スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

大化の改新の2人、中大兄皇子と中臣鎌足の出会いは「蹴鞠」だという…。
違う!「あれは蹴鞠ではない」と、スポーツライター玉木正之氏は主張している。
玉木氏は、そのことが現代日本のサッカーや野球にも影響を与えているのだと唱える。
それは一体どういうことなのか? そもそも玉木氏の主張は正しいのだろうか?

高校野球の「さわやか」さを台無しにする福山雅治の暑苦しい曲
 NHKが、L字型画面で高温注意情報を流しながら、炎天下、阪神甲子園球場で行われる高校野球(2020年甲子園高校野球交流試合)を、地上波テレビで全国に向けて放送するのは、一種のブラックジョークである。

 それでも、正式な選手権ではないといっても、けっこう面白い試合をしてしまうから甲子園の高校野球というものは侮れない。試合に出場した高校球児たちの立ち振る舞いも「さわやか」だ。

 ところで、この「さわやか」とは何か? 高校野球の内幕が必ずしも「さわやか」でないことを多くの人は知っている。……にもかかわらず、なぜ、日本のスポーツメディアは、甲子園を、高校野球を、高校球児を「さわやか」だと連呼するのか? 日本のスポーツメディアが馬鹿だからだと言えば話は早いが、それだけではないのではないか?

 多くの「日本人」は、甲子園を、高校野球を、高校球児を「さわやか」だと唱え、そう思い込むことで、日本の暑い夏をしのぐ一種の精神的清涼剤として機能しているのではないか? ……という面白い仮説を唱えたのが、スポーツライターの武田薫氏であった(出典は『ベースボールマガジン』か『ホームラン』のどちらか)。

 ところが、その「さわやか」な甲子園を、高校野球を、高校球児を、暑苦しく、鬱陶しく、ムサ苦しく改悪しているのが、福山雅治が歌うNHKの高校野球テーマ曲「甲子園」だ。

甲子園
UNIVERSAL MUSIC LLC
2018-08-27


 しかし、本当に酷い曲である。

福山雅治「甲子園」に関するNHKの公式見解は全部ウソ
 作詞・作曲・歌唱とも福山雅治だそうである。……が、歌詞は信じがたいほど凡庸。旋律は暑苦しい。歌唱は醜悪な自己陶酔が極まっている。世のヒット曲が、いわゆるシンガーソングライターばかりになって久しいけれども、実のところ、シンガーソングライターというだけで過大評価されているということを、福山雅治の「甲子園」は示している。
  • 参照:福山雅治「甲子園」
 ウィキペディア日本語版の情報を信用に値するものとして、ここで福山雅治の楽曲「甲子園」の概要をおさらいしてみる。
甲子園(福山雅治の曲)
 「甲子園」(こうしえん)は、日本のシンガーソングライター〔えッ?〕、福山雅治が2018年に発表した楽曲である。

 本曲は、2018年に開催される『全国高等学校野球選手権大会』(夏の甲子園大会)が記念すべき100回目を数えるという節目の大会となることから、大会を中継放送する日本放送協会(NHK)が『日本人のアイデンティティーを認識させてくれる高校野球について、すべての人々と思いを共有し、次の世代にも繋げていきたい』として、2018年度の夏の甲子園大会の中継放送を行うに当たり、同協会史上初となるテーマソング製作を発案することとなった。

 日本放送協会では、楽曲製作についてどのアーティストに依頼するか検討を重ねた結果、〈故郷への想い〉〈頑張っている人へのエール〉〈家族への愛〉などをテーマにした楽曲が多く、『高校野球を通して日本人へ伝えたいこと、そんな思いを曲にしてくれる』人物として福山雅治に楽曲製作を依頼することとなった。

ウィキペディア日本語版より(2020年8月11日閲覧)
 これがNHKの公式見解らしいが、ウィキペディア日本語版に書いてあることは「全部ウソ」である。

スポーツイベントとタイアップの歌謡史
 甲子園、夏の高校野球と言えば、加賀大介作詞、古関裕而作曲の不朽の名曲「栄冠は君に輝く」である。……というか、甲子園、夏の高校野球を「さわやか」にした大きな要素が「栄冠は君に輝く」である。

