スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

玉木正之はデタラメである。セルジオ越後のサッカー評論はパワハラである。
中田英寿はワールドクラスではない。大谷翔平の二刀流は珍記録にすぎない。
本田圭佑は二代目中田英寿である。天皇杯は元日決勝を卒業するべきである。
今福龍太や細川周平の現代思想系サッカー批評は贔屓の引き倒しでしかない。etc.

 日本人論・日本文化論……日本人が固有に持っているとされる万古不易の本質(国民性・民族性・文化・伝統・精神,etc.)を研究・考察した評論や著作,そこから生じた通説や通念……は、日本人の思考と行動に好ましからざる影響をさまざま与えてきた。

 ふと思い立って、小谷野敦氏の『日本文化論のインチキ』(2010年)をパラパラ読み返してみた。すると、その冒頭で著者・小谷野敦氏は、井上章一氏の言葉を引き合いにする形で「日本人論・日本文化論の時代は終わった.その多くはインチキであることが分かってきた」と書いている。
 ……月日は流れた。井上章一さん(1955- )は、『南蛮幻想』(文藝春秋,1998)で、日本文化論の時代は終わった、と書いていた。

南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城
章一, 井上
文藝春秋
1998-09-01


 井上さんは、国際日本文化研究センターの教授である。だからもちろん、内外の日本文化論をいろいろ調べている。だが、いわゆる日本文化論の多くは、インチキである、ということが、ことが分かってきた、と私〔小谷野敦〕は思っている。

小谷野敦『日本文化論のインチキ』4~5頁


日本文化論のインチキ (幻冬舎新書)
小谷野 敦
幻冬舎
2010-05-01


 はて? ……と首をかしげる。なぜなら、井上章一・小谷野敦両氏の認識は、世の中の実態とは違うからである。あくまで、これは(人文学系・社会学系の)職業知識人で、なおかつモノの分かった人たちの間だけで共有されている認識に過ぎないのはないか。

 * * *

 あるいは、欧米人の「罪の文化」に対する日本人の「恥の文化」(ルース・ベネディクト『菊と刀』,1948年邦訳)、「タテ社会」(中根千枝『タテ社会の人間関係』,1967年初版)、「甘え」の構造(土居健郎『「甘え」の構造』,1971年初版)……。

菊と刀 (平凡社ライブラリー793)
ルース ベネディクト
平凡社
2015-08-27


菊と刀 (光文社古典新訳文庫)
ベネディクト
光文社
2013-12-20


 ……といった、たいていの日本人ならば、本そのものは呼んだことは無いけれども、何となく聞いたことがある、知名度の高い日本人論・日本文化論のキーワードが出にくくなったとは、ひょっとしたら言えるのかもしれない。

 むろん、日本人論・日本文化論自体が衰えたわけではない。その通説や通念はもう人々に十分に生き渡っているので、今さら新ネタを必要としないのだとも言える。

 そのことを証明するかのように、昨今の日本人論・日本文化論界隈でやたらと羽振りがいい人物がいる。「空気」「世間」というキーワードを駆使して頻繁に議論を展開し、『「空気」と「世間」』(2009年)その他の著作をベストセラーにした、劇作家の鴻上尚史氏(こうかみ しょうじ,1958- )だ。

 その上で、鴻上尚史氏は日本の世相を縦横無尽に、あるいは勝手気ままに論じている。


 しかし、「空気」というキーワードのオリジナルは山本七平氏(1921-1991)の『「空気」の研究』(1977年初版)であり、「世間」というキーワードのオリジナルは阿部謹也氏(1935-2006)の『「世間」とは何か』(1995年)なのである。

「空気」の研究 (文春文庫)
山本 七平
文藝春秋
2018-12-04


 どちらも、日本人論・日本文化論界隈では有名な著作である。鴻上尚史氏は、山本七平氏や阿部謹也氏が故人であるのをよいことに、「空気」や「世間」といった著名なキーワードにフリーライド(free ride)、つまりタダ乗りして自身の日本人論・日本文化論をヒットさせ、日本の世相を勝手気ままに論じている。

