スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

2017年07月

玉木正之説の根拠(?)橋本治作『双調平家物語』
 古代日本のクーデター「大化の改新」(乙巳=いっし=の変,西暦645年)の主役,中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)。もともと面識がなかったという2人が出会ったのは、従来、蹴鞠の会であったと信じられてきた。
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【霞会館蔵「中大兄皇子蹴鞠の図」(部分)筆:原在寛】

 ところが、中大兄と鎌足の邂逅(かいこう)を描写している『日本書紀』皇極天皇紀にはハッキリ蹴鞠とは書いていない。そこにあるのは「打毱」という正体の知れない記述である。そこで、該当する概念は蹴鞠とは違う別の球技なのではないか……という説も一方で唱えられてきた。
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 中でも、スポーツライター玉木正之氏は、これは蹴鞠ではなく、スティックを使ったホッケー風の球技であると繰り返し、かつ強硬に主張してきた。玉木氏は、中大兄と鎌足の出会いのキッカケが蹴鞠ではなかったことが、その後の、現代にいたるまで日本のスポーツ、日本のスポーツ文化の在り方まで規定してきたのだという。

 すなわち、日本人とはサッカーが苦手な民族である。日本でサッカーより野球の人気が高いのも、日本のサッカーが世界の一流国に伍して戦うことができないのも、日本人が民族的にサッカーが苦手だからである。その証拠として、大化の改新のきっかけも従来信じられていた蹴鞠ではなく、ホッケー風の球技だったのである……ということである。

 玉木氏は、その根拠として橋本治氏の小説『双調平家物語』では、問題の球技(打毬)が、スティックを使ったホッケー風の球技として描かれていることを挙げている。

『双調平家物語』に描かれた球技のルールとは?
 歴史書、なかんずく日本国(倭国)の正史である『日本書紀』その他の史料を吟味することなく、現代に書かれた小説(フィクション)の方が歴史的真実として正しいという玉木正之氏の言い分は、バカバカしすぎて噴飯ものなのだが、それでも橋本治氏の小説『双調平家物語』にある打毬とはそのような球技なのか、検証する意義はあるだろう。

 まず、『双調平家物語』で「打毬(まりうち)」がどのような球技として描写されているのかを見ていく。
 若い男達が二手〔ふたて〕に分かれ、両の掌〔て〕に収まるほどの白い鹿の皮でくくった毬〔まり〕を、走りながら桃の打〔う〕ち杖〔づえ〕で叩き合っている。走り回るには十分な距離を隔てて、南北に広がった川原の両端には、布を結びつけた二本の旗竿〔はたざお〕がそれぞれ門構〔もんがま〕えのように立てられている。敵味方に分かれた二組が、打ち杖で叩いた毬〔まり〕をその門内に入れて勝ち負けを競う。若い男たちは息を切らせて走り、供〔とも〕として従った官人〔かんじん〕や下人〔げにん〕の男達も、息を詰めてその様を見守っている。裸足〔はだし〕の下人の中には、爪先〔つまさき〕立ちをした足を躍〔おど〕らせかかっている者もいる。勝ちを決めた[ゴールを決めた?]組が騒げば、負けとなった組もまた、声ばかりは負けじと落胆の喚〔おめ〕きを上げる。ほとばしるほどの若さには、韓〔から〕渡りの凝〔こ〕った仕様〔しよう〕の打ち杖よりも、まだみずみずしさの残る桃の切り枝の方が似合っていた。

橋本治『双調平家物語2 飛鳥の巻〈承前〉』(中公文庫)2009年
「大欅〔おおけやき〕」の章,224~225頁
 球技の概要自体は引用文の通りである。だが、ここから、またひとつ疑惑が発生する。

 該当する球技は蹴鞠ではない。ホッケー風の球技だと強く主張する玉木氏に対し、当ブログ(の中の人間)は、問題の球技は『日本書紀』本来の記述では「毱といっしょに脱げ落ちた靴を追いかけていった」(原文:而候皮鞋随毱脱落)となっているが、玉木氏の解釈ではどうなっているのか? 手に杖をもって毬を叩く球技では靴は脱げていかないのではないか、矛盾はないのか? と質問したことがある(下記のリンク先参照)。
 すると、玉木氏は「『双調平家物語』には、打毬は毬を杖で叩くだけでなく、足で蹴ってもよいルールの球技として描かれている。だから問題はないのだ」と回答してきた。

 しかし、上記引用文の通り、『双調平家物語』にそのような説明はないのだ。

 玉木氏が『日本書紀』皇極天皇紀をまともに読んでいないのは明らかだが、ひょっとしたら『双調平家物語』すらまともに読んでいないのではないかと勘ぐってしまう。

『双調平家物語』に描かれた中大兄と鎌足の出会い
 続いて『双調平家物語』では、中大兄皇子と中臣鎌足の出会いはどのように描かれてるのか? 朱太字で強調した部分に特に注意して読んでいただきたい。
 鎌足公が打毬〔まりうち〕の技を見るのは、これが初めてではない。仏法や儒教と同じように海を越えて伝えられたこの技を、鎌足公は河内〔かわち〕の郷〔さと〕で帰化人の子供達が遊び戯れながらしているのを見たことがある。しかし、ただ毬〔まり〕を打って走るという技がこれだけ若い男を興奮させるものだとは思わなかった。今ではそれも分かる。分からぬわけではない。しかし鎌足公の望むことは、その打毬〔まりうち〕の技の中に入ることではなかった。

 しばらく什〔たたず〕む内〔うち〕に、人の群れが北から走り寄って来た。喚声が上がり、打たれた毬が陣となった旗竿〔はたざお〕をそれて、鎌足公の方へ流れて来た。ただ件むばかりの鎌足公の足下へ落ちた毬は、そのまま後ろへと転がって行く。鎌足公はその行方を目で追い、足で尋ねた。

 両の掌〔て〕に収まるほどの毬〔まり〕を持ったままの鎌足公は、それをどうしたらよいかと考えた。陣の脇に集まって来た若者達は、口々に「よこせ!」と叫んでいる。そこには中大兄皇子のお姿もあった。鎌足公は、手にした毬〔まり〕をうやうやしく捧〔ささ〕げ持つと頭〔こうべ〕を下げ、皇子の御前へ静々と歩み寄ろうとした。

 そこに一際鋭いお声があって、「寄るな」と仰せられる。鎌足公は立ち止まり、その場に膝をついた。するとそのお声は、「投げよ」とお命じになった。

 鎌足公は頭を上げ、「投げよ」どの仰せを受けたその間の距離を目で測〔はか〕った。四五間〔けん〕もあったであろうか。そのような距離で物の投げ渡しなどしたことはない。「投げよ」との仰せを受けた以上、それをお投げすることは無礼に当たらない。この場で式張〔しきば〕ったうやうやしさをお見せするそのことの方がかえって非礼に当たるのであろうと思われた鎌足公は、その軽い毬を投げた。投げたつもりで、しかしその毬はほんのわずかのところで落ちた。どても四五問の距離を渡すどころではない。川原には若い洪笑〔こうしよう〕が起こった。

