【サッカー日本代表,2018年W杯ロシア大会モデル】
- 何でいつも余計なアクセントやシンボルを入れようとするんだろう?
- 安定の蛇足。
- 作り手にアイデンティティが無いとこうなるわけか。
競馬文化からアディダスジャパンを批判する試み
アディダスジャパン株式会社が手掛けるサッカー日本代表のユニフォームのデザインが毎回毎回ひどすぎて、サッカーファン・サポーターから酷評が噴出する。しかし、いざ、そのデザインの何が悪いのか? と質(ただ)されると、意外に説明に窮(きゅう)する。また、一般のサッカーファンによってネット上に発表された日本代表デザインの代替案の印象は……、カウンターとしては何とも微妙である。
そこで、あらためてアディダスジャパンの醜悪さを理解いただくために、一計を案じることにした。
歌謡界の大御所・北島三郎が馬主をつとめる競走馬「キタサンブラック」。その騎手が着用する「勝負服」のデザインを、アディダスジャパンの流儀で改造するのである。
【キタサンブラックほか、北島三郎所有馬の勝負服】
競馬とフットボール~共通するデザインの神髄
ところで「勝負服」とは何か? 騎手がレースの際に着用する服のこと。「服色(ふくしょく)」とも言う。いわば騎手のユニフォームである。騎乗する競走馬を所有する馬主の表し、馬主ごとにデザインが決まっている。その作図・彩色には一定のルールがあり、たとえば違う馬主が似たようなデザインの勝負服を用いることはできない。
【騎手と勝負服&馬主(冠名):左から,武豊&北島三郎(キタサン),クリストフ・ルメール&里見治(サトノ),ミルコ・デムーロ&社台レースホース(シャダイ),浜中俊&野田みづき(ミッキー)】
フットボール……サッカー(とラグビー)のユニフォーム(ジャージ)も、競馬の勝負服も、そのスポーツで勝負する主体を象徴し、かつその勝負が敵味方を入り混じって行われるために視認・識別する役割が求められる。また、それぞれのアイテムは、ファン・サポーターの大きな関心を呼び、フットボールファン(サッカー,ラグビー)、競馬ファンコレクションの対象にもなっている。
そのためか、フットボールのユニフォームと競馬の勝負服もデザイン(作図・彩色)には類似したものを見かける。
【ソウルスターリング(左)とペニャロール】
【キタサンブラック(左)と慶應義塾大学ラグビー部】
(ただしキタサンブラック勝負服の黄色く見える部分は正しくは茶色である)
特にキタサンブラックを選んだのは、競馬界の枠を超えた話題性もさることながら、勝負服のデザインにセンスの良さを感じたからだ(本当にすばらしい)。この勝負服をアディダスジャパン流に「盛る」ことで、まずはその「違和感」を味わってもらう。
もしもキタサンブラックの勝負服をアディダスジャパンがデザインしたら?
前説が終わったところで、本題に入る。キタサンブラックの勝負服をアディダスジャパンが制作することになった。そして担当者が馬主の北島三郎にプレゼンテーションする……という場面を想定してみる。まずは、首回りの赤い配色が地蔵菩薩や赤ちゃんの「よだれかけ」みたいだと酷評された「革命に導く羽」モデル(2010~2011)である。
アディダスジャパン 北島先生! テーマは「革命」です! 先生の競走馬でGIレースを制覇して日本の競馬界に「革命」を起こしましょう! 勝負服の首周りに革命を表現する「赤」を配色しました!続いて、ユニフォームの前身に縦に1本ラインが入ったデザインのあまりの酷さに、日本中のサッカーファンが呆れ返った悪名高き「結束の一本線」モデル(2012~2013)。ちょうど2011年に「東日本大震災」があったために、「絆(きずな)」や「結束」といったコンセプトを盛り込んだと考えられる。これでアディダスジャパンのセンスの悪さは底を抜けた感がある。
【「革命を導く羽」キタサンブラック(左)とサッカー日本代表】
北島三郎 ……(絶句)。
アディダスジャパン 北島先生! 震災からの復興です! ここは強い「絆」、みんなの「結束」です! 日本全体が逆境に屈することなく前進するための「結束」を一本線で表現しました!そして、2018年W杯ロシア大会の「勝色&刺し子柄」である。
【「結束の一本線」キタサンブラック(左)とサッカー日本代表】
北島三郎 ……(絶句)。
アディダスジャパン 北島先生! これまで先生の競走馬の歴史を築いてきたすべての騎手や調教師、ファンの思いを紡ぎ、未来へ挑むメッセージを込めて日本伝統の刺しゅう「刺し子柄」をあしらいました。こんな代物ばかり見せ続けられたら、しまいに北島三郎はイライラして怒り出すだろう。そればかりか、競馬ファンも怒り出すだろう……。
【「勝色&刺し子柄」キタサンブラック(左)とサッカー日本代表】
北島三郎 ……(絶句)。
フットボールも競馬もデザインのルーツは西洋の紋章学と旗章学
……馬主・北島三郎や競馬ファンが感じるであろう、この「違和感」「イラ立ち」「不快感」こそ、サッカーファンがアディダスジャパンの日本代表デザインに感じる「違和感」「イラ立ち」「不快感」そのものである。北島三郎は、アディダスジャパンによって自分の勝負服がブラッシュアップされたというよりも、むしろ汚され、延いては自分の愛馬が愚弄されたと思うだろう。つまり、アディダスジャパンは、サッカー日本代表を汚し、延いては日本のサッカー文化、日本のサッカーファンを愚弄しているのである。
