スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

2017年01月

 大化の改新のきっかけになったのは蹴鞠(けまり)ではない。スティックを使った球技(毬杖とも打毬とも)である……と、頑強に主張するスポーツライター玉木正之氏。かつて、2010年9月、当ブログは「玉木さんがそう主張する理由、根拠は何ですか?」と質問のメールを送ったことがある。

 翌日、玉木氏から返事をいただいた。だが、その回答には納得できるものではなかった。その上、あたかもこちらが「的外れ」な質問をしてきたかのように玉木氏は自身のホームページで勝手に公開してしまった(ウェブ魚拓はこちら)。
読者からの質問への回答3
 この仕打ちには大いに不満であったので、2012年10月、玉木氏に反論と再質問のメールを出した。以下はその続きである。

 * * * * * * * * * *

あまりに杜撰な玉木正之説

 〔承前〕
▼ 記憶では、河出書房から出版されていた本が最初のきっかけになったと記憶しています。〔玉木氏の返信メールの引用。以下同じ〕
 表現が重複しているのは微笑ましいミスなのでしょうが、その河出書房の本は、誰の何という著作でしょうか。おぼろげな記憶でもいいので教えていただければ、こちらで調べてみたいと思うのです。そのヒントすら思い出せないというのは……?
▼ その内容は、まず、「蹴鞠」(けまり)というものが日本に渡来したのは、平安初期(早くても奈良後期)であること……
 ですから、玉木さんがそう主張される根拠をお訊ねしたのです。○○○○という学者の研究・考証、△△△△という論文・著作によるとこうである(これは妥当な説として学界でも広く支持されている)。あるいは□□□□という考古史料〔あるいは絵画史料〕によって裏付けられている。あるいは◇◇◇◇という古典籍・古文書にはこうある。だから大化改新(乙巳の変)のキッカケは蹴鞠なのではなく「毬杖」なのだ……という史実と論理に適った説明です。

 玉木さんは、ただただ持説を鸚鵡〔おうむ〕返しに主張しているだけなのです。

 それとも、これは玉木さんの勝手な思い込みなのでしょうか。

  例えば、中大兄と鎌足の出会いの場は「蹴鞠之庭」だと記載している『藤氏家伝』(藤原〈中臣〉鎌足らの伝記)は奈良時代中後期・天平宝字4年=760年成立であり、これは蹴鞠の日本伝来が奈良後期から平安初期だとする玉木氏の主張とは異なる。

 玉木氏は専門家ではないのだから、誰のどういう説に基づいて自身の主張を唱えているのか明示してくれないことには、後から検証のしようがない。

玉木正之氏のオウンゴール
▼ 坂上太郎氏の示された大化期の「打鞠」が「蹴鞠」である「いくつかの根拠」を小生は知りませんが……
 これにも吃驚しました。大学・大学院で教鞭をとる玉木さんが先行研究をまったく呼んでいなかったとは!〔しかも人名「坂本」を「坂上」と間違えている!

 玉木さんは、『ナンバー』1995年10月増刊「スポーツを読む。」の中で読むべきスポーツ本として『日本書紀』(それも岩波文庫版!)を推薦していなかったでしょうか? そして、そこでも何の根拠も出さずにこれは「毬杖」〔スティックを使った球技〕だと勝手に断定しているのです。**

 両論あるとはいえ、世間的には「蹴鞠」説の方が優勢です。おそらくは故・坂本太郎氏の歴史学者としての名声や岩波文庫というブランドが「蹴鞠」説の定着に大いに影響していると思います。***

 これを「毬杖」説に覆そうというのですから、玉木さんには読者・スポーツファンに対するよほど丁寧な説明・論証が必要ですが、まったくそういった努力をしていません。

 坂本氏は、『日本書紀』皇極天皇紀にある「打毱」(打鞠)について、この解釈として、騎乗で行うポロ風の競技と蹴鞠の二種類があるとした上で、『荊楚歳時記』(中国・六朝時代の年中行事・風俗の記録)と『史記正義』(中国・唐代の『史記』注釈書)での用例、『藤氏家伝』(中臣鎌足=藤原鎌足の伝記)の記述(「蹴鞠」と記載)、岩崎本(日本書記の古い写本)の傍訓(まりくうる)から、蹴鞠であると結論づけています。学者として当然の姿勢です。

 坂本説はコレコレこういう理由で間違っているという玉木さんの意見を読みたかったのですが、こういった姿勢が見られません。実に残念なことです。〔優れた論証を読みたかったのだが、この期待は裏切られた〕

