スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

2017年06月

外国人監督が語る「日本人論」を必要以上にありがたがるのは日本サッカー界の悪い癖である(前編) : スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

宇都宮徹壱氏のコラムから「サッカー日本人論」を読む企て
  1. 日本人は(特に欧米出身の)外国人が書いた「日本人論」をありがたがる。
  2. サッカーは「日本人論」あるいは「サッカー日本人論」のネタになりやすい。
  3. サッカー日本代表監督は(欧米出身の)外国人が務めることが多い。
  4. 外国人監督の発言は「日本人論」「サッカー日本人論」としてありがたく受容される。
  5. 外国人監督は「監督」から「評論家」へと変化(へんげ)する。
  6. サッカーメディアは「評論家」になった外国人監督に対して批評精神が働かなくなる。
  7. 結果として日本サッカーに悪い意味でさまざまな影響を与える。

 実際に日本サッカー界が「日本人論」「サッカー日本人論」からどんな影響を受けているのかを具体例で読んでいく。今回、注目したのは宇都宮徹壱氏のコラム「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。だが、私はそこに〈幸運〉を感じた」(2015年6月19日)である。

 タイトルからして外国人監督の言葉をありがたがった「サッカー日本人論」の感がある。
ハリルホジッチを唖然とさせた「日本固有の病」。
【「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。」より】

 むろん、当ブログは宇都宮徹壱氏に何の他意もない。当エントリーの目的は宇都宮氏を貶めることではない。

 リンク先を読めばわかる通り、宇都宮氏はまぎれもなく「サッカー日本人論」のビリーバーであり、かつ発信者である。サッカーファンはその受容者である。もちろん、日本サッカー界の住人のほとんどが「サッカー日本人論」のビリーバーであり、発信者,受容者である。それ以前に、日本人のほとんどが「日本人論」のビリーバーである。大げさに言えば日本人のほとんどすべてが「サッカー日本人論」のビリーバーなのである。

 あくまで、その「サッカー日本人論」のワン・オブ・ゼムとして、今回は宇都宮氏のコラムを取り上げるということである。この点、ご了解いただければと思う。

惨敗した調教師の言い訳を鵜呑みにするお人好しの馬主=日本サッカー界
 まず宇都宮徹壱氏は、元サッカー日本代表監督アルベルト・ザッケローニ(在任2010‐2014)が、同じく元日本代表監督,岡田武史(在任1997‐1998,2008‐2010)に対して「それにしても、日本の選手が〔日本人が?〕ワールドカップのピッチに立ってなお、死に物狂いで戦わないとは思わなかった」と慨嘆していた……というエピソードを紹介して、驚いてみせる。
 さらりと言っているが、〔この発言は〕実に恐るべき内容である。ザッケローニに率いられた日本代表は、〔…2014年のブラジル・ワールドカップ〕本大会は戦えるはず、と多くの人々が(そして指揮官や選手たちも)楽観していた。〔しかし、結果は惨敗した〕

 昨年のブラジル〔W杯〕における敗因について、ここで多くを語るつもりはない。が、ここで注目すべきは「W杯のピッチに立って、死に物狂いで戦わない選手がいる」ことにザック自身が驚いたという事実である。死に物狂いで戦わない(あるいは、戦えない?)選手がいたことはもちろん問題だが、〔日本人とは?〕そういう選手〔「国民」または「民族」、ないしは「人種」?〕であることを気付かずにザックが23名のリストに選んでしまっていたこと、そしてかように〔日本人の?〕致命的ミスが本大会の試合になって初めて露見したということについては、われわれ〔日本人?〕はただただ当惑するよりほかにない。
 ここですでに、サッカー日本代表の「監督」を日本人論の「評論家」にしてしまい、その発言をありがたがり、批評に曇りが生じ、評価の方向が「監督」から「われわれ日本人」へと逆転してしまう「サッカー日本人論」の現象を見て取ることができる。