それとは別にアディダスジャパン流キタサンブラックの勝負服は、登録した服色から大きく逸脱しているとしてJRA(中央競馬会)から使用を禁止される。「革命の赤」だの「結束の一本線」だの「刺し子柄」だのが大袈裟に入ったキタサンブラックの勝負服は、すでにキタサンブラックの勝負服ではないからである。
フットボール(サッカー,ラグビー)のユニフォームと競馬の勝負服はデザインが似てくると書いた。それも当然で、両者とも西洋の紋章学および旗章学からの作図と彩色の作法の派生形だからである。
- 参照「サッカー日本代表エンブレムを世界基準で考える~FCバルセロナを参考に」2017年05月30日
分かりやすい図形、コントラストの聞いた彩色への努力の積み重ねによって、紋章は抜群の識別性を維持してきた。紋章図形の優れた識別性という特質をフルに活用したもの……競馬の騎手がレースの時に着用している派手な上着〔勝負服〕の模様も、すべて紋章の〔図形〕であり、これらの図形が渾然〔こんぜん〕一体となって走り抜ける各馬の順位の識別に極めて有効であるからにほかならない。そして、ミシェル・パストゥロー教授(フランス)の『紋章の歴史』によると、サッカーのユニフォームのデザインもまた紋章学に由来しているという。森護『ユニオン・ジャック物語』70頁
【『世界旗章大図鑑』346頁より】
さらに紋章の影響が強いのが,スポーツのグランドである。ワッペン,大小の旗,ユニフォームの色,応援団が振りまわすマフラーや横断幕,これらはすべて紋章化されており,中には何世紀も昔の象徴や記章〔エンブレム〕の延長線上にあるものもあるが,プレーヤーも応援団もそれをはっきり意識していない。イタリア・セリエAのライバル、インテルとミランの対照的なチームカラーにそのような来歴があったとは、パストゥロー教授の本で初めて知った。
たとえばミラノ〔イタリア〕の有名なふたつのサッカーチーム(インターミラノとACミラン)の色が、16世紀にすでに〔ママ〕ミラノのふたつの区域の記章〔エンブレム〕の色だったことを誰が知っているだろうか。ミシェル・パストゥロー『紋章の歴史』98頁
「継承」されないデザインは失格
- 日本のサッカーファンの大多数は、アディダスジャパンが手掛けるサッカー日本代表のユニフォームのデザインの酷さに強い不満を持っている。
- 競走馬「キタサンブラック」の勝負服をアディダスジャパンのサッカー日本代表風に改造してみたら、やはり同じような強い違和感を感じた。
- サッカーのユニフォームも、競馬の勝負服も、そのデザイン(作画・彩色の作法)はルーツを同じくし、西洋の紋章学や旗章学のそれに倣(なら)っている。
森護先生の著作などをもとに、紋章とは何か……を大まかに定義してみると「特定の対象を他者と識別するために描かれた象徴で,かつ時代を超えて継承されているもの」となる。
「継承」という要素が非常に重要で、描かれる象徴をコロコロ変更していては、プレイヤーもポーターも、アイデンティティーやローヤルティー(loyalty,忠誠心)が固まらない。これはスポーツでも同様、サッカー日本代表でも、競馬のキタサンブラックでも変わりがない。Jリーグのサポーターの横断幕にみられるような「共に闘おう!俺たちの誇り○○○○」みたいな意識が醸成されないのだ。
一方、その国のサッカーの当局は収入を得る手段として、代表チームのレプリカ・ユニフォームを売ることも必要になる。そのために後生同じデザインのユニフォームを使い続けるわけにはいかない。
そこで、矛盾する両方のバランスをとった上で、数年ごとに代表チームのデザインをモデルチェンジすることになる。これは、あくまでマイナーチェンジであって、フルモデルチェンジではない。
【時代を超え継承されるもの:歴代のサッカーイタリア代表】
スポーツ・デザインのあるべき姿とは?
ところが、日本サッカーはこのバランスをずいぶん欠いている。マイナーチェンジのはずなのに、大袈裟な「コンセプト」なるものが立てられるようになった。それは代を重ねるごとに「革命に導く羽」やら「結束の一本線」やらと、やたら饒舌になり、デザインは抽象から具象へと化け、ますます大袈裟になっていった。これには屋上に屋を架すような冗漫さ、継承されているはずのデザインが根本から変更されてしまっているかのような怪訝さをはらんでいる。
すると、サッカーファンは「サッカー日本代表」を応援しているのか、アディダスジャパンの独りよがりのコンセプトを見せつけられているのか、分からなくなる。サッカーファンの心の中に、日本代表に対するアイデンティティーやローヤルティーに不安が生じるのだ。
アディダスジャパンの日本代表デザインにサッカーファンが「違和感」「イラ立ち」「不快感」を覚え、悪評が噴出する心理的理由がこれである。
日本代表に「日本代表」以上のコンセプトなどいらない。日本代表のユニフォームは何を描いてもいい無地のキャンバスではない。手を加えるにしても、これには細心の注意と配慮が必要なのだ。日本代表の歴代のユニフォームのデザインの出来の悪さは、本邦サッカー文化の浅薄さでもある。
とりあえず、日本代表とJリーグ各クラブ(今回,後者にはあまり言及できなかったが)のユニフォームのデザイン(作図・彩色)には、競馬の勝負服のような「服色規定」をもうけ、その一定の幅からモデルチェンジをするべきではないか……と提案してみる。*
嫌なものを無理やり好きになる必要はない。
(この項,了)
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