 21世紀に入ってからも、「品格」(藤原正彦『国家の品格』,2005年)、「辺境」(内田樹『日本辺境論』,2009年)といった、日本人論・日本文化論が話題になった。

国家の品格 (新潮新書)
藤原 正彦
新潮社
2005-11-20


日本辺境論 (新潮新書)
内田 樹
新潮社
2009-11-16


 また、いまひとつ定着しなかった感があるが、井沢元彦氏の「言霊(ことだま)」論という日本人論・日本文化論もあった。



 これらの方々には、少なくとも独自のキーワードの日本人論・日本文化論で勝負しようという気概があった。ところが、鴻上尚史氏は、他人のフンドシ、つまり山本七平氏の「空気」論や阿部謹也氏の「世間」論で相撲(=日本人論・日本文化論)を取っている。

 日本人論・日本文化論の世界観では、日本人は個人としての「創造力」が世界……特に欧米人よりも劣っている、他人の(海外の)模倣ばかりというイメージが定着している。昨今、もっとも羽振りがよく日本人論・日本文化論を発信している鴻上尚史氏が、自ら「創造力が欠落した日本人」ぶりを示しているのは、実に皮肉なことだ。

 何よりも鴻上尚史氏は、劇作家・演出家、つまりクリエイターである。国費(!)で演劇を学びにイギリスに留学したこともある。そんなクリエイターの鴻上尚史氏が、他人のアイデア(キーワード)を借用して日本人論・日本文化論を展開しているのは、致命的に駄目なことではないか。

 * * *

 さて、小谷野敦氏は、前掲の引用文で「日本文化論の多くは,インチキである,ということが,ことが分かってきた」と書いている。知らない人にとっては意外かもしれないが、実際に日本人論・日本文化論のほとんどは、真っ当な心理学・社会学・文化人類学などの分野から見れば、学問的にデタラメである。疑似学問である。

 先行研究の参照と検証、理論の構築、理論と現象との相関性の検証、学界内の議論による洗練……といった、アカデミックな「ふるい」にかけられることが日本人論・日本文化論にはない。


 『「空気」と「世間」』の鴻上尚史氏が依(よ)る、山本七平氏の「空気」論や、阿部謹也氏の「世間」論はもちろんそうである。第二次世界大戦中のアメリカ戦時情報局による日本研究をもとに執筆されたと言われる、ルース・ベネディクトの『菊と刀』ですら、日本人や日本文化への「まなざし」に偏見やら誤解やら……つまり嘘やら間違いやらデタラメやらが多いという「批判」がついて回っている。

 日系アメリカ人の文化人類学者ハルミ・ベフ氏(日本名:別府春海)は、その著書『イデオロギーとしての日本文化論』の中で、日本人論・日本文化論などというものは学術性のない「大衆消費財」であると指摘している。その上でこう述べる。
 ……文化論〔日本人論・日本文化論〕というものは、日本の文化を忠実に、客観的に描写したものではなくて、ある一定の日本の特徴をとり上げ、それを強調し、都合の悪いところは無視して、一つのシステムをつくる。どうしてそういうものをつくるかといえば、それは体制の役に立つからです。

ハルミ・ベフ『増補新版 イデオロギーとしての日本文化論』24頁


イデオロギーとしての日本文化論
ハルミ ベフ
思想の科学社
1997-07T


 つまり、日本人論・日本文化論と称するものの大半は、学問的な言説ではない単なる「大衆消費財」であり、それは日本の政治的な現状維持のためのイデオロギー的な機能を果たしている……というわけである。

