ジーコのプロトタイプ平尾
 1999年、平尾誠二氏は「日本ラグビー再建の切り札」としてラグビー日本代表(ジャパン)監督の立場でW杯ウェールズ大会に臨んだ。

 平尾ジャパンは、型にはまらず自由に選手がプレーを選択するラグビーを目指した……となると、思い当たる人がいるだろう。平尾ジャパンは後のサッカー日本代表ジーコ・ジャパンのプロトタイプだったのである(もっとも、本当のところジーコ本人が何を考えていたのか今一つわからないのだが)。

 ジーコ・ジャパンの時代、「個の力」という(あいまいな)概念が定着、広く使用されるようになっていた。一方、平尾監督は「素の力」という言葉と多用した。ソノチカラと読ませるらしい。個の力も素の力もニュアンスはほとんど一緒である。

 日本的な型、形式、組織、戦術……への隷属、そこからの解放、自由、自主性、個……というテーマは、欧米へのコンプレックスに呪われた日本のスポーツジャーナリストの心根をくすぐる。それゆえ玉木正之氏は平尾ジャパンとジーコ・ジャパン、2つの日本代表の熱烈な支持者であった。
「日本型」思考法ではもう勝てない
平尾 誠二
ダイヤモンド社
2016-06-06

指揮官免罪のカラクリ
 ともに「史上最強」を喧伝されながら、肝心のワールドカップ本大会では1勝もできずに1次リーグ敗退。この点でも2つの日本代表は共通している。

 しかし、平尾ジャパンやジーコ・ジャパンのような「理念」を掲げていると、敗北の原因および責任をチームを統べる監督に問いにくくなる傾向が、日本には往々にしてある。日本人は自由や自主性は不得手、日本人は個の力(素の力)が貧弱……とやられれば、欧米へのコンプレックスに呪われた日本のスポーツジャーナリストは、問題の監督を批判できなくなってしまう。

 ジーコはこれで批判と責任を免れ、逃げおおせた。平尾誠二監督にも、玉木氏をはじめとする熱心な支持派・擁護派がいて、彼らは平尾監督を免罪しようとした。それでもラグビージャーナリズムが素晴らしいのは、永田洋光氏や藤島大氏のように平尾監督をガッツリ批判した人がいることである。
ラグビー従軍戦記
永田 洋光
双葉社
2000-06





 サッカー日本代表監督のジーコに関しても然り。自由だの個の力だのという概念を葵の印籠のように見せつけられると、サッカージャーナリストやスポーツライターたちはジーコを批判できずに土下座してしまう。対して、いちばん剛直にジーコ批判をした人が実は本籍ラグビーの藤島大氏だったりする。
ラグビーの世紀
藤島 大
洋泉社
2000-02

脳内は桜で満開
 W杯終了直後、平尾誠二監督は玉木正之氏のインタビューを受けた。その最後に平尾監督が「ひとつだけ、やりたいことがあるんです」として語ったことがある。
 秩父宮ラグビー場や花園ラグビー場など、全国のラグビー場に、桜の木を植えてほしい。我々は、桜のジャージー〔桜花の徽章を付けたラグビー日本代表のジャージー〕を着て、桜のプライドを持って闘ったのですけど、どのラグビー場にも、なぜか桜の木が植わってないんです。だから、あらゆるラグビー場に桜の木を植えて、誰もがその成長を見、きれいな花を見るなかで、桜のジャージーをめざし、桜のプライドを持ち、世界にはばたく気持ちを持つようになってほしい。桜の木を植えるなんて、何の意味があるんだという人がいるかもしれませんが、ラグビー選手もラグビー・ファンも、誰もが桜のプライドのもとに結集するという意識は、意外と重要だと思うんですよ。――平尾誠二インタビュー 聞き手:玉木正之「『大きな壁』は突破できるか?」
 この平尾発言を読んだ時、あまりにバカバカしさに海老反りしそうになった。日本代表の監督がW杯で大敗して帰ってきて、ひとつだけやりたいことが全国のラグビー場に桜の木を植えてほしいだとは……。サッカー日本代表の監督ならこんな現実離れした能天気な発言はできないだろう。

 実際この発言はラグビー界でも顰蹙を買ったらしく、永田洋光氏や美土路昭一氏(朝日新聞)らが憤懣をぶちまけている(『日本ラグビー百年問題』)。

 もちろん、平尾監督がこんな呑気なことを言えるのは相手が玉木正之氏だからだ。まともなラグビージャーナリストとの取材ではもっと緊張感をはらんだものになる。

 要するに平尾監督は敗北の原因は日本の貧しいラグビー環境、スポーツ文化のせいであって、自分の力の及ばないところにあるとしたい。著名なスポーツライター玉木正之氏はそれにお墨付きを与えてくれる存在である。一方、玉木氏にとって平尾監督は自身が常々唱える日本のスポーツ環境、スポーツ文化の貧しさをアスリートの立場から告発してくれる得難い存在である。2人は共生関係にある。

 そんな夢のような豊かなラグビー文化、豊かなスポーツ文化の象徴が「全国のラグビー場に桜の木を植えてほしい」という話なのである。

(つづく)