 鎌足公は慌てて、手前に落ちた毬に走り寄って再び手にした。四間ばかり先の皇子は、再び「投げよ」と仰せになる。〔まり〕を手にした鎌足公は、大きく振りかぶると、この時ばかりは力をこめて投げた。またしても大笑いの渦が起こった。いかがしたごとか、毬は飛ぶのではなく、ただ落ちるばかりであった。

 「もうよい」と皇子は仰せになる。しかし鎌足公には意地があった。〔以下略〕

橋本治『双調平家物語2 飛鳥の巻〈承前〉』(中公文庫)2009年
「蒼天〔そうてん〕」の章,231~232頁
 要点をあらためて箇条書きにする。
  1. 杖で打たれた毬がそれて、打毬を観ていた鎌足の前に流れてきた。
  2. 鎌足の足元に落ちた毬は、そのまま後ろに流れ、鎌足はその毬を追いかけた。
  3. 鎌足は、手にした毬をうやうやしく捧げ持ち、頭を下げて中大兄の前に歩み寄ろうとした。
  4. しかし、中大兄は鎌足に「寄るな」と言い、その毬を「投げよ」と命じた。
  5. 鎌足は、その毬を投げたがすぐ前に落ちた。鎌足は再び投げたがやはりすぐ前に落ちた。
 以上がその顛末(てんまつ)である。しかし『双調平家物語』はあくまで小説(フィクション)である。『日本書紀』には肝心の場面はどのように表現されているのか?

『日本書紀』皇極天皇紀には何と書いてあるのか?
 現在、流通する『日本書紀』のテキストには大きく分けて岩波文庫版と小学館版の2つにある。『日本書紀』皇極天皇紀、その問題の箇所には何と書かれているのだろうか?
 それぞれ該当する箇所を引用、検討してみたい。まずは岩波文庫版からである。
ワイド版岩波文庫『日本書紀(四)』より
 偶(たまたま)中大兄の法興寺(ほうこうじ)の槻(つき)の樹(き)の下(もと)に打毱(まりく)ゆる侶(ともがら)に預(くはは)りて、皮鞋(みくつ)の毱(まり)の随(まま)(ぬ)け落(お)つるを候(まも)りて、掌中(たなうら)に取(と)り置(お)ちて、前(すす)みて跪(ひざまづ)きて恭(つつし)みて奉(たてまつ)る。中大兄、対(むか)ひて跪きて敬(ゐや)びて執(と)りたまふ。


 ちなみに、岩波文庫版の「打毱」の解釈は「蹴鞠」である。続いて小学館版である。
小学館・新編日本古典文学全集(4)『日本書紀(3)』より
 偶(たまさか)に中大兄の法興寺(ほうこうじ)の槻樹(つきのき)の下(もと)に打毱(ちょうきゅう)の侶(ともがら)に預(くはは)りて、皮鞋(みくつ)の毱(まり)の随(まにま)に脱(ぬ)け落(お)つるを候(うかか)ひ、掌中(たなうら)に取(と)り置(も)て、前(すす)みて跪(ひざまづ)き恭(つつし)みて奉(たてまつ)る。中大兄対(むか)ひて跪き、敬(ゐや)びて執(と)りたまふ。


 こちらの「打毱」(ちょうきゅう)の解釈は、杖(スティック)を用いたホッケー風の球技である。

 もちろん、ここでは「打毱」がいかなる球技なのかということが問題なのではない。中大兄と鎌足,2人の出会いがいかに描かれているかということである。こちらも要約してみると……。
  • 中大兄の靴が毱に従って脱げた⇒鎌足が追いかけて手に取った⇒鎌足はその靴を中大兄の前でひざまずいてうやうやしく差し出した⇒中大兄も鎌足を敬ってひざまずきその靴を受け取った。
 ……中大兄が鎌足に対してとった態度は、皇族が臣下にとるものとしては異例の対応である。それだけ2人の生涯にわたる友情のきっかけでもあったという含みがある。
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【小泉勝爾『中大兄皇子と中臣鎌足』神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより】

歴史とフィクションの違いが分からない玉木正之氏
 司馬遼太郎氏の作品などもそうだが、歴史小説は史実や史料そのままを叙述したものではない。たいていフィクションが入ってくる。小説は、そうすることによって世界観がより豊かになるのだ。しかし、それは歴史本来の楽しみ方とはまた別のものである。

 脱げてきた靴を手に持ちつつしんで差し出した歴史書『日本書紀』と、それてきた毬を手に持って投げ返そうとした小説=フィクション『双調平家物語』。両者の描写は、これだけ違う。橋本治氏がこうした設定と表現を選んだのは、あくまで小説としてであって、歴史上の事実を述べたわけでも、実証したわけでもない。

 やはり、正史『日本書紀』皇極天皇紀に登場する、古代日本の謎の球技の実体を、橋本治氏の小説=フィクション『双調平家物語』をもって根拠とする玉木正之氏の姿勢は完全におかしい。

 玉木正之氏は歴史と小説(あるいはフィクション,物語)の区別が分からない?

 否。邪推するに、玉木氏は日本人はサッカーが苦手な民族であるという強烈なイデオロギーを持っていた。そのためには日本の歴史や文化,民族性の裏付けがなければならない。玉木氏は、大化の改新のキッカケになった球技は蹴鞠ではないらしいという話を聞きかじって、コレだ! と思った。しかし、玉木氏はそのソースを知らない。小学館版『日本書紀』が蹴鞠説ではなくホッケー風球技説を支持していることも知らなかった(笑)

 そんなところへ、ホッケー風球技説を採用した橋本治氏の小説『双調平家物語』の存在を知った。玉木氏は文学・思想方面へのコンプレックスが強い人で、その分、事実とか実証とかを軽く見る人である。この小説をに飛びついて、歴史的真実として信じ込み、吹聴するようになった。おそらく、こんなところではないか。

 いずれにせよ、こんな人が日本のスポーツジャーナリズムの第一人者だと思われていたり、筑波大学や立教大学のような大学・大学院でスポーツ史やスポーツ文化について教えていることは、日本のスポーツにとっても、日本の学術にとっても、日本の社会にとっても害悪である……。

『双調平家物語』のネタ本? 遠山美都男著『大化改新』
 ……と、ここまでは、いつものフンガイした終わり方なのだが、問題の『双調平家物語2 飛鳥の巻〈承前〉』(中公文庫)の巻末363頁で興味をかき立てる記述を知った。
参考文献:遠山美都男著『大化改新~六四五年の宮廷革命』(中公新書)



 橋本氏の小説は、歴史学者・遠山美都男氏の著作を参考にしているのだという。この本には何と書かれているか。大化の改新と古代球技の問題にどんな解釈を与えているのか。

 探求していきたい。

(つづく)


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デタラメだらけの玉木正之氏の指を1本1本折っていく
 『日本経済新聞』夕刊2014年10月に掲載された「スポーツと文学(1)」という、玉木正之氏のコラムがあり、インターネットでもいくつか転載されている。
 いずれもサブタイトルにある通り、「日本人はサッカーが苦手な民族である」という玉木スポーツ史観の主調音に読者を誘導しようという内容なのだが、これが全編にわたってデタラメだらけで酷すぎるので(しかも使いまわしのネタが多い)、逐一取り上げて批判することにした。
上杉隆(左)と玉木正之
【ニューズオプエド主宰の上杉隆氏(左)と常連執筆者の玉木正之氏】

 なお、引用するテクストは『ニューズオプエド』版による。

玉木正之氏の「鈍感力」
2015年03月02日
スポーツ教養講座/スポーツと文学(1) 古典に描かれた競技は個人種目中心!?

