2002年日韓ワールドカップを記念して、埼玉県立博物館で「特別展 蹴鞠―KEMARI―」が催された。そこではこんな絵画資料が展示されている。

霞会館蔵「中大兄皇子蹴鞠の図」(部分)筆:原在寛
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 原在寛(はら・ざいかん:明治17=1884年~昭和32=1957年)は日本画家。この特別展の展示図録には制作年代の記載がないが、在寛が旧公家・門跡寺院と親しく、それらに遺作が多いこと。所蔵が霞会館(旧・華族会館)であることを考えると、明治晩期~昭和戦前の間だろうか?

 この展示図録には、巻末に解説が2つ掲載されており、大化の改新と古代球技の問題について言及されている。まずは西口由子学芸員の「概説 蹴鞠―KEMARI―」から。
 《蹴鞠の起源は中国大陸にあるが、日本に伝わった時期は明らかではない。『日本書紀』に見える中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足の出会いの場としての「打毱〔くえまり〕」とするのが一般的ではあるが、ポロに近い打毬という説もあり、定かではない(「日本の蹴鞠・中国の蹴鞠」参照)。》
 ここでは蹴鞠なのか打毬なのかは定かではないとしている。一方、井上尚明学芸員の「日本の蹴鞠・中国の蹴鞠」では、少し踏み込んだ考察をしている。
 蹴鞠に関する日本最古の記事としては、『日本書紀』の皇極三年(六四四)正月、法興寺で中大兄皇子と中臣鎌足が打毱を通じて接近し、大化改新への端緒となるという一文が有名である。しかし、この打毱が蹴鞠を指すのではなく、現在のポロに近い打毬ではないかとする説もある。日本の蹴鞠資料には、ゴールを想定させるものはなく、すべて唐代に出現した所謂白打〔ゴールを持たない蹴鞠〕の系統であり、唐代〔618~907〕以降にこの白打が日本に伝えられたことは確実である。唐代の詩人で『宮詞』を書いた王建は、その詩中に白打について触れており、王建の活躍したのは太和年間(八二七~八三五)である。これらのことから、『日本書紀』の記事は七世紀前半の唐代初頭に当たる時代であり、この時期に既に日本で蹴鞠が行われていたかは疑問がある。唐で白打がかなり普及し、詩に詠じられるような流行以後に伝えられたと考えられる。現状で考えると、蹴鞠は九世紀に近い年代の遣唐使などによって、多くの文物と共に日本に伝えられたと推測しておきたい。
 これは大化の改新のキッカケになった古代球技は、巷間信じられている蹴鞠ではないことを示唆したものだ(玉木正之氏も知らなかったはず)。ただし、あくまで「推測」であって、「これは蹴鞠ではありません。毬杖です」といった玉木氏のような安易な断定はしていない。この時代については資料・情報が乏しいのだから、学術にかかわるものとしては当然のことである。

石ノ森章太郎『マンガ日本の歴史[5]隋・唐帝国と大化の改新』(小学館)1990年
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 現代において歴史をビジュアライズしたものとしては、学習マンガがある。これについては日本史の通史でも、人物伝でも、実におびただしい数が出版されている。ここでは日本を代表するマンガ家・石ノ森章太郎の『マンガ日本の歴史』を掲載する。

 ちなみに『日本書紀』の該当記事には「法興寺槻樹下」とあるから、たいていの絵画では中大兄と鎌足、打鞠が行われている傍らには、寺(法興寺)と槻(つき:ケヤキ)の木が映っている。しかし、石ノ森のマンガでは見落としたのか寺はあっても、槻の木は映っていない。

(つづく)