 ** 今回のやりとりで一番のヤブヘビだったのは、この部分であろう。文藝春秋のスポーツ誌『ナンバー』は1995年10月に創刊15周年特別編集号として「20代のテクスト〈スポーツを読む〉。」という増刊を出した。この中で玉木正之氏は「進化するスポーツ文学、百八冊。」という、スポーツファンが読むべきスポーツ関連書の紹介と書評のページを書いている。

 ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』、世阿弥『風姿花伝』、ジョイルマンによる偽書『パパラギ』あたりを推薦しているのが、いかにも玉木氏の選であるが(爆)〔……と、玉木氏の(爆)はこのように使う〕、この中に日本古代の肉体観(スポーツ観)や風俗を知ることができるものとして岩波文庫版『日本書紀』を上げている。

 ここでは、垂仁天皇紀にある野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)の埆力(すもう=相撲)や、皇極紀にある中大兄と鎌足の「打鞠」(打毱)を紹介している。「蹴鞠説」を採用している岩波文庫なのに、なぜか玉木氏は「毬杖説=スティック球技説」(!)の解説を始める。
 《ちなみに、この「打鞠」(くゆるまり)を「蹴鞠」(けまり)と解説している書物が少なくないが〔岩波文庫がまさにそれではないか!〕、打鞠から蹴鞠へと発展したのではなく、蹴鞠は奈良時代後期から平安時代に当から日本に伝えられ、打鞠はそれ以前に大陸から伝わったメソポタミア起源の球戯(毬杖 ぎっちょう)であるという説もある。》
 岩波文庫版を推薦しながら該当部分の坂本太郎の校注(考証)をまったく読まずに、どこかで読みかじった〔しかも他人から聞かれても思い出せない〕知識で毬杖説を滔々と解説する……玉木氏のこの態度には本当に呆れた。

 *** 実際にはかなり昔から「蹴鞠」だと考えられていたようだ。天理大学附属図書館所蔵の資料に江戸時代に描かれた「南都於法興寺蹴鞠之図」というのがある。坂本太郎の考証も前近代の研究を踏まえている可能性がある。
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【南都於法興寺蹴鞠之図】
 〔追記〕……と、前段落には書いたのだが、あらためて調べてみて「南都於法興寺蹴鞠之図」は、江戸時代とはいっても明治に近い幕末は嘉永6年(1853)の作であった。当ブロクはこのエピソードのもっと古い絵画史料の存在を確認していない。できるだけ公平を期すためにこの旨を注釈しておく。
▼ 「蹴鞠」(平安期に流行した)の歴史を考えると、「打鞠」が「蹴鞠」とは掛け離れたボールゲームであることは明らかで……
 ですから、なぜ「明らか」だと断言できるのかと、その根拠を質しているのです。玉木さんは誰でも納得できるようにきちんと論証するべきなのです。〔お互い話が噛み合ってないなあ。苦笑。もっとも当ブログからは玉木氏が一人合点の一人相撲を取っているようにしか見えないのだが〕

 従来の「蹴鞠」を「毬杖」に改めるだけの新しい知見・発見はあったのでしょうか?

 それを説明してほしいのです。

(玉木正之氏への反論メールはまだまだ続く)


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玉木正之氏への反論・再質問を試みる
 大化の改新(乙巳=いっし=の変)という歴史的大事件の主役2人、中大兄皇子と中臣鎌足。その出会いのきっかけとなった古代日本のボールスポーツは、一般には「蹴鞠」(けまり:サッカー類似の球技)であるといわれてきた。

 しかし、これには異論があり、「毬杖」とも「打毬」とも言われるスティックを使った、ホッケーまたはポロに類似した球技であるという説もある。

 特に、スポーツライター玉木正之氏は後者のスティック球技説を熱烈に支持している。

 その根拠が今一つ分からなかったので、玉木氏の公式ウェブサイト「カメラータ・ディ・タマキ」のアドレスにその旨をメールで質問した。2010年9月24日のことである。翌日、玉木氏本人から回答の返信をいただいたのだが、その内容には納得できなかった。

 特にこちらからはこれ以上の反応はしなかったのだが、その後、玉木氏のサイトで当方の質問と玉木氏の回答が公開されていたのである。「読者からの質問への回答」と題して掲載日は2012年2月29日。以下は玉木氏によるイントロダクションである。
 この〔…〕の「メール」は、〔…〕小生〔玉木正之氏〕が出版物に書いた原稿の「間違い」を指摘したモノです。が、その「間違いの指摘」が少々的外れ……というか、小生の文章がよく読まれていないために生じた「誤解」に近いモノなので(小生の書き方もわかりにくかったのかもしれませんが)、「誤解」を解くために返信を書いたところが、それに対する返事はナシ。納得してくれたのかどうか……と思うと同時に、他にも、このような「誤解」を抱いてる人がいるかもしれない…と思い、ここに“蔵出し”します(中味はスポーツ・ネタですが、読者との交信ということで、“ノンジャンル”で扱います)。掲載日2012‐02‐29
読者からの質問への回答1
【クリックすると拡大します】