 この原稿は、日本経済新聞夕刊に〔2014年〕10月2日~30日まで毎週木曜5回にわたって連載した『スポーツと文学』の第1回です。小生のHP〔カメラータ・ディ・タマキ〕でも公開しましたが、さたに〔ママ〕少々手を加え、本欄〔『ニューズオプエド』のスポーツ欄〕でも「スポーツ教養講座」として、順次新たに発表することにしました。

 スポーツの奥深さに接していただくため〔…〕、お楽しみください。

**********

 欧米から我が国へ「スポーツ」が伝播(でんぱ)したのは文明開化の明治十年〔1877〕前後だった。が、それ以前の日本にも「身体文化」は存在した。

 『日本書紀』の垂仁(すいにん)記には、当麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)の格闘が記され、それは相撲や柔道の原型とされている。
■ 古事ではなく日本書だから「垂仁」ではなく「垂仁」である。「さらに…」を「さたに…」とか、玉木氏はずいぶんそそっかしい人である。「少々手を加え」たとは言うが、おそらく編集や校正を通さない生原稿を、そのまま「蔵出し」してきたのだろう。
 皇極(こうぎょく)記には、中大兄皇子と中臣鎌子〔鎌足〕が「打毱(ちょうきゅう)」に興じながら蘇我入鹿を討つべく(いわゆる大化の改新の計画を)密談する描写がある。打毬は、後の蹴鞠(けまり)とは別の球戯。「今日のポロまたはホッケー風の競技」(小学館版『日本書紀』註釈)とされ〔打毱だったり、打毬だったり、打鞠だったり、玉木氏の用字が一定しないことを、読者はいちいち気にしてはいけない〕、高松塚古墳の壁画に描かれた男女の持つ細長い棒も打毬(ホッケー)のスティックと考えられる。
■ これも「皇極」ではなく「皇極」である。

■ 中大兄皇子と中臣鎌足が「打毱」に興じながらクーデター(大化の改新)の計画を練ったと、玉木氏は書いているが、これも間違い。『日本書紀』の記述では、「打毱」の会は2人の出会いのキッカケになっただけで、蘇我氏打倒のクーデターを企てるのは、その後のことである……。

 ……と、いうか、玉木正之氏は本当に『日本書紀』を読んでいるのだろうか?
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■ 「打毱」を「ちょうきゅう」と読み、いわゆる蹴鞠ではなく、スティックを使ったホッケー風の球技と解釈しているのが小学館版の『日本書紀』なのは、玉木正之氏にしては珍しく(失礼)正しい(国文学者の西宮一民氏による考証,註釈)。
正倉院宝物より
【打毱(正倉院宝物)小学館版『日本書紀』より】

 もっとも、小学館版にこうした解釈が載っていますよ……と、玉木氏に教えてあげたのは、実は、当ブログ(の中の人間)なのである(下記のリンク先参照)。
 玉木氏は、それ以前から該当の古代日本の球技を蹴鞠ではなく、ホッケーに似た球技であると主張してはいた。だが、信じられないことに、本人は何を根拠にそう述べていたのかを全く覚えていなかったのである。

■ 「打毱」をスティックを使ったホッケー風競技と解釈する仮説の根拠として、現在に伝わる平安朝の個人技を中心とした蹴鞠が、大化の改新(645年)よりさらに時代が下って日本に伝わったという説がある。
 玉木正之氏が「高松塚古墳の壁画に描かれた男女の持つ細長い棒も打毬(ホッケー)のスティックと考えられる」という話を持ち出したのは、このことを意識したものかもしれない(もっとも蹴鞠はボール以外は基本的に道具は不要なのだが)。

 玉木氏は、事実云々、学問的にどれが正しい云々ではなく、何が何でも問題の球技がホッケー風の球技でなければいけないのだ。しかし……。

■ ……一般に流通している『日本書紀』のテクストには玉木氏が依る小学館版だけでなく、岩波文庫版もある。こちらでは「打毱」を従来の通説通り蹴鞠と解釈している(歴史学者の坂本太郎氏による考証,註釈)。玉木氏は、なぜこちらを紹介しないのだろうか?
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【小泉勝爾『中大兄皇子と中臣鎌足』神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより】

 皇極紀にある「打毱」がどんな球技であるかは学問的に未決着の問題である。したがって、(広義の)日本文学で読む日本のスポーツの歴史を紹介するというのであれば、両論を併記するべきである。
日本書紀〈4〉 (岩波文庫)
坂本 太郎
岩波書店
1995-02-16


 それをしないのは、玉木正之氏が自身にとって都合のいい日本スポーツ史観を読者=スポーツファンに対して吹聴し、印象操作をしたいがためである。

小説の記述の方が歴史書よりも学問的に正しい!?
 日本の「国」の歴史を漢・隋・唐や聖徳太子から書き起こし、平氏滅亡までを描いた橋本治の大河小説『双調平家物語』には、この打毬の様子が想像力豊かに描かれている。



■ 例えば、司馬遼太郎の『国盗り物語』や『竜馬がゆく』といった作品を持ち出して、学問的に織田信長という人物とはこういう人でした。学問的に坂本龍馬とはこういう人でした……などということはできない。これらは歴史小説であって歴史資料(史料)ではないからである。学問的ではないからだ。

 学問的である、ということは事実をより正確にとらえることができるということである。これこそ常識だと思うのだが、玉木正之氏は違うようである。

 現代(20世紀)になって書かれた小説を、1400年前の歴史の出来事の学問的な根拠とすることはできない。橋本治氏の『双調平家物語』は、玉木氏が言う通り、あくまで「想像力豊かに描かれ」た小説でありフィクションである。学問的著作ではないのだ。

 ところが玉木氏は、『双調平家物語』をもって「小説家の書いた小説ではありますが、この描写が史実に近い」とまで述べている。こうした感覚は理解しがたい(下記リンク先参照)。
■ 橋本治『双調平家物語2 飛鳥の巻(承前)』では、打毱の会における2人の出会いは、逸(そ)れてきたボールを鎌足が中大兄に投げ返した描写になっている。対して、『日本書紀』では、ボール(毱=まり)と一緒に脱げた中大兄の靴を鎌足が拾ってうやうやしく返したことになっている。

