スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

2017年12月

サッカー日本代表ユニ2018
【サッカー日本代表,2018年W杯ロシア大会モデル】
  • 何でいつも余計なアクセントやシンボルを入れようとするんだろう?
  • 安定の蛇足。
  • 作り手にアイデンティティが無いとこうなるわけか。
競馬文化からアディダスジャパンを批判する試み
 アディダスジャパン株式会社が手掛けるサッカー日本代表のユニフォームのデザインが毎回毎回ひどすぎて、サッカーファン・サポーターから酷評が噴出する。

 しかし、いざ、そのデザインの何が悪いのか? と質(ただ)されると、意外に説明に窮(きゅう)する。また、一般のサッカーファンによってネット上に発表された日本代表デザインの代替案の印象は……、カウンターとしては何とも微妙である。

 そこで、あらためてアディダスジャパンの醜悪さを理解いただくために、一計を案じることにした。

 歌謡界の大御所・北島三郎が馬主をつとめる競走馬「キタサンブラック」。その騎手が着用する「勝負服」のデザインを、アディダスジャパンの流儀で改造するのである。
キタサンブラック=北島三郎(大野企画)
【キタサンブラックほか、北島三郎所有馬の勝負服】

競馬とフットボール~共通するデザインの神髄
 ところで「勝負服」とは何か? 騎手がレースの際に着用する服のこと。「服色(ふくしょく)」とも言う。いわば騎手のユニフォームである。騎乗する競走馬を所有する馬主の表し、馬主ごとにデザインが決まっている。その作図・彩色には一定のルールがあり、たとえば違う馬主が似たようなデザインの勝負服を用いることはできない。
ジョッキーと勝負服
【騎手と勝負服&馬主(冠名):左から,武豊&北島三郎(キタサン),クリストフ・ルメール&里見治(サトノ),ミルコ・デムーロ&社台レースホース(シャダイ),浜中俊&野田みづき(ミッキー)】

 フットボール……サッカー(とラグビー)のユニフォーム(ジャージ)も、競馬の勝負服も、そのスポーツで勝負する主体を象徴し、かつその勝負が敵味方を入り混じって行われるために視認・識別する役割が求められる。また、それぞれのアイテムは、ファン・サポーターの大きな関心を呼び、フットボールファン(サッカー,ラグビー)、競馬ファンコレクションの対象にもなっている。

 そのためか、フットボールのユニフォームと競馬の勝負服もデザイン(作図・彩色)には類似したものを見かける。
ソウルスターリング(2017オークス優勝馬) ペニャロール(ウルグアイ)
【ソウルスターリング(左)とペニャロール】

キタサンブラック=北島三郎(大野企画) 慶應義塾大学ラグビー部
【キタサンブラック(左)と慶應義塾大学ラグビー部】
(ただしキタサンブラック勝負服の黄色く見える部分は正しくは茶色である)

 特にキタサンブラックを選んだのは、競馬界の枠を超えた話題性もさることながら、勝負服のデザインにセンスの良さを感じたからだ(本当にすばらしい)。この勝負服をアディダスジャパン流に「盛る」ことで、まずはその「違和感」を味わってもらう。

もしもキタサンブラックの勝負服をアディダスジャパンがデザインしたら?
 前説が終わったところで、本題に入る。キタサンブラックの勝負服をアディダスジャパンが制作することになった。そして担当者が馬主の北島三郎にプレゼンテーションする……という場面を想定してみる。

 まずは、首回りの赤い配色が地蔵菩薩や赤ちゃんの「よだれかけ」みたいだと酷評された「革命に導く羽」モデル(2010~2011)である。
アディダスジャパン 北島先生! テーマは「革命」です! 先生の競走馬でGIレースを制覇して日本の競馬界に「革命」を起こしましょう! 勝負服の首周りに革命を表現する「赤」を配色しました!
革命に導く羽(キタサンブラック) 革命を導く羽_サッカー日本代表
【「革命を導く羽」キタサンブラック(左)とサッカー日本代表】

