スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

大化の改新の2人、中大兄皇子と中臣鎌足の出会いは「蹴鞠」だという…。
違う!「あれは蹴鞠ではない」と、スポーツライター玉木正之氏は主張している。
玉木氏は、そのことが現代日本のサッカーや野球にも影響を与えているのだと唱える。
それは一体どういうことなのか? そもそも玉木氏の主張は正しいのだろうか?

 ツイッターで「乾」貴士選手と「セルジオ」越後氏について検索をかけていくと、セルジオ越後氏を一面的に擁護し、乾貴士選手が一面的に非があるかのような、いたいけなサッカーファンによるツイートが多く、なかなか読むのが苦痛である。

 そんな中に、いたいけではありえないサッカーファンであるところの、サッカー講釈師こと武藤文雄氏までいた。


 なるほど、昨年2018年のハリルホジッチ氏の日本代表監督解任の時、さまざまな憶測を呼んだサッカー日本代表の「スタア」本田圭佑氏への擁護でも分かるように、武藤文雄氏は「信者とかじゃなくて,普通に選手に甘いというか,ファンは選手に対してやりすぎなぐらいリスペクトするべきっていう世代な」のかもしれない。


 セルジオ越後氏は旧JSLの日系ブラジル人選手のひとりだった。技術が大きく劣っていた当時の日本人選手のなかにあって、セルジオ越後選手は素晴らしいテクニックを見せたのだ。そんな幻惑の中にまだいるのかもしれない。

 とにかく「世代」なのかはともかく、少なくとも武藤氏はそうである。しかし、武藤文雄氏は、自身のように、誰もが「セルジオ越後氏への免疫」を持っているワケではないことくらいは、頭の片隅にでもいいから入れておいてほしいのである。


 ミスチル世代、「批評」が機能しない社会の怖さ……。だが、そもそも「セルジオ越後氏は批評なのか?」という根本的な問いが、ずっと頭の中をグルグル回っている。


 要するに、上のリンク先のようなことが言いたいのである。

(了)



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乾貴士選手は浅野内匠頭なのか?
 日本サッカーに対して、数多(あまた)の放言を繰り返してきたサッカー評論家(?)のセルジオ越後氏に対して、業を煮やした日本代表・乾貴士選手が些(いささ)かな反発を発信してみせた。



 セルジオ越後氏に関して、こうした、選手の側からの反=評論は当然のことだと私たちは思う。……のだけれど、ネットという巷間(特にツイッター)を観察してみると、乾選手の方に非があるかのように受け取る人も、また実に多い。中には、乾選手がセルジオ氏の人格にまで踏み込んだ雑言を浴びせた(!?)かのように語る、いたいけなサッカーファンまで散見される。


 まるで、勅使下向の春弥生、殿中「松之廊下」で小サ刀を抜いて、高家筆頭・吉良上野介(セルジオ越後氏)に斬りつけたのが野暮な田舎大名の浅野内匠頭(乾貴士選手)なのだから、内匠頭の方が咎(とが)を受ける=切腹するのが当たり前と言わんばかりだ。

 否、せいぜいこれは「喧嘩両成敗」であるべきではないか。


 乾選手はどれだけ不穏当な発言をしたのかと思いきや……。それ自体は抑制の利いたものだ。むしろ、放埓な発言を繰り返してきたのはセルジオ越後氏の方なのだが。

 では、なぜ、乾選手の方が一面的に悪いかのように、評されるのか? 倒錯したこの「空気」は何なのか?

評論をするのに対象への「愛情」は必要なのか?
 セルジオ越後氏を免罪するいたいけなサッカーファンたちの方便のひとつに、この人には「日本サッカーへの深い愛情」があるから……という言い分がある。

吠えるセルジオ越後『サッカーダイジェスト』1993年11月24日号より
【吠えるセルジオ越後氏.『サッカーダイジェスト』1993年11月24日号より】

 いつも「辛口」で「厳しい」セルジオ氏の評論も、実は、日本サッカーへの深い愛情の裏返しの表出である。それが証拠に(2006年のアジア杯だったか)日本代表が苦戦の末に勝利した時、セルジオ氏は声を上げて相好を崩してみせたではないか……というのである。

 だが、セルジオ越後氏に、本当に、日本サッカーへの「愛情」があるのだとして、しかし、評論をするのに対象への「愛情」などというものが必要なのだろうか?