 ザッケローニは、自分が手掛けたチーム(2014年サッカー日本代表)を何か他人事のように語っている……かのように読める。日本人である宇都宮氏は、「評論家」ザックの日本人論をありがたく頂戴し、「監督」ザックにはさして落ち度はなく、むしろ問題は選手の側にあったかのように論じている……かのように読める。

 これには違和感がぬぐえない。

 例えれば、それまでのレースで良い成績を残し、期待をされながら肝心のダービーでは惨敗してしまった競走馬がいたとしよう。ザッケローニは、いわばその競走馬を担当した「調教師」である。その「調教師」はレース後、「それにしても、この馬がダービーのターフに立ってなお、死に物狂いで走らないとは思わなかった」などと嘯(うそぶ)く。

 そんな「調教師」のふざけた言い訳を鵜呑みにする、お人好しで間抜けな「馬主」が日本サッカー界なのである。

 つたない記憶によれば、イタリア語で(イタリアはザッケローニの母国である)サッカーの「監督」と競馬の「調教師」は同じ単語「アレナトーレ」であったはずだ。

 しかし、調教師=監督の責任は、「サッカー日本人論」の作法のしたがって、不問に付されたのである。

「日本人の決定力不足」いちばんの解決法とは?
 ザックの次は、当代日本代表監督ヴァイッド・ハリルホジッチ(在任2015‐)である。2015年6月現在、日本代表はワールドカップ・ロシア大会アジア予選で苦戦していた。その理由は……点が取れないからである。またしても日本サッカーの、否、「日本人の決定力不足」である。

 ハリルホジッチは「日本人」のあまりの決定力不足を見て愕然としたのだという。ハリルの指摘を受けた宇都宮徹壱氏は、これを日本人の、「日本固有の病」であるとして、くだんのコラムで以下のような「サッカー日本人論」を展開する。
 日本人選手は……結果が求められる試合で……決定的な場面でシュートを外しまくったり……ということを繰り返す。……これはある種、国民的な悪しき伝統といっても過言ではないだろう。そしてそれは、歴代の外国人監督を悩ませてきた宿痾(しゅくあ)でもあった。
 1998年フランスW杯でシュートを外しまくった城彰二選手、2006年ドイツW杯の「QBK」で絶好のシュートチャンスを外してしまった柳沢敦選手などの事例から、いかにも日本のサッカー選手は、否、「日本人は決定力不足」であるとのイメージが人々の間に沁(し)みついている。


QBK直後のジーコ(左)と柳沢敦
【ジーコ(左)と柳沢敦:急に(Q)ボールが(B)来たので(K)】


 宇都宮氏は「日本人は決定力不足」のイメージを、(欧米出身の)外国人監督ハリルホジッチによる「日本人論」または「サッカー日本人論」という権威付けで語っているのだ。もちろん、その分、ハリルの責任は軽減される。

 ところで、「日本人は決定力不足」という通念は、宇都宮徹壱氏が言うように(宇都宮氏だけではないのだが)本当に「日本固有の病」なのだろうか?

 サッカージャーナリストの後藤健生氏がこんなことをコラムで書いている(「ヨーロッパで鍛えられる日本人FW 日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ」2017年5月1日)。

 2017年、、欧州のサッカーリーグの日本人の若手FWがとても元気だ。大迫勇也、久保裕也、原口元気、武藤嘉紀。2000年代、欧州リーグで通用する日本人選手といえば、中田英寿、中村俊輔,小野伸二と、まずMFと思われていたのに……だ。

 フィジカルコンタクトが激しいゴール前のプレー=FWよりも、日本人には中盤でのプレー=MFの方が向いているのかとも思われた。

 集団主義的な社会,文化である日本からはエゴイスティックな(決定力のある?)FWは育たないとも言われ、画一的な日本の学校教育が原因ではないかとも言われた。さらには「農耕民族の日本人には狩猟民族の欧米人がふさわしいポジション=FWは無理だ」などと馬鹿げた話まで言い出す人までいた。
後藤健生コラム「日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ」
【後藤健生「日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ】