北島三郎 ……(絶句)。
 続いて、ユニフォームの前身に縦に1本ラインが入ったデザインのあまりの酷さに、日本中のサッカーファンが呆れ返った悪名高き「結束の一本線」モデル(2012~2013)。ちょうど2011年に「東日本大震災」があったために、「絆(きずな)」や「結束」といったコンセプトを盛り込んだと考えられる。これでアディダスジャパンのセンスの悪さは底を抜けた感がある。
アディダスジャパン 北島先生! 震災からの復興です! ここは強い「絆」、みんなの「結束」です! 日本全体が逆境に屈することなく前進するための「結束」を一本線で表現しました!
結束の一本線(キタサンブラック) 結束の一本線_サッカー日本代表
【「結束の一本線」キタサンブラック(左)とサッカー日本代表】

北島三郎 ……(絶句)。
 そして、2018年W杯ロシア大会の「勝色&刺し子柄」である。
アディダスジャパン 北島先生! これまで先生の競走馬の歴史を築いてきたすべての騎手や調教師、ファンの思いを紡ぎ、未来へ挑むメッセージを込めて日本伝統の刺しゅう「刺し子柄」をあしらいました。
勝色&刺し子柄(キタサンブラック) 勝色&刺し子柄_サッカー日本代表
【「勝色&刺し子柄」キタサンブラック(左)とサッカー日本代表】

北島三郎 ……(絶句)。
 こんな代物ばかり見せ続けられたら、しまいに北島三郎はイライラして怒り出すだろう。そればかりか、競馬ファンも怒り出すだろう……。

フットボールも競馬もデザインのルーツは西洋の紋章学と旗章学
 ……馬主・北島三郎や競馬ファンが感じるであろう、この「違和感」「イラ立ち」「不快感」こそ、サッカーファンがアディダスジャパンの日本代表デザインに感じる「違和感」「イラ立ち」「不快感」そのものである。

 北島三郎は、アディダスジャパンによって自分の勝負服がブラッシュアップされたというよりも、むしろ汚され、延いては自分の愛馬が愚弄されたと思うだろう。つまり、アディダスジャパンは、サッカー日本代表を汚し、延いては日本のサッカー文化、日本のサッカーファンを愚弄しているのである。

 それとは別にアディダスジャパン流キタサンブラックの勝負服は、登録した服色から大きく逸脱しているとしてJRA(中央競馬会)から使用を禁止される。「革命の赤」だの「結束の一本線」だの「刺し子柄」だのが大袈裟に入ったキタサンブラックの勝負服は、すでにキタサンブラックの勝負服ではないからである。

 フットボール(サッカー,ラグビー)のユニフォームと競馬の勝負服はデザインが似てくると書いた。それも当然で、両者とも西洋の紋章学および旗章学からの作図と彩色の作法の派生形だからである。
 紋章学・旗章学の泰斗、森護(もり・まもる)先生の『ユニオン・ジャック物語』や、ホイットニー・スミス博士(アメリカ)の『世界旗章大図鑑』には、競馬の勝負服に関する言及や図解がある。
 分かりやすい図形、コントラストの聞いた彩色への努力の積み重ねによって、紋章は抜群の識別性を維持してきた。紋章図形の優れた識別性という特質をフルに活用したもの……競馬の騎手がレースの時に着用している派手な上着〔勝負服〕の模様も、すべて紋章の〔図形〕であり、これらの図形が渾然〔こんぜん〕一体となって走り抜ける各馬の順位の識別に極めて有効であるからにほかならない。
森護『ユニオン・ジャック物語』70頁


『世界旗章大図鑑』346頁
【『世界旗章大図鑑』346頁より】



 そして、ミシェル・パストゥロー教授(フランス)の『紋章の歴史』によると、サッカーのユニフォームのデザインもまた紋章学に由来しているという。
 さらに紋章の影響が強いのが,スポーツのグランドである。ワッペン,大小の旗,ユニフォームの色,応援団が振りまわすマフラーや横断幕,これらはすべて紋章化されており,中には何世紀も昔の象徴や記章〔エンブレム〕の延長線上にあるものもあるが,プレーヤーも応援団もそれをはっきり意識していない。
インテルミラノ ACミラン
 たとえばミラノ〔イタリア〕の有名なふたつのサッカーチーム(インターミラノとACミラン)の色が、16世紀にすでに〔ママ〕ミラノのふたつの区域の記章〔エンブレム〕の色だったことを誰が知っているだろうか。
ミシェル・パストゥロー『紋章の歴史』98頁