 なぜ、NHKが今さら(2018年)になって「栄冠は君に輝く」を邪険に扱いだしたのかというと、この曲をどんなに流してもNHKには金が入ってこないからである。そこで、これとは別にNHK独自の高校野球のタイアップ曲を定め、これを大々的に流してビジネスをし、儲けようとしたのである。

 日本の大衆音楽=ポピュラーミュージック(歌謡曲,ニューミュージック,Jポップ等々)の歴史は、蓄音機とSPレコードの時代から(インターネットによるデジタル音源配信の時代まで)、映画やテレビドラマ、企業や商品、CMと提携(タイアップ)し、これを宣伝する「タイアップ曲」の歴史であった……。

 ……とは、速水建朗著『タイアップの歌謡史』(2007年)が鋭く指摘するところである。

タイアップの歌謡史 (新書y)
速水 健朗
洋泉社
2007-01T


 この「タイアップ曲」の提携対象に、1980年代後半以降、オリンピックやサッカーW杯、各種競技(陸上,水泳,卓球など)の世界選手権といったスポーツのメガイベントのテレビ中継番組が加わるようになっている。

 この慣習を決定的にしたのは、1988年のソウル・オリンピックで、よりによって公共放送たるNHKが、自局のソウル五輪中継番組のタイアップ曲に、浜田麻里の「Heart and Soul」を採用したことである。

 ことわっておくと、あくまでテレビ局のスポーツ中継のテーマ曲(タイアップ曲)であって、スポーツイベントそのものの公式テーマ曲ではない。(この段落の追記:2020年8月12日)

 以降、他の民放各テレビ局とも右に倣(なら)えで、五輪、サッカーW杯、各種スポーツイベントのテレビ中継の度に、有象無象のタイアップ曲で溢(あふ)れるようになった。

テレビ局のステマとタイアップ曲
 この流れが、もともと商売っ気に乏しい、むしろ、これを遠ざけていた印象がある日本の高校野球やラグビーにも、遅まきながら及んできた。

 こうしたタイアップ曲が放送等で流れると、各テレビ局は傘下に音楽出版社を抱えていて、その楽曲を流せば流すほど、音楽出版社に金が入ってくる仕組みになっている。NHKの場合、傘下の出版社=日本放送出版協会(NHK出版)が原盤権(著作権とは違う,音源に関する権利)を持っていて(たぶん)、これを流すたびにNHK出版にカネが入ってくるのである(たぶん)。

 事実、NHKは高校野球中継では有名な、出場校紹介VTRの背景音楽まで、「栄冠は君に輝く」のインスト曲から福山雅治の「甲子園」のインスト曲に差し替えられている。

 しかし、こうした行為は音楽著作者間の公正な競争を阻害するとして、例えばアメリカ合衆国などでは禁じられている。この「タイアップ曲」の慣習こそ、日本のポピュラーミュージックが世界的になれない理由のひとつだとも言われている(そもそも,欧米の著名なアーティストがCMに出演したり,タイアップ曲を歌ったりする例は,非常に少ない)。

 なかんずく公共放送たるNHKは、放送法で「他人の営業に関する広告の放送をしてはならない」と規定されている。法に抵触しかねない。

 しかも、この習慣は該当するスポーツイベントそのものの公式テーマ曲が邪険に扱われるという悪弊があるのだ。

吉岡聖恵の「ワールド・イン・ユニオン」はなぜ黙殺されたのか?
 例えばラグビーの場合、2019年ラグビーW杯日本大会には、吉岡聖恵が歌った「ワールド・イン・ユニオン」という素晴らしい公式テーマ曲があった。

 ところが、NHK(リトグリ)、日テレ(嵐)、リポビタンD(B'z)、TBS(米津玄師)といったラグビーW杯の放送局やスポンサー企業が行う独自のタイアップ曲ビジネスに忖度して、吉岡聖恵が歌った大会公式曲ワールドインユニオンは黙殺された(たぶん)。
 そして今度は高校野球、夏の甲子園、そのテーマ曲「栄冠は君に輝く」が、かたわらに追いやられようとしている。

 NHKが福山雅治に作詞・作曲・歌唱を依頼したのは、人気芸能人である福山雅治とその所属先の大手芸能事務所「アミューズ」とコネを繋いでおくためである(たぶん)。例えば、リモート出演で構いませんから、大晦日の「NHK紅白歌合戦」には出てくださいね、福山雅治さん。……みたいな。ああ、いやらしい。

