大化の改新と蹴鞠(12)~玉木正之氏からの返信メール(前編) : スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う[承前]

玉木氏のド下手な文章
 大化の改新のきっかけは蹴鞠ではない。スティックを使った別の球技だ……とつねづね訴えるスポーツライターの玉木正之氏。その根拠が知りたくて、当ブログから玉木氏に質問のメールを出した。
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 翌日、玉木氏本人から返信のメールをいただいたのだが、その内容がまったく答えになっていない上に、ツッコミどころ満載だったので、面白がっていろいろ揚げ足をとっていったら、1回では済まなくなって、エントリーを前後半に分けることになった。
 実際、大化期の打鞠を、平安期の蹴鞠と同じものとして、京都の蹴鞠保存会の人々が平安期の衣裳とルールで毎年11月第2日曜日に談山神社(鎌足と大兄が改新クーデターを談合したとされる場所)で蹴鞠を行っているのは、大きな誤解を呼ぶ催しとして少々残念でなりません。

 それが、今日まで伝わる蹴鞠ではなく、〈サッカー+ホッケー〉に近いものであるとわかると、日本サッカー界のW杯挑戦も、イタリア・サッカーがサッカーのことをローマ帝国時代に伝わった球戯の名前(カルチョ)で呼んでいるのと同様、プラスになるような気がしますが……(笑)。
 上記の引用、2段落目は文意がよく分からなかった。失礼ながら恐ろしく下手糞な文章である。日本サッカーの「決定力不足」の克服になるということか? と、思っていたが、いろいろ玉木氏の著作や文章を読んでみてようやく理解できた。

 要するに、玉木氏は「2チーム対戦型で、両チームが向かい合い、ピッチに両軍選手入り混じって、ボールを奪い合い、これをつないで、ゴールを狙う球技」のことをサッカーのルーツと考えているのである。チーム(団体)で行うのが重要なのであって、ボールに触れるのは、足でも、手でも、スティックでもかまわない。玉木氏によれば、飛鳥時代、中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったのは、このスティックを使った団体球技の方ある。

 一方、蹴鞠は平安時代になって日本に遅れて入ってきたものである。この蹴鞠は足先を使い少人数でボールを蹴り上げ続けるが、しかし、個人プレー中心の球技である(と玉木氏は思っている)。日本人がサッカーよりも野球を好むのもそのためである。玉木氏にとって蹴鞠はサッカーのルーツ(前史)には当たらない。
正倉院宝物より
【打毱(正倉院御物)】★

 だから、中大兄と鎌足が出会った球技が蹴鞠ではなくスティック球技だと分かり、人々の意識の間にも浸透すれば、現代のサッカー日本代表(特に男子)がワールドカップに挑戦する時にもプラスになるという話なのだ。

 玉木氏の文化本質主義的体質がよく表れた文章である。しかし、実に馬鹿げた考えである。読者の「読解力」にも問題があるのだろう。だが、玉木氏は説明不足のまま一人合点で話を進める癖ががあり、読み手が文章をよく理解できないことがままあるのである。

虚構こそ真の「歴史」と語る玉木正之氏
 また、「打鞠」は足でも鞠を蹴ったわけで、「而候皮鞋随毬脱落」〔皮鞋の毬の随〈まま〉脱け落つるを候〈まも〉りて≒毬(マリ)と一緒に靴が脱げていった〕の記述は、まったく不思議ではないでしょう。
 謎が謎を呼ぶ。「打毱」(書記の表記はこちらが正しい)はスティック球技で、例えば足で蹴ってもいいなどといったルールが詳しく伝わっているのだろうか? そのルールの条文が伝わっていたら、大化の改新のきっかけは蹴鞠なのか蹴鞠でないのかなどという問題はそもそも発生しない。ちなみに後代の日本の伝統的スティック球技「毬杖(ぎっちょう)」の球は、木の無垢材を削り出したものである。足で蹴ったら骨折する……。
 少々不十分な証拠で申し訳ないのですが、「蹴鞠」(平安期に流行した)の歴史を考えると、「打鞠」が「蹴鞠」とは掛け離れたボールゲームであることは明らかで、『平家物語』の「毬打(ぎちゃう)」の記述を見ますと、大化期の〈ホッケー+サッカー〉のような球戯は、サムライや法師や庶民の間に連綿と伝わり、蹴鞠は貴族に限られて発展した、と思われます。