 イタリア・セリエAのライバル、インテルとミランの対照的なチームカラーにそのような来歴があったとは、パストゥロー教授の本で初めて知った。

「継承」されないデザインは失格
  1. 日本のサッカーファンの大多数は、アディダスジャパンが手掛けるサッカー日本代表のユニフォームのデザインの酷さに強い不満を持っている。
  2. 競走馬「キタサンブラック」の勝負服をアディダスジャパンのサッカー日本代表風に改造してみたら、やはり同じような強い違和感を感じた。
  3. サッカーのユニフォームも、競馬の勝負服も、そのデザイン(作画・彩色の作法)はルーツを同じくし、西洋の紋章学や旗章学のそれに倣(なら)っている。
 紋章学・旗章学の理論や思想ならば、アディダスジャパンのデザインの酷さを一定の基準から批判できる。そして、この問題の解決法も導けるのだ。

 森護先生の著作などをもとに、紋章とは何か……を大まかに定義してみると「特定の対象を他者と識別するために描かれた象徴で,かつ時代を超えて継承されているもの」となる。

 「継承」という要素が非常に重要で、描かれる象徴をコロコロ変更していては、プレイヤーもポーターも、アイデンティティーやローヤルティー(loyalty,忠誠心)が固まらない。これはスポーツでも同様、サッカー日本代表でも、競馬のキタサンブラックでも変わりがない。Jリーグのサポーターの横断幕にみられるような「共に闘おう!俺たちの誇り○○○○」みたいな意識が醸成されないのだ。

 一方、その国のサッカーの当局は収入を得る手段として、代表チームのレプリカ・ユニフォームを売ることも必要になる。そのために後生同じデザインのユニフォームを使い続けるわけにはいかない。

 そこで、矛盾する両方のバランスをとった上で、数年ごとに代表チームのデザインをモデルチェンジすることになる。これは、あくまでマイナーチェンジであって、フルモデルチェンジではない。
azzurri1968
azzurri1990
azzurri2006
【時代を超え継承されるもの:歴代のサッカーイタリア代表】

スポーツ・デザインのあるべき姿とは?
 ところが、日本サッカーはこのバランスをずいぶん欠いている。マイナーチェンジのはずなのに、大袈裟な「コンセプト」なるものが立てられるようになった。それは代を重ねるごとに「革命に導く羽」やら「結束の一本線」やらと、やたら饒舌になり、デザインは抽象から具象へと化け、ますます大袈裟になっていった。
サッカー日本代表歴代ユニ~2017
 これには屋上に屋を架すような冗漫さ、継承されているはずのデザインが根本から変更されてしまっているかのような怪訝さをはらんでいる。

 すると、サッカーファンは「サッカー日本代表」を応援しているのか、アディダスジャパンの独りよがりのコンセプトを見せつけられているのか、分からなくなる。サッカーファンの心の中に、日本代表に対するアイデンティティーやローヤルティーに不安が生じるのだ。

 アディダスジャパンの日本代表デザインにサッカーファンが「違和感」「イラ立ち」「不快感」を覚え、悪評が噴出する心理的理由がこれである。

 日本代表に「日本代表」以上のコンセプトなどいらない。日本代表のユニフォームは何を描いてもいい無地のキャンバスではない。手を加えるにしても、これには細心の注意と配慮が必要なのだ。日本代表の歴代のユニフォームのデザインの出来の悪さは、本邦サッカー文化の浅薄さでもある。

 とりあえず、日本代表とJリーグ各クラブ(今回,後者にはあまり言及できなかったが)のユニフォームのデザイン(作図・彩色)には、競馬の勝負服のような「服色規定」をもうけ、その一定の幅からモデルチェンジをするべきではないか……と提案してみる。

 嫌なものを無理やり好きになる必要はない。

(この項,了)



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前編からのつづき
 2017年9月、桐生祥秀(きりゅう・よしひで)選手による、日本人選手の陸上短距離「100m9秒台」達成の快挙を手がかりにスポーツのおける日本人の体格的・身体的劣等生という通念」を批判した玉木正之氏ウェブ魚拓版)。
桐生祥秀選手
【桐生祥秀選手】