 そういえば、鴻上尚史氏は「体制に従順な日本人」を煽り立てるようなことをSNSでたびたび発言・発信している。




 こうした鴻上尚史氏の一連の発言を見ていると、ハルミ・ベフ氏の「文化論〔日本人論・日本文化論〕もここまでくると国家体制に完全に汲〔く〕み込まれ,保守政権を支持するイデオロギーとして利用されていると見て間違いない」<1>という発言を、思い出してしまう。

 なぜなら、劇作家である鴻上尚史氏は、どちらかといえば日本の体制や時の政権に批判的なスタンスの持ち主であると思われている。そんな鴻上尚史氏が日本人論・日本文化論の通説や通念に基づいて日本の世上を批判すれば批判するほど、(ハルミ・ベフ氏の考えに従えば)実は体制の現状維持に奉仕してしまうパラドキシカルな情況に陥ってしまう……からである。

 鴻上尚史氏の「批判」は、実は体制批判のふりをした大衆蔑視の発言ではないか……という意見が出るのも宜(むべ)なるかなである。



 その在り様は、とても滑稽で悲しい。

 日本の世上を批判することは大いに結構だ。しかし、その拠り所を日本人論・日本文化論にすることは間違いだ。

(了)




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 日本人論・日本文化論……日本人が固有に持っているとされる万古不易の本質(国民性・民族性・文化・伝統・精神,etc.)を研究・考察した評論や著作,あるいはそこから生じた通説や通念……は、日本人の思考と行動に大きな影響を与えてきたとされる。

 ふと思い立って、小谷野敦氏の『日本文化論のインチキ』(2010年)をパラパラ読み返してみた。すると、その冒頭で著者・小谷野敦氏は、井上章一氏の言葉を引き合いにする形で「日本人論・日本文化論の時代は終わった.その多くはインチキであることが分かってきた」と書いている。
 ……月日は流れた。井上章一さん(1955- )は、『南蛮幻想』(文藝春秋,1998)で、日本文化論の時代は終わった、と書いていた。

南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城
章一, 井上
文藝春秋
1998-09-01


 井上さんは、国際日本文化研究センターの教授である。だからもちろん、内外の日本文化論をいろいろ調べている。だが、いわゆる日本文化論の多くは、インチキである、ということが、ことが分かってきた、と私〔小谷野敦〕は思っている。

小谷野敦『日本文化論のインチキ』4~5頁


日本文化論のインチキ (幻冬舎新書)
小谷野 敦
幻冬舎
2010-05-01


 はて? ……と首をかしげる。なぜなら、井上章一・小谷野敦両氏の認識は、世の中の実態とは違うからである。あくまで、これは(人文系・社会学系の)職業知識人で、なおかつモノの分かった人たちの間で共有されている認識に過ぎないのはないかと思う。

 事実……。当ブログは、一応サッカーブログなのであるが、その観点から見ると、サッカー評論の世界は、今なお(自虐的な)日本人論・日本文化論が大手を振ってまかり通っている。2021年の例ならば、中野遼太郎氏(早稲田大学卒業,早大ア式蹴球部出身)の次のコラムを読まれたい。
  • 参照:中野遼太郎「ラトビア1部コーチ中野遼太郎の見解。成功する日本人選手の共通点って?」(2020/04/24)https://number.bunshun.jp/articles/-/843276?page=4
 ここで中野遼太郎氏が論じている《「欧米語の主語と動詞を前に置く文法」と「日本語の〈特殊〉な文法」を対比させては、日本人の「特殊性」を煽り立て、だから「日本人はサッカーにおいて不利である」とぶち上げる》サッカー版日本人論・日本文化論は、実は日本サッカーが不遇だった1980年代から存在する陳腐なネタに過ぎない。

 中野遼太郎氏は「〈思考は使う言語の文法に依存する〉ので,そう簡単に切り替えられるものではありません」と述べている。しかし、これは「サピア=ウォーフの仮説」(言語相対説)といって、さまざまな観察や実験から学問的には否定されている。