 さらに「ぎっちょう」は、鎌倉武士の間で、ポロのように馬に乗って毬を打つ団体球戯に発展し(メソポタミアに生まれ、中国へ伝わり、日本に渡った球戯の原型?)、その「ぎっちょう」を江戸時代に八代将軍吉宗が一時期復活し、「ぎっちょう」は「棒で玉を打って運ぶ」庶民や子供の遊びとして発展し、明治時代まで残ったこと……、その「棒」を持つ手が左手であることが多かったことから、「左ぎっちょ」という言葉が生まれたこと……などが、小生の読んだ本(資料)に書かれていたと記憶しています。

 それら日本で流行した集団球戯の全てのルーツが、大化期以前に大陸から伝わった集団球戯の「打鞠」(くゆるまり)にあるとは言うことができても、「打毬」=「蹴鞠」というのは、かなり無理があるように思うのですが、如何でしょう?
 『平家物語』などの話などは、この際どうでもよろしい。「如何でしょう?」などと言われても、当ブログが欲しいのは不十分ではなく十分な証拠である。
 尚、蘇我時代からの日本の天皇の歴史を書き起こした橋本治氏の『双調平家物語』には、大化のクーデター前の「打毬」(うちまり)のシーンが、毬を「杖」で打ったり、足(靴)で蹴ったりして「門」まで運び入れる球戯として描かれています。小説家の書いた小説ではありますが、この描写が史実に近いのではないかと、小生は思っています。

 前エントリーから数えて3度目のエーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ! で、ある。『双調平家物語』は、あくまで橋本治氏の「小説」だ。「歴史」ではない。玉木氏の言い草は、まるで司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を持ち出して史実の坂本龍馬はこれこれでしたと言っているようなものではないか!?

 玉木正之氏は「事実」を軽んじる傾向が強い。ノンフィクション(事実)よりもフィクション(虚構)の方が物事の真実に迫れるだとか、この世に事実は存在しない、あるのは眼に映った虚構だけだ……などとうそぶく(『彼らの奇蹟』)。しかし、ここで問題にしているのは「歴史」とは、そんな暇人のふける思想の問題ではないはずだ。

 「蹴鞠」(けまり)は、当時、まだ存在しなかったのですから……(そのことについては百科事典等にも書かれていて、明らかです)。

 「打鞠」は「蹴鞠」ではないにしても、大化期に日本に伝わっていた集団球戯から、平安期の個人技中心の「蹴鞠」が生まれ出る(発展に影響を与える)のに、まったく無関係か、というと、そうとも思われません。しかし、スポーツの発生学的には、クリケットからベースボールが生まれた、という「嘘」に近いように思われます。

以上      玉木拝
 玉木氏の言う「百科事典」とは、どこの百科事典だろう? 当ブログ、あらかたの百科事典の「蹴鞠」「打毬」「毬杖」の項目に目を通した。あの分厚い吉川弘文館『国史大辞典』と小学館『日本歴史大事典』にも目を通した。いずれも、大化の改新のきっかけが蹴鞠か蹴鞠でないのかと断言しているものはなかった。

 以上、玉木正之氏の言う回答は、まったく当方を満足させるものではなかったが、特に何の反応もしなかった。

 「尚、資料はまとめて、大学の小生の研究室に移して保管してあるはずですので、いつか機会があればきちんと見直してみたいと思います」ともあったので、後でもっと詳しい回答が来るかもしれないと期待しながら、いつの間にか忘却していたのである。

 ところがこの後、玉木正之氏は奇妙なことを仕掛けてきたのであった。

(つづく)



 ★スティック球技説を採用する『小学館・新編日本古典文学全集(4)日本書紀(3)』の図版より(87頁)。この正倉院収蔵の絵画の名前は「花卉人物長方氈二床」(かきじんぶつちょうほうせんにしょう?)かもしれないが未確認。どなたか詳しい情報をいただければと思います。