 つまり、橋本作品は歴史書(『日本書紀』)の記述からも飛躍した、あくまでフィクションなのである。

 玉木氏が自身の歴史観に橋本作品を補強に用いることは、かえって橋本治氏を貶めることにもなるのではないか。

蹴鞠=サッカー論の間違い
 本家の『平家物語』では、南都の僧が打毬から発展した「毬打(ぎっちょう)の玉を平相国(へいしょうごく)の頭と名づけて「打て」「踏め」などと弄〔もてあそ〕び、それに激怒した清盛が東大寺焼き討ちを命じたという記述がある。

 この毬打というチームプレー的な競技に対して、平安貴族の間で流行したのが個人プレー中心の蹴鞠だった。その情景は、『源氏物語』若菜の条にも、生き生きと描かれている。
 唐突にこの辺から、ホッケー風の球技から平安時代の蹴鞠の話になる。じっくり読んで論理的にたどっていこうとすると、なぜここで話をシフトチェンジするのかよくわからない。玉木正之氏が必要な説明を省略しているからで、そこは当ブログが補足する。

 玉木氏はゴールを狙うチーム対戦型の球技をサッカーの元祖だと考えている。ボールに触れるのは手でも足でも手に持った杖(スティック)でも構わない。一方、蹴鞠は個人技中心の球技だと玉木氏は思っている。打毱や毬杖の系統は日本の歴史の中で廃れ、翻って個人技の(サッカー的ではない)蹴鞠の系統が日本スポーツの伝統となった……。

 ……このことは、現代の日本スポーツにも大きな影響を与えているのだと玉木正之は常々主張している。この歴史観を念頭において、以下をしっかりと読んでいただきたい。
 澁澤龍彦『唐草物語』のなかの一編『空飛ぶ大納言』には「ひとたび蹴りはじめると、妖魔にでも取り憑かれたかのごとく病みつきになって」しまう蹴鞠の魔力が、御堂関白道長から数えて五代目の後裔・大納言成通(なりみち)卿の妙技を通して描かれている。〔中略〕

 そんな蹴鞠の名人が、一千日間、一日も欠かさず鞠を蹴ってやろうと願を立て、満願となった日に、夢のなかで三人の童子と出逢う。彼らは鞠の精で、「飛翔願望」のシンボルである鞠とともに空を飛びたいと切望する成通に、実際に軽々と空を飛んでいた子供の頃の姿を見せる……。

 この幻想譚は、現代日本のサッカー事情につながる。世界の一流国に伍する闘いをなかなかできない日本サッカーだが、フリースタイル・フットボール(一人で行うリフティング競技)では、成通卿の末裔とも言うべき日本の若者〔徳田耕太郎選手〕が、見事に世界一となった(2012年)。
■ 玉木正之氏の文化本質主義的な性格がよく表現された一文である。……が、古代日本の蹴鞠と現代のサッカー,あるいはフリースタイルフットボールとの間に直接のつながりはない。例えば、烏帽子に鞠水干(まりすいかん)といった衣装の蹴鞠には、ヘディングやバク転、逆立ちなどといった現代のフリースタイルフットボールの身体の動きや技術,演技はないのだ。

 加えて、徳田選手はケガを理由に11人制サッカーからフリースタイルに転じた人で、11人制を敬遠してフリースタイルを始めた人ではない。だから、徳田耕太郎選手を蹴鞠の名人といわれた平安貴族の末裔と位置付け、持説を補強するためダシにする玉木正之氏は間違っている。

■ 「世界の一流国に伍する闘いをなかなかできない日本サッカー」と玉木氏は知った風に言うが、「世界の一流国に伍する闘い」できる国のことを、サッカーの「世界の一流国」というのである。そんな国は「世界」でほんのわずかだ。

 世界のスポーツといわれるサッカーの文化は、一流国や準一流国だけでなく、日本を含めた世界のサッカー二流国,三流国がその奥行きを作っている。今の日本サッカーは「世界の一流国」と手合わせする機会はある。親善試合ではサッカーの超大国アルゼンチンに勝つことだって、ある。Jリーグ以前の日本のサッカーもそうだったのだが、世界のサッカー国には「一流国」と対戦する機会すらかなえられない国の方が多いのだ。

玉木正之氏が固執する持論
 明治初期、陸上、水泳、テニス、野球、サッカー、ラグビー、ゴルフ……等々、あらゆるスポーツが伝来したなかで、瞬く間に抜群の人気を得たのは野球だった(その様子は正岡子規が多くの歌に詠み、夏目漱石が『吾輩は猫である』のなかで、やや否定的に活写している)。

 種子島に鉄砲が伝来して以来、わずか半世紀後に戦国時代(市民戦争)を終えた日本では、「ヤアヤア我こそは……」と名乗りをあげて闘うイメージがいつまでも強く残り、投打の対決という個人プレー中心の野球が最も理解しやすかったのだろう。

 Jリーグ発足以来サッカー人気が急上昇したとはいえ、チームプレーの毬打が消え、個人プレーの蹴鞠を伝統文化として残した日本人は、今も個人プレーに魅力を感じ、力を発揮するのかもしれない。(玉木正之)
■ この「種子島に鉄砲……」云々も、きちんと説明しないと真面目な読者には分かりにくいと思う。これも玉木氏の長年の持論「1対1の勝負説」である。

 要するに、日本の歴史では、欧米のように銃(鉄砲)を使った集団戦法が成熟することなく、平和な時代(江戸時代)を200年以上過ごしてしまった。そのために、日本人は「ヤアヤア我こそは……」と名乗りをあげて戦う、従来の1対1の勝負に美学を感じてきた「伝統」がある。

 明治になって、さまざまなスポーツが欧米から日本に紹介されたが、日本人はチーム(集団)で戦うサッカーやラグビーよりも、野球のおける投手vs打者の対決に1対1の勝負に美学を見出した。

 加えて、日本人には、蹴鞠という集団(チーム)プレーよりも個人プレーに魅力を感じ力を発揮できる「伝統」がある。この2つの「伝統」が相まって、日本はサッカーでもラグビーでもなく野球の国となった。

 日本でJリーグの人気がプロ野球を追い抜けないのも、日本のサッカーが世界の一流国に伍していけないのも、すべてはそうした日本人の「伝統」に由来するものだ。日本人は本質的にサッカーが苦手な民族だ……というものである。

「1対1の勝負説」の間違い
■ しかし、玉木氏が何べん繰り返そうとも、この持論は間違いなのである。

【1】
 明治時代初期、日本に伝来したばかりの頃の野球のルールは現在のそれと大きく異なっており、投手は打者に打ちやすい球を投げなければいけなかった。こうした当時のルールでは、野球における投手と打者のプレーを「1対1の対決」とは見なし難いため……。

