なんでラグビーが玉木正之なのか?
 新潮文庫から傑作スポーツアンソロジーと銘打たれ、玉木正之氏を編者として2015年に刊行された『彼らの奇蹟』。マラソン、バレーボール、サッカー、ゴルフ……さまざまなスポーツが採り上げられているが、ひょっとして一番ガッカリしたのはラグビーファンではなかっただろうか?



 香山蕃、大西鐵之祐、北島忠治、柯子彰、新島清、池口康雄、神吉拓郎、末富鞆音、小林深緑郎、松瀬学、永田洋光、藤島大、大友信彦、中尾亘孝……あ、最後の人はやめといた方がいいか(笑)。向風見也さんはもっと頑張ろう……と、ラグビーフットボールの書き手、語り手なら昔からいくらでもいるというのに、どうして玉木正之氏の「彼らの楕円球」なのか?

 いや、この作品が全くダメだという意味ではない。ただ、平尾誠二選手、神戸製鋼ラグビー部、同志社大学ラグビー部にフィーチャーした玉木氏の作品だけでラグビーの魅力や本質、あるいはスポーツの本質を語るのは、少々危険ではないかと思うのである。

虚構かノンフィクションか?
 「彼らの楕円球」は、1993年、『小説新潮』(新潮社)4月号で「彼らの奇蹟」のタイトルで、もともとは小説して発表された。1995年には玉木氏の著作『平尾誠二 八年の闘い』(ネスコ)の中で〈小説〉として転載される。さらに新潮文庫『彼らの奇蹟』では「彼らの楕円球」と改題され掲載された。原題は文庫本の書名としてスライドしたのである。

平尾誠二ー八年の闘い

 ところがスポーツアンソロジー『彼らの奇蹟』の掲載条件は「ジャンルとしての小説も除外し、ノンフィクション、評論、エッセイ……等々のフィクション以外からのジャンルの中から作品を選」ぶ(『彼らの奇蹟』479~480頁)となっている。そうなると小説である「彼らの楕円球」がなぜ選ばれるのかという疑問が湧く。編者である玉木氏のゴリ押しなのか? それは正しくないようだ。

 《採用するのは躊躇〔ちゅうちょ〕があったが、編集部の強い意向に押し切られるかたちで収録した。さらに、読んでいただければわかるとおり、この作品には虚構(フィクション)が含まれている。どこからどこまでが虚構なのか、その判断は読者にお任せするが、筆者〔玉木〕はすべて真実、ほとんど事実を書いたと確信している。》(同書482~483頁)

 「すべて真実、ほとんど事実を書いた」というのがミソで、この作品は100パーセント「真実」だが、100パーセント「事実」で構成されているわけではない。たしかに物事の真実が描けていれば、その手段は事実でも虚構でも構わない。そしてノンフィクション作品にも(差し障りのない範囲で?)虚構が混じることはあるかもしれない(もっとも、玉木氏の作品は『彼らの奇蹟』の他の収録作品に比べても虚構の比率が高い気がするが)。

 玉木氏は「非虚構(ノンフィクション)よりも虚構(フィクション)のほうに、『スポーツの真実』や『スポーツの多様性』に迫った作品が圧倒的に多いのも確か」(同書470頁)などと断言してしまう人である(本当か?)。

 また玉木氏は、いわゆるスポーツノンフィクションが書けない。むしろ、そうした作品をスポーツの本質に迫っていない「人間ドラマ」だと呼んで蔑んでいる。仮に玉木氏がスポーツノンフィクションを書いても、取材した事実で攻めるべきところをそれができず、自分の主張や思想を前面に立ててしまう癖があるため、素材は良くともつまらない作品になってしまう傾向がある。

 とにかく「彼らの楕円球」は、ほとんどの事実にいくばくかの虚構を交えて、ラグビーフットボールの真実、あるいはスポーツの真実を伝えたのだ……と、玉木氏は言いたげである。また事実と虚構の境目の曖昧さを示して読者をもてあそび、玉木氏ひとりが面白がっているようにも見える。

 それはそれで嫌味な話だ。ならば、逆にこの作品の虚実皮膜に分け入ることで、玉木氏のスポーツ観、さらには平尾誠二選手のラグビー観などに迫ることができるかもしれない。

つづく






「彼らの奇蹟」(または「彼らの楕円球」)は、1993年、東京書籍刊『不思議の国の大運動会』にも所収されていて、計4回も世の中に出ている。それだけに玉木正之氏、平尾誠二氏のラグビー観、スポーツ観を知るのに最適なテクストだと見ていい。