 しかし、「日本人」のイメージもすっかり様変わりしてしまった。2022年のカタールW杯の時には「日本には優れたFWはいくらでもいるのに、もう少しMFがいたら……」と言われるようになっているかもしれない……。

 ……では、後藤氏をはじめとするオールドサッカーファンは、1970年代には何と考えていたのか? 「日本人からは他人に使われるFWの好選手,釜本邦茂のような決定力のあるストライカーは出てきても、他人を使うようなポジション=MFの好選手は出てこない」などと語り合っていたのである。

 サッカーにおける「日本人」のイメージは、かくもいい加減で、時代によりこれだけ「ゆらぎ」がある。「日本人だから○○」などと安易に決めつけるべきではないのだ。

 それでも、W杯の大舞台で活躍できない限りは「決定力不足」という「日本固有の病」の克服にはならないと「サッカー日本人論」のビリーバーたちは言うかもしれない。

 宇都宮徹壱氏は、そうした立場に立って、くだんのコラムで「メンタルの弱い日本人」「本番に弱い日本人」「決定力不足の日本人」の対策として、メンタル面でケアの出来るスタッフを日本代表に常駐させるべきだ……という具申をしている。

 しかし、日本のサッカー選手にとって、否、日本人にとって一番のメンタルケアは「サッカー日本人論」の通念通説を批判して、その呪縛を解いてあげることではないだろうか。

それでも、やっぱりジーコのせいだ
 宇都宮徹壱氏は「日本人の決定力不足」には大変な屈託があるらしく(むろん宇都宮氏だけではないはずだが)、くだんのコラムを書いた約1年後、2016年9月6日の時点でこんなツイートをしている。

 この「つぶやき」の数日前、2016年9月1日、サッカー日本代表はロシアW杯アジア最終予選の対UAE腺でまさかの敗戦を喫した。苦杯の理由は、追加点がなかなか取れなかったこと。またしても日本サッカーの、否、「日本人の決定力不足」である。

 思い返すに……。ジーコ(在任2002‐2006)は、日本代表の監督としては戦術的指導をほとんど行わず、選手たちにミニゲームやシュートを中心とした練習メニューを課していた。無為無策ではないかと批判されていたジーコは、実は「決定力不足」という日本人の弱点を十分に理解しており、むしろ、正しかったのではないか……。

 宇都宮氏が嘆息したのはそういう含みである。

 こうした思考自体が、宇都宮氏が「サッカー日本人論」に絡めとられていることを意味する。悪いのは監督ジーコではない。決定力不足の日本人の方だ。実際にジーコは「サッカー日本人論」の作法に従い、2006年ドイツW杯で惨敗した責任を不問に付されている。

 それは違う。やはり責任はジーコにあるのだ……と喝破し、サッカージャーナリストよりも筆鋒鋭くジーコを批判したのは、ラグビー系のスポーツライター藤島大氏であった。
「ジーコのせいだ」 藤島大
すべてジーコのせいだ。ジーコが悪い。ジーコがしくじったから負けた。なぜか。チャンピオンシップのスポーツにおいて敗北の責任は、絶対にコーチ〔監督〕にあるからだ。シュートの不得手なFW〔柳沢敦〕を選んで、緻密な戦法抜きの荒野に放り出して、シュートを外したと選んだコーチ〔監督〕が非難したらアンフェアだ。
 藤島大氏は、「〈監督〉が〈評論家〉になってはいけない」と日本スポーツ界を戒めていた、ラグビーの名将,名伯楽,大西鐡之祐(おおにし・てつのすけ:1916‐1995)の直弟子である。サッカー側が尻込みするなか、藤島氏がこの風潮に抗い、鋭くジーコを批判できたのも、けして偶然ではなく、大西とのつながりが関係がある。

自己成就と矛盾の連鎖
 藤島大氏がわざわざ力説しなければならなかったように、サッカーの勝敗において第一に問責されるべきは監督である……という原則が、日本サッカーにおいては、特に日本代表に関してはなかなか働かない。これまで何度も述べているように、日本では、私たちは外国人監督の発言を「サッカー日本人論」としてありがたがってしまうからである。