玉木正之「人種の壁」論
【玉木正之氏の公式サイトより】

 ところが同年11月にサッカー国際親善試合で、日本代表がブラジル代表に1対3で大敗すると、玉木氏は、今度は「スポーツのおける日本人の体格的・身体的劣等生という通念」を煽ったのである。これには唖然とさせられた
玉木正之「タマキのナンヤラカンヤラ」 20171110 [ウェブ魚拓版

11月10日(金)つづき
サッカー日本VSブラジル戦。こりゃ、実力が違いすぎる。オマケに体つきも違う。日本の選手はみんな羽生のようでフィギュアスケート向きかとも思う〔羽生結弦:はにゅう・ゆづる,フィギュアスケーター,冬季五輪金メダリスト〕南米人とは肉を食う量が違うもんなあ。ボリビアやアルゼンチンのホテルのモーニングステーキは250グラム。ディナーのステーキは1200グラムやったもんなあ。ブラジルは行ったことがないけどシュラスコも仰山食べるに違いない。そう言えば以前ラモス〔瑠偉〕さんが日本人の胃袋は小鳥の胃袋とかナントカ言うてたもんなあ。後半はナントカ頑張ったけど実力差は歴然。しかしこれだけ実力差を見せつけられてニヤニヤ笑っていたのは生けませんねぇ〔ママ〕久保〔裕也〕クン浅野〔琢磨〕クン。
玉木正之「ナンヤカカンヤラ」201711
【玉木正之氏の公式サイトより】
 この相矛盾する、そして無邪気で無節操な玉木発言は、上西小百合(元衆議院議員)の浦和レッズに対する炎上狙いの侮辱発言と同等以上に問題であると、当ブログは考える。


 「自虐ネタ」の何が悪いのか? ……という人がいるかもしれない。

 なぜなら、こうした発言は日本のスポーツ界に「誤った先入観」を刷り込んで、日本人のアスリートを心理的に呪縛するものだからだ。例えば、日本人の文化や国民性と「日本サッカーの決定力不足」とを結びつける俗説は、その典型例である。

 さて、この玉木正之氏の驚くべき放言にいかに反駁(はんばく)するべきか?

ブラジル代表に大敗するのは日本だけではない
 玉木氏が言うように「スペインのメッシ(身長169cm)やアルゼンチンのマラドーナ(同165cm)を例に挙げ」るのは、あまり効果的ではない(というか「スペインのメッシ」ってどこの誰だ?)。この2人はズバ抜けたサッカーの天才だから、「スポーツのおける日本人の体格的・身体的劣等生という通念」に抗(あらが)うための材料としてはかえって参考にならないからである。

 それならば……。ここ最近のブラジル代表の戦績を追いかけ、いくつかの試合を抜き出してみる。ソースは「FIFAランキング.net」というウェブサイト。以下に掲げる表の左側がホーム扱い、右側がアウェー扱いである。
ブラジル代表
2017年の試合結果から
  • 2017/06/13 親善試合 (48位)オーストラリア 0-4 ブラジル(1位)
  • 2017/03/28 W杯予選 (2位)ブラジル 3-0 パラグアイ(43位)
  • 2017/03/23 W杯予選 (9位)ウルグアイ 1-4 ブラジル(2位)

2016年の試合結果から
  • 2016/11/10 W杯予選 (3位)ブラジル 3-0 アルゼンチン(1位)
  • 2016/10/06 W杯予選 (4位)ブラジル 5-0 ボリビア(75位)
  • 2016/09/01 W杯予選 (17位)エクアドル 0-3 ブラジル(9位)

2015年の試合結果から
  • 2015/11/17 W杯予選 (8位)ブラジル 3-0 ペルー(57位)
  • 2015/09/08 親善試合 (28位)アメリカ合衆国 1-4 ブラジル(5位)
  • 2015/03/26 親善試合 (8位)フランス 1-3 ブラジル(6位)
 「こりゃ、実力が違いすぎる」のは特に日本に限らない。ブラジルは世界的なサッカー超大国だから、大敗する国は珍しくない。その中には、オーストラリアやアメリカ合衆国といったFIFAランキングや国内のサッカー事情が日本と似ている国や、ウルグアイやアルゼンチン、フランスといった歴代のW杯優勝国まである。