【2】
 投手が投げた球を打者がバットで打つ、野球と同族の球技で、野球と同じく明治時代初期に日本に伝来し、一定期間日本でプレーされていた「クリケット」との比較を「1対1の勝負説」では欠いている。つまり、なぜサッカーではなく野球なのかという説明はあっても、なぜクリケットではなく野球なのかという説得力ある説明を玉木正之氏はできていないため……。

【3】
 そもそも、野球とサッカーは同じ条件で日本に紹介されたのではない。実質的・本格的な普及が図られた歴史が、サッカーより野球の方が20年近く古い(野球は1878=明治11年から,サッカーは1896=明治29年から)ため……。

 ……以上の理由から、「1対1の勝負説」は正しくないのである。

日本のスポーツファンを馬鹿にした人選
■ それにしても、ここまでデタラメな話がよく『日本経済新聞』に掲載され、リテラシーを旨とするジャーナリスト上杉隆氏のウェブサイトに転載されたものだと思う。

 こういう人(玉木正之氏)が、いくつかの大学で大学教授をやっていて、学生や院生たちにスポーツ史やスポーツ文化について(独りよがりで誤った知識を)教えている。その中には筑波大学や立教大学といった著名な大学もある。日本のスポーツ学のレベルは低い。

 何より、玉木氏の起用,重用は日本のスポーツジャーナリズムやスポーツファン,サッカーファンのレベルを下げているとしか思えない。

(つづく)


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 よく「勝敗ばかり追うスポーツ・メディアは下等だ」式の批判が、「スポーツライター」を名乗る者からも展開される。

 あれは嘘である。1980年代、他分野の一級批評家が余技に遊んだ「ゲームそのものの美こそが絶対」の視点を、ナイーブにも真に受けた。

 スポーツ・メディアが下等なのは、勝敗ばかりを追うせいでなく、追い方が拙いからだ。「ばかり」の限度はともかく、勝つか負けるかは、どうしたってスポーツの醍醐味なのである。

藤島大『スポーツ発熱地図』141~142頁

スポーツ発熱地図
藤島 大
ポプラ社
2005-01


隠喩としての玉木正之批判
 エピグラフで藤島大氏が揶揄している「スポーツライター」とは誰のことでしょう?

 見えすいた設問だが、玉木正之氏のことである。

 それでは「他分野の一級評論家」とは?

 蓮實重彦(はすみ・しげひこ)氏のことである。
蓮實重彦と山形の因縁
 「どうしたって…」は何のパロディ?

 蓮實氏が草野進(くさの・しん)という名義で書いた『どうしたって、プロ野球は面白い』その他、一連の野球評論……と、いうよりも野球「批評」の著作のことである。



 玉木正之氏を初めとして、この種のスポーツ「批評」に蠱惑(こわく)されて絶賛したがるどうしたってナイーブな関係者は多い。だから、玉木氏のような人物につられてこの種のスポーツ「批評」に共感しなければならないと思っているどうしたってナイーブな読者も少なからず存在する。

 これに納得できない自分は頭が悪いのではないか……と、不安に落とし込む語彙と文体で読者に迫ってくるからである。

 だからといって、草野進とその亜流の「批評」が肌に合わないならば、無理に読む必要はない。自分は頭が悪いのではないか……と、卑屈な疑心暗鬼に陥る必要もない。そういう人は他ににもっと読むべき本があるからであり、時間の無駄だからである。

 藤島大氏も、それならば、例えば偉大な野球人である三原脩(みはら・おさむ)の自伝『風雲の軌跡』や、バレーボール五輪女子金メダルの監督,山田重雄(やまだ・しげお)の自伝『金メダル一本道』でも読んだ方がいい……と『スタジアムから喝采が聞こえる』の中で書いている。

 藤島氏曰く、三原
脩や山田重雄のような「本物の勝負師の自伝は例外なく面白い。〈スポーツを種に知的な批評を装って自らを輝かせようとする文芸評論家の書きものなど〉〔「狐の書評」本の雑誌社〕とは迫力がちがう」(『スタジアムから喝采が聞こえる』)からである。

 「ゲームそのものの美こそが絶対」とは、あくまで文学・思想偏愛者向けの特殊な感性に訴えかける一種の「作品」なのであって、断じて「スポーツ(野球)の批評」ではないからである(この「断じて~ない」もパロディのつもり)。

玉木正之あるいは俵万智への表層批評
 玉木正之氏がよくやる「勝敗ばかり追うスポーツ・メディアは下等だ」式の批判の定番に、明治の歌人で文学者の正岡子規が詠(よ)んだ野球の俳句・短歌を絶賛し、翻って現代の歌人,俵万智が詠んだ野球の短歌を否定するというネタがある。

 インターネットで手軽に読めるものとしては、玉木氏の公式サイト「カメラータ・ディ・タマキ」に転載された「子規の野球への視点~それは、スポーツライターの原点」(初出『俳句界』2015年12月号の「正岡子規特集」)や、「スポーツと文学 第5回〔最終回〕」(初出『日本経済新聞』2014年10月30日付夕刊)がある。

 ここでは、より簡潔にまとめられた「スポーツ博覧会:正岡子規は現在のプロ野球をどう思う?」(初出『損保のなかま』2014年12月1日付)から紹介する。
玉木正之「正岡子規は現在のプロ野球をどう思う?」
 「正岡子規は現在のプロ野球をどう思う?」 玉木正之

 欧米から日本にスポーツが伝播(でんぱ)したのは文明開化の1877~79年ごろ。

 陸上競技や水泳、テニス、ゴルフ、フットボールなど、あらゆるスポーツが伝わり、中でも野球は日本国民から圧倒的人気を得た。

 そんな中、野球に関する俳句や短歌をたくさん残したのが、歌人の正岡子規だった。
  • 恋知らぬ猫のふりなり球あそび
  • 夏草やベースボールの人遠し
 ……と、叙情的な野球の歌〔俳句〕があるかと思うと
  • 久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬも
  • 若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如くものもあらじ
 ……と、野球を絶賛する歌もある。が、素晴らしいのは、野球の興奮をそのまま描写した次のような歌だろう。
  • 打ち揚ぐるボールは高く雲に入りてまたも落ちくる人の手の中に
  • 今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな
 ……選手やボールが動くだけで、ワクワクした気持ちになるのは、草野球を一度でも経験した人なら理解できるはずだ。
 これらの詩歌では、野球という「ゲームそのものの美こそ」を詠(うた)っている。
 が、子規の時代から約100年を経て、俵万智は『サラダ記念日』という歌集で、次のような野球の歌を発表した。
  • 日本を離れて七日セ・リーグの首位争いがひょいと気になる
サラダ記念日
俵 万智
河出書房新社
2016-07-11

 この歌から思い浮かぶのは新聞に載った順位表であり、野球のシーンではない。〔以下略〕
 俵万智の短歌は、「勝敗ばかり追う」日本的で貧困なスポーツ観を反映したものだ。