 ここで思い出したのが、先ごろ亡くなった梅原猛氏(哲学者)である。小谷野敦氏(評論家?)の『評論家入門』からの孫引きになるが、梅原氏による小林秀雄(文藝評論家)への批判がある。
 たしかに小林〔秀雄〕氏のいうように対象に惚〔ほ〕れなければ対象は分からない。認識には熱情が必要である。しかし、それとともに認識には冷たい理性が必要である。小林氏は対象を距離を持って眺めるというところがない。それは本当の学問でも批評でもない。

梅原猛『学問のすすめ』

 この文章を引用した小谷野氏は、さらに進めて、その「愛情」すら不要だと断じる。
 梅原〔猛〕は「愛情が必要である」ことを認めているが、それすら私〔小谷野敦〕は疑わしいと思う。たとえば、「文学研究においては、対象に対する真の愛情が必要だ」と言う人がいる。……だが、学問〔あるいは評論〕の当否は、その人に愛情があるかないか……とは、別である。いくら愛情を持っていても……間違っていれば、どうしようもない。……学問〔あるいは評論〕にとって必要な美徳とは、勤勉と誠実〔冷たい理性〕であって、愛情……ではない。

小谷野敦『評論家入門』70頁

 セルジオ越後氏に、巷間言われるような「日本サッカーへの愛情」があるのかどうか、本当のところは分からない。

 しかし、「愛情」があったところで、それは「評論」の内実とは全く関係ないのだし、少なくともセルジオ越後氏には、梅原猛氏の言う「冷たい理性」が決定的に欠落している。

セルジオ越後氏の無節操なサッカー評論
 セルジオ越後氏の、この「冷たい理性」の無さは、例えば、サッカー評論の無節操、無定見として現れる。

 1994年、サッカー日本代表・三浦知良(カズ)がイタリア・セリエA「ジェノアCFC」に移籍した。セルジオ越後氏は「まるで,才能の無いレーサーが金でF1チームのドライバーになるようだ」(これをペイ・ドライバーと言う)と侮(あなど)り、酷評した。

 そういう評価自体は、あっていいだろう。実際、カズのジェノア移籍にはそういう側面もあった(これは後代の中田英寿や本田圭佑にも,似たような事情があるだろう)。

 1年後、イタリアで思うような活躍が出来なかったカズは、日本のJリーグに復帰することになった。セルジオ越後氏は、すると今度は「何だ,たった1年で日本に帰ってくるのか!」などと侮り、酷評したのである。

 どちらかの立場に立つならば、どちらかの発言は慎むべきだ。

 セルジオ越後氏のこんな節操の無さに、私たちはウンザリしている。前田日明は「アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか!?」と批判したが、いたいけなサッカーファンたちは「セルジオ越後なら何を言っても許される」と、思っているらしい。

 右とあれば左と言い、上とあらば下と言い、前とあらば後と言いたがるのが、セルジオ越後氏の嫌らしさである。

 ちなみに乾選手によるセルジオ越後氏批判は、セルジオ氏が「香川真司の移籍は遅すぎる! 海外移籍するなら試合に出ろ」と難じたことがキッカケだった。そこで、仮に試合に確実に出るために日本のJリーグに戻ってきたら、今度は「日本にいるな! 海外に移籍しろ!」というのが、セルジオ越後氏の「クオリティ」である。


