいとは思っていないだろう。

 萱野稔人氏は、格差問題を手がかりに日本のナショナリズム批判の限界を説く。以下、『ナショナリズムは悪なのか』から非常に乱暴な切り取り方をすると……。

 格差問題とは、基本的に国内問題であり、ナショナリズムに訴えかけないと解決しない。なぜなら「格差の拡大」とは日本国内における格差であり、あるいはグローバルな、例えばアジア諸国などとの比較で見ればそれは「格差の縮小」となるからである。

 格差問題は、グローバルに進行している事態をナショナルな関心(国民的利害関心)で見ることでしか問題として浮かび上がらない。

 ナショナリズムを批判してきた人たちの多くも、格差を問題視し、政府(国)への対応を求めてきた。しかし、それはナショナリズムに依拠しながらナショナリズムを否定している矛盾ということになる。

 むろん、ここでいうナショナリズムとは「国家は国民のものであり、国家(政府)は国民の生活を保障しなければならない」という、よりナショナリズムの原義に近い「国民主権」的なものである。とにかくナショナリズムの枠内にとどまって日本国内の経済・社会を崩壊から食い止めないと、ナショナリズムは国家主義、排外主義etc.といった、危うい別の側面を見せ始め、さらにはファシズムあるいは戦争へと暴走してしまう。

 ナショナリズム批判派・否定派の言動が、世間の、なかんずく社会からあぶれた人たちの反発を招き、かえって日本の右傾化に加担してしまう皮肉である。
 ナショナリズムを道徳的に批判するまえに認識すべきことがたくさんある……。ナショナリズムを成立させてきた歴史的構造に無自覚ならばいくら心情倫理に訴えてナショナリズムを非難しても逆効果にしかならない。肥大化した道徳意識だけで克服できることなど、たかが知れているのだ。

萱野稔人『ナショナリズムは悪なのか』211頁
 ……以上のような萱野氏の反ナショナリズム批判は、「右」側からのそれと比べてユニークなものであり、非常に興味深いものである。

もっと戦略的なナショナリズム批判を…
 昨今、テレビ番組などで、日本の文化や習慣を、特に外国人(欧米人)の視点や言葉を通じて称揚する「日本スゴイ」ブームなるものがあり、しかし、これは右傾化する日本ナショナリズムに掉(さお)さす現象であるとの批判がある。



 羽生結弦がオリンピックで連覇しても『「日本人スゴイ!」じゃなくて、「羽生選手すごい! 宇野選手すごい!」だから』と強調した江川紹子氏のツイートは、こうした「日本スゴイ」ブームへの牽制を狙ったものであり、ナショナリズムへの批判であった。

 だが、実際には、ナショナリズムを右方向に煽っただけで逆効果だったようだ。
 そればかりか、江川氏は2014年12月のツイッターで、フィギュアスケートの国際大会で羽生結弦選手を含めた日本人選手が活躍した際「日本人ってすごい」と発言しており、無節操ぶりを指摘されてすらいる。
 この辺の江川氏の「変節」ぶりには、萱野稔人氏が指摘した日本のナショナリズム批判における「肥大化した自意識」「肥大化した道徳意識」を感じないことはない。

 ナショナリズムの危うい部分を論(あげつら)うにしても、ツイッターのような反射的で少ない情報量ではなく、もっと戦略的な発信が必要だろう。

(了)