凡庸な玉木正之のスポーツ像
 しかし、勝敗やリザルト(結果),スタッツ(数字)にこだわったスポーツの楽しみ方は、玉木正之氏が折に触れて批判しているように、それほどイケナイことなのだろうか?
 サッカーへの愛情は数字への愛情とけっこうからみ合っている。試合結果があり、歴史に残る日付がある。日曜日のパブの椅子に腰かけて新聞にある順位表を「読む」時間には、格別な喜びがある。

サイモン・クーパー『「ジャパン」はなぜ負けるのか』13頁



 英国人のジャーナリスト,サイモン・クーパーは自著でこう書いている。玉木正之氏は、俵万智を批判したようにサイモン・クーパーのサッカー観を批判しなければならないはずだ。「彼の発言から思い浮かぶのは順位表であり、サッカーのシーンではない」と。

 またスポーツライター生島淳氏はこう書いている。
 コーヒー、トースト、ボックス・スコア。

 アメリカ人の朝は、簡素な食事と、昨夜のベースボール〔野球〕の結果を、数字と名前だけで再現したボックス・ストアで幕を開ける。〔略〕アメリカ人にとっては、そのはその中身を吟味することが重要な儀式の一つなのだ。

 ボックス・スコアはベースボール〔野球〕のDNAである。〔略〕たとえ百年前のゲームであっても、数字と名前さえ読み込めれば、たやすくそのときのゲームを思い描くことができる。

生島淳「G/A法ビデオ分析のススメ」『ラグビー黒書』104頁

ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12


 玉木正之氏は、俵万智を批判したように、生島淳氏が描き出したアメリカ合衆国の野球ファンを批判しなければならない。「アメリカ人が楽しんでいるものは単なる順位表であり、野球(ベースボールか?)のシーンではない」と。

 要は、玉木正之氏がスポーツライターとして、日本のスポーツメディアも、スポーツファンも、勝敗の追い方が拙い……と批判,啓蒙するのであれば、それでかまわない。あるいは、俵万智の問題の短歌が短歌として「凡庸」だと批判するならば、それはそれで理解できる。

 だが、文学・思想方面に根深いコンプレックスを持つスポーツライター玉木正之氏が、浮世離れした「他分野の一級批評家」(蓮實重彦)が余技に遊んだ「ゲームそのものの美こそが絶対」の視点を持ち出して、スポーツの勝敗や数字を追う楽しみなどを根こそぎ否定するものだから、日本のスポーツの在り方が、かえって混乱するのである。

 もし、あなたが玉木正之氏のスポーツ評論に何か違和感を覚えるのだとしたら、その正体のひとつがコレである。実際、スポーツライターの同業〈他者〉の中には、藤島大氏をはじめとして、岡邦行,武田薫,永田洋光,美土路昭一,永田洋光,秋山陽一、そして梅田香子の各氏,その他ここでは名前が出せない超大物など、玉木氏のアンチは多い

子規の生涯から遠く離れて
 正岡子規は、日本スポーツ史上、草創期のアスリート(野球選手)である。彼がもっぱらプリミティブな「ゲームそのものの美こそ」を詩歌で詠んでいるかのように感じられるのは、早世したからである。

 1967年(慶応3)生まれ、1902年(明治35)、長い闘病生活の果てに数え35歳で没。だから、スポーツという概念が世上に知られ始め、その試合や大会を伝える記事がマスメディアに載り、さらに大衆の興味を増幅するという後の時代を子規は知らない。

 例えば、野球の第1回早慶戦が1903年(明治36)。近代大相撲の祖といわれる常陸山の横綱昇進が同じく1903年(明治36)。また、1911年(明治44)、『東京朝日新聞』を中心に展開された「野球害毒論争」の時は、子規が生きていれば44歳。この論争にどんな論陣を張っただろうか?

 子規が長命を保っていれば、1915年(大正4)の「第1回 全国中等学校優勝野球大会」(現在の高校野球の前身)の時には48歳。プロ野球の先行クラブ,日本運動協会(芝浦協会)の創設、1920年(大正9)は53歳。野球の東京六大学連盟の成立、1925年(大正14)では58歳といった具合である。
第1回全国中等学校優勝野球大会始球式
 子規にはジャーナリストとしての顔もあったわけで、これらの試合,大会のレポートも雑誌や新聞に寄稿していたかもしれない。玉木正之氏は「私が日本で初めて〈スポーツライター〉を名乗った」というのが自慢らしいけれど、日本で初めてスポーツライターをやったのが、ひょっとしたら正岡子規だったかもしれないのだ。

 そうなると、子規の「野球文学」が、より幅広い、あえて書くがより豊かな形で伝わっていた可能性も考えられる。

 繰り返すが、玉木正之氏が、正岡子規を盾にとって俵万智を批判できるのも、子規が早世したからである。一連の事情を考えてみると、スポーツ観が狭量なのはむしろ玉木正之氏の方ではないだろうか。

玉木正之における知の欺瞞
 玉木氏が、正岡子規が詠んだ野球の詩歌を紹介するたびに思うのは、では、なぜ玉木正之氏は正岡子規がやっていた当時の野球のルールに無頓着なのだろうか? という疑問だ。
野球人・正岡子規
神田 順治
ベースボールマガジン社
1992-12

 もちろん、その答えを想像することは難しくない。

 日本人はサッカーやラグビーのような集団の戦い(チームプレー)が本質的に苦手であある。むしろ野球のおける投手vs打者の勝負に見られるように、1対1の対決を歴史的,文化的,伝統的に好む。だから日本のスポーツでサッカーやラグビーよりも、野球の人気が出たのだという玉木氏正之氏の長年の持論……これが「1対1の勝負説」である。

 しかし、正岡子規が野球選手だったころ、明治時代前半の野球ルールは現在ものとは大きく違っていた。簡単に言えば、投手は打者にひたすら打ちやすい球を投げ続けなければならなかったのである。

 子規もそうしたルールのもとで野球をプレーしたのであり、彼(ら)がことさらに1対1の勝負を好み、野球というスポーツにそうした性質を見出したということはありえない。

 それを認めてしまっては「1対1の勝負説」から出発して日本のスポーツ文化を包括的に論じる玉木正之氏にとっては非常に都合が悪い。だから、玉木氏は正岡子規の詩歌を紹介しても、子規がどんなルールで野球をプレーしたいたかについては触れないのだ。

 しかし、これでは、ラグビー史研究家の秋山陽一氏が指摘するようにご都合主義の歴史観にすぎないだろう。学生や院生たちにスポーツ史やスポーツ文化について教える(客員ながら)大学教授でもある、スポーツライター玉木正之にとっては知の欺瞞(ぎまん)でもある。



(了)


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「サイモン・クーパーの誤算(前編)~続・外国人監督の日本人論をありがたがる日本サッカーの悪癖」よりつづく