 日本のサッカー関係者がありがたがる「サッカー日本人論」は、日本人が日本人であるがゆえにサッカーというスポーツへの適性を著しく欠いている……という、きわめて自己否定的,自虐的な日本サッカー観である。こうしたサッカー観が繰り返し語られ、私たちの自己イメージが刷り込まれる。

 そして、その自己イメージを成就させるかのように、私たち日本人を「代表」するサッカー選手たちは、決定機でシュートを外し、肝心なワールドカップの大舞台で負ける。

 そうした「日本人の決定力不足」や「日本人の勝負弱さ」の克服を……と、サッカージャーナリストたちは唱えるが、それらの主張にはたいてい外国人監督への無答責と、外国人監督の言葉による「サッカー日本人論」がセットで付いてくるので、日本サッカー自己否定的なイメージの刷り込みはかえって繰り返される。そして、日本人の決定力不足や勝負弱さもまた繰り返される。

 こうした矛盾の連鎖が「サッカー日本人論」と日本サッカーの関係にはある。

 外国人監督が語る「日本人論」を必要以上にありがたがるのは日本サッカー界の、やはり悪い癖である。サッカージャーナリストたちは矛盾の連鎖に気が付かないのだ。

(了)


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読んではいけない本ブックガイドより

ロラン・バルト『表徴の帝国』
 外国人が日本論を書くと必要以上にありがたがるのは日本人の悪い癖である。
小谷野敦『バカのための読書術

表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)
ロラン バルト
筑摩書房
1996-11-01



ラグビーの名将が問う「監督」と「評論家」
 日本ラグビーの名将,名伯楽だった大西鐡之祐(おおにし・てつのすけ:1916‐1995)は「監督が評論家になってはいけない」と語っていたらしい。

 なぜなら、スポーツにおいて監督とは、チームを作り、試合においてはチームを指揮する、あくまで「実践者」「責任者」だから。自身が手掛ける対象(チーム)を、あたかも「評論家」のように他人事として語るのはそもそもおかしいし、いろいろ弊害が出るからだ。

 かえりみるに「監督」を「評論家」にしてしまう現象はラグビーよりもサッカーに顕著である。

スポーツの「監督」を日本文化の「評論家」にしてしまう日本サッカーのカラクリ
  1. 前掲、小谷野敦氏のロラン・バルト評のように、日本人は(特に欧米出身の)外国人による日本人論を必要以上にありがたがる。
  2. 日本人は日本人論を好み、日本のサッカー関係者は、サッカーを日本人論で語り、サッカーで日本人論を語る「サッカー日本人論」を好む。
  3. なかんずく、サッカー日本代表は「サッカー日本人論」のネタにされやすい。
  4. 日本代表の監督は、(欧米出身の)外国人が務めることが多い。
  5. すなわち、日本代表の外国人監督が発する言葉、日本観,日本人観のようなものが日本人論として受容され、読まれるようになる。
  6. すると、適切なスタンスと距離感を保って評価するべきサッカーの「監督」が、日本人論という託宣を賜(たまわ)る外国人の「評論家」に変化(へんげ)してしまう。
  7. 日本サッカー界は、その「監督」を「評論家」として奉ってしまう。
  8. 当然、日本のサッカー関係者の批評眼に曇りが生じる。
  9. 結局のところ、日本サッカーは悪い方向へと向かってしまう。
 ……と、こんな仮説を立ててみた。

 実際、歴代の外国人のサッカー日本代表監督は、日本人論と「サッカー日本人論」の素材を日本人に提供してきのである。
外国人監督が語る日本サッカー論ニッポン再考
【ナンバー768号「外国人監督が語る日本サッカー論 ニッポン再考。」(2010年12月9日号)】

赤信号文化論~フィリップ・トルシエ
 フィリップ・トルシエ(在任1998‐2002)といえば赤信号文化論である。
 組織のために自己を犠牲にする〔日本人の〕精神は、日本社会の大きな力になっているのは間違いない。