 つまり、1970~1980年代の不遇を乗り越えた今なお、なおかつ学問的に否定されている仮説でもって、日本のサッカー界やサッカー評論では「……だから日本人はサッカーにおいて不利である」とぶち上げる日本人論・日本文化論がまかり通っているのだ。

 井上章一氏はプロ野球(NPB)阪神タイガースのファンであり、小谷野敦氏は大相撲のファンであるが、日本のサッカー界・サッカー評論の事情には疎いようである。

(了)




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続出した誤字・誤表記・事実誤認に対する見苦しい言い訳
 新潮社や文藝春秋といった大手出版社は、校閲(印刷物や原稿を読み,内容の誤りなどを正すこと)がしっかりしていると言われるが、必ずしも正しくない。それはジャンルや部門によってちがう。文芸書(小説)やハードカバーの単行本の校閲は徹底したものだが、新書など他の書物の形式ではそれほどでもない。金と手間暇のかけ方が違うからだ……。

 ……ってな話を、小谷野敦氏(こやの あつし,評論家,比較文学,東京大学英文科卒,東大大学院博士課程修了,学術博士)が『文章読本X』(中央公論新社)という本の中で、書いていた(同書82~83頁)のだが……。

文章読本X
小谷野 敦
中央公論新社
2016-11-16


 ……むろん、この小谷野敦氏の文言は、自身の評論書『ウルトラマンがいた時代』(ベスト新書)の内容の誤字・誤表記・事実誤認、つまり間違いが多すぎて、特撮ファンやウルトラマンファンの怒りを買い「炎上」してしまったことに対する見苦しい言い訳である。

ウルトラマンがいた時代 (ベスト新書)
小谷野 敦
ベストセラーズ
2013-04-09


 その酷さたるや、とにかく前掲のリンク先にあるアマゾンのカスタマーレビュー星1つ★☆☆☆☆の数々を読んでいただきたい(また次のリンク先も読まれたい)。
  • 参照:Togetter_小谷野敦「ウルトラマンがいた時代」(KKベストセラーズ)の信じられない誤認の数々(2013年)https://togetter.com/li/486966
  • 参照:著名評論家のウルトラマン本の内容が間違いだらけでファン激怒(2013年4月13日)https://rocketnews24.com/2013/04/13/317257/
 この時の小谷野敦氏の対応の不味さ、あるいは氏の性格の不遜さもあって、「大手出版社でも安価な本では,編集や校正・校閲がいい加減になる」という氏の発言は、まさに「お前が言うな!」という案件になってしまった。

「怪獣使いと少年」における謎の台詞の元ネタ
 さて、アマゾンにおける小谷野敦著『ウルトラマンがいた時代』の星1つ★☆☆☆☆の酷評カスタマーレビューに気になる記述があった。
 著者〔小谷野敦氏〕は「怪獣使いと少年」<1>という題名を本書に冠したいと望んだとあるが、次のような記述を見る限り、それは暴挙であると言わざるを得ない。

 「さらに隊長〔演:根上淳〕は、元の脚本にない「『日本人は美しい花を造る手を持ちながら、一旦その手に刃〔やいば〕を握るとどんな残忍極まりない行為をすることか』という台詞を口にしている。だが、それは嘘である。日本人だけがそうなのではない。」(『ウルトラマンがいた時代』P152)

 何を持って嘘だと断ずるのか納得できる論証も全くない。続く文章の展開は子供でも書けそうなものだけに著者の経歴などからは想像できないお粗末さである。あまりにひどい分析に本当に文学者なのか或いは故意にボケて見せているのか理解に苦しむ。ところどころで思いつきのように支離滅裂な展開になってついて行けないし、唖然とさせられる。

ハーゼンベルク「奇怪な書で意味が分からない」2016年2月17日
 小谷野敦氏は何を持って「隊長の台詞」を嘘だと断ずるのか? それを示さない。氏のの読者に対する著者としての不親切さがここに出ている。