 ハッキリ言って不愉快である。

 だからこそ私たちはいま強く決意する。国民から受信料を貪(むさぼ)り取る公共放送NHKと、大手芸能事務所「アミューズ」と、その所属人気芸能人=福山雅治の小汚い商売のタネに成り下がる前に、甲子園と高校野球の尊厳を再び取り戻し、その美質を心の底から愛しつつ永遠に守り抜かなければならない、と……。

 ……最後の一段落は、今福龍太氏のパロディのつもりでしたが、やっぱり、うまく着地できませんでした。ああいうキザったらしい文章は、書こうと思ってうまく書けるものではありません(冷や汗w)。

(了)




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今福龍太氏のサッカー評論は「文学」である
 季刊『サッカー批評』は、初代編集長・半田雄一氏が退任すると、雑誌を「意識高い系」のエディターやライターに乗っ取られて『フットボール批評』として独立、分裂してしまった……という説が一部にある。

 たしかに昨今の『フットボール批評』の装丁は、ある意味「意識高い系」の最たる出版社である青土社の『ユリイカ』みたいな人文系雑誌のそれを連想させる。

フットボール批評issue25
カンゼン
2019-08-06


 しかし、よくよく考えてみれば、半田雄一編集長の季刊『サッカー批評』は、文化人類学者・今福龍太(いまふく・りゅうた)氏という、ある意味「意識高い系」の最たる人物に、「サッカー批評原論」なる「意識高い系」の最たる連載エッセイを持たせていたのである(後に『ブラジルのホモ・ルーデンス~サッカー批評原論』として単行本化)。
ブラジルのホモ・ルーデンス~サッカー批評原論 - 2008/11/1(今福龍太)
 「歴史として捏造されたにすぎない勝利や戦術といった概念に、サッカーのすべてを売り渡してしまう必要はないのだ。」

 勝敗原理の抑圧と「勝利」を自己目的化したサッカー競技のリアリティそのものを疑うことはしない「評論」に抗し、遊戯的で快楽と美に満ちたブラジル・サッカーによりそいながら試みる、スポーツ批評の戦闘的論考

〔惹句の引用は版元・月曜社のサイトから〕
 ちなみに、今福龍太氏が言う「勝敗原理」や「勝利至上主義」とは、一般的に思われている「勝つためには時にアンフェアになっても手段を選ばない」といったような意味ではない。サッカーなど競技スポーツにおいて「勝ち負けを争うこと,勝利を求めること」そのものを表す。これを徹底して否定し、嫌悪し、断罪することを、今福龍太氏は身の上としている。

 「近代」になって成立した文物であるスポーツにおける勝敗原理または勝利至上主義を「抑圧」とみなし、「近代」または現代文明(市民革命,産業革命,資本主義,平等主義,領主制・身分制廃止,個人主義,宗教の世俗化,自由主義,科学・技術,進歩,植民地主義……等々)の「抑圧」とを重ね合わせ、これを徹底して否定し、嫌悪し、断罪することを、今福龍太氏は身の上としている。

 その様は、呉智英氏(評論家)のマンガ評論書『現代マンガの全体像』に出てくる、著者が「思い入れ過剰な文学青年」と呼んだ「閉鎖的な論理をもてあそび,その論理の外にあるものを強迫的に断罪する」傾向のマンガ評論家を連想させる。

 ある時、半田雄一氏とお会いする機会があり、「どうして『サッカー批評』に今福龍太氏の連載があるのですか?」などという失礼な質問をしたことがある。すると半田雄一氏「いやぁ,アレは〈文学〉ですから……」と逃げられてしまった。どういう意味で「文学」だったのか? もっと詳しく質問しておけばよかったと少し悔やんでいる。

 とにかく、半田雄一編集長曰く、今福龍太氏のサッカー評論(否,「批評」か?)は、あくまで「文学」である。今福龍太氏は「思い入れ過剰な文学青年」である。

今福龍太著『サッカー批評原論(ブラジルのホモ・ルーデンス)』が復刊する
 さて、その「文学」であるところの今福龍太氏「サッカー批評原論」が、改訂・増補して、2020年8月25日、コトニ社から『サッカー批評原論(ブラジルのホモ・ルーデンス)』として装いも新たに復刊されることになった(当方,書店に予約しました.以下あしからず)。
サッカー批評原論(ブラジルのホモ・ルーデンス) - 2020/8/25(今福龍太)
 様々なスポーツが、中止・延期・観客数の制限に追い込まれ、私たちにとってもっとも身近だった娯楽は、いまや直接観ることが難しい、遠い日常へと変わりつつある。