 当ブログと玉木氏とのメールのやり取りの内容については、以下のアドレスを参照してください。
 個人情報やプライバシーに関わることではないのでメールを公開されるのは……まあ、良しとしましょう。けれども、当方の質問が一方的に「的外れ」だの「誤解」だのと言われるのは愉快ではない。また、玉木氏の文章をどう読んでも、なぜスティック球技の方が正しいのかはまったく分からない。

 そこで2012年10月8日、反論と再質問のメールを出すことにした。

 * * * * * * * * * *

[件名]RE:「読者からの質問への回答」を拝読しました(大化改新と蹴鞠について)

 拝復 玉木正之さま

 2012年2月29日付の「読者からの質問への回答」を最近になって拝読しました。

 返事をしなかったことは大変失礼しました。あるいは「大学〔国士舘?〕の小生の研究室に移して保管してあるはず」の資料を元にしたより詳しい説明を、玉木さんからいただけるのではないかと期待していたのですが、いつの間にか忘却していたという次第です。



 さて、私の質問に対して、玉木さんのご回答にもかなりの誤解があるのではないかと思います。

 まず、私は玉木さんの「〈間違い〉を指摘した」のではありません。

 私も大化の改新(乙巳の変)のキッカケになった《打毬》〔打毱の「毱」が環境依存文字なので「毬」で代用〕が「蹴鞠」(≒サッカー)説と「毬杖」(≒ホッケー)説、両論あることは知っていました。このうち、玉木さんが「毬杖」説を全面的に支持する理由についてお訊ねしたものです。

 また、私の質問を「的外れ」としていますが、あの時の玉木さんのご回答こそ、的外れではないかと思います。

 以下、その理由を述べます。
▼ 残念ながら、原稿執筆当時の資料を片付けてしまって、正確に引用文献をお示しすることができませんので記憶を掘り起こします。
 まず、この記述に吃驚〔びっくり〕しました。

 玉木さんは、単なる人間ドラマ(爆)ばかり書いている凡庸なスポーツライターなどとは異なり、スポーツの歴史や文化、あるいは本質について深く知悉したスポーツライターとしてメディアが〔高等〕教育機関に重んじられてきたのではなかったでしょうか。

 歴史的事象について何かを主張するのにその根拠となるものを示せない、論証できない。しかも「資料を片付け」た(破棄した?)というのは、ジャーナリズムとしてもアカデミズムとしても問題ではないでしょうか。

 * この(爆)は「爆笑」の意味。一時期、玉木氏が多用していた記号。村上春樹の「やれやれ」に相当〔違うか?〕。ある時、読者から頭が悪そうだから使うのをやめたらどうかというメールが来て以後あまり使わなくなった。インターネット上で玉木氏を揶揄するときは、この(爆)をよく使う。「人間ドラマ」とは、玉木氏が山際淳司や沢木耕太郎らのスポーツノンフィクションをたびたびそのように批判〔否定的に評価〕していたことを指す。

(つづく)


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玉木正之氏の沢村栄治観『プロ野球大大大事典』編
 スポーツライター玉木正之氏は草創期の巨人軍のエース沢村栄治にいい印象を持っておらず、あまり評価したがらない。それは1990年の著作『プロ野球大事典』(新潮文庫)の原本たる1986年の『プロ野球大大大事典』(東都書房)でもかわらない。
『プロ野球大大大事典』168~169頁
さわむら・えいじ【沢村栄治】
 元祖・ミスター・ジャイアンツ。l934年、べーブ・ルースやルー・ゲーリッグといった大打者を中心とするアメリカ大リーグチームを相手に、全日本軍のエースとして登板した彼は、9三振を奪い、散発5安打に押さえた。試合は0対1で敗れたものの、そのとき沢村は、京都商高〔旧制中学の時代だから「京都商業学校」のはずだが〕を中退したばかりの“スクール・ボーイ”で、この快挙は、全国の野球ファンを狂喜きせた。が、その試合の行なわれた静岡県草薙球場は、夕陽がセンター後方に沈むため、大リーガーたちは太陽がまぶしくて沢村の球がみえなかったに過ぎない。じっさい、他球場の試合では、沢村はカーブを投げるとき舌を出すという癖を見抜かれ、同じチームに1試合10点以上も奪われる滅多打ちを喰っている。とはいえ、当時も現在も、この事実を鋭く指摘する人はきわめて小なく、沢村の快挙は、伝説となって残されている。もちろん、彼はジャイアンツの投手として3度のノーヒット・ノーランを記録するなど、当時の日本の〔朱字原文傍点〕野球選手としては、抜群の実力の持ち主だったことには違いない。
【『プロ野球大大大事典』168~169頁、クリックすると拡大します】
大大大事典沢村