 しかも、いずれもアサードやビフテキなどの肉料理を「仰山〔ぎょうさん〕食べるに違いない」、多分に日本よりも体格や「身体能力」で優っているとされる欧米の国々だ。

 どの国にとっても、サッカーでブラジルに勝つのは至難の業である。日本がブラジルに大敗したこと。その本質は、玉木正之氏(ら)が言うような「スポーツのおける日本人の体格的・身体的劣等生」や、人種論的・風土論的な食文化の問題ではないのだ。

なぜブラジルでW杯反対デモが起こったか?
 外国から日本へやっていた観光客が、銀座で「霜降り牛肉のすき焼き」や「高級寿司」をごちそうになったところで、一般の日本人が毎日すき焼きや寿司を食べているのだろうなどと想像するのは間違いだ。玉木正之氏が南米のホテルで何百グラムのステーキを食べたのかは知らないが(日本より食肉の値段は安いのだろうが)、そんな「よそ行き」の料理が、そこまでブラジルの一般庶民の食文化を代表しているのだろうか?

 よく知られているブラジルの家庭料理は「フェジョアーダ」や「フェジョン」と呼ばれる豆の煮込み(シチュー)であろう。これらには肉類も入っているが、「シュラスコも〔ブラジルの肉料理〕仰山〔ぎょうさん〕食べるに違いない」という、玉木氏が思い描くイメージとは違う。

 ブラジルの庶民生活とサッカーとの関わりでいうと、もっと深刻な問題がある。

 2014年ブラジルW杯に際して、ブラジル各地でW杯反対デモが頻発した。あれだけのサッカー大国なのになぜ? 理由は、庶民の生活の貧しさ・苦しさ……。サッカーW杯に巨額な費用を注ぐくらいなら、教育・医療・福祉などに予算を割いて私たちの生活を少しは良くしてくれ! というブラジル庶民の切実な意思表示であった。

 この背景には、ブラジル社会の極端な格差と貧困がある。一説によると、およそ2億人のブラジルの総人口に対し、人口のわずか1%にあたる富裕層200万人以下の人々が、世帯収入全体の13%を占めており、これは人口の50%にあたる貧困層8000万人の合計とほぼ同じであるとされる(参照「ブラジルの収入格差とジニ係数」2013年9月6日金曜日)。

 ブラジル代表となるサッカー選手も、多分にこうした貧しい階層から輩出される。例えばエースのネイマール選手である。彼の生い立ちが「ネイマールの少年時代」としてインターネットで公開されている。ネイマールの父親が述懐する。
 〔ネイマールが生まれ育った〕この辺りが今のように開発される前に住んでいました。当時は低所得者層の集まるエリアで、まだゴミ処理場がありました。市内のすべてのゴミが集められるゴミ処理場です。当時と言っても2000年頃の話で、私たちはネイマールがプロになる直前の2008年頃まで住んでいました。ここが私たちの世界でした。この世界が抱える問題と日々直面しながら生活していました。
 ネイマールのルーツは「あの有名なファベーラ〔スラム街〕に結びつけられることが多い、ステレオタイプな“危険なエリア”」でないというが、それでも貧しい階層であることには変わりがない。

 もちろん、子供たちが育つうえで栄養状態(や衛生状態)が良いわけではない。くだんのブラジルW杯反対デモでも、貧困層の子供たちが満足な食事ができていないことを風刺するポスターが見られた。
ブラジルW杯反対風刺画1
ブラジルW杯反対風刺画2
 「肉を食う量が違う」、「シュラスコも仰山食べるに違いない」から体格も良く、「身体能力」も高く、だからサッカーが強いはずのブラジルで、どうしてこんな風刺画が現れるのだろうか?