 乾貴士選手のセルジオ批判に加勢した岡崎慎司選手は、だから、セルジオ越後氏に「責任ある発言して欲しい」と発言したのだ。

日本的な,余りに日本的なセルジオ越後氏
 誤解していただきたくないのだが、私たちは、何も、セルジオ越後氏の人格にまで踏み込んだ言及をしたいわけではない。

 フィリップ・トルシエ(サッカー日本代表監督,任期1998~2002)は、私に「あの〈セルジオ越後〉とかいう奴は何者なんだ?」と、質問してきた……。フットボールアナリスト・田村修一氏が、初代サポティスタ・浜村真也氏が催したトークイベントでこんな裏話を紹介していた

 書いていて思い出し笑いをしてしまったが、このエピソードで分かるように、セルジオ越後氏は、けして「普遍的」ではない。「日本的な,余りに日本的な」現象である。

 日本のサッカー評論とは、徒(いたずら)に日本のサッカーを、自ら蔑(さげす)んでみせることが良いとされている。その代表が、例えば「電波ライター」の旗手・金子達仁氏だ。そして、その金子達仁氏の師匠筋に当たるのが、セルジオ越後氏だったりする。

 金子達仁氏に関しては、これまでさんざん批判されてきた。えてしてエピゴーネンは「師」の悪いところを拡大する。すなわち、金子達仁氏はセルジオ越後氏の悪いところを拡大したからである。

 日本という、かつては「鳥なき里」だった場所に飛来した「蝙蝠(コウモリ)」が、セルジオ越後氏である(経歴詐称疑惑もあり,カナリアとまでは言い難い)。そんなセルジオ氏を過剰に有難がってきたのが、日本のいたいけなサッカーファンたちだった。

 自らのサッカーを徒に蔑んでみせることをもって良しとする、そんな心性を投影した、そんな心性に応える「サッカー評論家」がセルジオ越後氏だった。

 彼を評して「辛口」と言う。しかし、その実は、スパイスを効かせた美味なる料理ではなく、テレビ番組の「激辛王選手権」にでも出てくるような、ゲテモノとしての辛口料理である。

 その代償として、私たちは「日本サッカーへの〈味覚〉」というものを、大きく後退させてしまった。完全に麻痺しているのである。

 私たちサッカーファンは、このポストコロニアルな時代に、セルジオ越後氏に象徴される卑屈なコロニアル根性に、一体いつまで浸(ひた)り続けるのだろうか?

(了)



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 神武紀元2679年(笑)2月11日「建国記念日」に寄せて……。

大化の改新のきっかけはサッカー? ホッケー?
 日本上代史に名高い「大化の改新」のクーデター「乙巳(いっし)の変」(645年)の主役、中大兄皇子と中臣鎌足の2人は、蹴鞠(けまり)の会で邂逅(かいこう)したと、巷間、信じられている。

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【神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより『中大兄皇子と中臣鎌足』作:小泉勝彌】

 ところが、その経緯を記した『日本書紀』皇極天皇紀にはハッキリ「蹴鞠」とは書かれていない。そこにあるのは「打毱」という謎の文字列である。この「打毱」をめぐっては、学者によって解釈が分かれてきた。

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【打毱】

 つまり、この古代日本の球技は、足でボールを蹴るサッカーに近い「蹴鞠」であるという説。一方、そうではなくて、スティック状の杖でボールを叩くホッケー風の球技(打毬=だきゅう=とも,毬杖=ぎっちょう=とも表記される)ではなかったかという説。ただし、両説ともに決定打を欠き、真相は現在も確定していない。

 ところが、スポーツライターの玉木正之氏は、具体的な証拠が乏しいにもかかわらず、一面的にホッケー説の方が正しいと、強硬に主張してきた。

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【玉木正之氏】

 なぜなら、玉木氏は、このことが日本のスポーツの在り方を規定しているのだと唱えているからである。なぜなら、玉木正之氏は「日本人はサッカーが苦手な民族である」という強い思想の持ち主だからである。

 日本では歴史的にサッカーより野球の方が人気があったこと、サッカー日本代表が国際舞台で「弱い」こと……等々、すべて、大化の改新のキッカケが蹴鞠ではなくホッケー風競技であった「史実」に拘束されている(!?)からなのだという。