サッカー文化なんか数か月で変えられる?
 サイモン・クーパーとステファン・シマンスキーが著したサッカー本『「ジャパン」はなぜ負けるのか』(2010年,森田浩之訳,原題:英国版Why England Lose,米国版Soccernomics)日本語版の第2章は、書名と同じ「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」。日本サッカーが国際舞台でなかなか勝てない理由を「日本人の国民性,文化」に求める風潮をデタラメだと批判する意欲的な論考である。



 この話のマクラとして、非常にわかりやすい話の入り口として「サッカーにおける日本人の決定力不足」が登場する。日本の人たちは、永久に変えようがない日本人の国民性や文化の影響下にあり、自分たちは「決定力不足」だと信じ込んでいる……。

 ……しかし、こんな議論は誤りだと、クーパーとシマンスキーは喝破する。もっとも、2人は「決定力不足」言説そのものを批判しない。その代わり、日本サッカー本来の素質(秘めた実力)を統計を使って諄々(じゅんじゅん)と諭すという方法をとる。サッカーそれ自体の実力を上げ、実績を積むことは、必然的に「決定力不足」の克服になるわけだ。

 すなわち、その国のサッカーの実力は「国の人口」「国民所得」「代表チームの経験値」という3つの要素に左右される(国民性や文化ではない)。実は、日本はこの点で非常に有望である。アメリカ合衆国,中国とならんで将来的に最も有望な国であろう。

 優れた代表選手を輩出する母体となる「国の人口」の多さ(日本:およそ1億2千万人)。「国民所得」とは早い話が強化のためのカネ=経済力である(身体能力に優れているとされるアフリカ諸国は、この点で期待薄らしい)。そして「代表チームの経験値」を積むことは国際試合,国際大会における強さにつながる。

 歴史の浅い日本サッカーにとって一番不利な点が、3番目の「代表チームの経験値」である。だが、それもまったく問題はない。世界サッカーの最先端地域である西ヨーロッパ(ドイツ,オランダ,イタリア,フランスなど)から優れた指導者(監督,コーチ)を招聘(しょうへい)し、その知識を吸収すればよいのである。

 西ヨーロッパの優れたサッカー指導者ならば、その国のサッカーを悪い意味で規制している独自の「文化」など、ほんの数か月で変えられる。事実、オランダ人のフース・ヒディンクは、上下関係の厳しい韓国、だらしないオーストラリア、卑屈で冒険心のないロシア、これら各国の代表チームを変革し、素晴らしい結果を上げてきた……。

あざやかなロジックについてまわる不安や疑問
 ……胸がすくような論理が次々と展開される。日本のサッカーファンならば、日本人ならば『「ジャパン」はなぜ負けるのか』をぜひ読むべきである。しかし。この著作の小気味の良さには、表裏一体で不安や疑問もわいてくる。

 ひとつは、日本における日本人論の存在があまりにも強固なこと。日本人は日本にやってきた外国人による日本人論の類(ロラン・バルトほか)を過剰にありがたがる風潮があり、特にスポーツは、そうした日本人論に素材を提供し続けてきた。この分野は海外との人的交流が盛んであり、かつ大衆的な文化として人々の目に触れやすいからだ。
菊とバット〔完全版〕
ロバート ホワイティング
早川書房
2005-01-01

和をもって日本となす
ロバート ホワイティング
角川書店
1990-04

 サッカーでは、総合スポーツ誌『ナンバー』が2010年12月9日号(通巻768号)で「外国人監督が語る日本サッカー論 ニッポン再考。」という、外国人のサッカー指導者の言葉を日本人論として受容する特集を出している。
外国人監督が語る日本サッカー論ニッポン再考
【ナンバー768号「外国人監督が語る日本サッカー論 ニッポン再考。」(2010年12月9日号)】

 西ヨーロッパから指導者を招聘することは、日本人論にもとづいた日本人のネガティブなサッカー観を払拭するためでもある。しかし、それは新たな「サッカー日本人論」を再生産する危うさもまた孕(はら)んでいるのだ。

 著者のクーパーとシマンスキーにとって、あるいは『「ジャパン」はなぜ負けるのか』の邦訳者にして、「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」の重要なインフォーマント(情報提供者)であった森田浩之氏のとって、このことは想定外だったのではないか。

ザッケローニジャパン,その上昇と転落
 もうひとつ。『「ジャパン」は…』では、オランダ人のヒディンク、トルコのクラブ「カラタサライ」を指導したドイツ人のユップ・デアバル、ギリシャ代表を率いた同じくドイツ人のオットー・レーハーゲルといった指導者が、赴任した国々の「文化」を変革し、サッカーチームに成果をもたらした事例が紹介されている。

 いずれも成功例である。当然、失敗だってあるのではないか。2010年~2014年こそサッカー日本代表は、まさに失敗例だったのではないか。

 2010年8月、日本サッカー協会は日本代表監督として、イタリア人コーチのアルベルト・ザッケローニ(ザック)を招聘した。クーパーとシマンスキーが推奨したサッカー最先進地域,西ヨーロッパからの、待望の、監督就任である。

 ザッケローニの日本代表(ザッケローニジャパン,またはザックジャパン)は、同年10月、親善試合で南米のサッカー超大国アルゼンチンにいきなり勝利する金星をあげる。翌年1月、アジアカップでは苦しみながら最後は劇的に勝利、優勝した。ザックジャパンは順調だった。これを受けて『「ジャパン」はなぜ負けるのか』の邦訳者,森田浩之氏は自信に満ちたツイートを発した。
 少し楽観的にすぎないかと、当ブログ(の中の人間)はかえって不安を感じてしまった。とにかく、ザックジャパンはブラジル・ワールドカップのアジア予選も無難に勝ち抜いた。しかし、この直後から日本代表の雲行きが怪しくなってくる。

 本田圭佑がまたぞろ増長し始めたことも、その理由のひとつである。チーム内に「権力の多重構造」が発生した場合、よほどの戦力がない限りそのチームは必ず負ける(参照:藤島大「ジーコのせいだ」)からだ。

 余談ながら、本田といい、中田英寿といい、マスメディアがむやみやたらに称揚する一部選手への「スターシステム」をそろそろ研究や評論の対象としていいと思うのだが。

 果たして、ザックジャパンは2014年ブラジルW杯で惨敗してしまった。こうなると世上には再び「サッカー日本人論」がはびこる。ツイッターには、その当時、文化論的で自虐的なサッカー観が蔓延(まんえん)していたこと。しかし一方で、そうした風潮に懐疑的な人たちもまた少なからずいたことを示す痕跡が残されている。





 ザックジャパンでは「サッカー日本人論」は克服されなかった。新しい「サッカー文化論」も生まれなかった。日本はやっぱり「決定力不足」だったし、日本代表は「日本人」だからこそW杯で惨敗した。日本の成績が悪かったことで、サッカーをめぐる言説は、結局、日本人論や「サッカー日本人論」の常套句を繰り返す場となったのである。