 沢村栄治神話の「墓荒らし」をやっているところは『プロ野球大事典』と同じである。芥川賞作家・吉目木晴彦の『魔球の伝説』(講談社,1990年)のように、「考古学者」として沢村神話の実際に分け入りつつ、しかし沢村栄治に敬意を忘れない考察もあるが、玉木正之氏がやっているのは沢村栄治へのある種の軽侮である。
吉目木晴彦『魔球の伝説』
吉目木 晴彦
講談社
1994-02

 しかし、なぜ玉木正之氏は沢村栄治をそこまで卑(いや)しめるのだろう? 答えは難しくない。

 沢村栄治といえば、第二次世界戦で戦死した悲劇のエース、悲劇のヒーロー、愁いを帯びたキャラクターである。これが玉木氏には気に入らないのだ。それが抑圧的な日本の野球、抑圧的な日本のスポーツに連想されるからである。

 沢村栄治とか、川上哲治とか、王貞治とか、艱難辛苦、刻苦勉励……そういうイメージの野球選手は玉木氏のお好みではないのである。

 この辺りの玉木氏の趣向は、自身のプロ野球パロディ小説『チェンジアップを16球』(文藝春秋)を読むと非常によく理解できる。

 一方で、その対極にある、「日本的な抑圧」からの解放をイメージさせる大下弘や長嶋茂雄といった野球選手なら、玉木正之氏は礼賛するのである。

 しかし、そんなことを言っていたら大下弘だって「当時の日本の野球選手としては抜群のホームランバッター」に過ぎないし、長嶋茂雄だって「当時の日本の野球選手としては抜群のクリーンアップヒッター」に過ぎないではないか。

 当ブログではウィキペディアを酷評しながら、実は長嶋茂雄に関してはウィキペディアの評価が案外と客観的なのではないかと思ってしまう。玉木正之氏あたりの思い入れ過剰な長嶋茂雄論など、読んではいけない。

 玉木正之氏が「沢村賞はサイ・ヤング賞をマネして作られた」という誤謬を信じ込んで自著(『プロ野球大事典』または『プロ野球大大大事典』)で吹聴しているという事実は、ない。この点、玉木氏は濡れ衣を着せられた。

 しかし、玉木氏は沢村栄治をどこか軽んじており、「沢村賞はサイ・ヤング賞をマネして作られた」という誤謬を信じ込んで自著で吹聴しているという人だ……との噂を立てられても仕方がない「体質」があとはいえる。

(了)


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玉木正之氏の沢村栄治観『プロ野球大事典』編
 スポーツライター玉木正之氏は「沢村賞はサイ・ヤング賞を真似たもの」という間違い(実際には沢村賞は1947年制定、サイ・ヤング賞は1956年制定)を信じ込んでおり、その間違いを自著で吹聴している……という「噂」は、検証の結果、完全なデマであることが証明された。