「大化の改新のキッカケは蹴鞠ではなかった説」の間違い
 玉木正之氏は知名度の高いスポーツライターであり、スポーツ界への影響力も強い。つまり「大化の改新のキッカケは蹴鞠ではなかった説」も、玉木氏の「啓蒙」によって「天下の公論」になってしまうかもしれない。

 すると、それに付随している「日本人は日本人はサッカーが苦手な民族である」というイメージも、人々の間に常識化してしまいかねない。日本のサッカーにとっては、まったく迷惑な話である。

 一方で、玉木氏は、自分にとって都合の良い結論のために事実(史実)を歪曲する癖が強いと、これまでにも批判されてきた(ラグビー史研究家・秋山陽一氏による)。実際、よくよく吟味してみると「大化の改新のキッカケは蹴鞠ではなかった説」も同様、間違いだらけで、玉木史観のためのご都合主義の産物でしかない。

 当ブログ「スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う」本来の目的は、その玉木正之史観のデタラメさを告発し、かつ徹底的に批判することである。その成果は「大化の改新と蹴鞠(40)~玉木正之説の総括,批判,あるいは超克」(2017年10月26日)として、まとめた(下記リンク先参照)。
大化の改新と蹴鞠(40)~玉木正之説の総括,批判,あるいは超克(2017年10月26日)


 玉木正之説が妥当なものならば、私たちはこれを受け入れるしかない。しかし、玉木氏の持説は、徹頭徹尾、間違っているのである。そして、これは日本のサッカーにとって明らかに不利益なものだ。日本のサッカー関係者は、玉木正之氏のデタラメを徹底的に批判して、これを超克しなければならない。

描かれた「中大兄と鎌足の出会い」の謎
 このブログを展開するに際して、大化の改新における中大兄皇子と中臣鎌足の出会いを描いた絵画を探したが、意外に古いものが見つからなかった。当ブログが見つけたもので最も古いものは、天理図書館蔵『南都法興寺蹴鞠図』嘉永6年(1853)。この年の起きた出来事は「黒船来航」、すでに江戸時代末期「幕末」である(下記リンク先参照)。
「大化の改新と蹴鞠」問題(02)~描かれた「蹴鞠の出会い」その1(2016年10月09日)

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【天理図書館蔵『南都法興寺蹴鞠図』嘉永6年(1853)】
 このことから、ひょっとしたら、大化の改新、特に「中大兄と鎌足の出会い」のエピソードは、それまであまり注目を浴びていなかった。それが、幕末の国学や明治の皇国史観の時代に、つまり近代になって、勤皇愛国を称揚・奨励するために強調され、視覚化(絵画化)され、人々に刷り込まれたのではないか……という仮説を思いついた。

 伝統だと思われていたものが、意外にも近代の産物だったというのもよくあることだ。だから、我と思わん人文系・社会学系のスポーツ学専攻、あるいはカルスタ(?)専攻の学生・院生は、このテーマで研究して、論文を書いてみませんか? ……と煽ったこともある(下記リンク先参照)。


 当エントリー前掲の神宮徴古館所蔵『中大兄皇子と中臣鎌足』(筆:小泉勝彌)などは、その視覚化のツールだったのかもしれない……などと考えたりもする。

幕末~明治に「再発見」された大化の改新???
 以上のような仮説を漠然と考えていたところ、それを「裏付ける」……かのような記述をインターネットで見つけた。

 Wikipedia日本語版の「大化の改新」の項目である。
この大化の改新が歴史家によって評価の対象にされたのは、幕末の紀州藩重臣であった伊達千広〔だて・ちひろ,国学者〕(陸奥宗光の実父)が『大勢三転考』を著して、初めて歴史的価値を見出し、それが明治期に広まったとされている。[3]

[3]『歴史とは何か: 世界を俯瞰する力』著者: 山内昌之

Wikipedia日本語版「大化の改新」より(2019年2月11日閲覧)
 もっとも、この記述に飛びついて、仮説が「証明」されたとしてはいけない。

 Wikipediaは間違いの多い「百科事典」であり、出典になっている山内昌之氏(やまうち・まさゆき.歴史学者,中東・イスラーム地域研究,国際関係史)の著作『歴史とは何か~世界を俯瞰する力』に、何が書いてあるか確認しないといけない。