 テクノロジーやメディアと接合しながら、多くの観客と資本を集め、近代以降その栄華をきわめてきたこの一大エンターテインメント〔スポーツ〕は、いま最大の危機を迎え、今後のあり方についてさまざまな場面で再考を迫られている。

 もっとも多くの競技人口をかかえ、全世界的な人気をえてきたサッカーもその危機に直面している。

 危機に直面したときこそ、その課題についての「原論」(根本的な理論)とも言うべきものに立ち返る必要がある。

 人類学者・批評家でありスポーツへの造詣も深い著者〔=今福龍太氏〕が、サッカーの起源・伝搬・本能・戦術・時間など11のテーマについて考察する。スポーツをめぐる現実的な問題について語りながら、サッカーを真に体験するための理念と美学と遊び心の原論を探る。

サッカー批評原論
今福 龍太
コトニ社
2020-08-25


 *「ブラジルサッカー」への愛を源泉につづられた『ブラジルのホモ・ルーデンス』(月曜社)の目次・書籍構成を一新、本文を改訂、新しい論考や写真・図版を多数加えた完全版。
 今回のエントリーは、該当書籍が書店に並ぶ前に書いている。本を売るための惹句だから話を盛るのは当然なのだが、これを読んで「やれやれ,またか」という苦笑したのも事実である。また、今福龍太氏のことを「批評家」というのは、まあ、間違いないが、「スポーツ〔サッカー〕への造詣も深い」などというのは止めてほしいものである。

サッカーと世界の危機を煽り続けたオオカミ少年=今福龍太氏
 なぜなら、今福龍太氏は1990年代から「サッカーの危機だ,スポーツの危機だ,そして世界の危機だ」と煽っていた唱えていたからである。

 1990年W杯イタリア大会、1994年W杯アメリカ合衆国大会、1996年ユーロ・イングランド大会と、1990年代前半、試合内容は凡庸、ロースコア、ついには双方引き分けでPK戦で何とか決着をつける……という低調な国際試合、国際大会が続いた。これを受けて、今福龍太氏は当時のサッカー情況を次のように評価している。
 魅力的な「美しいサッカー」を標榜するラテンアメリカの国々が早々と姿を消し、守備重視で粗野で凡庸なヨーロッパの、特にドイツの「負けないサッカー」が横行していた。こうした戦術の徹底の背後には、勝利至上主義の原理がはたらいていた。

 こんなサッカーを私たちは本当に見たかったのだろうか?

今福龍太『フットボールの新世紀』100~102頁から大意要約

 そうした状態は2000年前後には解消される。すると今度は、徹底したデータの集積、その詳細な分析に基づいた統率の取れた戦術を徹底的にチームに落とし込んだサッカー=「科学的サッカー」(特にドイツの)が批判の対象になる。科学的サッカーは、サッカー本来のロマンチシズムを奪っているのだと。

 前掲、コトニ社の新版『サッカー批評原論(ブラジルのホモ・ルーデンス)』のアマゾン書誌情報にある「フチボールの女神への帰依を誓うこと」は、2014年W杯ブラジル大会に際して、文芸誌『エンタクシー』第42号に掲載された「フチボルの女神への帰依を誓おう」が原文であると考えられる(この2つはほぼ同じものとして話を進める)。

 ブラジルW杯といえば、印象的なのが準決勝のドイツvsブラジル戦。ブラジルがドイツに1対7という信じられないスコアで大惨敗した試合「ミネイロンの惨劇」(または悲劇,衝撃)である。ドイツは決勝でもアルゼンチンに勝って4回目の優勝を遂げる。

ミネイロンの惨劇(ドイツ7-1ブラジル)
【ミネイロンの惨劇(ドイツ7-1ブラジル)2014年W杯】

 このブラジルの大惨敗とドイツの優勝。今福龍太氏が語るところでは、これこそブラジルサッカーの危機……のみならず、サッカーの危機、スポーツの危機、それどころか「世界の危機」の反映なのだという(詳しくは下のリンク先を参照)。
 今福龍太氏が考えている「世界の危機」を強引に要約すると、次のような感じになる。
 勝利至上主義に徹した膨大なデータの集積と科学的な分析、高度に統制された戦術、そして近現代的な「合理性」を重んじるドイツサッカー。