 ただその特性が日本人から自らの責任において判断する力を奪っている。赤信号の例などは、まさにその典型であろう。車が来ないことがわかっていても、多くの日本人は赤信号では決して横断しようとはしない。しかし信号を守るのは身の安全を確保するためであって、規則を守ること自体が目的ではないはずだ。秩序・規範は社会が定めるものであるが、自己の価値判断とのせめぎあいは常に存在する。それが市民として社会を生きるということなのだから。

 サッカーは自己表現のスポーツだ。そして自己表現のためには、自ら判断し責任を引き受ける人間の成熟が求められる。サッカーは大人のスポーツなのである。

――フィリップ・トルシエ『トルシエ革命』

トルシエ革命
フィリップ トルシエ
新潮社
2001-06


 よく知られるように、もともと赤信号文化論は後藤健生氏の持ちネタだった。後藤氏は、後になって2012年にこの文化論を自己批判し、否定している(「ポーランドサッカー弱体化は、赤信号で道路を横断しないから?」)。

 後藤氏も否定したことだし、もうこの話は出てこないのかと思っていたら、元『フットボリスタ』誌編集長の木村浩嗣氏が、2016年に赤信号文化論を展開していた(「赤信号を渡る国で自己責任について考える スペイン暮らし、日本人指導者の独り言〔3〕」)。

 これには驚いた。同時にガッカリさせられた。赤信号文化論は不滅の定番なのだろうか?

自由? むしろフィジカル~ジーコ
 ジーコ(在任2002‐2006)は、組織,戦術を選手たちに強要したトルシエに対して、個の力を重んじた自由なサッカーを理念としていた……と、されている。だから、あえて日本代表の選手たちに戦術を落とし込まなかったのだ……と、されている。

 こうした論点自体が「日本人=組織,戦術に従順なサッカー<欧米人=自由,自主性,個の力のサッカー」という、昔からある自虐的な「サッカー日本人論」の観念が投影されたものだ。この図式においては、日本サッカーが負けてもジーコには責任はなく、自由が苦手で個に劣った日本人が悪いのだという理屈になってしまう。

 つまり、ジーコにはあらかじめ逃げ道が用意されていた。事実、2006年ドイツW杯で日本は惨敗したものの、「監督」であるジーコの責任を問う声は少なかったのである。

 もっとも、本当にジーコが以上のようなことを考えていたのかは、実は怪しい。

 明らかなジーコの発言としては、2006年6月26日に行われた退任会見がある。ここで、有名な「日本は体格,フィジカルで劣っていた。それがドイツW杯の敗因だ」とった趣旨の発言が出る。
 しかし、前提を敗因としてはいけないはずだ。日本のサッカー選手が体格,フィジカルで劣っているというのであれば、それを前提としたスタイルのサッカーをしなければならない。ジーコはそれがしようとしなかったし、できなかった。

 前提であるはずの要素を敗因としたジーコの言は「監督」のそれではなく、まったく「評論家」のものである。思い返すに在任中のジーコの日本代表に関する発言は、いつも何か他人事のようなものでまさに「評論家」だった。

 ジーコの言い訳を鵜呑みにし、批評することを忘れてしまった日本サッカー界は将来にわたって悪い前例を残すことになった。

イビチャ・オシムはロラン・バルトである
 ジーコの尻ぬぐいをすることになったイビチャ・オシム(在任2006‐2007)は、健康を害してしまったために1年あまりで日本代表監督の座から退くことになった。しかし、以降も日本サッカー界,日本のサッカーマスコミとの関係が切れることはなかった。

 その理由とは? ……オシムを有名にしたのは、Jリーグ,ジェフユナイテッド千葉・市原監督時代の機知に富んだ哲学的なコメントだった。悪く表現すれば持って回った晦渋な言い回しであるが、むしろ人はそこに深遠な魅力を感じとる。