歴史とは何か (PHP文庫)
山内 昌之
PHP研究所
2014-10-03


 それを怠ると、「慶應義塾大学ではサッカー部のことを〈ア式蹴球部〉と呼んでいる」などという、トンデモない間違いを「フォーラム8」というIT企業の機関紙やWEBサイトに書いている玉木正之氏と同じになってしまう(下記リンク先参照)。


 そこで、山内昌之氏の『歴史とは何か~世界を俯瞰する力』を取り寄せて、ざっと目を通すことにした。

Wikipediaの記述の信憑性
 結論を先に言うと、山内昌之氏は前掲のWikipediaのようなことをハッキリと書いているわけではない。

 山内氏が自著で紹介する伊達千広の『大勢三転考』とは、古来(神代の昔以来?)、日本史において、日本という国の在り方(大勢)が3度大転換(三転)したという話である。その2番目が「聖徳太子による冠位十二階の制度や十七条の憲法から大化の改新にかけて」(171頁)だとあるが、今ひとつ印象に弱い。

 それとも……。
古代の氏姓制度,律令による官人(官僚)支配〔大化の改新?〕,次いで武家支配という三区分は,現在の基準では常識すぎるかもしれません.しかし,近代歴史学の成立以前に,千広が大胆に時代を三区分したことは,岡崎久彦氏〔元外交官,評論家〕が語るように,日本史学史上,画期的な意義をもつのです(『陸奥宗光』上)。この評価は筑摩書房版の注解にも共通します。

山内昌之『歴史とは何か~世界を俯瞰する力』170~171頁
 ……この部分のことだろうか?

 いずれにせよ、Wikipediaの記述とは、やはりニュアンスが違う。

 この辺は、Wikipediaの飛躍した拡大解釈ではないかと思う。とにかく、国学者・伊達千広が大化の改新の価値を「再発見」「再評価」し、明治になってこれを啓蒙したとか、山内昌之氏が自著でそのことを紹介したとかいうのは、違うのではないかと思う。

玉木正之氏のスポーツ史観には疑いがある
 残念なことだが、何事も確認である。

 大化の改新、なかんずく中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場面(蹴鞠?)が有名になったのは、皇国史観の幕末~明治以降……という裏付けは取れなかった。したがって、当ブログの仮説は保留である。

 しかし、歴史観は時代によって変わってくる。「江戸時代以前」「明治・大正・昭和戦前」「戦後」では、歴史上の事件や人物の評価が違っている。

 例えば、織田信長。明治・大正・昭和戦前の「皇国史観」の時代において、信長は、戦国の風雲児、革新的な天下人という「戦後」のイメージとは違い、戦乱で荒廃した京都御所を再建し、天皇の権威を大いに盛り上げた勤皇の人という評価で語られていた。

国史絵画『織田信長の勤皇』作:岩田正巳
【神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより『織田信長の勤皇』作:岩田正巳】

 大化の改新、あるいはその主役、中大兄皇子と中臣鎌足は「皇国史観」を大いに刺激する歴史的な事件・人物である。だから、その話は「皇国史観」によって「再発見」されたのではないかという仮説の真相については、今後の研究の成果を待ちたい。

 どうして、こんな事に拘泥しているのか。

 仮に、かつて「大化の改新」という歴史的事件が、江戸時代以前はそれほど評価されていなかったとすると、その「大化の改新」をもって、後々まで(21世紀の現代まで)の日本のスポーツの在り方を拘束している……という玉木正之氏は、かなり間抜けな議論をしていることになるからである。

 こういう話をしたかったが、ちゃんと山内昌之氏の著作で調べたら、いささか無理筋になってしまった。

 もっとも、玉木正之氏は、先に紹介した「慶応大学のサッカー部の名称の話」のように、そのちょっと調べて確認する……ということすらしない人なのだが。

(了)



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