 実は引用文中の「日本人は美しい花を造る手を持ちながら、一旦その手に刃を握るとどんな残忍極まりない行為をすることか」という文言には元ネタがある。アメリカの女性の文化人類学者ルース・ベネディクトが書いた『菊と刀』(初版1946年,邦訳1948年)である。

ルース・ベネディクト(肖像)
【ルース・ベネディクト】

菊と刀 (光文社古典新訳文庫)
ベネディクト
光文社
2013-12-20


菊と刀 (平凡社ライブラリー)
ルース ベネディクト
平凡社
2013-08-09


 『菊と刀』は、日本人論・日本文化論の古典とされ、「名著」ともいわれる<2>。日本人論・日本文化論とは、日本人に固有で万古不易の本質(国民性・民族性・文化・伝統・精神……等々)が存在するものとして、それを研究・考察した評論や報告のことである。

 それでは『菊と刀』には、どんなことが書いてあるのか? ここは直接本文(邦訳)からの引用よりも、反対に日本人論・日本文化論の通説批判の「古典」と言える、杉本良夫とロス・マオアの『日本人論の方程式』(初版『日本人は「日本的」か』)が簡潔に書いてあるので、そちらから引用する。
 『菊と刀』は、全く相対立する原理が共存する社会として日本を描く、という意味でも先駆的な役割を果たした。一方において、日本人は、優雅で丁寧で平和的な、〔花〕をめでる国民である。しかし、他方では残忍で乱暴で好戦的な〔刃〕を振りまわす国民でもある。この一見矛盾する反対の傾向が、一国民の中にどのようにして同居しているのか、という問題を〔ルース・〕ベネディクトは解こうとした。

杉本良夫,ロス・マオア『日本人論の方程式』51頁


日本人論の方程式 (ちくま学芸文庫)
ロス・マオア
筑摩書房
1995-01T


 すなわち、小谷野敦氏が『ウルトラマンがいた時代』で言及した隊長の台詞「花〈菊〉刃〈刀〉が同居する日本人の心根」の元ネタが、ルース・ベネディクトの日本人論・日本文化論『菊と刀』である。

 著者・小谷野敦氏が「隊長の台詞の元ネタは『菊と刀』である」と一言書いておけば、(特に特撮ファンやウルトラマンファンの)読者を余計に苛立たせずに済んだはずである。

十五年戦争時代の「日本人」と小谷野敦氏
 この度、小谷野敦氏の『ウルトラマンがいた時代』を取り寄せて、例の「隊長の台詞」が出てくる部分(小見出し「最高傑作〈怪獣使いと少年〉」)を詳しく読み直してみた。すると、なるほど、いろいろなことが分かってきた。くだんのアマゾンレビュアーが小谷野敦氏になぜ苛立ったのかのも何となく分かってきたのである。
 ……さらに隊長は、元の脚本にない、「日本人は美しいを作る手を持ちながら、いったん〔やいば〕を握るとどんな残忍極まりない行為をすることか」という台詞を口にしている。

 だが、それは嘘である。日本人だけがそうなのではない。いかなる民族・国民でも、そうなのである。

 この作品〔怪獣使いと少年〕を論じる人の多く〔左翼またはリベラル?〕は、あたかも日本人だけが差別をしたり植民地支配をしたりしたかのように言うが、それは間違いであり、自国を責めることで、責める自分が優位に立とうとする感傷すらある。

 被圧迫民族の間にも残忍な行為はあり、子供にもそれはあり、さらには動物にもある。と同時に郷〔秀樹,特撮ヒーロー「帰ってきたウルトラマン」の物語の主人公にして変身前の姿〕と隊長がそうであるように、そういう行為に加わらない者もいる。〔引用に当たっては適宜改行した〕