 一方、ラテン的な即興性や遊戯性、美しさといった数字に表れない、勝敗を超越した価値を尊(たっと)ぶ、「偶然性」にあふれたブラジルサッカー。

 2014年のブラジルW杯で、ブラジルはドイツに惨敗し、ドイツは優勝した。

 今回、顕在化したのは、この2つの価値観、「合理性」対「偶然性」の対立である。それは実際はサッカーの枠を遙かに超え、今日われわれの社会生活の至るところで衝突している価値対立と共通している。

 効率、スピード、コンビニエンス、収益性といった合理的な(ドイツ的な)価値を無批判に受け入れるあまり、私たちは、社会からも、人生からも、(ブラジル的な)偶然性や非合理性という「別の大切なもの」を消し去ってはいないか。

 それは果たして本当に私たちの生活を豊かにすることにつながっているのか。いや、そもそも豊かさとは何なのか?

 それが「世界の危機」なのだ。

 そして、前掲のように今回の2020年、新型コロナウィルス感染症「COVID-19」のパンデミック(いわゆるコロナ禍)による「サッカーの危機,スポーツの危機,そして世界の危機」を今福龍太氏は煽っている唱えている。

 今福龍太氏は、事あるごとに、サッカーやスポーツを出汁(だし)にした近代批判、現代文明批判をしつこく続けてきたのであった。

勝利至上主義=科学的サッカー批判は陳腐な定番ネタ
 ところが、今福龍太氏のスポーツ批評・サッカー批評(あくまで「批評」であって「評論」ではない)は、世の事実や実態と違っているデタラメな話が多いのである。

 2014年W杯ブラジル大会、「勝利至上主義」と科学的サッカーに徹したドイツは、美しいサッカーを重んじるブラジルから大量7得点をあげた。また、オランダは前回王者のスペインから5得点をあげて大勝した。この大会では、サッカーというゲームの意味を度外視して、手段を選ばず貪欲に得点を狙いに行く醜いサッカーが横行していた……。

 ……ブラジルではこんなことありえない、と今福龍太氏は「フチボルの女神への帰依を誓おう」で言うのだが、これはいずれも正しい指摘とは言えない。

 だいたい、昨今の高度に科学化、データ化されたサッカーというのはドイツのだけがやっているのではない。当然、ブラジルだって、スペインだって……やっている(ドイツは他国よりも優秀で精確なシステムを用いたらしいのだが)。「〈ドイツの合理性〉対〈ブラジルの偶然性〉の対立」といった単純な図式は成り立たない。

 「ミネイロンの惨劇」の試合自体も、前半早々に1~2失点する間にブラジル守備陣が完全なパニックに陥り、負のスパイラルから更なる失点を重ねたものだ。主力選手2人(ネイマールとチアゴ・シウバ)の欠場という不運はあったが、この惨劇はブラジルが自壊自滅して招いたもので、ドイツをに八つ当たりする性格のものではない。

 今福龍太氏は、ドイツの勝利至上主義の背景には勝利することによって得られる莫大な経済的利益があるとも言う。しかし、それを言うならば、サッカードイツ代表がビッグビジネスである以上に、サッカーブラジル代表の方こそ、動く金が大きいビッグビジネスである。

 ブラジル代表は貪欲に大量得点を狙いに行くようなサッカーはやらないのかというと、記録を見る限りこれも怪しい。例えば、2016年6月8日、コパアメリカ・センテナリオ(大陸選手権)でブラジルはハイチに7対1で大勝している。また、同年10月6日のロシアW杯南米予選では、ホームのブラジルはボリビアに5対0で大勝している(次のリンク先を参照)。
 後者については説明が必要であろう。当時、ブラジル代表はW杯予選の成績不振でロシア本大会出場が危うい状況にあった。そこでそれまでのドゥンガ監督を解任し、チッチ監督に交代。巻き返しに必死の状況にあり、ブラジル代表は是が非でも勝たなければならなかった。しかも、W杯予選はリーグ戦だから得失点差で1点でも上乗せが必要だった……。