 だから、彼の発言はメディアにこぞって取り上げられるようになる。日本代表監督退任後も多くの書籍や雑誌に掲載され続けることになった。
  • ライオンに追われたウサギが逃げ出す時に肉離れを起こしますか? 要は準備が足らない。
  • 休みから学ぶものはない。
  • アイデアのない人間もサッカーはできるが、サッカー選手にはなれない。
 アフォリズムとして編集されて読者に届けられる「オシムの言葉」は、やがてサッカーから日本人論へと拡張していく。
  • 日本人は、誰もが責任を回避しようとする。
  • 日本の選手たちは、誰かに何かを言われないと1人で行動できない。
  • 日本人は他人に依存する性質があり、自分で考えて質問する機会はあまり多くない。
 オシムは日本人論の発信者として読まれるようになる。
日本人よ!
イビチャ オシム
新潮社
2007-06

 出版社,編集者も「オシムの言葉」を、あるいはロラン・バルトやルース・ベネディクトらのように外国人が書いた日本人論の著作として読まれたいかのような本の作り方をする。そうすれば広い層から読者を取り込めるのだ。

 日本人論として浸透した「オシムの言葉」は、あらためて日本のサッカー界に下っていき、少なからず影響を与える。



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「日本人としてうれしい」は政治的に正しくない?
 佐藤琢磨選手が世界三大レース「インディ500」で優勝! 本当に驚いた。本当にうれしい。しかし、(私たちと同じ)日本人が勝ったからうれしい……と、表明するのは「政治的に正しくない」ことなのか?

 そんなことを問いかけるのは、日本の人というのは「日本人が世界的スポーツイベントで勝つ」ということに、いささかならず屈託があるからだ。



 むろん、先に引用したツイート主の方に当ブログは何の悪意もないし、伝えたいことは理解できる。だたし、政治性と離れたところで、このメッセージには違和感も覚える。

 なぜなら、そもそもスポーツとは、なかんずく世界的なチャンピオンシップとは「日本スゴイ」ではなく「日本ダメダメ」を語る場であったから。スポーツにおいて「日本人」は全然スゴクナイどころか全然ダメダメであり、だから佐藤琢磨選手は(のみならず日本人のレーシングドライバーは)日本人であるがゆえに世界(的なイベント)では勝てない……。そう信じられ、そう語られてきたからである。

草食民族=日本人は肉食民族=欧米人には勝てない!?
 モータースポーツ専門誌『オートスポーツ』2015年2月15日号に「特集[多角検証]日本人はF1で勝てるのか?」という特集記事があった。2017年時点で日本人はまだF1グランプリで勝ったドライバーはいないが、インディ500には勝っている。当時はどんなことを書いていたのだろうと興味を持ち、取り寄せて読んでみた。

 特集記事では、モータースポーツ関係者に「日本人はF1で勝てますか? Yes or No」と質問している。星野一義氏はYes、鈴木亜久里氏はNo、片山右京氏はYes、高橋国光氏はNo、今宮純氏はYes、川井一仁氏はYes、そして斯界の超大物ロン・デニス元会長(!)はYes……と、皆それぞれ理由を述べてあり、単純なイエスかノーかではない。ちなみに佐藤琢磨選手はこの時点ではNoだった。

 この中でひとり印象的だったのが、Noと答えたモータースポーツジャーナリストの赤井邦彦氏のコメントであった。
「No」攻撃性の欠如と日本的文化が障壁に
赤井邦彦(日本)モータースポーツジャーナリスト
「肉食人種〔欧米人〕がドライバーである限り、草食人種の日本人がF1を制することは難しい。日本人は『手先の起用さ』や『頭の回転のスピード』の優れた民族だと思うが、攻撃性が決定的に不足している。また、モータースポーツ特有の『一見、“ムダと思えてしまうカネ”を使う文化』も、日本の社会と相性が悪い。純粋に人種・民族としての能力だけでなく、日本の文化が変わらない限り、日本人がF1で勝利する日はこないように思う」
 サッカーファンなら(それ以外のスポーツファンも)この手の話を一度や二度は聞いたことがあるだろう。むしろ、大いに共感する人のほうが多いかもしれない。「肉食民族」を「狩猟民族」に、「草食民族」を「農耕民族」に置換すれば、さらに呑み込みが早いだろう。