食文化か? トレーニングか?
 少し古くなるが、元ブラジル代表のエースだったジーコの有名な逸話がある。ジーコはサッカー選手としての素晴らしい才能を期待されて10代でプロデビューしたが、身長も低く、体重も軽く(一説に当時153センチ,37キロ)、サッカーのフィジカルコンタクトにはとても耐えられないと懸念された。
「ジーコ公式サイト」より
 そこで所属クラブ「フラメンゴ」の役員が、その道の専門家たちで特別なチームを作らせて、ジーコの「肉体改造」を図った。筋力トレーニング、ビタミン剤、ホルモン注射、そして十分な量の食事。これらを効果的に行った結果、ジーコはサッカー選手として競い合いに負けない強い肉体を手に入れた……。
 これは極端だが、考えさせるな例だろう。サッカー選手の身体は、文化的・風土的な食生活の結果というよりは、むしろアスリートとしての育成術の結果として(食事もその一環として)形成されるのではないか?

 日本が1対3で完敗した対ブラジル戦。日本代表とブラジル代表の選手の体格に歴然とした違いを感じたなら、(食生活も含めて)選手がどのようなトレーニングで育成されるのか? そこに日本とブラジルでどのような違いがあるのか? という観点で批評するべきなのだ。

 ところが、玉木正之氏は「こりゃ、実力が違いすぎる。オマケに体つきも違う」。「肉を食う量が違う」、「シュラスコも仰山食べるに違いない」などといった、洞察力や想像力を欠いた貧相な反応しかできない。こんな人が日本のスポーツジャーナリズムの第一人者として、マスコミに重用されるのである。
 人間とは、心理的な要因に大きく左右される生き物のようで、「1マイル4分」「100m10秒」といった区切りの良い数字には、何か重大な意味(音速を突破する時のような大きな壁?)があるような(本当はまったく根拠のない)先入観を抱きたがるようだ。

 ことほど左様に、日本人は「日本人」というあやふやな概念に何か重大な意味(世界の壁?)があるような(本当はまったく根拠のない)先入観を抱きたがるようだ。

 そして、その「先入観」を日本人に刷り込ませているのがスポーツジャーナリズムなのである。

(この項,了)



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9秒台ランナー桐生祥秀の快挙と「スペインのメッシ」?
 今年、2017年の日本スポーツの重大ニュースに、桐生祥秀(きりゅう・よしひで)選手が、陸上競技短距離走「100メートル10秒の壁」を破る9秒98の公認記録を達成したことは必ず入るだろう。
桐生祥秀選手
 この快挙ついて、玉木正之氏もコラムを一筆したためている。はじめはこの文章の中身を吟味していく。
桐生選手100m10秒の壁突破は世界で27か国目127人目の快挙/それでも自分たちの身体能力は劣っていると思いますか? 掲載日2017-09-27

〔イントロダクション〕この原稿は、『北國新聞』2017年9月22日付ツキイチ連載「スポーツを考える・第20回」に書いたものです。日本人初の「100m9秒台」の記録は、やはり大快挙だと思いますが、ほんの少し前までは「日本人には不可能」と言っていた人も大勢いたのですよね。おまけに「純粋な日本人には不可能」などと言っていた人もいました。「純粋な日本人」て、どんな人なんでしょうねえ?と首を傾げながら“蔵出し”します。

 〔2017年〕9月9日、福井市の県営陸上競技場で開かれた日本学生対抗選手権で、東洋大学4年の桐生祥秀選手が、日本人初の100m9秒台(9秒98)の記録をマークしたことは、皆さん既によくご存じだろう。

 その結果、桐生選手は世界で126人目の「100m9秒台ランナー」となった。

 これはやはり見事な快挙。何しろ世界中で「100m9秒台ランナーの」存在する国は25か国しかないのだ。
玉木正之「人種の壁」論
【玉木正之氏の公式サイトより】

 ヨーロッパではイタリアもスペインも、スウェーデンもフィンランドもロシアも、9秒台ランナーは存在しない。アフリカではケニヤもエチオピアも、エジプトもモロッコも、その他の地域では、ブラジルもアルゼンチンも、ニュージーランドもインドも9秒台の走者は出ていないのだ。
 「スポーツのおける日本人の体格的・身体的劣等生という通念」対する小気味よいカウンターである。と、ここは良いのだが……。
 日本人は自分たちのことを「体格が小さく体力的に劣る国民」と考えがちで、サッカーの国際試合などでは、アナウンサーが(ヘディング時の)身長差や身体能力の差でマイナス面を強調することが多い。