 ……つまり、ブラジルはブラジルで勝利至上主義なのである。よもやブラジル代表がロシアW杯本大会の出場を逃せば、それこそ莫大な経済的損失が出る。今福龍太氏には、サッカーブラジル代表のそうした現実的側面が見えていないのだ。

 加えて「最近の〈科学的サッカー〉とやらは,冒険心に欠け,守りを固くして逃げ切るサッカーなので面白くない」という程度の話なら、実は1966年(!)のW杯イングランド大会の頃から存在している(堀江忠男『わが青春のサッカー』123~124頁)。

 つまり、今福龍太氏の持論は昔から存在する陳腐なネタなのである。

 何より、ここで紹介した氏の「デタラメ」はほんの一例にすぎない。

今福龍太氏はジャック・ラカンのような教祖になっただけ
 それでも、今福龍太氏がサッカー論壇に何かと重用されるのは、凡百なサッカーライターよりもさらに高い次元に立って、サッカーにまつわるさまざまな現象・事象を分析し、その本質を私たちの前に「批評」してくれる……と、期待されているからである(それにしてもデタラメで恣意的な話が多いが)。

 もっと重要なこと。今福龍太氏のスポーツにおける「勝利至上主義」批判が「近代」を批判する「現代思想」として読まれているからである。小谷野敦氏(評論家,比較文学者)の『哲学嫌い』を読んでいたら、その著名な「現代思想家」であるジャック・ラカン(哲学者,精神分析家)に関する記述が、今福龍太氏が教祖化していく理由と似ていたのは興味深い。
ラカンは教祖になっただけ
 〔疑似科学と批判される〕フロイトが「現代思想」的なところへはいってきたのは、フランスにジャック・ラカンが現れ「新フロイト派」を名乗ったからである。〔略〕

 「現実界」「象徴界」「想像界」といった用語や、失語症の研究におけるメタファーとミトニミーとの区分からなる理論など、ラカンは「哲学青年」を喜ばせるようなことを言った。だがその「セミネール」〔講義録〕は、きわめて難解で……しゃれや冗談、当てこすりなどがふんだんにちりばめられて、とうてい読者を寄せ付けない。

 ……あれはどう訳しても分かりやすくはなるまい。

 マルク・レザンジェ『ラカン現象』……は、ラカン主義を「はかり知れざるものへの熱狂」として批判した著作で、セミネールの参加者にとってラカンの言うことは難解でわけが分からなかったが、それを預言者、シャーマンの言葉のように受け止めて「信者」になっていったと書いている。〔略〕

 ラカンのこういう訳の分からないことを言って教祖になっていくさまは、〔日本にもいて〕折口信夫〔国文学者,民俗学者〕を思い起こさせる。〔略〕

 ラカンが「女は存在しない」と言えば、まるで意味は不明なのに、誰もその真意を問うことはなく「託宣」のように流通するのも……ある種に人々が、意味不明な、だが何やら意味ありげな言葉に熱狂する性質を持っているからだ。残念ながら私〔小谷野敦〕はそういう言葉を吐いたことがないので、信者がいない。

小谷野敦『哲学嫌い』より

哲学嫌い ポストモダンのインチキ
敦, 小谷野
秀和システム
2019-10-19


ラカン現象
マルク レザンジェ
青土社
1995-02T


 今福龍太氏の文章・文体もまた、難解・晦渋である。それゆえ深遠な雰囲気を醸し出しているけれども、その内容は「ミネイロンの惨劇」の検証でみたようにナンセンスである。しかし、だからこそ、意味ありげで読者を蠱惑(こわく)する。だからこそ、ある種の人々(文学青年,哲学青年)を熱狂させ「信者」が誕生する。アマゾンに書き込まれた高評価のレビューの書き手など、ほとんど「信者」である。

今福龍太氏が支持した対象はスポーツとして失敗している
 日本サッカー界にとって、今福龍太氏は人畜無害な存在ではない。むしろ、そのサッカー批評・スポーツ批評は有害ですらある。山形浩生氏(評論家,翻訳者)の今福龍太評はそのことを暗示している。
今福『薄墨色の文法』:思わせぶりな修辞の本。
 今福〔龍太〕の文はすべてそうだけれど、オリエンタリズム的なエキゾチズムを、青少年を堕落させる気取った修辞に包んだ本。叙情的な書きぶりは、ときにいいな~と思えることもあるんだけれど、それはむしろオカルト的な方向に流れる不健全な叙情性で、読んでるうちにだんだんうでを思いっきりのばして、あまりこの文がすり寄ってこないようにしたくなる感じ。自分でもそうなので、書評なんかして人に勧めたいとはなおさら思わない。