 モータースポーツジャーナリスト林信次氏は『F1戦士デビュー伝説』の中で、欧米人はのレーシングドライバーは狩猟民族だから速いが、日本人のレーシングドライバーは農耕民族だから遅い……と、いったことを書いている(この本自体は良書である)。
F1戦士デビュー伝説
林 信次
ベストブック
1994-03

 有名無名を問わず、サッカーのみならずスポーツを語る場において、日本人はこうした俗説がを好む。





 一方、サッカージャーナリスト後藤健生氏のように「農耕民族の日本人は、狩猟民族の欧米人にスポーツではかなわない」という俗説にカウンターを試みる人もいるが、多勢に無勢、焼け石に水といった感がある。
後藤健生コラム「日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ」
【後藤健生「日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ」より】

 早い話、これらは、森田浩之氏(立教大学兼任講師=メディアスタディーズ、サイモン・クーパーの翻訳ほか)が指摘したところの文化論的なスポーツ論、すなわち「スポーツ日本人論」(サッカーの場合は「サッカー日本人論」)とでも呼ぶべき思想,言説の表出である。

 「スポーツ日本人論」の批判と克服は、まず、その論理を突き詰めて解体するという方法がある。だが、一番のいい批判と克服の方法は、日本人が(日本人では勝てそうにない)世界的なスポーツイベントで勝つこと。「実証」することである。

 赤井邦彦氏は、日本人は日本人であるがゆえにF1では勝てないとしていた。F1ではないが世界三大レースのインディ500で日本人(佐藤琢磨選手)が勝ってしまった。赤井氏の日本人観はどれだけ克服されたのか? それとも、されなかったのか?

身体能力も「個」も劣った「日本人」とかいうヒトの亜種
 日本人はスポーツの(なかんずくサッカーの)能力に先天的に大きく劣っている……という話を、日本人自身が熱心に力説したがる。これを人種差別,人種主義(レイシズム)と呼んでいいのかはひとまず置くとして、変則的な人種的偏見であることは間違いない。

 しかし、ジャーナリズム,評論,アカデミズム……日本の論壇の人たちに「スポーツ日本人論」が省みられることはほとんどなかった。この人たちの世界では「スポーツにおける人種問題」とは、主だって以下のようなものだった
 黒人はスポーツ能力,身体能力に優れている……一見、高い評価のようであるが、そこには恐るべき人種的偏見が含まれている。すなわち「黒人=身体=野蛮,未開/白人=精神,知性=文明」の二元論、さらには「黒人<白人」という優劣,序列である。スポーツあるいは身体に優れているという「黒人」は、実は内心では社会の支配的階層=「白人」に蔑視されている。

 こういった「神話」が信じられているために、黒人は学問や法律,ビジネスといった「知的」な職業を目指すことがなくなり、また機会も与えられることもなくなる。そう、まるで、英国の社会学者ポール・ウィリスが『ハマータウンの野郎ども』で描き出した、英国労働者階級の「落ちこぼれ」て「荒んでいる」不良少年たちように……。
ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)
ポール・E. ウィリス
筑摩書房
1996-09

 ……と、いったことを、いかにもインテリ風な言い回しで述べているのが先のツイートである(140字というツイッターの制約は、もったいぶった表現にはむしろ相応しい)。

 そればかりではない。スポーツの中においてすら、黒人はプレイメーカーやクオーターバックといった「知的」なポジションにはなれず、ストライカーやワイドレシーバー,ランニングバックといった「身体的」なポジションにばかり与えられる。いわんや黒人が監督(ヘッドコーチ)という「知的」な仕事に就くことはできないとされている。

 欧米の論壇で流行している、こうした議論が日本に輸入されている。

 さて、この図式の中で日本人は、黒人と白人、どちらの側に入るでしょうか?

