大化の改新のきっかけになったのは蹴鞠(けまり)ではない。スティックを使った球技(毬杖とも打毬とも)である……と、頑強に主張するスポーツライター玉木正之氏。かつて、2010年9月、当ブログは「玉木さんがそう主張する理由、根拠は何ですか?」と質問のメールを送ったことがある。

 翌日、玉木氏から返事をいただいた。だが、その回答には納得できるものではなかった。その上、あたかもこちらが「的外れ」な質問をしてきたかのように玉木氏は自身のホームページで勝手に公開してしまった(ウェブ魚拓はこちら)。
読者からの質問への回答3
 この仕打ちには大いに不満であったので、2012年10月、玉木氏に反論と再質問のメールを出した。以下はその続きである。

 * * * * * * * * * *

あまりに杜撰な玉木正之説

 〔承前〕
▼ 記憶では、河出書房から出版されていた本が最初のきっかけになったと記憶しています。〔玉木氏の返信メールの引用。以下同じ〕
 表現が重複しているのは微笑ましいミスなのでしょうが、その河出書房の本は、誰の何という著作でしょうか。おぼろげな記憶でもいいので教えていただければ、こちらで調べてみたいと思うのです。そのヒントすら思い出せないというのは……?
▼ その内容は、まず、「蹴鞠」(けまり)というものが日本に渡来したのは、平安初期(早くても奈良後期)であること……
 ですから、玉木さんがそう主張される根拠をお訊ねしたのです。○○○○という学者の研究・考証、△△△△という論文・著作によるとこうである(これは妥当な説として学界でも広く支持されている)。あるいは□□□□という考古史料〔あるいは絵画史料〕によって裏付けられている。あるいは◇◇◇◇という古典籍・古文書にはこうある。だから大化改新(乙巳の変)のキッカケは蹴鞠なのではなく「毬杖」なのだ……という史実と論理に適った説明です。

 玉木さんは、ただただ持説を鸚鵡〔おうむ〕返しに主張しているだけなのです。

 それとも、これは玉木さんの勝手な思い込みなのでしょうか。

  例えば、中大兄と鎌足の出会いの場は「蹴鞠之庭」だと記載している『藤氏家伝』(藤原〈中臣〉鎌足らの伝記)は奈良時代中後期・天平宝字4年=760年成立であり、これは蹴鞠の日本伝来が奈良後期から平安初期だとする玉木氏の主張とは異なる。

 玉木氏は専門家ではないのだから、誰のどういう説に基づいて自身の主張を唱えているのか明示してくれないことには、後から検証のしようがない。

玉木正之氏のオウンゴール
▼ 坂上太郎氏の示された大化期の「打鞠」が「蹴鞠」である「いくつかの根拠」を小生は知りませんが……
 これにも吃驚しました。大学・大学院で教鞭をとる玉木さんが先行研究をまったく呼んでいなかったとは!〔しかも人名「坂本」を「坂上」と間違えている!

 玉木さんは、『ナンバー』1995年10月増刊「スポーツを読む。」の中で読むべきスポーツ本として『日本書紀』(それも岩波文庫版!)を推薦していなかったでしょうか? そして、そこでも何の根拠も出さずにこれは「毬杖」〔スティックを使った球技〕だと勝手に断定しているのです。**

 両論あるとはいえ、世間的には「蹴鞠」説の方が優勢です。おそらくは故・坂本太郎氏の歴史学者としての名声や岩波文庫というブランドが「蹴鞠」説の定着に大いに影響していると思います。***

 これを「毬杖」説に覆そうというのですから、玉木さんには読者・スポーツファンに対するよほど丁寧な説明・論証が必要ですが、まったくそういった努力をしていません。

 坂本氏は、『日本書紀』皇極天皇紀にある「打毱」(打鞠)について、この解釈として、騎乗で行うポロ風の競技と蹴鞠の二種類があるとした上で、『荊楚歳時記』(中国・六朝時代の年中行事・風俗の記録)と『史記正義』(中国・唐代の『史記』注釈書)での用例、『藤氏家伝』(中臣鎌足=藤原鎌足の伝記)の記述(「蹴鞠」と記載)、岩崎本(日本書記の古い写本)の傍訓(まりくうる)から、蹴鞠であると結論づけています。学者として当然の姿勢です。

 坂本説はコレコレこういう理由で間違っているという玉木さんの意見を読みたかったのですが、こういった姿勢が見られません。実に残念なことです。〔優れた論証を読みたかったのだが、この期待は裏切られた〕

 ** 今回のやりとりで一番のヤブヘビだったのは、この部分であろう。文藝春秋のスポーツ誌『ナンバー』は1995年10月に創刊15周年特別編集号として「20代のテクスト〈スポーツを読む〉。」という増刊を出した。この中で玉木正之氏は「進化するスポーツ文学、百八冊。」という、スポーツファンが読むべきスポーツ関連書の紹介と書評のページを書いている。

 ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』、世阿弥『風姿花伝』、ジョイルマンによる偽書『パパラギ』あたりを推薦しているのが、いかにも玉木氏の選であるが(爆)〔……と、玉木氏の(爆)はこのように使う〕、この中に日本古代の肉体観(スポーツ観)や風俗を知ることができるものとして岩波文庫版『日本書紀』を上げている。

 ここでは、垂仁天皇紀にある野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)の埆力(すもう=相撲)や、皇極紀にある中大兄と鎌足の「打鞠」(打毱)を紹介している。「蹴鞠説」を採用している岩波文庫なのに、なぜか玉木氏は「毬杖説=スティック球技説」(!)の解説を始める。
 《ちなみに、この「打鞠」(くゆるまり)を「蹴鞠」(けまり)と解説している書物が少なくないが〔岩波文庫がまさにそれではないか!〕、打鞠から蹴鞠へと発展したのではなく、蹴鞠は奈良時代後期から平安時代に当から日本に伝えられ、打鞠はそれ以前に大陸から伝わったメソポタミア起源の球戯(毬杖 ぎっちょう)であるという説もある。》
 岩波文庫版を推薦しながら該当部分の坂本太郎の校注(考証)をまったく読まずに、どこかで読みかじった〔しかも他人から聞かれても思い出せない〕知識で毬杖説を滔々と解説する……玉木氏のこの態度には本当に呆れた。

 *** 実際にはかなり昔から「蹴鞠」だと考えられていたようだ。天理大学附属図書館所蔵の資料に江戸時代に描かれた「南都於法興寺蹴鞠之図」というのがある。坂本太郎の考証も前近代の研究を踏まえている可能性がある。
tennri_kemar2i
【南都於法興寺蹴鞠之図】
 〔追記〕……と、前段落には書いたのだが、あらためて調べてみて「南都於法興寺蹴鞠之図」は、江戸時代とはいっても明治に近い幕末は嘉永6年(1853)の作であった。当ブロクはこのエピソードのもっと古い絵画史料の存在を確認していない。できるだけ公平を期すためにこの旨を注釈しておく。
▼ 「蹴鞠」(平安期に流行した)の歴史を考えると、「打鞠」が「蹴鞠」とは掛け離れたボールゲームであることは明らかで……
 ですから、なぜ「明らか」だと断言できるのかと、その根拠を質しているのです。玉木さんは誰でも納得できるようにきちんと論証するべきなのです。〔お互い話が噛み合ってないなあ。苦笑。もっとも当ブログからは玉木氏が一人合点の一人相撲を取っているようにしか見えないのだが〕

 従来の「蹴鞠」を「毬杖」に改めるだけの新しい知見・発見はあったのでしょうか?

 それを説明してほしいのです。

(玉木正之氏への反論メールはまだまだ続く)