 玉木氏は完全に濡れ衣を着せられたのである。この点は断固として玉木氏を擁護する。

 特にウィキペディアンのみなさん、ウィキペディアの項目「沢村栄治賞」「サイ・ヤング賞」の該当部分を訂正してください。

 しかし、玉木正之氏のスタンスに何の問題はないのかというと、そうとも言い切れない。玉木氏のかつての著作『プロ野球大事典』『プロ野球大大大事典』の「沢村栄治」の立項を読むと、何とも言えない嫌な読後感が残るからだ。
『プロ野球大事典』(新潮文庫)1990年,240~243頁
さわむらえいじ【沢村栄治】元祖ミスター・ジャイアンツ。一九三四年、べーブ・ルースやルー・ゲーリッグといった超一流のスーパースター選手を中心とするアメリカ大リーグ選抜チームが来日。そのとき、京都商業高校を中退したばかりの彼は、全日本チームのエースとして登板。それまでの八試合では、全日本相手に一試合平均11点も取っていた選抜チーム相手に、沢村は、一点を失い、0対1で敗れたものの、世界最強打線を散発5安打に抑え、9三振を奪って完投。全国の野球ファンを驚喜させ、“スクール・ボーイ・サワムラ”の名を、世界に轟〔とどろ〕かせた。が、その試合の行なわれた静岡県の草薙〔くきなぎ〕球場は、夕陽がセンター後方に沈むため、大リーガーたちは、太陽がまぶしくて沢村の球が見えなかったという。また大リーガーたちは、その日のうちに移動して観光名所を訪れる予定が入っていたため、試合を早く終わらせたかったからこういう結果になったというひともいる。じっさい他球場の試合では、カーヴを投げるときに思わず舌を出すという癖を見抜かれた沢村は、同じチームに1O点も奪われる滅多打ちを食らっているのだ。が、当時も現在も、この事実を指摘するひとは少なく、沢村がヤマトタケルゆかりの草薙球場で大リーガーたちを一点に抑えた「快挙」は、快乱麻〔朱字本文傍点〕のピッチングとして神話化され、伝説として語りつがれている。もちろん、彼はジャイアンツの投手として三度のノーヒットノーランを記録するなど、当時の日本の野球選手としては、抜群の実力の持ち主だったことに間違いはない。
【『プロ野球大事典』240~243頁、クリックすると拡大します】
大事典沢村01
大事典沢村02
 当ブログにとっては、この1934年の試合における「沢村神話」の真実の暴露が、沢村栄治を必要以上に卑(いや)しめているように読めてしまうのだ。

 少し脱線すると、引用文中の「京都商業高校」は学制が旧制中学の時代だから「京都商業学校」になるはずである。編集、校正、誰も突っ込まなかったのだろうか?

 同じく「ヤマトタケルゆかりの草薙球場」とは、沢村が快投した試合の舞台となった草薙球場が、記紀神話にあるヤマトタケルと草薙剣(くさなぎのつるぎ)の逸話にゆかりのある土地にあったからである。ハッキリ言って全体の文脈と関係ない玉木正之氏一流の文学趣味であり、特徴(にしてある意味いやらしさ)である。

 似たような沢村栄治神話解体については、芥川賞作家の吉目木晴彦(よしめき・はるひこ)が『魔球の伝説』(講談社,1990年)もやっているが、玉木氏と決定的に違うところがある。
吉目木晴彦『魔球の伝説』(講談社)61頁
 しかし、にもかかわらず、沢村栄治は、おそらく日本プロ野球史上最高の投手なのである。
吉目木晴彦『魔球の伝説』
吉目木 晴彦
講談社
1994-02

 吉目木晴彦氏の沢村栄治観の詳細については、是非とも玉木正之氏のそれと読み比べていただきたい。たとえて言えば、吉目木氏が「考古学者」だとすると、玉木正之氏の方はただの「墓荒らし」に思えてしまうのである。

(つづく)


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なぜ沢村賞はセ・リーグ限定の表彰制度だったのか?
 アメリカ大リーグのサイ・ヤング賞がア・ナ両リーグの投手を表彰対象としているのに対し、なぜ日本の沢村賞はセ・リーグの投手に限定されてきたのか?(1990年の野茂英雄=近鉄バファローズ=以前)

 ウィキペディアにも、スポーツライター玉木正之氏の著作にも、その他の文献からも、意外にもそういった説明は見られない。その理由を推察してみる。

 ……と、いっても、そんなに難しい邪推にはならないと思う。1950年、1リーグ制だった日本プロ野球は、セントラルリーグ(セ・リーグ)とパシフィックリーグ(パ・リーグ)の2リーグに分裂する。セ・リーグは読売新聞、パ・リーグは毎日新聞と関係が深かった。

 ウィキペディアの記述を信じれば(なにしろここは沢村賞とサイ・ヤング賞との関係など記述に間違いも多いので)、毎日新聞のプロ野球参入に際し、既に加盟していた読売新聞や中日新聞の強い反発があったという。2リーグ分裂にはこうした背景があったらしい。

 沢村賞は読売新聞社の制定である。当然、毎日新聞と関係の深いパ・リーグの投手は表彰対象にならなかったのではないか?

 パ・リーグには稲尾和久(西鉄ライオンズ)や杉浦忠(南海ホークス)など、沢村賞が両リーグ対象だったら選ばれて当然の投手がいたのだから、実にもったいない話である。

 しかし、そうであるならばパ・リーグも対抗して例えば「神田賞」(神田順治賞ではない。神田武夫賞である)でもなんでも制定すればよかったのではないか。

クラシックSTATS鑑賞 : 神田武夫|クラシックSTATS鑑賞 南海-095


 
 喧伝あるいはプロパガンダという点で、当時、セ・リーグはパ・リーグは長じるところがあったのかもしれない。

(つづく)


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