「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」はなぜ負けたのか
 ザッケローニはブラジルW杯でかなり重要な采配ミスをおかしている。あるいは、「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」で紹介されたフース・ヒディンクは、ロマーリオ(ブラジル),エドガー・ダービッツ(オランダ),安貞桓(アン・ジョンファン:韓国)という、扱いの難しい選手をよく御してチームに生かしてきた。一方のザッケローニは、本田圭佑の度の過ぎた高慢を制することができなかった。

 ザッケローニの失敗は、後学のためにももっと多面的に検証,批判されるべきである。

 ここで再び、宇都宮徹壱氏の「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。だが、私はそこに〈幸運〉を感じた」(2015年6月19日)からの引用,援用を例にとる(繰り返すが当ブログは宇都宮氏に対して何の他意もない)。
ハリルホジッチを唖然とさせた「日本固有の病」。
【「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。」より】

 宇都宮徹壱氏は、ザッケローニのことはほとんど不問にする。むしろ、ザックが「それにしても、日本人がワールドカップのピッチに立ってなお、死に物狂いで戦わないとは思わなかった」などと他人事みたいに言っていたことに対して、日本人として「ただただ当惑するよりほかにない」に慨嘆する。

 監督よりも選手である日本人の側に問題があるのだ。

 あるいは、当代日本代表監督ヴァイッド・ハリルホジッチ(在任2015‐)が、W杯予選での苦戦を受けて、「私〔ハリルホジッチ〕の長いサッカー人生で、これだけ点が入らない試合を見たの初めてだ」などと発言したのを紹介する。では、そこでハリルホジッチはどうするのかという問題になるのだが、「サッカー日本人論」の影響下にある宇都宮氏の考えはそうした方向には向かわない。

 むしろ宇都宮氏は、日本選手の、否、日本人の決定力不足の方を問題にする。

 それは「日本固有の病」にして日本人の「国民的な悪しき伝統」であり、ハリルホジッチやジーコ,イビチャ・オシムなど「歴代の外国人監督を悩ませてきた宿痾(しゅくあ)」であると、あらためて宇都宮氏は「サッカー日本人論」に思い耽る。

 とどのつまり、日本サッカー界のおいて外国人監督とは、日本人論ないし「サッカー日本人論」を払拭するのではなく、その触媒として機能する存在でしかないのだ。

 厳しい表現になるけれども、ハッキリ言えばこれは「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」を書いた側の敗北であろう。サイモン・クーパーやステファン・シマンスキー,森田浩之氏の期待は実現していない。

 もちろん今後とも、スポーツの場における日本人論や「サッカー日本人論」の批判はこれからも続けてほしい。特にクーパーとシマンスキー両氏には「決定力不足の統計学」みたいな分析を行って「日本人の決定力不足」の実態を明らかにしてほしい。

 ただ、残念ながら『「ジャパン」はなぜ負けるのか』は、それを打破する「決定力」にはならなかった。

(了)


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日本人_決定力不足

決定力不足の「なぜ」と「いかに」
 日本サッカーは「なぜ」決定力不足なのか? ……という問題意識では、それは「日本固有の病」だとか、克服することは「永遠の課題」だとか、日本人論,日本文化論のような話、「サッカー日本人論」ばかりになってしまう。
リトバルスキー「なぜ日本にストライカーが育たないのか」
【リトバルスキー「なぜ日本にストライカーが育たないのか」(聞き手:加部究)】

 これでは事の本質は分からないのではないか。そうではなくて、日本サッカーは「いかに」決定力不足なのか? どれだけ、どれほど決定力不足なのか? ……という視点での論考はないものだろうか。

 要はサッカーにおける「決定力」なるものを定義したうえで数値化,統計化し、いろいろ比べてみるのである。日本は決定力が不足しているというが、それでは他の国では決定力が充足しているのか、あるいは日本同様に不足しているのか。

 そもそも、サッカーは点(ゴール)が入りにくいスポーツと言われてきた。日本に限らず、サッカーで点が入らないときは本当に入らない……。

 ……では、サッカーそれ自体が持つ点の入りにくさ、またはサッカーにおける世界平均の点の入りやすさ/入りにくさと、あるいは他の国の「決定力」と、日本サッカー独特の点の入りにくさとの間では、一体どれだけの差があるのか? それとも、ないのか?

 サッカーにおける「決定力」の統計調査をしてみたところ、やっぱり日本サッカーは「決定力不足」でしたということになるかもしれない。
QBK直後のジーコ(左)と柳沢敦
【ジーコ(左)と柳沢敦:急に(Q)ボールが(B)来たので(K)】

 しかし、人々が何となく抱いている印象が統計学によって覆ったということが、よくある。例えば、最近、少年による凶悪犯罪が増えていると思われがちだが、統計をとると実際には一貫して減り続けていることが分かるといったことなどである。

 意外にも……。日本と他国の「決定力」を統計学的に比べたらその差は小さかった。日本サッカー固有のものと思われた「決定力不足」とは「サッカー発展途上国」のありふれた現象,悩みでしかなかった。あるいは「決定力不足」だと思われていたものは、実はサッカーそのものの点の入りにくさだった……などということがあるかもしれない。

 とにかく、サッカーにおける「決定力」とは何か? あるいは、日本サッカーの「決定力不足」とは何なのか? 統計学的に調査したものを、少なくとも当ブログは知らない。

 ためにする議論に陥りがちな「なぜ」ではなく、「いかに」という視点で迫ってこそ、「決定力不足」問題の把握と解決につながるのではないか。

「決定力」は統計化できるか?
 サッカーは、ゲーム内容や選手のプレー内容を数値化しにくい「アナログ型スポーツ」の典型とだとされていた。この点、数値化が容易な「デジタル型スポーツ」だとされ、数字で楽しめる野球やアメリカンフットボールとは対照的で趣が異なるとされている(後藤健生氏も若かりし頃、日本サッカー狂会のミニコミ誌にそのような趣旨を書いていた)。

 サッカーの中で数少ないデジタル型の局面であるペナルティキック(PK)であれば、統計学の優れた論考がたくさんある。

 しかし、やはり、インプレーからの得点(流れの中での得点)、その「決定力」についてのような統計をとるのは難しいのかな……と思っていたら、2014年W杯のテクニカルリポートに興味深いデータ分析があった。
サッカーの「決定力」ってなに?
参考:サッカーの「決定力」ってなに?(2016年7月27日)

 この論考では、ありがちな個人的なシュート技術や精神論,文化論に傾いていない。それがいい。こうした方法からデータベースを蓄積し、資料をうまく処理して、サッカーの「決定力」あるいは日本サッカーの「決定力不足」の正体に統計学から迫ってほしい……。

 ……サイモン・クーパー(サッカージャーナリスト)のと、ステファン・シマンスキー(スポーツ経済学者)のコンビなら、ひょっとしたらやってくれるのではないか、などと勝手に夢想するのである。

ステファン・シマンスキー(左)とサイモン・クーパー
【ステファン・シマンスキー(左)とサイモン・クーパー】



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