 しかし今更改めてスペインのメッシ(身長169cm)やアルゼンチンのマラドーナ(同165cm)を例に挙げるまでもなく、体格差や天性の身体能力の差は、スポーツでは、それほど大きな問題とは言えないことが多いのだ。

 ところが我々日本人は、判官贔屓や「小よく大を制す」ことが大好きなせいか、自分たちを不利な立場に立たせたがる傾向があるようだ。
 「スペインのメッシ」とは誰であろうか? スペインリーグ・FCバルセロナのメッシというならまだ分かるが。「アルゼンチンのマラドーナ」同様、サッカー選手リオネル・メッシはアルゼンチン代表なのである。

 どうして玉木氏は、基本的な事実関係を確認してモノを書こうとしないのだろうか? こうしたことはプロのライターならば当然のことではないか。この原稿は石川県の地元紙『北國新聞』に掲載されたというが、ここで指摘した間違いが正されることはあったのか? 無かったのならば『北國新聞』の編集や校正・校閲は何をやっていたのか?

 話を戻す。否、今回主張したいのは、こんなことではない。上の引用文では、朱太字で強調した最初の段落部分こそ当エントリー最大の伏線なのである。が、それもひとまず措(お)く。とにかく玉木正之氏は、スポーツは(例えばサッカーは)体格や「天性の身体能力」の差は本質的にハンディキャップではない……と、言いたいのだ。

スポーツにおける「人種の壁」「人類の壁」
 玉木正之氏が「スポーツのおける日本人の体格的・身体的劣等生という通念」を批判する姿勢には大いに共感する(珍しく?)のである。
 100m9秒台の記録も、少し前までは日本人には体格的・体型的・体力的に不可能で、サニブラウン選手やケンブリッジ飛鳥選手などが台頭してくると、9秒台をマークするのはやはりハイブリッドの選手だろうと、テレビで公然と口にするタレント〔武井壮?〕までいたくらいだった。

 誤った先入観に縛られるのは、日本人だけではない。

 100m10秒の記録は、かつては「人類の壁」とも言われ、その区切りの良い数字を突破するのは不可能と誰もが思っていた。

 実際1960年に西ドイツのハリー選手が10秒0を記録して以来、10人のランナーが10秒0をマークしたが、9秒台の記録は長い間生まれなかった。

 が、1968年アメリカのハインズ選手が手動計時で9秒9、電動計時で9秒95を記録。それ以来9秒台ランナーは続々と出現。「人類の壁」も根拠のない先入観であることが判明した。

 さらに明白な例は、「1マイル(約1609m)4分の壁」で、1923年にフィンランドのヌルミ選手が、それまでの世界記録を37年ぶりに2秒短縮する4分10秒3の世界記録を樹立した頃から、それでも4分を切るのは、人類にとって絶対に不可能と言われ続けた。

 ところが31年後の1954年、オックスフォード大学の医大生バニスター選手が、科学的トレーニングを積んだうえに、2人のペースメーカーを使い、4分の壁の突破に成功。

 するとその1か月後に、オーストラリアの選手が伴走者ナシの正式レースで4分を突破。以来1年間のうちに合計23人もの選手が、人類には絶対に無理とされていた「1マイル4分の壁」を次々と破った。
 前述の通り、玉木正之氏は取材せず調査せず裏付けとらず、思い込みでモノを書き、デタラメなことを平気で発表する人だから、上記の引用文に(特に細部で)間違いがないか少し心配になる。おそらくこの件に関してはきちんと調べたのだろう(ウィキペディアかもしれないが、ふだんはウィキペディアすら引かないのが玉木氏である)。
 人間とは、心理的な要因に大きく左右される生き物のようで、「1マイル4分」「100m10秒」といった区切りの良い数字には、何か重大な意味(音速を突破する時のような大きな壁?)があるような(本当はまったく根拠のない)先入観を抱きたがるようだ。

 かつて「1マイル4分」の「人類の壁」が存在していたとき、それは「エベレストの頂上や南極点に立つこと」と同様に不可能とされていたという。が、エベレストも南極点も、1マイル4分も100m10秒も人類は征服した。