薄墨色の文法――物質言語の修辞学
今福 龍太
岩波書店
2011-10-05

 ありていに言えば、今福龍太氏は日本のサッカーに悪い影響を与えた。例えば氏は、「中田英寿」や「ジーコ・ジャパン」(サッカー日本代表監督としてのジーコ)といった、いかにも「抑圧的な日本のスポーツ」や「抑圧的な近現代のスポーツ」のアンチテーゼとなりそうな、現代思想的なテーマになりそうな対象を称揚した(次の写真に今福龍太氏のコメントあり)。

アエラ2004年6月7日号より
【ジーコ・ジャパンの風刺画:アエラ2004年6月7日号から】

 しかし、どちらも失敗であった。中田英寿はワールドクラスの選手にはなれなかった。なれなかったくせに、サッカー日本代表を私物化し、W杯本大会で独りよがりな引退パフォーマンスを行った。

小松成美『中田英寿 誇り』表紙
【世界から酷評された中田英寿の引退パフォーマンス】

 今福龍太氏をはじめとする、中田英寿信者ともいうべき人たちが、さんざん彼を甘やかしたせいでもある。

 ジーコ・ジャパンは、肝心の2006年W杯ドイツ大会で「惨敗」した。「勝利至上主義」を嫌悪する今福龍太氏のためにことわっておくと、これは単純な勝ち負けの問題ではない。現代思想的なスポーツ批評とは距離を置くスポーツライター・藤島大氏の指摘は重い。
ジーコのせいだ
 すべてジーコのせいだ。とりあえず、それでいいのだと思う。〔略〕

 サッカー日本代表のどこか淡いようなワールドカップ(W杯)での敗退……。

 ジーコのジャパンは「日本人のサッカー」を表現できなかった。公正に述べて「失敗」だった。ブラジルのような才気はなく、韓国のきびきびした活力もなく、つまり、輪郭がぼんやりとしていた。何者でもなかった。

 日本のサッカー界・スポーツ界がどんな悪い情況に陥ろうと、今福龍太氏は恬(てん)として恥じない。

日本サッカー界には厄介な今福龍太氏の存在
 今福龍太氏のサッカーやスポーツへの言及は「学問」ではないし「評論」でもない。あくまで「文学」としての「批評」であり、勝利至上主義(勝敗原理)を「近代」の抑圧とみなしてこれを批判する「現代思想」という「哲学」の一分野である。

 それゆえ、今福龍太氏に嵌(はま)った読者(サッカーファン,スポーツファン)は熱狂的な「信者」となるが、内容はナンセンスである(だから,日本サッカー・日本スポーツに被害をもたらすことすらある)。それは言わば、哲学者ハリー・G・フランクファートの唱えた「ウンコな議論」に似ている。

ウンコな議論 (ちくま学芸文庫)
フランクファート,ハリー・G.
筑摩書房
2016-11-09


 ウンコな議論(この場合は今福龍太氏)が、そもそも目指しているのは、読者(サッカーファン,スポーツファン)を感化することであり、自身の主張が事実や確かさ(間違いのなさ)に立脚しているかどうかは問題ではない。ひょっとしたら、日本のスポーツをより豊かなものにしようとすら考えていないのかもしれない。

 ウンコな議論は嘘を付こうとしているのではない。嘘つきは何が嘘で何が本当か知ったうえで、嘘を付いている。しかし、ウンコな議論は独りよがりで自分の意図したとおりに話を進めればよく、本当か嘘かは問題にしない。

 つまり、もっと悪質である。だから「ウンコな議論は真実にとって嘘以上に手強い敵なのである」と、フランクファートは述べる。

 日本のサッカーにとっても似たようなことが言える。

 今福龍太氏は、自分の意図した独りよがりな話を進められればよく、本当か嘘かは問題にしない。だから非常に悪質である。今福龍太氏は日本サッカーにとっての「厄介」な存在なのである。

(了)