 むろん、身体能力に優れている黒人の中には入れない。では、白人の側には……もちろん入れない。なぜなら日本人は、例えば「個の力」あるいは「個」などと称する、スポーツにとって重要な、ある種の知性なり知的能力なりが白人と比べて著しく欠落していることになっており(草食民族,農耕民族だから?)、スポーツ(なかんずくサッカー)には著しく不適格とされているからだ(中田英寿や本田圭佑は希少な例外のようだけれども)。

 黒人か白人かという対比は、実は同じホモサピエンス(ヒト)同士の微妙な差異に過ぎない。日本のスポーツ言説の世界では、どうやら日本人という、身体能力にも、スポーツにとって重要な、ある種の知的能力にも大きく劣った「ヒトの亜種」が存在するらしいのである。
 農耕民族(草食民族)たる
私たち日本人は、スポーツならざる日本人種として、私たち自身に人種主義的に、差別的に、自虐的に、ただただならざるを得ない。

 前掲の赤井邦彦氏のコメントには、こうした思想,言説の背景があるのだ。

 日本の論壇はそうした方面への洞察に欠けていた。スポーツに関する日本人への人種的に偏ったまなざし、「スポーツ日本人論」を省みることをしなかった。ヨコのものをタテに直して論じ耽っていればいい。けだし、インテリとは気楽な稼業ときたもんだ。

 日本のスポーツ社会学やカルチュラルスタディーズ(カルスタ)というのは、サッカー・ワールドカップで日本が勝利した時に東京・渋谷のスクランブル交差点で発生する大騒ぎに冷や水をぶっかけて、日本のナショナリズムを批判したつもりになっているだけだという「偏見」がある(香山リカ氏ではなく、山本敦久氏あたりを意識して書いている)。

 輸入モノだけではない。「スポーツ日本人論」の他にも、例えば中田英寿や本田圭佑をめぐるスターシステムのカラクリとその問題性など、日本の足元にも欧米にはないユニークなネタがたくさんあるのに実にもったいないと思う。

「日本人の勝利」を評価する難しさ
 先に紹介した『オートスポーツ』誌2015年2月15日号に「特集[多角検証]日本人はF1で勝てるのか?」を読むと、赤井邦彦氏のような飛躍したコメントはむしろ少数だった。才能の発掘や育成,技術,広い意味での政治力やビジネス力など、日本のモータースポーツを文字通り多角的で「科学的」に検証した、きわめてまじめな内容だった。

 あるいは、その成果が佐藤琢磨のインディ500制覇だったのかもしれない。サッカーファンからすると、日本のモータースポーツ・ジャーナリズムがうらやましい。

 サッカーがこういった特集を組むと「スポーツ日本人論」ばかりになる。

 事実。2014年のブラジルW杯で日本が非常に後味の悪い敗退をした後、テレビ東京系サッカー番組『FOOT×BRAIN』は、脳科学者を自称する中野信子のような疑似科学者を招いて、「日本人はサッカーに不適格な遺伝子を持っている」などというトンデモ話を開陳させた。


中野信子_サッカー_フットブレイン1
中野信子_サッカー_フットブレイン2
中野信子_サッカー_フットブレイン3
【FOOT×BRAIN2014年9月27日放送「目からウロコ!脳科学から見るサッカー上達法!」より。疑似科学者の中野信子に追従する聞き手の福田正博と前園真聖が本当に馬鹿に見える


 それに比べれば、『オートスポーツ』誌はずっとジャーナリスティックで素晴らしい。

 ちなみに「日本人はサッカーに向いていない」という話は、中野信子のオリジナルではない。1970年ごろから日本のサッカー論壇にたびたび表出してきた命題である。アジアですら下位に甘んじた70年代の日本サッカーと、W杯出場は当然のノルマとなった21世紀の日本サッカー。日本サッカーの国際的地位は格段に上昇したのに「日本人はサッカーに向いていない」という話がまったく変わらず出るのは、実に摩訶不思議である。

 むろん、政治的に絡めとられ、利用されることには最大限警戒しなければならない。その上で、日本人が世界の檜舞台で勝利し、日本人のスポーツにまつわるステレオタイプを打破したことを評価する「まなざし」を持つことは、なかなかに難しいのかもしれない。

(了)


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