 もちろん人類のなかで日本人(黄色人種)の体力が劣っているという証拠など存在しないはず。もしも不利な面があっても、技術で挽回できるというのがスポーツのはずだ。
 とかく、日本の(俗流)スポーツジャーナリズムは、スポーツにおける(なかんずくサッカーにおける)日本人の人種的・民族的劣等性を強調するのが常であった。これを玉木正之氏は批判したのである。すばらしいコラムだと思った。以下で紹介する文章を読むまでは……。

日本サッカー大敗で暴露された玉木正之氏の「日本人」観
 ……2017年11月10日、サッカー日本代表はフランスのリールでブラジル代表と国際親善試合を行い、1対3で敗れた。
ブラジル戦惨敗
 スコアと試合内容からはこれを「大敗」というのかもしれないが、この試合の結果を受けた玉木正之氏の反応には唖然とさせられた。
玉木正之「タマキのナンヤラカンヤラ」 20171110 [ウェブ魚拓版

11月10日(金)つづき
サッカー日本VSブラジル戦。こりゃ、実力が違いすぎる。オマケに体つきも違う。日本の選手はみんな羽生のようでフィギュアスケート向きかとも思う。南米人とは肉を食う量が違うもんなあ。ボリビアやアルゼンチンのホテルのモーニングステーキは250グラム。ディナーのステーキは1200グラムやったもんなあ。ブラジルは行ったことがないけどシュラスコも仰山食べるに違いない。そう言えば以前ラモス〔瑠偉〕さんが日本人の胃袋は小鳥の胃袋とかナントカ言うてたもんなあ。後半はナントカ頑張ったけど実力差は歴然。しかしこれだけ実力差を見せつけられてニヤニヤ笑っていたのは生けませんねぇ〔ママ〕久保〔裕也〕クン浅野〔琢磨〕クン。
玉木正之「ナンヤカカンヤラ」201711
【玉木正之氏の公式サイトより】
 黄色人種、なかんずく日本人は「体格が小さく体力的に劣る国民」である。「純粋な日本人」の身体は、肉料理を「仰山〔ぎょうさん〕食べるに違いない」欧米人とは違って、みなフィギュアスケーターの羽生結弦(はにゅう・ゆづる:冬季五輪金メダリスト)のように線が細い。やっぱり日本人の身体能力は劣っている。日本人は、体格的・体型的・体力的(フィジカル的)にサッカーは不可能である。玉木正之氏は、こう言うのだ。

 桐生祥秀選手の快挙をきっかけに、あれだけ「スポーツのおける日本人の体格的・身体的劣等生という通念」を批判した玉木正之氏が、今度は、サッカー日本代表の大敗をきっかけに「スポーツのおける日本人の体格的・身体的劣等生という通念」を煽ったのだ。

 玉木氏とは、何と無邪気で無節操で人なのだろう……。

玉木正之氏の無節操さを批判する意味
 上の引用文で玉木正之氏が述べていたように、そして玉木氏に限らず、日本では日本人自らが「スポーツの場において日本人は人種的・民族的に劣っている」という発言が頻繁に発せられる。それは、むしろ日本のスポーツに関する批評精神の発露とされてきた。

 こうした風潮に対して、これはレイシズム(racism=人種主義,人種差別,人種的偏見)ではないかと指摘したのは三浦小太郎氏(保守系の評論家)である。

 該当する玉木氏の発言は、まず出汁(だし)に使われた羽生結弦選手に対して失礼である。なおかつ「日本人」に対するレイシズム、人種的偏見である。

 この相矛盾する、そして無邪気で無節操な玉木発言は、上西小百合(元衆議院議員)の浦和レッズに対する炎上狙いの侮辱発言と同等以上に問題であると考える。

 「自虐ネタ」の何が悪いのか? ……という人がいるかもしれない。

 なぜなら、こうした発言は日本のスポーツ界に「誤った先入観」を刷り込んで、日本人のアスリートを心理的に呪縛するものだからだ。例えば、日本人の文化や国民性と「日本サッカーの決定力不足」とを結びつける俗説は、その典型例である。

 さて、この玉木正之氏の驚くべき放言にいかに反駁(はんばく)するべきか?




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