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 周知のようにCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)パンデミックの影響で2021年に「延期」になったわけだが、2020年8月9日(日)は、本来、2020東京オリンピックの閉会の日であったという(やはり最終的には「中止」しかないと思うけれども)。

 それはともかく、先日、NHK-BSプレミアムで市川崑が総監督をつとめた記録映画「東京オリンピック」を放送していた。

 その録画を視聴しての諸々の感想……。

記録か芸術か…の論争?
 この映画「東京オリンピック」は、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げた。そのため「記録か芸術か」という論争が沸き起こった。……と、いうことになっているが、あらためて見直すと、変な意味での「芸術性」の臭みを感じることなく視聴することができた。。

 すでに1936年ベルリン・オリンピックの記録映画、レニ・リーフェンシュタール監督の「オリンピア」二部作(民族の祭典,美の祭典)のような「芸術」的な作品はあったわけだし、どうしてそんな論争が起こったのか、今の感覚ではよく分からない。

 Jスポーツで「1966年ル・マン24時間レース 激突!フェラーリ対フォード」という記録映画を放送していた。
 これなどは、最近公開された劇映画「フォードvsフェラーリ」の元ネタになった1966年ル・マン24時間レースの、本物の公式記録映画であるが、いかにも記録映画であって少し無味乾燥なところがある。



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 スポーツのメガイベントの記録映画といっても、隅から隅まで細大漏らさず「記録」することはできない。なにがしかの素材の取捨選択など(演出)は必要になってくる。映画「東京オリンピック」は、退屈することなく視られる映画である。

スポーツにおけるナショナルカラーが定まっていない「日本」という不幸
 アイルランド(緑)、イタリア(青)、オランダ(橙)、ニュージーランド(黒■)……。映画「東京オリンピック」でも、おなじみのスポーツのナショナルカラーを確認することができた。本当にうらやましい。

 それに比べて、わが日本のスポーツにおけるナショナルカラー文化の不毛さよ。……と、毎度のことながら嘆きたくなる。これについては以前ブログで書いた。
 ブログのアクセス分析をやると、このテーマはかなり関心も高いようだ。

ニュージーランド代表がウォークライ「ハカ」をやっていた
 映画「東京オリンピック」では、ニュージーランド代表の選手たちが、ラグビー代表チーム・オールブラックスでおなじみのウォークライ「ハカ」をやっているシーンが3回くらい出てくる(特に最後の閉会式の場面)。ラグビー好きが見ると特に印象的だ。

 映画の制作スタッフは珍しい民族の習慣だと思って、この場面を本編に加えたのだろうか? ちなみにハカの種類は昔から舞われている「カマテ」であった。

選手はみんな「アマチュア」だった
 棒高跳び(当時は男子のみ)優勝、アメリカ合衆国のフレッド・ハンセン選手は歯科大学の学生、棒高跳びの棒に使う「グラスファイバーの湾曲と反発」に関する研究論文を執筆中……みたいなナレーションがあった。

 マラソン(これも当時は男子のみ)優勝、エチオピアのアベベ・ビキラは、皇帝親衛隊の軍人(階級は軍曹)。その他、出場したマラソン選手の本業は、印刷会社の会計係、大工、機械工、教師……などと紹介されるナレーションがある。

 当時、オリンピックに出場する選手(アスリート)は、協議することを営利を目的とせず、趣味として純粋に愛好しようとする「アマチュア」でなければならなかった。アマチュアリズムである……。

 ……と、こんなことを説明しても、世代的には何を言っているのかよく分からない人がいるかもしれない。

 周知にように、サッカーは昔からプロもアマチュアも同じように統括されており、アマチュアリズムに拘束されない独自の世界大会「ジュール・リメ杯 世界選手権」、後の「FIFAワールドカップ」を創設した。

ワールドカップの回想―サッカー、激動の世界史
ジュール リメ
ベースボール・マガジン社
1986-05T


 日本のサッカーは、長年このアマチュアリズムの制度と思想の両面で足かせになっており、それを打破するのに大変な苦労をした。ジャーナリズムだと、特に読売新聞の牛木素吉郎さんが、アマチュアリズムの打破を必死で啓蒙していた。

 どなたかスポーツ社会学の学者さんで、その辺の過程を詳しく追った研究書を出してくれる人はいませんか?

(了)




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