玉木正之説と日本文化とサッカー
日本人は、国民性,民族性の観点からも、集団的な戦闘(チームプレー)よりも、1対1の戦いを好む。だから、明治以来、日本人はチームプレーのゲームであるサッカーよりも、投手vs打者の1対1の対決がゲームの基本となる野球を愛するようになったのだ……。
……と、いうのが、スポーツライター玉木正之氏の長年の持論「1対1の勝負説」であった。
玉木氏は、この説をテコにさまざまな日本スポーツ文化論を展開している。サッカー日本代表がワールドカップで勝てないのも、日本サッカーのいわゆる「決定力不足」も、みなこの文化本質的な拘束力が働いているためだと、玉木氏は主張している。
だが、しかし、「1対1の勝負説」はさまざま無理があることを当ブログでは指摘してきた。有り体に言えばこの玉木氏の説は間違いではないのかと。そして「1対1の勝負説」に基づいた日本スポーツ文化論,日本サッカー文化論もまた間違いではないのかと……。
通俗的な日本文化論から日本スポーツ文化論へ
……玉木正之氏のこうした説の背景には、各国民,各民族には固有の国民性,民族性があり、人々はその強い拘束と影響の下にあるという通念がある。野球でもサッカーでもetc.日本のスポーツを論じる際には、こうした通念に基づいた議論がよく発せられる。例えば、前掲の日本サッカーの「決定力不足」を日本の文化や伝統を求める例は、広く見られる例である。
こうした日本文化論のひとつに「間の文化論」(間は「ま」と読む)がある。主に比較文学者の剣持武彦氏が唱えたもので、日本人は……縁側や床の間を大切にする日本建築、余白の多い水墨画、行間を読む文学……など、とかく「間」を愛する民族であるというものだ。
これが日本人と野球の関係に転じられると、以下のような展開になる。
日本人には「間」を好むという独特の文化がある。伝統の大相撲には仕切りなどの「間」があり、囲碁や将棋の棋士の長考の「間」がある。そして野球もまた、間の多いスポーツである……。
……だから、日本人は野球を愛するようになったのだ。そして、だから、日本人は本質においてサッカーを愛することができないのである。だから、サッカー日本代表は世界で勝てないのである。
玉木正之氏版「間の文化論」とその疑問
玉木正之氏は、「1対1の勝負説」の他に「間の文化論」も展開している。
さて、玉木氏の「間の文化論」にも、またあの疑問が浮かんでくる。
英国生まれで、国際的には大変人気がある「クリケット」はどうしたのですか?
【クリケット】
野球とクリケットは親戚関係にあるバット・アンド・ボール・ゲームの仲間である。したがって、当然、クリケットにも「間(ま)」がある。しかもこのスポーツには試合途中に「お茶の時間」や「ランチの時間」だってあるのだ。
クリケットは「間の文化」ではないのですか? 野球が「間の文化」で、クリケットは「間の文化」ではないのだとしたら、その理由はどこにあるのですか?
なぜ、クリケットではなくて野球なのか? なぜ、その説明がないのか? という問題がここでも出てくる。
もちろん、玉木氏のような日本文化論で日本のスポーツを断じる人は、持説にとってこんな都合の悪いことを考察の対象にしたりはしない。「間の文化論」に基づいた日本のスポーツ論もまた破綻しているのである。
日本人は、国民性,民族性の観点からも、集団的な戦闘(チームプレー)よりも、1対1の戦いを好む。だから、明治以来、日本人はチームプレーのゲームであるサッカーよりも、投手vs打者の1対1の対決がゲームの基本となる野球を愛するようになったのだ……。
……と、いうのが、スポーツライター玉木正之氏の長年の持論「1対1の勝負説」であった。
玉木氏は、この説をテコにさまざまな日本スポーツ文化論を展開している。サッカー日本代表がワールドカップで勝てないのも、日本サッカーのいわゆる「決定力不足」も、みなこの文化本質的な拘束力が働いているためだと、玉木氏は主張している。
だが、しかし、「1対1の勝負説」はさまざま無理があることを当ブログでは指摘してきた。有り体に言えばこの玉木氏の説は間違いではないのかと。そして「1対1の勝負説」に基づいた日本スポーツ文化論,日本サッカー文化論もまた間違いではないのかと……。
通俗的な日本文化論から日本スポーツ文化論へ
……玉木正之氏のこうした説の背景には、各国民,各民族には固有の国民性,民族性があり、人々はその強い拘束と影響の下にあるという通念がある。野球でもサッカーでもetc.日本のスポーツを論じる際には、こうした通念に基づいた議論がよく発せられる。例えば、前掲の日本サッカーの「決定力不足」を日本の文化や伝統を求める例は、広く見られる例である。
こうした日本文化論のひとつに「間の文化論」(間は「ま」と読む)がある。主に比較文学者の剣持武彦氏が唱えたもので、日本人は……縁側や床の間を大切にする日本建築、余白の多い水墨画、行間を読む文学……など、とかく「間」を愛する民族であるというものだ。
これが日本人と野球の関係に転じられると、以下のような展開になる。
日本人には「間」を好むという独特の文化がある。伝統の大相撲には仕切りなどの「間」があり、囲碁や将棋の棋士の長考の「間」がある。そして野球もまた、間の多いスポーツである……。
……だから、日本人は野球を愛するようになったのだ。そして、だから、日本人は本質においてサッカーを愛することができないのである。だから、サッカー日本代表は世界で勝てないのである。
玉木正之氏版「間の文化論」とその疑問
玉木正之氏は、「1対1の勝負説」の他に「間の文化論」も展開している。
……野球が日本で人気を博した大きな理由として、「間」が多いということもいえるだろう。
野球というスポーツは、三時間の試合のうちプレイ中が二十分程度しかなく。その他の時間は、イニングの合間の攻守交代や、ピッチャー〔投手〕が投球するあいだの間合いや、バッター〔打者〕が精神を統一するためにバッターボックスをはずす時間に費やされている。それは、野球というスポーツの特徴でもあるが、アメリカうまれのすべてのスポーツに当てはまる特徴でもある。
アメリカン・フットボールは……バスケットボールは……バレーボールも……それらアメリカうまれのスポーツは、ヨーロッパうまれのスポーツ――サッカー、ラグビー、ホッケーなどが原則的にプレイを中断することなく、できるだけプレイを継続させようとするのと、本質的に異なる特徴を有している。玉木正之『Jリーグからの風』(集英社文庫)1993年,102~103頁
さて、玉木氏の「間の文化論」にも、またあの疑問が浮かんでくる。
英国生まれで、国際的には大変人気がある「クリケット」はどうしたのですか?
【クリケット】
野球とクリケットは親戚関係にあるバット・アンド・ボール・ゲームの仲間である。したがって、当然、クリケットにも「間(ま)」がある。しかもこのスポーツには試合途中に「お茶の時間」や「ランチの時間」だってあるのだ。
クリケットは「間の文化」ではないのですか? 野球が「間の文化」で、クリケットは「間の文化」ではないのだとしたら、その理由はどこにあるのですか?
なぜ、クリケットではなくて野球なのか? なぜ、その説明がないのか? という問題がここでも出てくる。
もちろん、玉木氏のような日本文化論で日本のスポーツを断じる人は、持説にとってこんな都合の悪いことを考察の対象にしたりはしない。「間の文化論」に基づいた日本のスポーツ論もまた破綻しているのである。
(つづく)