小谷野敦『ウルトラマンがいた時代』152頁
 日本人だけが歴史的に残虐行為をしたわけではない……と小谷野敦氏は言うのである。同様の発言は、同じく小谷野氏の著作『日本文化論のインチキ』にも登場する。
 それは「左翼」だって同じことだ。かつての十五年戦争<3>で、日本人がした残虐行為を槍玉にあげて日本人は……などと言う。それはおかしいだろう。戦争での残虐行為など、しない国の方が少ない。いな、歴史を見ればどの国でもやっている。

小谷野敦『日本文化論のインチキ』6頁


日本文化論のインチキ (幻冬舎新書)
小谷野 敦
幻冬舎
2010-05-01


 こういう主張をするのは、まぁ、良いとして、小谷野敦氏が『ウルトラマンがいた時代』に登場する隊長の台詞の元ネタが『菊と刀』であることをキチンと断らなかったことは、いかにもマズかった。人によっては、小谷野敦氏が日本の近現代史の汚点を低く見積もっているのではないかと解釈する人が出てくるからである。

指摘されざる小谷野敦氏のもうひとつの失当
 ルース・ベネディクトの『菊と刀』には、日本人や日本文化への「まなざし」に偏見やら誤解やら……つまり嘘やら間違いやらデタラメやらが多いという「批判」がついて回った。例えば、ダグラス・ラミス氏という日本在住のアメリカ人政治学者が『内なる外国~「菊と刀」再考』という批判の本を書いている。

内なる外国―『菊と刀』再考 (ちくま学芸文庫)
C・ダグラス ラミス
筑摩書房
1997-01T


 それどころか日本人論・日本文化論という分野自体に、日本人や日本文化に対する偏見やら誤解やら……つまり嘘やら間違いやらデタラメやらが多いという「批判」がついて回ってきた。これについても、いろいろ批判の本が出ている。

イデオロギーとしての日本文化論
ハルミ ベフ
思想の科学社
1997-07T


「集団主義」という錯覚 (新曜社)
高野 陽太郎
新曜社
2017-12-10


日本人論の危険なあやまち 文化ステレオタイプの誘惑と罠 (ディスカヴァー携書)
高野 陽太郎
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2019-10-19


 かねてより小谷野敦氏もまた日本人論・日本文化論には批判的で、だから『日本文化論のインチキ』という本を書いている(前掲.ただし,この本は日本人論・日本文化論の通説批判の本としてあまり出来が良くない)。

 小谷野敦が『ウルトラマンがいた時代』の中で、日本人論・日本文化論の通説批判の観点から、『帰ってきたウルトラマン』の隊長の台詞の元ネタが日本人論・日本文化論の古典『菊と刀』であることを示し、その上で「日本人だけが残虐な本質=国民性を持っているのではない」と書けば、読者に余計な誤解を与えずに済んだし、個人的にも同意できる。

 ところが、小谷野敦氏はその辺をスッ飛ばして書いたものだから、氏は日本の近現代史の汚点を低く見積もっているのではないか……と解釈する人が出てくる。もっと大袈裟に言えば、小谷野敦氏は歴史修正主義的な言動をしたのではないか……と解釈する人も出てこないとは限らない。

 まぁ、小谷野敦氏は「左翼またはリベラル」に当てこすりを書くのがライフワークになってもいるのだが……。閑話休題。しかし、この「隊長の台詞」の場合はその種の当てこすりではあるまい。

 小谷野敦氏は、著者として『ウルトラマンがいた時代』で実に多くの誤字・誤表記・事実誤認をやらかした(まるで野球ライターの広尾晃氏みたいですね)。それらの瑕疵の指摘は、アマゾンレビューを中心にネット上に氾濫している。

 おそらく誰も指摘していないはずだが、この『帰ってきたウルトラマン』における「隊長の台詞」と『菊と刀』の論旨との関係の説明を失当したことも、その瑕疵のひとつに当たる。繰り返しになるが、この辺りをキチンと説明しておけば、読者を変に苛立たせずに済んだはずである。

(了)




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